僕の父はプロ棋士で、姉は元奨励会員、そして僕はいま奨励会に在籍している。幼い頃から、将棋の駒は遊び道具で、棋譜は絵本の代わりだった。
父さんは、それを僕たちに強要したわけではないけれど、将棋をしている時が、一番楽しそうで、だから僕らも楽しくて、必然的にそうなっていったのは、仕方なかったのかもしれない。
我が家は将棋中心に回っていて、それが揺らぐ事などないだろうと思っていた。
だから、驚いたのだ。一足先に奨励会に入り、段位だって見えてきていた姉が、ある日将棋は辞めると言ったから。
父はきっと、止めるだろうと思った。姉さんは僕よりずっと強かったから。
でも、一つ頷いて、考えなおせなど一言も言わなかった。
逃げるの? と言った僕に、姉さんは真顔でこう告げた。
今日、僕と同い年の男の子に負けたと。その子は入会以来負けなしで、きっと僕が奨励会試験を受ける頃には、三段リーグにだって到達しているだろうと。
その時の衝撃を表せる言葉を僕は知らない。僕が負け越している姉に、同い年で勝った子がいる。そして、そいつは俺が同じ土俵に上がる前に、さっさと先に行こうとしている。
同い年の子たちの間では、それなりに強い自負があったが、今ならとんだ井の中の蛙だったと分かる。
姉さんは一言、そういう奴がいる世界だって、分かっていても僕が奨励会に行くのなら止めはしないと言った。
僕は、挑戦もせず諦めはしたくなかった。
まだ短い、人生だけどそれまでのほとんどをつぎ込んだ将棋を、可能性すらためさずに手放すという選択肢は無かった。
そして、僕が入会試験への準備をしている間に、姉さんはいつの間にか、次の道を見つけ、そいつは本当に三段リーグへと足を踏み入れていた。
その頃には、僕はそういうやつも居るんだと、理解し始めていた。
所詮、そいつは宗谷名人と同じだ。極稀に現れ、変革をおこし、歴史に名を刻む。そんな奴と自分を比べていても仕方ない。
案の定、そいつは小学生プロ棋士という、わけのわからない肩書きを背負い、あっさりプロ棋士になっていた。
僕はというと、まぁ最初は順調に昇級し、そしてほぼ姉さんの予想通り3級辺りから、すこし負ける対局も出だした。よくあるパターンだ。駒落ちで下と対局することも、逆に相手が落として上と対局することもある。この辺りで足踏みをするのは珍しいことではない。
珍しいことではないが、そこをあっさり抜けないと言うことは、所詮そこまでの棋力ということである。
それでも、僕は辞めたいとは思わなかった。
姉さんは自分の道をずんずんと進んでいき、逆に父さんとの会話も増えた。
そして、父さんは末の弟弟子だと、そいつ、桐山零をとても可愛がり、うちに連れてくるようになった。
親友の息子だったらしい、桐山四段の経歴は、テレビで取り上げられているから、将棋に少しでも興味があれば皆知っている。
父さんが気に掛けるのも、まぁ分からないでもないと思った。少し、面白くは無かったけど。
最初の挨拶のときに、桐山四段と呼ぶと、落ち着かないから家では名前で呼んで欲しいと言われた。
じゃあ、零さん? と悩みながら聞くと、呼び捨てが落ち着くと。同い年なんだから、と言われた。でも、向こうはプロで、僕は奨励会員だ。
迷ったが、本人の希望を優先した。
少しだけ、変な感じがしたけど、零と呼ぶと彼は何故か、懐かしそうな顔をした。
姉さんとの折り合いを心配していたが、予想外に仲は良さそうだった。
ご飯の後に何やら、やりとりしたあと、急に駒落ちで対局するし。
あの日以来、一度も駒を握らなかった姉さんが、再び対局することも驚きだったし、プライドが高かったあの人が、あっさり駒を落としていく姿は衝撃だった。その日は、ただその事実に驚いているうちに零は帰路についていた。
後からきいた僕に姉さんは、面倒そうに教えてくれた。
人生を変えるほどの対局があると、プロになるほど将棋にかけている人は皆言うけど、姉さんもあの日出会ったそうだ。
だから、零は姉さんにとって、特別らしい。
その駒落ちでの対局から、姉さんは再び気まぐれに将棋を指すようになった。
その様子は、今まで将棋を指していたときより楽しそうで、自由そうだった。
もう、背負っているものが何もないから、気楽なんだそうだ。
そんな将棋があることを、僕はずっと忘れていた。
「ねぇ……。今日は僕とも指してくれない?」
何度かうちに顔をだしていた零が、姉さんと恒例の駒落ち対局をしているのをみて、そう声をかけてみた。
「え? 歩くんと?」
「何でそんな驚くの? 僕はだめ? 姉さんだけじゃなくて、父さんとだってたまに指してるだろ?」
「ううん! ダメじゃ無い。指したいよ」
想像より、驚くものだから、僕が眉をひそめると零はそう慌てて答えた。
「単純にビックリして。今までその気がなさそうだったから」
「そりゃ、ちょっとは遠慮するよ、桐山六段。本当ならただの奨励会員が相手をしてもらう機会なんてそう無いんだよ」
すこし、やっかみを込めて、段位呼びでそう答えた。あんたに憧れて、あんたと指したい奨励会員、どれくらい居ると思ってるんだか。
「ただ今回は、2,3日うちにいるんでしょ? それに姉さんが散々指してるのみてると、僕も少しは指してみたい」
棋神戦が終わり、体調を少し崩したらしい零は、数日うちに泊まることになっていた。
本音を言うなら、少しだけ複雑な思いもあった。だって同い年なのに、零はもう宗谷名人相手にタイトル戦を立派に終えた。
次元が違うと分かっていても嫉妬もする。
でも、対局してみたいのも本当だ。僕だって勝負師の端くれなのだから。
それに、姉さんがあんな遠慮無く、がんがんお願いしているのをみると、遠慮して頼まない自分が馬鹿みたいだと思った。
対局は見事に僕が負けた。それも、美しい棋譜を残して。
明らかに導かれていた。指導対局……というほどあからさまではないが、実力差は明確。でも、不思議と反発はなかった。
むしろこんなに自分が指せた事が意外だった。
分かった。これは、確かに癖になる。
また、指したくなる。負けるのが嫌いだったはずの姉さんが何度も指したくなるのも理解出来た。
それから、零がうちに顔を出したら、姉さんと僕と指すようになった。
その後も零は、相変わらずの破竹の勢いでトーナメントを勝ち上がり、ついにはMHK杯という全棋士参加棋戦で、宗谷名人を破る。
その時はもう、なんていうか逆に面白いくらいだった。
同年代が、神の子と言われ、今後しばらく将棋界の一強時代を築こうとしていた、あの名人に勝ってしまったのだから。
既に、僕はどうしてもプロになりたいという気概が自分の中には無いことを、理解していた。
その上で、まだ次を決めることも出来ず、奨励会にとどまっていた。
14歳。姉さんが、奨励会を辞めた歳だ。そして、僕の級位は1級。当時の姉さんの級位に追いついていた。
転機が訪れたのは、あの夏の日。
零と将棋AIであるPandoraの対局をみた時だ。
将棋が分からない、少なくとも僕よりも指せないエンジニアが作ったAIが、僕が勝てないプロ棋士二人に勝って、そして零も随分苦戦させられていた。
どうしようもないくらい、ワクワクした。可能性の塊だ。
将棋AIに興味が湧いただけじゃない、AIという存在そのものに強く惹かれた。
もともと、パソコン関係の事は好きだったし、なにより徒人ではたどり着けない領域をいともたやすく飛び越えて、未知の発見に繋げるきっかけを作り出すその存在が面白かった。
やってみたい、作ってみたかった。
もともと、理系体質で工学系には強かった。
僕はその日、書店に立ち寄り、気がつけば夕飯の時間はとうに過ぎてしまうほど、内容にのめり込んだ。
鳥じゃなくても構わないのだ。
むしろ羽をもち常人じゃたどり着けない場所へとあっさり飛び立つ事が出来る者など、その業界でたった一握り。
ただ、羽をもたない徒人でも、成し遂げられることがある。
羽を持たずとも、人が空を飛べる術を得たように。
うっすらと、やりたいことが見つかった。ただ、このことはしばらく誰にも秘密だ。高校は出来たら、工学系、システム系に強い高校を狙いたい。
色々しらべて、本当にそっちに進みたくなったら、進学の時には相談してみよう。
そして、姉さんと違って僕はまだ、奨励会を辞めるつもりはない。
学生の間、せめて中学の間は、所属させてもらおうと思っている。
この先、役に立つ気がするのだ。勝負の勘、度胸、駆け引き、ただの将棋だけではない何かが、ここで得られる。
白か黒か。プロになれるか、なれないか。確かにその二つは大きいけれど、別にそれだけじゃ無くてもいいだろ?
俺は、プロにはなれない。でも、この時間を無駄にもしない。
見てろよ。
父さんにも、姉さんにも、零にだって出来ない何かで、いつか絶対あっと言わせてやるんだからな。
タイトルの鳥の表現、14巻の天然の羽か人力の羽かっていうところからきてます。
歩の情報は原作では少なすぎて、ほとんどオリキャラのようなものですが、こう思えるようになったら良いなぁと書きました。