4月、2回目の奨励会の帰りに島田さんに声を掛けられた。
「桐山ちょっと会長室に寄ってくれないか?」
「会長室にですか?」
「幸田さんが待ってる、師匠の件だよ」
「あぁ……会長から少し聞いてました、どなたか紹介してくれると」
「俺も桐山にとって悪い話じゃないと思った。それでも、話を聞いて合わないと思ったら断れば良いよ、相性って大事だしな」
島田さんはそう言って、一緒に会長室まで付いてきてくれるようだ。
相変わらず、この人は優しい。
「あ、そうだ。二海堂が随分喜んでたよ。桐山に負けてられないって以前にも増して気合が入ってる。ありがとうな」
「とんでもないです! 僕がお礼を言いたいくらいで……」
「そういえば、珍しく対局後に声かけたんだって? あいつ相当嬉しかったみたいで、何回も聞かされたよ」
「僕も、嬉しかったんです。こんな事を言ったら、他の奨励会員に失礼かもしれませんが、初めてでした。同年代の人との対局であんなに心が躍ったのは」
「そうか……お前がそう思ってくれたって聞いたら、あいつも嬉しいだろうな……。良いよなぁライバルって、俺もあいつに、そう思って貰えてたら良いんだが」
島田さんはそう呟いて、少し遠い目をした。
たぶん宗谷さんのことを想い浮かべたのだろう。
まだ、A級に上がれそうであがれない自分と、片や数年前に七冠を成し遂げた同い年の男。複雑な想いもあるだろう。
僕はそれに何も言えなかったけれど、心の中で呟いた。
大丈夫ですよ、島田さんは数年後には彼とタイトル戦を争っています。宗谷さんも島田さんのこと待ってくれてますよ、と。
会長室の前まで来て、ドアをノックして中に入る。
「失礼します。桐山です。会長がお呼びだと聞いたのですが……」
「おぉ!! 来たか、桐山!! まぁ、座れや。ちょっとだけ長い話になる」
会長は近くの応接セットのところに、僕を導いた。
そこに居たのは幸田さんと、初老の男性だ。
僕は……この人の事を知っている。
失礼しますと声をかけて、二人が座っている対面に腰を降ろす。
隣に会長が座ってくれる。島田さんは少し離れたところの壁にもたれながら、様子を見ていてくれるようだ。
「幸田八段、ご無沙汰してます」
ぺこりと頭を下げて、挨拶した僕に幸田さんは、優し気に目を細めた。
「元気そうで良かった。香子から少し話も聞いたんだがそれは今度でいいだろう。今日はまず、この方を紹介しようと思ってな。藤澤九段、私と君のお父さんの師匠だった方だよ」
あぁ、そうだ。前の人生でも大きな催し物の時に、幸田のお義父さんに連れられて、ご挨拶に伺ったことがあった。
既に引退なさっていたから、僕との関わりはその時少し話したくらいだった。厳格な雰囲気をお持ちの方だけど、笑顔はびっくりするほど優しかったことを覚えている。
「存じています。藤澤邦晴九段。会長と名人位を何度も争われた方だ。お会いできて嬉しいです」
「君はお若いから、私のことなど知らないものだと思っていたが……そうかい。嬉しいねぇ」
僕の返事に、藤澤さんは少し驚いたあとに、ゆっくりと手を出してくれた。
その手をしっかりと握り返しながら、続ける。
「お二人の対局の棋譜はとても勉強になりますから、何度も並べさせて頂いてます」
「噂には聞いていたが、本当に勉強熱心な子のようだ。そして、恐ろしく卒が無い。これは、柾近の手に余るのも分かるなぁ」
僕の言葉に、藤澤さんは堪え切れなくなったように小さく笑い、幸田さんの方をみて頷いた。
「私はもう将棋を離れて久しいし、弟子をとる気は無かったんだが、柾近がどうしても一度会ってほしいと聞かなくてな。それに、自分が内弟子にと言った話は袖にされたという」
僕はその言葉に少し、居心地が悪くなって俯いた。
「何、君が気に病むことはない。話を聞いてみれば、なかなか道理が通ったことだ。いささか、小学生にしては出来過ぎだとも思ったがね……でも、会ってみて分かった、桐山にそっくりだ。あいつの子なら聡明で優しいのも頷ける」
藤澤さんの声色はとても優しくて耳に染みた。僕を通して、父の事を懐かしく思い出している。
あぁ……止めてほしい。
そんな風に言われると、嬉しくて切なくて、堪らなくなる。
「あいつのことは、残念でならん。私には娘だけで、息子はおらんかったから、弟子たちは皆、自分の息子のように可愛かった。先に逝くとは……親不孝なことだ」
葬式に出たかったけれど足が悪いことと外せない用事があったため、長野まで行けずに済まなかったと、代わりを幸田さんに頼んだが、いつか自分も線香をあげに行かせてほしいと、そう言われて僕はただただ、頷くことしか出来なかった。
気を抜くと、何かが零れ落ちてしまいそうだった。
僕にとっては、何年も前の事のはずなのに、この人にとってはついこの間のことで、まだ父の影が色濃く残っている。
それに、引きずられてしまいそうだった。
一度、大きく息を吐いて、気持ちを整える。
震えそうになる声を必死に抑えた。
「もし、貴方と話せる機会ができたなら、一つだけお聞きしたいことがありました」
「おや? 何かな?」
続きを促された僕は、椅子の傍に置いてあったリュックをとってもらう。そして、その底の方から、大事にしてある駒箱を取り出した。
不思議そうに見ている大人たちの視線を手元に受けながら、机の上に置いた。
「これは、父の遺品として、実家から持ち出したものです。蓋の裏に、〝贈 桐山一揮〟とあります。後から気が付いたのですが、おそらく父の退会駒だったのだと思います」
奨励会を退会することになった会員には、その名前が入った駒が贈られる。プロになることを諦め、将棋から離れることになるその人に、あえて名前入りの駒を贈るというなんとも言えない風習だ。
以前の僕は全く気が付かなかったが、今回持ち出して来て、蓋の裏の名前を見たとき一発で気が付いた。
父は一体どんな気持ちで、この駒を使って将棋を指し続けて、息子の僕に将棋を教えたんだろうか……。
「無くしたら困るので、滅多に箱から駒を出さないのですが、お葬式の後一度出したことがあったんです。その時に、駒が入っている方の箱の底に文字が書いてあるのに気付きました」
僕は慎重に駒箱から青い駒袋を取り出して、箱を空にしてみせる。
箱の底に、「青は藍より出でて藍より青し」と書かれていた。
「父の文字ではありません。そして、親友だった幸田八段の文字でもありません」
一体誰が書いたのか、気になっていた。
そして、以前目にした古い棋譜でこの筆跡に似た文字を見つけた。その時の記録係は……
「藤澤九段が、父のために書いてくれたものではないですか?」
僕の言葉に、藤澤九段は静かに目を閉じた。
「あぁ……そうだよ。懐かしいなぁ。あいつまだこの駒を後生大事に持ってたのか……。長野に戻りたくないと、まだ自分はやれるのにと悔しがって泣いた桐山に、せめてお前は私の誇りだと、そう伝えてやりたかったんだよ」
父は東京の医学部に通いながら、奨励会に通い続けていた。大学を出るまでに、プロ棋士になれたのなら、棋士の道を認めてやっても良いとお祖父さんに言われていたらしい。
でも、それはとても難しい。医学生は多忙だ。特に実習が始まったときなど、とてもではないが、将棋に時間は割けない。そんな状態では、三段リーグを勝ち抜くことは至難の業だ。
「跡継ぎである責任と、自分の夢と。あいつは板挟みになって苦しんでいた。私にはそれをどうすることも出来なかった。自分の道は、自らで定めなければならない」
結局父さんは、実習が多忙を極める大学5年生の時に奨励会を退会したそうだ。その時23歳。
奨励会の年齢制限にはまだあと3年あったのだ。
しかし、一度到達した三段リーグから、学業の多忙により降段して二段に戻った時に、二足の草鞋を履くことは出来ないと、決断を迫られた。
父は結局、実家を継ぐことを選んだ。
「桐山が知ったらどんなに喜ぶだろう。息子が、もうすぐ自分が退会したときと同じ二段になると知ったら」
僕は、堪えきれなくなった。
以前の僕は、奨励会時代の父のことなど全くと言っていいほど知らなかった。
いや、知ろうとしなかった。だって、辛すぎるから。
幸田のお義父さんもそれを分かっていたのだろう。僕が内弟子になってから、話題にすることはほとんどなかった。
あぁでも、もっと聞いておけば良かった。
父さんが何を思って将棋をして、プロを目指して、そして、その夢を諦めたのか。
僕は、父さんが焦がれてやまなかったその世界に居たのに。
後悔と。
切なさと。
懐かしさと。
やるせなさと。
そして、ほんの少しの愛おしさと。
いろんな感情に引きずられて、こぼれた涙を止めることが出来なかった。
ぐちゃぐちゃになって暴れまわる感情を抑えられない。
良い大人が情けないと思いながら、声を押し殺した。
藤澤さんは静かに、立ち上がって僕の隣にくると、しゃがみ込んで目線を合わせてくれた。
「その桐山の息子をな。このまま放っておくのは藤澤門下一同としては、忍びない。なぁ、零くん。私の弟子にならないか?あいつが此処で見て諦めた夢を、今度は君が叶えてやってほしい。私がそれを手伝っては駄目かい?」
ずるいと思った。
そんな風に言われたら断れないじゃないか。
それに、興味もあった。
父さんはこの人に何を見たんだろう。棋士としてどんなことを教わってきたのだろうと。
今はもう知る由もない父の心の内を、この人を通して知りたいと思った。
気が付けば、何度も頷いていた。
嗚咽を抑えるのが精一杯でまともに声も出せない僕の頭を、大きな手がゆっくりと撫でる。
節くれだった、将棋の駒を握って生きて来た男の人の手のひらだった。
結局その後、僕が落ち着くまでしばらくかかってしまったのは、本当に申し訳なかった。
幸田さんは、困ったようにおろおろしていたけれど、会長は泣き止んだ僕を、お前も人の子だったかぁとからかって、島田さんに諌められていた。
藤澤さんは子供が我慢する事なんてないと言ってくれたけれど、中身が30代の僕にとったら大失態である。
おそらく、小学生に戻ってから人前で泣いたのは始めてだ。
それから、その場で僕と藤澤九段の師弟の手続きを行って、その場にいた会長に承認も貰った。
これで万事つつがなく、ぼくはプロになることが出来る。あとは三段リーグを突破して四段になるだけだ。
幸田さんは、零くんが末の弟弟子になったなぁと本当に嬉しそうだったし、島田さんも良い話がまとまって良かったとほっとしているようだった。
藤澤さんは、僕を内弟子として家に置いてくれると言ってくれた。
僕としては、このまま施設にいても良いのだけど、周りの大人たちからは猛反対をうけたので、この話を受けることにした。
藤澤さんの家は東京の郊外にあるが、電車を使えば将棋会館まではそう遠くない。
いまは、娘さんが自立して近所にある別宅で生活しているそうで、家には奥さんと藤澤さんだけらしい。
寂しいじじぃとばばぁの二人暮らしのところに、こんな可愛い子が来てくれたら、嬉しいと言われたら、僕としても強くは断れなかった。
ただ、時期が微妙だったことと、僕が里子に出ることで少なからず施設とそこにいる子供たちに与える影響を考えて、正式な引っ越しは夏休みまで待ってもらうことになった。
藤澤さんはそれまでに、家に遊びにおいでと言ってくれた。
零くんの部屋も一緒に整えないとなぁと楽しそうだった。
幸田さんまで、その時は私が車を出しますよ、と嬉しそうだ。
僕としても、大人になってそれなりに対応力が付いたとはいえ、もとから環境の変化にそれほど強いタイプではなかったので、徐々にならしていくのはとても助かる。
それから、僕の将棋の安定感は増し、5月末に二段に昇段し、そのままの勢いで7月まで勝ち続け、夏休みに入る前に、三段リーグ入りを決めた。
入会以来、54連勝。
一度も黒星がつくことは無かった。
これにより、10月から行われる三段リーグで上位2位以内の成績を収め四段に昇段すれば、僕は小学6年生でプロ棋士になる。
なんて、現実味に欠ける話だろうか。普通ならあり得ない事なのは分かっていた。
でも、僕の本番はそこからなのだ。やっとここまで戻ってこれたという気持ちが強かった。
その日、将棋会館からほど近い公園で、香子さんに会った。
「久しぶり。元気そうね、相変わらず」
「香子さんも、元気そうで良かったです」
「今日も勝ったんでしょ? あーあ。まさかホントに負けなしで三段リーグまでいくとはね。でもま、おめでとう」
彼女の声は呆れているようだったけれど、優しかった。
「有り難うございます」
「ほら、これあげる。お祝いに」
そう言って、彼女は一冊の雑誌を僕の方に投げた。
有名なファッション雑誌だ。生憎僕には縁がないものだが……。
「25ページ目。モデルになったの。ただの読者モデルじゃないわよ? 一応ちゃんとオーディション受けて採用されたんだからね」
ま、将棋馬鹿のあんたには分からないだろうけど。そう言って肩をすくめた彼女に、僕はありったけの、賛辞を告げた。
良く分からないのは確かだけれど、なにか凄い事なのはわかる。
「この世界も楽じゃないって分かってるけど、それなりに上手くやるわ。私その辺は上手かったみたいだし」
「凄く、カッコイイですよ。この写真。うん。すごく良いです」
何それ。馬鹿みたい。と単純な褒め言葉しか言えない僕を彼女は笑ったけど、その空気は以前よりずっとやわらかいのだ。
「ねぇ、ついでに、ちょっとあんたにお願いがあってきたんだけど」
「何ですか?」
彼女は自身のカバンから一つの駒箱を取り出した。
「これね、私の退会駒。やっと届いたのよ。受け取った瞬間捨ててやろうかとも思ったけど。出来なかった。だってこれは、間違いなく私と父さんを繋いでいてくれたわ。それがどんなに細い線だったとしてもね」
彼女の指先が、愛おしそうに駒箱を撫でた。
この人も、間違いなく将棋に魅せられ、そして将棋を愛した人だったのだ。
「父さんから聞いたんだけど、貴方自分のお父さんの退会駒持ってるんだって? その箱底に、メッセージが書いてあったって聞いたわ」
「えぇ、父さんの師匠が、退会する弟子へはなむけの言葉をつづったそうです」
彼女は、おもむろに駒箱から、赤い駒袋をとりだし箱を空にすると、それを僕の方へと突き出した。
「だったら、私は貴方に書いてほしい。私が将棋を辞めるのは、貴方に会って、貴方と対局したからよ」
「えぇ!? 僕にですか?」
「そう、私と将棋をきっぱり、決別させて」
うろたえる僕をものともせずに、彼女は用意周到に筆ペンまで持ち出して、僕の手に押し付けた。
「ほら、早くしてよ。別に言葉はなんだっていいんだから。字だって綺麗じゃなくていいから」
困った。
はっきり言って、僕にこういうときの言葉選びのセンスはないと言って良い。
でも、彼女はなんでも良いから書けと言っているし……その圧に負けて、筆をとった。
書き終わって、そっと返した箱を受け取って、眺めた彼女は笑った。
「あんた字もすっごい綺麗なのね。……遠雷ね。ねぇ、女の子に雷って言葉を贈るなんてどういう感性なのよ?」
「わぁぁぁ、ごめんなさい! でも、他に思いつかなくて、僕の貴女の第一印象これだったんですよ」
「私が?」
「はい。儚くて、心惹かれる、淡い光です。あとから嵐を呼んだとしても、なぜか妙に惹きつけられる」
「ふーん。そうか、私は雷か」
結局納得したのかどうかは、分からなかったけれど彼女はそのまま駒袋の中から、ふと香車を一枚とりだす。
「なんだかなぁ……父さんは私の考えを尊重するって言ってくれたし、私が雑誌デビューしたときも、それは驚いてたけど、色々聞いてきたわ。自分が知らない世界の事を知ろうとしてくれて嬉しかった。
でも、娘と息子の名前に駒の漢字を使うような人よ。本当はプロになって欲しかったんだろうなぁって」
そう、呟いた彼女にさっきまでの勢いはなくて、どこかとても寂しそうだった。
こういう姿をみると何故だか、放ってはおけないのだ。
以前の人生でも、結局何度も部屋に上げてしまったように。
「名前に将棋の駒の漢字を使ったのは、幸田さんにとってそれだけ将棋が全てで大切だったからかもしれません」
「だから、最初からそう言って……」
「だからこそ、ですよ。自分が知り尽くして、愛おしいと想うその字を、子どもにあげたかったんじゃないでしょうか?」
子どもの名前を考えるのって、本当に難しい。だって、親があげる最初の贈り物だとか言われているのだ。
でも、僕たちはそんなに器用じゃない。何万字とある漢字の中で、いったい自分の子にどれを上げたら良いのだろう。と途方に暮れた。
僕だって、ひなちゃんが止めてくれなかったら、娘たちに将棋の漢字の入った名前をあげそうになっていた。結局彼女と一緒に、納得いくまで話し合って良い名前をあげれたと思うけれど。
幸田さんだって、悩んだはずだ。
そして、自分が何十年も親しんできた、その漢字を子どもへ贈ったのではないだろうか。
「香って良い字じゃないですか。香車だって良い駒です。まっすぐ、まっすぐ前だけをみて進む。おまけに、成ったら最強ですよ」
僕の言葉に、彼女はあっけにとられていたけれど、結局最後は将棋じゃないの、と声をあげて笑った。
「分かった。あなたも、父さんも将棋馬鹿で、そんなに深くは考えてないのね。自分が愛した漢字だから……か。そうかぁ、棋士ってそういう生き物なのかもね」
上手く伝わったかどうか、分からないけれど、彼女なりに納得したようで、僕は少しほっとした。
笑われたのは釈然としないけれど。
「ほら、これあんたに預けとく」
香子さんは、最後に持っていた香車の駒を僕の手に押し付けた。
「え? でも駒が一つ足りなくなったら、将棋が指せませんよ?」
「いいのよ。それで。後はまぁ、お守りっていうか? いっそ呪いみたいな?」
「呪い!?」
「そう、負けたらだめよ。三段リーグだって一敗もしないで。そしたら、その駒好きにしていいわ」
そう言って、駒箱をさっさとカバンにしまうと、僕にもう一度、負けるなと念押しをして、彼女は嵐のように去って行った。
残された僕は、ただしばらく立ち尽くして。
彼女に渡された駒を握っていた。
とりあえず……なくすわけにもいかないし、何か小さな巾着にでも入れて、保管しておこう。
ひとつだけ、ポツンと残された駒が可哀想な気がした。
勝ち続けたら、好きにして良いということは、彼女に返しに行ってもいいのだろうか?
無敗でプロになったら、この駒はあの駒箱の中へ帰ることができるかもしれない。
なんとなく、そうしてあげたいと思った。
7月末。
僕は藤澤さんの家に呼ばれた。
三段リーグ入りを祝ってくれるらしい。
最初は、断ったのだけれど、門下の人とも顔合わせをしようと言われた。
末の弟弟子のことを皆に知ってもらいたいと。
藤澤さんの家は平屋の古民家のような様式だった。
立派な庭と、縁側もあって過ごしやすそうだ。
古き良き日本家屋という感じがした。
シロとクロという2匹の猫も飼っていた。シロは真っ白じゃなくて足先だけ少し茶色がかかった大きめで大人の雄猫。クロは真っ黒の金目の綺麗な小柄な雄猫だった。
僕は動物は好きだ。
以前は、幸田家には犬が、川本家には猫がいた。どの子も良く懐いてくれていたから、僕も随分可愛がっていた。
この子たちとも仲良くできたらいいなぁと思う。
藤澤門下の方々は皆、幸田さんの年齢の前後の方が多くて、落ち着いた大人という印象だった。
一番下でも30歳を少し超えるくらいの方だ。
どの人も、僕という弟子が増えることを驚いてはいたけれど、藤澤さんたっての望みと知ると、快く受け入れてくれた。
なんとか上手くやっていけそうだな、とそう思った。
そう、僕はすっかり忘れていたのだ。
あの人が幸田さんの弟弟子だったということを。
「すいません、遅れました」
深い身体に響く声だった。反射的に僕は顔あげて彼を見た。
「おぉ!来たか正宗。今日の対局も勝ったのか」
「えぇ、問題なく。それで、幸田さんにせっつかれて、わざわざとることにした弟子はどいつです?」
「あぁこの子だよ。おいで、零くん。大丈夫、ちょっと顔は厳ついが別にとってくわれやしないよ」
藤澤さんに促されて、彼の前にたった。
鋭い眼光が、懐かしい。普通の小学生なら何も言えなくなるのじゃないのか?
ビビッていると思われるのも癪だったので、僕は真っ直ぐ彼の目を見て、挨拶をした。
「桐山零です。よろしくお願いします」
「ふーん。後藤正宗だ。おまえ、小さいな、歳いくつだ?」
軽く鼻をならしたあとに彼は、僕を頭の上からつま先まで眺めた後にそう言った。
「10歳になりました。背はこれから伸びるからいいんです」
周りから、小さくおぉっ!と声が上がる。
おそらく初見で後藤さんに言い返せる小学生などそうそうみないからだろう。
残念ながら、僕は慣れている。
これよりもっと、強く激しい眼光……対局中の彼と対峙するのはこんなものではすまないのだから。
「正宗。零くんはこの歳で、もう三段リーグに到達するくらい有望だよ。あんまり威嚇するんじゃない」
「そんなつもりはないですけどね、相手がいつも勝手にビビってるだけで。
それにしても、三段リーグですか……このチビがね……」
「あぁ、そうだ! 良かったらちょっと一局指したらどうだい? 零くんもA級棋士と指せるのは、勉強になるだろう。正宗は今、門下の中じゃ一番の棋力を持っとるだろうしな」
「はい! 是非お願いしたいです」
藤澤さんの申し出は有り難かった。
なかなか、上の方と指す機会は奨励会員のぼくにはない。
僕は、一も二もなく頷いた。
「まぁ……俺は別に良いですけどね。
で、角落ち? 飛車落ち?それとも2枚落とそうか?」
最初、何を言われたのか理解が出来なかった。
この人、全然本気にしてない。
カッと頭が熱くなったのが分かった。
「……平手でお願いします」
「へぇ……後悔するなよ。俺は手加減が下手なんだ。先手はゆずってやるよ、おちびさん」
……後悔するのは、そっちだよ。
本気じゃないなら、本気にしてみせる。
宜しくお願いします、と頭をさげて対局が始まった。
相変わらずの居飛車党、固くて重たい。
でも、何度もこれを崩してきた。
この人の重厚な棋風に、吹き飛ばされないだけの、棋力と経験はある。
あとは、少し時間が経って遠くなったその記憶を、きちんと呼びさますことだ。
僕もA級棋士とやり合えるほどの、感覚はまだ戻っていない。
けれど、それはまともに対局した場合だ。
今の後藤さんは、完全に僕を下にみている。
小学生に牙をむかれることなどありえないと。
それは、決定的な勝機だった。
穴熊でがっちりと固めようとした彼に、僕は急戦を仕掛けた。
組みあがる前に牙城を崩す。
速さと思い切り、そして、戦線を見極める大局観が必要だけれど、僕は間違えることはなかった。
対局は長くはかからなかった。
途中、明らかに後藤さんの雰囲気が変わったし、そこからの対応は流石にA級棋士だ。
危うくひっくり返されるかと思われる場面もあった。
でも、これで完全に詰み。僕の勝ちだ。
「……なるほどな、負けました。確かに、小5で三段リーグに入るわけだ。これじゃあ、奨励会員で相手になる奴はそういねぇな」
淡々とした静かな声だった。けれど、まぎれもなく僕の事を認めてくれた。
「しっかし、可愛げのかけらもねぇ将棋だな、おい」
「社会で生きていくのには可愛げもいるでしょうけど……将棋にまで持ち込んだら、上にいけませんので」
彼の言葉に、僕は無愛想にそう返事をした。
とたん、周りで見ていた門下の人たちがドッと笑って、そりゃそうだ。と僕の頭を撫でてくれた。
皆、口々に良い将棋だったと、感想を述べてくれて、検討も一緒にした。
後藤さんは、最初から本気でやってやりゃよかったのに、と他の人に声を掛けられて、うるせぇな俺の勝手だろと、と肩をすくめていた。
分かっている。公式戦ではこうはいかない。
これが本当の対局であれば、彼は絶対に手を抜いたりしなかった。
たとえ相手が誰であれ、全力でたたきつぶしに来ただろう。
でも、久々にこれほど頭を擦り切れるほど使って将棋を指した。
不思議なくらい、からだの隅々まで冴えわたっている気がする。
「零くん、楽しそうに指してたねぇ」
「え? そうでしたか?」
藤澤さんがしみじみとした声でそう告げてきて、僕は怪訝な表情で問い返した。
「あぁ、私が見た中で一番いきいきとした表情で指しておった。やはり、強い子は強い相手を求めておるんだな。正宗、おまえの時間が合えばまた、指してあげなさい」
「そりゃあ、隠居じじぃと指すよりは、俺と指したほうが楽しいだろうよ。……ま。俺も暇じゃないから、気が向いたらな。お前もさっさとプロになれよ、ちびすけ」
「なりますよ! あと、その呼び方止めてください」
「おまえがプロになったら考えてやるよ」
そう言って、後藤さんは乱暴に僕の頭をかきまわした。
止めてくれ、ただでさえ小さいのに、もっと縮んでしまう。
この人が兄弟子なんて、どうなることかと思ったけれど、ひょっとしたら前よりは仲良くやれそうかもしれない。
かき乱された髪を直しながら、そう思った。
そして、8月の頭に僕は、施設から引っ越すことになった。
前もって、職員の人には伝えておいたし、子どもたちにも言ってあったので、それほど動揺はなかったものの、いざその当日になると何処かバタついて、落ち着きが無かった。
いよいよお別れだというとき、玄関まで見送りに来ていた子供たちの中から、青木君が飛び出してきた。
ギュッと僕の服の裾をつかんで、何かを言おうとするけれど、口をハクハクと動かすだけで、何も言わない。
言いたいことはたくさんあるはずなのに、それが上手く言葉に出来ない気持ちは良く分かった。
「ありがとう。僕は君と居る時が一番、居心地が良かったよ」
握りしめている彼の手を上から包み込んでそう告げた。
「……桐山くん、本当に行っちゃうんだね。残念だなぁ。僕、君が来てから本当に楽しかったから……」
僕の言葉に、やっと彼が声を返す。そして、我慢しきれなくなったようにポロポロと泣き出した。
「……ごめん、ごめんね。良いことなのにね、笑顔でさよならしたいなって思ってたんだけど……」
「学校でまた会えるよ。クラスは一緒なんだから。それに、此処にも遊びにくる」
「絶対? ぜったい来てくれる?」
縋るように僕を見つめる彼の目に、母親に置いて行かれた寂しさが伺えた。彼にとって、守られなかった約束がどれほど多かったことだろう。
「うん。絶対だよ。約束する」
だから、今度は破られない約束をしよう。このことが、君の心を少しでも癒してくれますように。
「わかった。約束だね」
泣き笑いを浮かべながら、手を離してくれた彼は、僕に一番のお気に入りの本をくれた。
かわりに、僕の詰め将棋の本が欲しいという。
一番簡単な詰め将棋の本を渡した。将棋は分からないだろうにと聞くと、桐山君があんまり熱心にしてるから、横でみて少しは覚えちゃったよ、とやっと笑ってくれた。
幸田さんが車を出してくれていたから、僕はそれに乗って、藤澤さんの家までいくことになっている。
最後にもう一度、施設の人たちと、苦楽をともにした仲間たちへ大きくお辞儀をして、車に乗り込んだ。
小さくなっていく、その建物をじっと窓から見ていた時、ポロッと一滴だけ涙がこぼれた。
不便も沢山あったけれど、あそこは確かに僕の家だったのだ。
僕を受け入れてくれた場所だった。
もう一度、心の中でありがとうと呟いた。
そして、心に誓った。
プロになったら絶対、ここにも恩返しをしようと。
オリキャラ
藤澤邦晴(ふじさわくにはる)
幸田さんと後藤さん、そして桐山父のお師匠様。
会長が現役時代にトップ棋士だった方の一人。名人位の経験もある。将棋界の重鎮。
幸田さんから話をきいて、自分は将棋から離れてしばらくたっているし、弟子をとる気はないと断ったけれど、桐山父の息子だし、棋譜をみせてもらったらびっくりするくらい上手だしで、興味を持つ。
結局、桐山君を一目みて気に入り、会長室で話してるときにはもう弟子に取る気だった。
(当時はオリキャラが師匠で良いのか!?と随分悩みましたが、今となっては良かったかなと。キャラの誰かにしてしまうとその人との対局が、師弟の関係がはさまり特別になりすぎるので。その意味ではもし藤澤さんにしないなら、もう引退している会長にしていたと思います)
退会駒の設定は、映画3月のライオンで幸田さんから桐山君へクリスマスに送られた駒は、桐山父の退会駒だったのではという設定に感銘を受けてお借りしています。
実際にこの映画で使われた駒箱の蓋の裏には、桐山一揮と名前が入っていたそうですよ。
この名前は、実際にチカ先生に聞いて書かれた名前だそうです。
箱の底方に、師匠からのメッセージというのは私のオリジナル設定ですが……そういう粋なことする人がいてもいいかなと思いまして。
次はまさかの青木くん視点です。