藤澤門下には、末の可愛い弟弟子がいる。
私の親友の息子であり、藤澤師匠の最後の弟子である、桐山零はこの度また、大きなタイトルに挑むことになる。
棋神戦の時ですら、早すぎると思ったけれど、それから一年ほどでまた挑戦権を取るとは予想もしていなかった。
会長は大いに喜んでいたし、スポンサーの新聞社も号外を出すほどだった。
宗谷名人の度重なるストレート防衛と、七冠の維持に世間は関心を寄せている。
そこに、今年に入って唯一、MHK杯という公式戦で彼に黒星をつけている者が挑戦者になったのだ。
期待がかかるのも当然だった。
ネットの記事だけでなく、テレビ番組でも大きくとりあげられていたが、当の本人はいたって冷静だった。
祝いを述べたメールへの返信は落ちついていたし、今はリハビリ専門の病院へと転院している師匠の元へ、報告がてら連れて行った時もいつも通りの様子だった。
学校の方にも連絡は済ませ、対局とのすりあわせはしてもらえそうらしい。
むしろ先生達が大喜びだったと、告げられた時は少し笑ってしまった。
このくらいの年の子であれば、舞い上がったり変に力が入ったりといった事があるのが普通だが、零くんにそんな様子は微塵もない。
集中を研ぎ澄ませ、対局に向けて静かに気持ちを高めているようだった。
娘の香子に言わせれば、零くんは周囲の反応に無頓着である、と。
世間一般で自分がどう評価されているのか、知らない訳では無いようだが、特段思うところもないようだ。
周囲からの期待と重圧と関心に押し潰される様子もなく、どこ吹く風といった様子なのには随分と驚かされた。
将棋に強く関係している事以外興味が薄く、その対象は自分の事も当てはまる。
思えば、初めて会った時から、不思議な子どもだった。
先に逝ってしまった親友への思いから、内弟子にしようとした私の思慮の浅さをあっさりと見抜き、子ども達との向き合い方を考え直させてくれた子だ。
不器用な人間だと自覚はある。
子ども達が、将棋に興味を抱き、この道を志そうとしてくれたのは嬉しかったが、逆に無理に将棋に拘らなくても良いのだと、そう教えてやることができなかった。
あの子達の意思で将棋をしているのか、それとも私の教えからこの道に拘ってしまっているのか、判断はついていなかった。
娘の香子はそれなりに指せたし、女流としての可能性は大いにあったと思う。
ただ、あの子は奨励会に拘っていたし、私がそれとなく女流の道もあると勧めても却って意固地になってしまった。
このままで良いのか。
はっきりとプロは無理だろうと告げるべきなのか。
迷っているうちに、香子はある日突然、奨励会を退会すると告げてきた。
まさか、いきなりその決断をすると思わず、やけになっているのかといぶかしんだ。
けれど、香子の瞳はまっすぐに私を見つめていて、思いつきで言っている事ではないと感じられた。
この先には上がれないと思うと、そしてプロ棋士にどうしてもなりたい訳では無い自分に気がついたと。
将棋はたぶん好きだけれど、この世界で戦うには少し足りない。今日は良い対局が出来たから、それで終わりにしたいと。
香子は名前を出さなかったが、その日の対局が零くんだったことは私も知っていた。
あの子との対局がこれほどまでに、娘の心を動かしたのかと、私はただただ感心した。
そうして、香子は奨励会を去った。
弟の歩はそのことに動揺していたが、あの子はまだ挑戦する気があったらしい。その翌年奨励会に入会し、今もまだ続けている。
退会後、香子はしばらく将棋を指さなくなった。
生半可な気持ちで打ち込んでいたわけではないことは、私も分かっている。
将棋以外の事を何か模索しているようだと、妻からは聞いていた。
しばらくして、ファッション雑誌のモデルになったと聞かされた。私はよく分からないが、妻はとても喜んでいたし、凄いことなのだと褒めていた。
私が反対すると思ったのだろう。
香子がどれだけ真剣か、熱心に取り組んでいるのか、華やかに見えて意外と薄暗いところも多い業界の大変さ等々、どこから知り得たのか定かでは無い情報とともに、色々聞かせてきた。
ただ、その話よりも何よりも、記事に載っている娘の写真は、親の欲目を差し引いても、良いものだと思った。
あの子が頑張りたいのなら、応援したいと素直にそう思えた。
私が知らないことも多いが、食事の席で聞けば、香子は少し面倒くさそうにしつつも、丁寧に答えてくれた。
初めて見開きに大きく写真が載ったときは、何も言わずに机の上にそのページが開かれていた。
将棋をしていた頃は共通の話題があったが、それ故に会話が減り、踏み込むことに躊躇することが多かった。
私達は今の方が、不器用ながらに意思疎通が出来ている。
そうするうちに零くんは、藤澤師匠の弟子となり、奨励会を抜けプロになった。
娘と彼の不思議な交流はいまだに続いている。
香子が勝つまで駒落ちの枚数を増やしながら行っていた対局は、いまは四枚落ちに落ち着いたようだった。
零くんは月に一回はうちに食事をしにくる。
誘っているのはこちらからだが、基本的に断ることはしない。
そのたびに、時間が許せば、香子と指し、最近は歩とも指しているようだった。
奨励会を去りモデルの道に進んだ娘と、未だ奨励会で研鑽を積んでいる息子と、奨励会を抜け史上最年少でプロになった親友の息子。
ともすれば、縁がないまま終わっても可笑しくなかった3人が、自宅の居間でじゃれ合いながら将棋を指している。
不思議な感覚だが、私はとてもその光景が見たかったような気がした。
自分の身の回りの事は、何でもそつなくこなす零くんだが、此方としては少しは頼ってほしいとも思い、機会がある度に門下の者達で可愛がっていた。
タイトル戦はその最たるものだ。
名誉なことだが、準備にはそれなりに時間と手間がいる。できるだけ煩わしさを減らしてあげたかった。
一年前に作った着物のほとんどは、やはり丈が少し足りなくなっていた。直せない事も無いが、あまり同じものばかりとも行かないだろう。
数着、新しい着物を作った。
その中に一着、ある方から贈られてきた特別なものを交ぜておいた。
誰からなのかは、零くんには今は告げない方がいいだろう。
青碧色の生地に、桐の花の紋が小さく入ったこの着物。
まだ少し丈の直しがいるが、これに袖を通せるほど、大きくなったのが感慨深い。
この着物を着て、タイトルに挑む彼の姿を何より私が見たかった。
そして、あいつにもみせてやりたかったと、そう思った。