最初に桐山を見た時、あぁこいつは宗谷と同じかもなと思った。
対局している姿や棋譜を見たからではない。
ただ、まとっている雰囲気とその目が、なんとなくあいつを思い出させた。
桐山の複雑な家庭環境は、手続きの時にすぐに知れた。
奨励会の試験の当日に受験料を手渡ししてきたのもあいつだし、入会金の引き落としをする口座の名義も本人の名前だった。
当初事務員は、小学生に金銭のことまで任せることを懸念していたが、桐山は本当にしっかりしていたらしい。
その辺は宗谷とは違うなと思った。
桐山とは正式な入会が決まった後、少し話す機会があった。
今は師匠がいなくても、1年以内には誰かに決めろよとあいつに伝えると、少し考えた後に、会長は弟子をとっていないのですか? と聞いてきた。
普通、出会ったばかりの将棋連盟の会長に師匠を頼む奴がいるか?
俺は、こいつはなかなかの大物だなっと面白くなって、1年以内に初段になるくらい有望株ならな。と返事をした。
桐山はそれに、驚いたり怯んだりもせず、ただ頷いて、その時まだ決まってなければ、またお願いしに来ます。と言ったのだ。
俺は当然無理だと思って言ったし、こんな回答をもらったら普通は、遠まわしに断られたと思うんじゃないだろうか。
ますます、こいつはひょっとしたら、不思議ちゃん2号が誕生するかもしれないと、俺は少し楽しみになった。
一応事務員にも、幹事の島田にも桐山のことは気に掛けてやるように伝えた。
島田は人当たりもいいし、面倒見も良いから、まかせたら上手くやるだろう。
会長職が忙しいのもあって、その後の桐山の詳しい様子までは分からなかったのだが、事務員と世間話をしていると、度々話題に上ってきて、大体のことは知っていたと思う。
曰く、入会以来負けなし。
曰く、記録係の仕事は完璧。
曰く、もはや将棋会館に住んでる。
曰く、友人想いのとても良い子。
曰く、奨励会員から、人間じゃないモノノケの類と恐れられている。
など、本当に話題に事欠かない奴だった。
俺としては、元気に奨励会に通い、問題なく過ごしているならそれでいい。
桐山が小さい記録係として棋士たちの間で可愛がられていると聞いても、良かったなと思ったくらいだ。
そんなわけで、良い子の桐山くんとして事務員から聞いていたあいつの異質ともいえる才能に、本当の意味で気づき始めたのは、対局後に朔ちゃんが会長室に駆け込んできた時だった。
「ちょっと徳ちゃん、誰だいあの子? どいつの秘蔵っ子だ?」
「あぁ? 誰のことだよ」
「桐山っていう小さい子だよ。まだ小学生だっけか?」
「あぁ、桐山ね。今日は朔ちゃんの対局の記録係だったのか」
待ち時間の長い対局だったはずだが……。以前事務員が、桐山がもっと長時間の対局の仕事も受けたがっていると心配そうにしていたが、任せてもらえるようになったのだろう。
「小4だよ。今年奨励会に入った。師匠はまだ決まってねぇよ」
「へぇ……いまどき、誰にも師事せずに入会するのも珍しいな。親が強いのか?」
「どうだったかな……昔、親父さんが奨励会員だったとは少し聞いたが……。あいつは今、会館近くの施設にいるんだよ。事故で自分以外の家族、全員ふっとんじまったんだと」
俺の言葉に朔ちゃんが目を見開く。
「そいつはまた……難儀なことだな……」
「小学生で記録係してるのはそういうわけ。会館に居た方が勉強になるし、金も稼げるってんで、本人が望んでる。今日も問題なくこなしてたんだろ?」
「あぁ、仕事は問題なかったよ。いまどき珍しいくらいに熱心に対局見る子だとは思った。いやぁ……それにしても、全くそんな気配がしなかったんだがな」
俺が怪訝な顔をしたのをみて、朔ちゃんがそのまま続けた。
「ほら、やっぱりあるだろう。そういう子は何処か独特の雰囲気を持ってることが多い。
元気そうにふるまっても影があったり、寂しそうだったり。はたまた、明らかに卑屈ぽくなってることもある。
あのおちびさんにはそれが全く無かった。むしろ、育ちの良さを感じたし、てっきり良いとこの子だと思ったけどな……」
確かに、そうだと思った。
俺は最初から事情を知っていたが、もし何も知らずにあいつを見たら、そんな大層な事情を持っている子とは思わなかっただろう。
「親父さんは、腕の良い医者だったらしいし、東京に来るまでは大事に育ててもらったんじゃねぇかな」
「だとしたら尚更、落差というか……現状の厳しさを嘆きそうなもんだけどね……」
そう。桐山はびっくりするくらい自然体だ。
無理をしているとか、頑張ってるとかそういう素振りをみせない。
当たり前のような顔をして、現状を受け入れ、今の自分に出来る事をしている。
まだ、たった10年ほどしか生きていない子供がだ。
だからこそ、事務員や島田をはじめとした、周りが気に掛けているんだろう。
あの小さな背中に、色んなことが積み重なりすぎて、潰れてしまわないように。
「それはそうと、あの子相当成績良いんじゃないか?」
「あーっと、どうだったかな。ちょっとみてみるか」
プロ棋士だけでなく、奨励会員の成績もホームページから誰でも見ることが出来る。
「おー桐山は9月に6級で……と、げっ、あいつ○印ばっかじゃん。すごいな……もう2級だわ」
「ん!? 入会したのは9月だろ?」
「そうだよ。いやー何となく宗谷に似てると思ったが、それ以上かもな」
「道理で……それくらい棋力がある子なら当然か」
ポツリと呟いた朔ちゃんの言葉に食いつく。
「何々? 今日なんかあったの?」
「いやな。もう遅くなってたし、暗くなりそうだったから、終局後の感想戦は待たずに帰っていいぞって声をかけたんだが、あの子は聞いてたいからって残ったのさ。家も近いからって」
記録係の仕事は終局までの記譜をつけることだ。
若い記録係や、家が遠い記録係を遅くまで拘束する事を最近では避けるようになってきており、感想戦のときには帰宅を促すような声を掛けることも多い。
ただ、桐山がそう声をかけられて、帰ったことは一度もないそうだ。
感想戦もとても勉強になるからと必ず残っていると、事務員から聞いた。
「で、あんまり熱心に聞いてたんで、ちょっと試しに話を振ったんだよ。君ならここでどうするって」
「朔ちゃんも人がわりぃねぇ~。で、どうだったの?」
「これがさぁ、絶妙な手だったんだよ。負けた相手が驚いて、黙り込んでた。そこに打ってたら、ひっくり返せたかもしれないって思ったんだろうな。俺は、分かってて言わなかったんだが、こんな小さい子に分かるとはなぁと」
感想戦といっても、全ての手の内を明かす事は無い。
また、その相手と対戦するかもしれないし、今思いついたその手が別の対局でカギになるかもしれないからだ。
桐山は朔ちゃんが気づいていて、敗者の棋士が気づいていなかった、起死回生の一手を示したということだ。
たかが一介の奨励会員が……だ。
「こりゃあ……ひょっとすると、ひょっとするかもな」
「いやだねぇ……こわい、こわい」
俺の言葉に、朔ちゃんが肩をすくめてみせた。
大きすぎる才能は、良くも悪くも刺激を与えることになる。
会長の俺としては、それで将棋界が盛り上がってくれれば願ってもないことだ。
それから、しばらくして俺は幸田に声を掛けられた。
もしかすると、桐山から正式に師匠になってくれという願い出があるかもしれないが、その返事は少し待ってもらえないか、という事だった。
詳しい事をきくと、どうやら幸田の弟弟子で、当時奨励会突破を共に目指した親友が、桐山の父親らしい。
それを聞いて俺はようやく、その男の顔を思いだした。
当時それなりに、話題になったのだ。
医学部に通いながら、棋士を目指していた男。
結局実家から呼び出され、棋士になる道を諦めざるをえなくなったが、棋力は良い線をいっていたし、惜しいなぁと思ったことを覚えている。
自分の本当にやりたい道を選べないということは、難儀なことだ。
そうか……あいつの子どもなのか。
息子が棋士になると言ったら、喜んだだろうし、応援してやっただろうにと思うと残念だった。
医者になり、家を継ぎ、親となり、名医として名が広がりだした頃だったろうに。
若い命が散ることは、どうにもやりきれない。
幸田は、桐山を内弟子として引き取ろうとしたが、断られたと気落ちしていた。
桐山が断った理由をきくと、それがまたなんともキツイ。
苦労している立場の子どもから、そんなふうに諭されたら、大人として立つ瀬がないったら。
ただ、俺としては、桐山が言うことも一理あるなと思った。
幸田は娘にも、息子にも将棋をやらせている。
本人の意思には間違いないだろうが、幼い頃からプロ棋士の父親に教えてもらい、強くなって、最初のうちに勝ちまくれば、そりゃあ面白くもなるだろう。
自分にも才能があるんじゃないか、父と同じプロになりたいと、考え始めてもおかしくはない。
ただ、その最初のアドバンテージに胡坐をかかずに、その上に研鑽を積めるかが、大事な資質だ。
そして、それはとても難しい。
スタート時に頭ひとつ抜けていたのならば、なおのこと。
娘の方はなんとか奨励会で頑張ってはいるが、弟は今年の入会を見送っている。
幸田と同じようにプロになれるかと聞かれると……俺は難しいのではと思う。
一方で、桐山は才能の塊で、おまけに将棋にすべてをかけてる。明けても暮れても、将棋のことしか考えていない。
父親がそんな奴を弟子にとって、家に住まわせたら、どう思うだろうか。
はっきり言って、上手くいく気がしない。
幸田は高潔な男で、妬みや嫉妬を感じる前に、まず自分自身を見直して、さらなる研鑽を積む男だ。
けれど、子どもたちも同じようにはいかないだろう。世の中そんな人間の方がすくないのだから。
桐山はなんとなく、それを察していたのだと思う。
だからといって、すぐに断れたのも凄いことだ。
あいつにとっては、願ってもみない環境だったはずだ。
つくづく本当に小4かと思う。
幸田は断られたけれど、桐山のことを放っておけるわけもなく……あいつの周りの環境を整える手伝いをしたいようだった。
そして、どうしても一度、桐山に会わせたい奴がいるようで、俺が話をきいてもなるほどな……と思った。
隠居しているあいつを引っ張り出すのは骨が折れるだろうが、もし乗り気になってくれれば桐山にとっても悪い話じゃない。
3月に入り、今年度の対局もあと僅かになった頃。
桐山が、入会後はじめて俺に声を掛けて来た。
ついに初段になったらしい。
まさか本当に負けなしでここまでくるとは……。
負けないということが、将棋の世界でどれほど難しいことか。
自分の失着を極めて少なく抑え、常に最善手を指すくらいの勢いでなければ無理だ。
これだけ勝ち続けるなら、他の奨励会員とは相当な棋力の差があると思っていいだろう。
桐山は、俺に入会当時の約束を持ち出して、師匠になってほしいと言ってきた。
幸田の話を思いだして、返事は保留にしておいたが、もし桐山がその話も断るなら、俺が弟子にとっても良いと思っている。
あいつが本当にそれを望むのなら、俺にとっても悪い話ではないのだから。
これだけの才能が育っていくのを傍でみていくのは……どれほど面白いだろうか。
ただ、生憎俺は、それほど人に教えたり慈しみ育てていったり、といったことは得意なたちではない。
あっちで、話がまとまるならそれに越したことはないだろう。
なんにしても、これから数年は、飽きることが無い激動の時代がくるだろう。
そう予見して、俺は高みの見物をすることにした。
会長は動かしやすいです。
灼熱の時代まだ読めていないのでとても気になる……。
大人買いしたい。
次回は師匠が決まります。