小学生に逆行した桐山くん   作:藍猫

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第四十七手 夏祭り

「こんばんは。 お久しぶりです」

 

 玄関から聞こえたその声に、ひなたはパッとかけだして、来客者を出迎えにいった。

 世が夏休みに入ってから間もない。

 最近忙しくしているようで、顔をだす機会が減っていた坊主が久々にうちにやってきた。

 

「零ちゃん! いらっしゃい。待ってたよ~」

 

 玄関から聞こえる孫の声は、喜びに溢れていた。

 そりゃあ、そうだろう。

 うちの女共は皆、若き桐山先生に夢中なのだから。

 

「あら、桐山くん随分背が伸びたねぇ。私はすっかり追い越されてるわぁ」

 

「ほんとだわ。私も、あっという間に追い越されそう」

 

 彩とあかりは、そう言って坊主の身長をみていた。

 なるほど。確かに、でかくなった。

 

 初めて藤澤氏につれられて、あかりと玄関に立っていた時の少年は、もう過去の者となった。

 

 あのときは状況も悪かっただろうが、青白い顔で所在なさ気に立ちすくんでいた様子を今でもよく覚えている。

 テレビで何度もみていた対局中の姿はどこにもなかった。

 かぼそく、幼く、庇護すべき少年に過ぎなかった。

 

 トップ棋士と渡り合い、小学生プロ棋士として輝かしい成績を残していたテレビの中の少年が、まだ12歳の男の子なのだと、対面してみてようやく理解できた。

 

 藤澤氏に思いがけず出会う機会があったのは、一人の将棋ファンとしては僥倖だった。

 彼の人は、少年を大切に慈しんでいる様子だったが、坊主の方はどこか遠慮の方が先にきているのが、たった数分のやりとりからうかがえた。

 孤児となり、単身東京に預けられ、今は庇護下にあるとは言え、師匠と弟子だ。家族という雰囲気よりも、坊主の方はその意識が強いのだろう。

 

 不思議な縁だったが、その後孫達と坊主の交流は続いた。

 あかりに助けられたからか、キーホルダーの件が良かったのかは分からないが、明らかに心を許していた。

 我が孫ながらなかなかやるな、と思いつつ、彼の心の休まる場所の一つになるのならそれは嬉しかった。

 

 何度も店に顔を出してくれたし、ワシとしても期待がかかる将棋界の新星の御用達というのは、満更でもなかったというのも本音だ。

 

 年度が替わり、中学に上がって、あの子が一人暮らしをしてからは、尚更のこと。

 

 藤澤氏の奥方は、入院しているあの御仁に代わって、時々でいいからと零くんのことを気にかけてほしいと、わざわざ店にまで挨拶に来られたほどだ。

 何というか、数奇な運命を辿る子だ。人の何倍も苦労して生きてきたのだろう。

 

 戦後の若き日の自分を思い出して、放っておけないと思えた。

 幸いな事に、あかりとひなたとの交流は続いているようで、店だけでなくうちに食事しに来ることも増えた。

 ばあさんも娘も、人に食べさせる事に喜びを感じる質で、うちには男の子がいないこともあり、あれこれ世話を焼いていた。

 

 あの当時は、誠二郎の件で不穏な空気が漂うことが多かったが、居間に新しい風がふいたようで、皆が明るくなり笑いが増えたのは、この子が来るようになってからだ。

 

 

 

「いらっしゃい。桐山君。今日はいっぱい食べていってね」

 

 居間に入ってきた、坊主に美香子が声をかけた。腕には末の孫のももが抱かれている。

 

「こんばんは。ありがとうございます。わぁ、ももちゃんまた少し大きくなりましたね」

 

「この頃は、ほんとすぐ大きくなるから。もう寝返りも出来るのよ」

 

「ハイハイしはじめるのも、もうすぐかも知れないですね」

 

 美香子から渡されたももを、坊主は手慣れた様子で抱きかかえた。本当に中学生男児らしくない。

 そこらの父親より、よほど赤子の相手が上手く見える。

 

「だぁ~~!!」

 

「はい。ももちゃん久しぶりだね」

 

 キャッキャッと嬉しそうに顔にのばされた手を優しく握ってそう答えた。

 

「ももは、桐山くんのことが分かるみたいね。この頃にはもう、母親が誰かとか、近しい人が誰かとか認識できるようになるらしいのよ」

 

「嬉しいです。たまにしか来ないのになぁ」

 

「私が抱いた時より、嬉しそうだよ。ももにとったら零ちゃんはお兄ちゃんみたいなものだから」

 

 笑っている美香子と、孫達をみていると、これほど穏やかな日々が再び訪れたことを幸せに思った。

 誠二郎の一件は家族に深い傷を残したが、新しくやってきた命とともに、皆で強く前を向いて歩き出せた。

 それが出来たのも、坊主のおかげだろう。この子には随分と世話になった。

 

「そうだ!零ちゃんも今は夏休みだよね?8月の末の夏祭りに、うちも屋台を出すんだ。時間があったら遊びにきてね」

 

 屋台のメニュー、私とお姉ちゃんも一緒に考えてるんだ、とひなたが告げる。

 

 今年は美香子がももの面倒を見る方に時間をとられるだろうからと、あかりやひなたに手伝いを頼むことが増え、それが嬉しいようだった。

 進んで家のことを手伝ってくれているのは、此方としても助かる。

 

「夏祭り……そうか。三日月堂はずっと出店してるんでしたね。去年も行ったらよかったなぁ」

 

 とても残念そうに応えた坊主の目には、何故か懐かしむような色が浮かぶ。

 

 あぁ、この表情だ。

 この子は時々、年に似合わぬ顔をする。

 どこか遠くを見ているような、戻らない何かを慈しむような、そんな表情を。

 

「無理はするなよ。おめぇさん、獅子王挑戦者決定三番勝負、丁度その頃始まるんじゃねぇのか」

 

 MHK杯の決勝で宗谷名人を破り優勝してから、桐山七段の活躍は目覚ましい。

 タイトル挑戦権獲得に手が届きそうな所まで何度もいっている。

 そして、今度の獅子王戦。

 土橋九段との三番勝負を制することができれば、挑戦権を得るのはこの子だ。

 大事な時期であることは疑いようもない。

 

「いえ、それは大丈夫です。その辺りはちゃんとしますので。……あの、ご迷惑じゃなかったらお手伝いとかさせて頂けないですか?

 少し興味があって……」

 

「えぇ!? ほんとに? 忙しくないの?大丈夫?」

 

 意外な申し出に、ひなたが驚いたように声をあげた。

 此方としては男手があるのは、とても助かるが……。なかなか多忙だろうに大丈夫なのだろうか。

 

「うん。人目につくのはまずいから、裏方のほうが助かるけど」

 

「零くんがいいなら、私達は大歓迎。お願いしちゃおうかな」

 

「もし都合がつきそうなら、部活の友人も誘ってみます。皆いい人達ですし、戦力になってくれるかと」

 

「助かるわ~アルバイト代ははずむからね!」

 

 天下の中学生プロ棋士にこんなことをお願いするとは……と、帰り際に、忙しくなったらお客として来るだけでも充分だからなと声をかけた。

 それなのに、坊主の方がよほど楽しみにしているような雰囲気で、これはほんとに手伝いにくるだろうなぁと、笑ってしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 うだるような暑さが続くなか、世の学生たちは夏休みを謳歌している。

 とはいっても教師という職業は生徒達がいなくてもそれなりに雑務があるもので、夏休みも学校に在中してるのが通常だ。

 これが熱心な部活の顧問であれば、より多忙を極めるだろう。

 駒橋中学と高校は、私立であり、部活にもそれなりに力をいれているため、運動部の全国常連の部活など、それこそ夏は戦いだ。

 

 まぁ、俺が顧問をしている将科部は新設だし、大会に出るわけでもないので、気楽なものだが。

 活動も野口を中心にやりたいことが色々あるようで、任せていれば勝手に何か実験をしていて、手がかからない。

 

 たまに、桐山が顔を出して、将棋をやっているときもあって、それは俺としても楽しい。

 プロ棋士にただで指南を受けれるなんて、なんと贅沢な事だろうか。

 桐山のファンからしたら、垂涎ものだろう。

 

 そういえば、今日は活動日だったなと思い出す。

 野口達の実験を見るのも飽きないし、手が空けば顔を出すのも悪くないだろう。

 

「おーすっ、やってるか?」

 

 化学室の扉を空けて中をのぞくと、そこには桐山の姿もあった。

 授業があるときは土日に対局があることが多く、研究時間の確保のために放課後部活に顔をだすことは少なかったが、長期休暇中は、来る頻度が上がったと思う。

 

「おぉ、今日は桐山もいるのか。将棋の日か?」

 

「先ほどまでは、実験をしていたのですが、結果がでるまで少し時間が必要なので、待ち時間の有効活用ですな」

 

「結果がたのしみです!」

 

 野口の言葉に、桐山がわくわくしたようにそう添えた。

 もともと理系体質だからだろうか。こういうことも好きらしい。

 部活に所属する気があるのは意外だったが、こうして楽しそうにしている姿を見るのは、教師としても嬉しいものだ。

 

「で、将棋を指してるのは良いんだが……なんで校長達までいるんですかね? しかも高等部の先生方まで……」

 

 目立たないように端の方の実験台をつかっているが、とても目立つ。

 そこだけおっさんたちの将棋サロン感が半端ないぞ、おい。

 

「いやー中等部の校長が今日は桐山先生が指されるようだと連絡をくれてね。これは是非我々もご指導願いたいと!」

 

 高等部の稲葉校長が嬉しそうにそういった。そういえば、この方職団戦にもかなり力をいれてたはずだ。

 

「てか、此処こんなに将棋盤あった!?」

 

「校長先生たちの私物です……」

 

 折りたたみ式とはいえ、明らかに増えているその数に尋ねると、桐山はすこし呆れたようにそう言った。

 なるほど。持ち込むほど指してほしかったのか……。

 

「いやー桐山先生さすがですな。これだけの数の多面指しをこなすとは」

 

「イベントで慣れてますので。山形の時とかすごかったです」

 

 あぁ島田八段の故郷のイベントか。

 人間将棋やら百面指しとか、かなり将棋に力入れてるんだっけ。俺も何回か見に行ったことあるなぁ。

 

「我々の棋力もこれであがり、ゆくゆくはBクラス進出も夢ではないのでは!?」

 

 玄田教頭もこられてたのか……。

 

「林田くんが抜けた穴が大きいが、もう中高にこだわらず駒橋学園グループとして出場してしまえば問題ない。むろん引率は桐山先生で」

 

「あの、僕たぶん職業団体対抗将棋大会の日は、スタッフとして仕事をしているかと……」

 

「なおのこと都合が良いではないですか! 会場の中でも見守って頂ける!」

 

 桐山は、はぁと苦笑気味だったが、おそらく校長達は本気だろう。

 ……すまん。平教師の俺に止める手立てはない。ついでに俺も、ついてきてくれると助かると思っていたり。

 

「いやー岩黒生活指導も来れたら良かったのに。出張ですからな」

 

「次があったら誘いましょう」

 

「林田くん、顧問なら是非連絡を頼むよ」

 

「あ、はい」

 

 この人達これから、入り浸る気満々だな……。

 桐山は実験もしたいだろうし、顔を出す日ちゃんと聞いておかないと。

 

「桐山先生、ぜひ2年後はこのまま高等部に進学を! 学費やら試験やらいりませんので」

 

「いや! それは駄目でしょう! そうですね……。まだ進学については、決めてませんが、もし高校に通うなら、このまま駒橋高校に行くとは思います」

 

 興奮気味にそんな事をいう校長に、桐山はその時はちゃんと試験を受けますよ、と困ったように笑っていた。

 

 同じ学園中学からの進学は外部入学よりもかなり楽だ。桐山の成績なら、推薦で早くに決めることも可能だろう。

 たしかに高校に通う気なら、受験の負担がすくないうちはありだろうな。

 野口たちとも、クラスのやつらとも仲が良いし。このまま持ち上がりの方が気も楽だろう。

 

 

 

「本日もお疲れ様でした。皆、気をつけて帰るのですぞ」

 

 校長達は将棋の時間がおわるとそれぞれ、仕事にもどっていた。

 実験の結果はそこそこのものだったらしく、次につながる点も多かったらしい。

 野口の声に、将科部の面々がうなずきながら、おつかれーと続いた。

 

「あ!あの、皆さん良かったら夏休み下旬の日曜日空いていたりしませんか?知り合いのお店が、お祭りで出店を出すんですが、僕裏方としてアルバイトをするので、一緒にできたらなぁと」

 

 帰り支度をしているときに、桐山が思い出したようにそういった。

 出店の裏方……。忙しいだろうに、そんな事にまで手を出しているのか……。

 そういえば、桐山の行きつけの和菓子屋があったなぁ。おそらくそこの手伝いだろう。

 

「なんと!出店の裏方! 非常に興味があります。……しかし、うちの中学はアルバイトが原則禁止では……」

 

「あっ!そうでしたっけ!?」

 

 桐山と野口がそろって俺の顔をみた。

 

「んー?まぁ、お手伝いをして、お小遣い少し貰う体裁にしておけば問題ないだろ。うちは少しそのへん緩いし」

 

 イベント事の単発だし、お友達のお家の手伝いということなら別に。

 年末年始に神社の手伝いをする子もいれば、郵便局の年賀状の仕分けをする子もいたはずだ。

 それくらいは許される。

 

「良かったぁ。野口先輩は大丈夫そうです?」

 

「えぇ、是非いかせて頂きたい」

 

 他にも何人か暇だからと、参加の声をあげていた。

 こいつら本当に仲が良いな。

 

「桐山、場所どこでやるんだ? 俺も暇だったら顔をだすよ」

 

 部員がこれだけいくなら、挨拶のひとつもしておくべきだろう。

 

「三月町です! 三日月堂というお店のすぐ前でやります!」

 

 あまりに楽しそうに、そう報告するものだから、俺は思わずあいつの頭を何度か撫でてしまっていた。

 

 

 

 中学生プロ棋士、すでにタイトルへの挑戦も経験し、春にはあの宗谷名人を破ってMHK杯をとった。

 本当は、俺なんかがこうやって頭を撫でれるような人ではないのだ。

 ただ、縁があり、俺の務め先の学生となり、教え子となった。それだけのこと。

 

 今期も何度も、挑戦権の獲得争いに絡み、獅子王戦にいたっては三番勝負のところまで、上り詰めている。

 土橋九段を下すことができれば、今期の獅子王の挑戦権を手にするのは桐山だ。

 

 そんな、今をときめく期待のプロ棋士が、友達と部活を楽しんで祭りに参加する約束をこれほど嬉しそうに、告げるのだ。

 

 なんというか、青春だなぁと、おっさんには少し眩しかったりする。

 

 中学生の夏休みは3回限り、去年は棋神戦にかかりきりだったもんなぁ。

 一人の教師としては、学生らしいことを楽しめている教え子のことが微笑ましい、そんな夏の日の午後だった。

 

 

 

 

 

 

 


 

 蒸し暑いある日の夕方。

 8月の研究会の時に、桐山が夏休みに知り合いの屋台を手伝うと話していた事を思い出した。

 ちょうど仕事でそっちの方へと出ていたし、ちょくちょく差し入れにもらう和菓子のお店だという興味もあり、ふらりと立ち寄ることにする。

 

 小規模なお祭りながら賑わいをみせ、狭い道は多くの楽しそうな人々で溢れていた。

 なんとなく、故郷の街の風景が思い出され、心が安らぐ。

 

 すこし、歩いたところで、三日月堂という看板を見つけて足を止めた。

 

「いらっしゃいませ! お一ついかがですか?」

 

「あ、……では、おすすめを何か一つ頂けますか?」

 

 ぱぁっとはじけるような笑顔とともに、そう声をかけられて、思わずそんな風に返してしまった。

 

「はい!では、定番の白玉シロップなんてどうですか?……あれ?ひょっとして……以前会館の前でお会いしました?」

 

 器を丁寧に差し出してくれた彼女は、俺の顔をまじまじとみて、そう呟いた。

 

 会館……将棋会館か。

 そう言われてようやく気づいた。制服じゃないから分からなかったが、この子は以前桐山に会いに会館の前まで妹とやってきていた子だ。

 

「し、島田八段!」

 

「あ、どうも。嬉しいなぁ。名乗る前から分かってもらえるなんて」

 

 奥の方から顔をだした壮年の男性が驚いたように固まった。

 

「わ、分かりますとも! わしは、将棋が一等好きで……」

 

「島田八段……島田さん!ですね。桐山くんからよくお話を伺ってます」

 

 島田さんと柔らかく彼女に呼ばれた名前が、心地よく耳に残った。

 

「零くん、棋士の方がいらしてるよ~」

 

「あ、大丈夫ですよ。お忙しいでしょう」

 

「いえいえ、せっかくですから座って召し上がって行ってください」

 

 気がつけば、手際よく店の中の席まで案内されていた。

 口にしたシロップの味は美味しく、仕事で疲れていた胃の痛みが和らいだ気がする。

 なんというか、こういう味をやさしい味というのだろうか。

 

「島田さん、来てくれたんですね。ありがとうございます」

 

「たまたま、仕事がこっちであったし、桐山がバイトって言うのも気になってな。ちゃんとやれてるのか?」

 

「部活の仲間も数人きてくれて、一緒に裏方手伝ってます。大変だけど、楽しいです」

 

 前髪が汗で額に張り付いていて、動き回っていることがうかがえた。

 けれどその顔は清々しく、本当に楽しんでいるのだろうと思う。

 

「そうか、よかったな。」

 

「はい! あ、そうだ丁度顧問の先生も顔をだしてくれてたんです。去年から続いて僕の担任をしてくれてる方です」

 

 そう言って、桐山は奥に人を呼びに行った。部活のメンバー数人が手伝いにきているからと、わざわざ様子を見に来てくれるとは、面倒見の良い方だなと思う。

 

「わぁ、え、えっと。ほんとに島田八段だ……。あの、オレ大ファンでして……」

 

「林田先生です。詰将棋で将棋世界に載るくらいのコアな将棋ファンでもあります」

 

「渋いところきますね! お会いできて光栄です」

 

「そんな!こちらこそ! あの、握手して頂いても良いですか?」

 

 自分を応援してくれる人に会えるのは嬉しいことだ。まして、まだタイトル獲得の経験もない俺のことを、覚えてくれているのだから。

 

 

 

 

「すいませんなぁ。お客さんとして来て下さったのに、手伝って頂いて」

 

 店のご主人が本当に申し訳なさそうに呟く。

 

「急な雨でしたし、どうぞお気になさらず。カレーまでありがとうございます。賄いだったのでしょう?」

 

 あの後、少し先生や桐山と話していた所に、急な雨が降り出した。

 慌てて軒下に商品を入れているようだったので、手伝うのは当然の流れだろう。

 

「いやー、娘と孫が沢山つくっておりましたから、こんなものでも良ければ、お礼ですよ」

 

「とても美味しいですよ。独り身だと、カレーなんて手作りしませんからね」

 

「分かります。どうしても余ってしまって」

 

 俺の言葉に、対面に座っていた先生がそう笑った。独身男性の食卓事情など、似たり寄ったりだろう。

 

「今日は、お二人に会えて本当に良かったと思っとります。色々と苦労してきた子ですが、学校でも、会館でもこんなに良い方々に見守られているなら、過ごしやすい事でしょう」

 

 相米二さんは、しみじみと噛みしめるようにそう呟いた。

 

「いやー、私は何もしてませんよ。手続きに関しては、桐山はとてもしっかりしてますから。クラスの奴らにも上手に馴染んでますし」

 

「そんな事はないでしょう。丁度一年前になりますか? 棋神戦のときは、学校と対局の調節にとても力を貸してくれたと、桐山言ってましたよ」

 

 おもえば、第六局の直後、体調を崩した桐山の代わりに欠席の連絡をした時、電話にでたのはこの先生だったのだろう。

 

「あー!! あの時はご連絡ありがとうございました。いやーオレ個人としてもあの対局は非常に興味深くて、もうずっと張り付いて応援してたんですよ。さすがに次の日は厳しいだろうとは思ってたので」

 

 将棋のファンだと言っていた先生は、それから少し興奮気味に棋神戦の話をした。教え子がタイトル戦に挑むのだから、応援に熱が入るのも当然だろう。

 

「桐山は、生真面目なところがありますから、対局翌日も欠かさず学校に来ています。本当に感心してます。ただ、タイトル戦の後ぐらいはね、休んでも良いと思うんですよ。文字通り、身を削って戦っていたんですから」

 

 この人は将棋のことをちゃんと知ってくれてる人だと、その言葉の端々から感じた。

 座って指してるだけだ、なんて言う人もいるけれど、知力と精神と体力と、タイトル戦ともなれば消耗は激しい。

 

 学生という身には、なかなかに大変だろうが、理解者が学校側にいてくれるのは桐山にとって幸せなことだろう。

 

「あの後は、久々にうちに顔を出したとき、もともと細かったのにもっと痩せちまってて。うちのもんが嘆いてました」

 

「あー、体力勝負な所がありますからね。棋神戦の後は、桐山のこと食事に連れ出す棋士が増えました」

 

 見守る会の人員の活動は未だに細々と続いている。

 大方の中学生よりも不規則な生活になる桐山にも、無事に成長期がやってきて、ここのところぐんぐん伸びている様子に、喜びと少しの寂しさを感じているおっさん共は意外と多い。

 

「昨年はまだ、学校と増え続ける棋戦とのやりくりに苦労している印象でしたが、今年は落ち着いてますね。私生活もふくめ安定しているというか、余裕がある気がします」

 

 あたらしく若手同士の研究会も始めたらしいし、色々研究することも大切なことだろう。

 

「桐山は部活はしないだろうと思ってたんですが、野口たちとも仲が良いですし、夏休みの実験の日も結構顔を出しているみたいです。無理をしてる感じもないですし、学校も楽しんでくれているなら、嬉しいですね」

 

 学友と友人の屋台を手伝うなんて、青春だと思う。ちゃんと今を楽しんでいて、それはとても良い傾向だ。

 

「うちがゴタゴタしていた時、本当に親身になってくれた優しい子です。あの子にはワシももちろん、娘や孫たちも助けられています。今、こうやって屋台をだして、笑えている……。どれだけ幸せなことか」

 

 だから、あの子にも、どうか健やかに日々を過ごしてほしいのです。

 相米二さんは静かにそう呟いた。

 

 その様子に、俺はとても安心した。

 藤澤氏の家を出て、一人で暮らしている桐山は、自分の大切な場所をちゃんと作っていた。

 心を休ませることが出来る場所だ。

 

「あいつの事を、ただ普通に見ていてやって下さい。それが、どれだけの支えになるか。俺にはよくわかります」

 

 長い棋士人生。

 平坦な道ばかりではない。上手くいかない日もある。

 負けが続き、調子を崩す時だってあるだろう。

 そんなときに、帰れる場所があるのは幸せな事だ。

 すこしだけ、息がしやすくなる場所。

 気負い無く素のままでいられる場所。

 温かいご飯と、この家族の笑顔は、桐山にとってのそれなのだと思う。

 

 ふと、故郷の山形の事が思い出されて、無性にかえりたくなった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

「えへへ、楽しかったね。零ちゃん」

 

 僕の隣で、カレーを食べていたひなちゃんが、小さく呟いて笑った。

 

 昼過ぎからずっとてんてこ舞いの忙しさだっただろうに、その表情は満足げで、部屋を見渡して皆を見る瞳は、優しく柔らかく細められていた。

 

「……うん。そうだね。とっても楽しかった」

 

 夏祭りの話を聞いてから、また手伝えたらいいなぁとすぐ思った。

 将科部の活動の時に、野口先輩達をさそってみたら、優しい彼らは頷いてくれて、一緒に手伝う事が出来たのも嬉しかった。

 

 皆で、わいわいとお皿を洗うのは懐かしく、島田さんと林田先生と相米二さんが将棋の話で打ち解けているのも、嬉しかった。

 あかりさんとひなちゃんの売り子を頑張る姿を見ていると、色々な事が思いだされてたまらなかった。

 

 

 

 そして、今日は、彩さんも美香子さんも一緒だ。

 かつての僕が、一度見てみたかったなぁと思い続けた川本家の姿がそこにあった。

 

 

 

 まるで、絵日記に残しておきたいような、夏休みの夜。

 いつも、いつも、何度だって、想ってきた。

 初めて三日月堂の夏祭りを手伝った時から、ずっと。

 

 幸せというのは、きっと今この瞬間の事をいうのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




昨日のお昼はお休みいただいてすいませんでした。
もう9月ですね。物語もそろそろ締めへと近づいています。

原作の12巻の夏祭りの話とっても、好きなので一度は夏祭りネタやりたかったんです。
次はひなちゃん視点。

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