獅子王戦の第一局を僕が取ってからの日々は、もうめまぐるしかったと言って良い。
無敗で防衛し続けた七冠がついに黒星。なんて騒がれていたけれど、僕はそんなことよりも、対局後宗谷さんから貰った言葉の方が嬉しかった。
負けたのに、こんなに納得した対局は久しぶりだと、彼は本当に楽しそうだった。いつもは、ほとんど動かない、口角が僅かに緩んでいて、感想戦の長さはタイトル戦後とは思えないほど白熱した。
あの手は? ここは? 二日目のこの時点からもう君は読んでた? 興奮していたのかもしれない。僕は初めて、ここまで饒舌になった彼を目の当たりにした。
そうして、全部終わった後に言われたのだ。
「第2局目は楽しみにして、今度は僕が魅せるから」
現タイトルホルダーからの宣戦布告だった。
第二局目、京都で行われたその対局は、その宣言通りだったと言って良い。
序盤、僕は、中飛車を選択しそのまま玉の囲いを穴熊に、宗谷さんも穴熊をとり、お互い固い組み合いになった。
一日目の封じ手は僕が行った。どちらかというと、僕持ちの意見が出るくらい上手く指せたつもりだった。
でも、明けて二日目のお昼前、穴熊を崩すために互いに、縦からの攻略を狙ってはいた、そこででた、宗谷さんの9六金という一手が見事だったのだ。
8七の地点のスペースをあけつつ香車を引き上げるという妙手、タダで金を渡してでも上部に玉の脱出を優先していた。
あまり、見ない……というか、まず思いつかない手だった。実際僕も指されるまでそこに来るとは思ってもいなかったのだ。
結局その対局は、宗谷さんの勝ちとなった。
そこからの対局は激動だったと言って良い。第3局目は僕がとった。でも続く、第4局目はまた宗谷さんが取る。
そして、先日終わった第5局は、二日目が0時をまわる大熱戦だったが、辛くも僕が勝利した。
今のところ3勝2敗。お互いに取って取られて、ここまできた。見てる側からすれば、非常に面白い展開だっただろう。
でもなんとか、先に角番を取る事が出来たのだ。
次、今までの流れだと宗谷さんが取る番だなんて言われているのも知っている。
でも、もし僕が勝つ事ができれば、4勝目。獅子王位奪取ということになる。
そんな第5局が終わって、すぐのある日の事だった。
僕はその日順位戦があって、将棋会館に来ていた。七番勝負中ではあるけれど、他の対局も当然あるわけで、取れる対局はちゃんと勝っておきたい。
ましてや、来期はB1を狙うのであれば、順位戦は一局たりとも落とすわけにはいかない。一期抜けには10戦全勝が確実なのだから。
幸いその日の対局も問題なく白星を獲得し、帰宅しようとしていた僕は会長に呼び出された。
「急にすまんな、桐山」
「いえ、もう帰るところでしたし、大丈夫ですよ」
会長の表情は、いつもと違って硬かった。僕は少しだけ嫌な予感がした。
「獅子王戦の次の第6局なんだけどな。開催場所が変更になったんだ」
「そうなんですか? 急ですね」
「あぁ、実は予定していた旅館でボヤ騒ぎがあってな。たいした被害では無かったそうだが、修繕にすこし時間がいるし今回は難しそうらしい」
珍しい事だが、そういうことなら仕方ないだろう。
「それで……な。次の対局場所の候補地に名乗りを上げてくれて、なおかつ予定が立つのが長野の旅館だけだったんだわ」
「長野……ですか」
ポツンッと一言、無意識そう呟いてしまった。自分でもなんと言っていいか、分からなかった。少しだけ複雑だ。
聞き慣れたはずの、でもどこか遠くに聞こえるその懐かしい場所。
「次の第6局目。おまえにとったら勝てば、宗谷から獅子王を奪取できる大事な一局だ、なるべく他の事で煩わせる事が無いようにしてやりたかったんだが……」
「いえ……、大丈夫です。寧ろ今まで一度もなかった事の方が珍しいですし」
どうして、気づかなかったんだろう。
タイトルホルダーや挑戦者の故郷で、タイトル戦をするのは別に珍しくない。候補となる旅館が是非にと声をあげれば、実現もしやすい。
それでも、以前の棋神戦の時も、今回の獅子王の時も、対局地が長野になることはなかった。
僕がこれまでに呼ばれたイベントも長野だったことはない。
気を遣われていた。いや、配慮してくれていたのだ。
はっきりと伝えたことはないけれど、僕の経歴は知られている。東京に将棋会館があるのがこっちに来た最大の理由だが、あそこに僕の居場所がなかった事も、また事実なのだ。
「ほんと、すまんな。急な開催となると、あちこちに声をかけたんだが、どこも色よい返事をくれなくてな」
その長野の旅館は、前の棋神の時も熱心に売り込んできたらしい。
それもそうだ。初のタイトル獲得へのチャレンジ。是非地元でと思うことは、悪いことじゃない。
今回の獅子王の時も、候補からは外れていた。
けれど、この急な申し出を受けてくれたのは、その旅館だけだったのだ。
「もう2週間きってますからね。寧ろ引き受けてくれた事が嬉しいです。僕は大丈夫ですよ。その旅館で何かあったわけじゃないですし」
名前を聞いたけれど、とくにピンッとは来なかった。老舗旅館だろうけれど、おそらく家族で行ったことはないはずだ。
「そうか。それなら良かった。まぁ前夜祭の時は、おまえのファンも来るだろうし、上客の中には、おまえのお祖父さんのことを知ってる人もくるかもしれん。田舎の開業医ってのは顔がひろいからな」
会長は幸田や、おまえのなじみの棋士をいかせるから、絶対に側を離れるなと言ってくれた。
何よりも、僕が対局に集中することが大事だと。
大丈夫だと、本当にそう思っていた。
僕の記憶では、長野で過ごした日々も、父や母、妹のことももう何十年も前の事だったから。
それに事故から既に5年も経っている。親戚や家のゴタゴタも既に収まって、僕のことなどほとんど忘れているだろうと、そう楽観視していた。
新幹線に乗りながら窓の景色を眺めていた。特段、いつもと何かが変わる気はしなかった。移動だって同じだ。隣に座っていた幸田さんは、今回のことで特別なにか言ってきたりはしなかった。
でも、菅原さんに連絡をとっているのは知っているし、いざとなればすぐ電話で対応してくれるように頼んでいたのも知っている。
あの時の事は片もついているし、あの人達も時と場所くらいはわきまえてくれるはずだ。面倒事はおきないと思っているんだけどなぁ。
最寄りの駅に着き、バスに乗り換えて、目的地に近づくにつれ、なんだか不思議な感じがした。
はっきりと記憶にないのに、知っている気がする建物や景色が多い。
僕はふと、旅館の所在地を確かめた。知っている地名だ。
漢字が目に入った途端思い出した、昔住んでいた家があった街の隣の市だった。
ここに来るのに車で30分少しだろうか……。意外と覚えてるもんだな。
旅館に着いたときも、僕はその外観に不思議な既視感を覚えた。何故か見たことがある気がする。ひょっとして来たことがあったのだろうか。
手続きは会長がいつものように済ませて、僕は女将さんに部屋へと案内された。
落ち着く雰囲気の良い旅館だ。
ずっと人気だったのだろうなぁ。部屋を続く廊下から見事な中庭がみえ、そこに鹿威しもあった。
あれ? と思って立ち止まる。
「あの鹿威し……どこかで」
「あぁ、ひょっとして気づかれました? 桐山七段はお若かったですし、覚えてらっしゃらないかと思ったのですが……」
女将さんはそう微笑んだ。歳を重ねてらっしゃったけれど、僕はこの方の事も思い出した。
「すいません。今思い出しました。僕は、此処に家族で泊まった事がありましたね」
「はい。妹さんが中庭を随分と気に入られていて、桐山七段もそれに付き合って此処であそんでらっしゃいました」
此方から、お声をかけるのはどうかと思いまして……と、少し目を伏せた。
僕が覚えていないなら、それでも良かったのだろう。
「いえ、大切な想い出です。気付けて良かった。そうか……此処には来たことがあったんですね」
何年も前の事だろうに、僕たち家族のことを覚えて居てくれた人がいた。
それも、とても幸せな瞬間を。そのことが、嬉しい筈なのに、同時に忘れてしまっていた自分にギュッと胸が苦しくなった。
忘れている記憶の欠片が、次々と繋がるように。
目にする度に、聞く度に、思い出していく。
間違いない、此処はどれほど時が経とうと、僕の生まれ故郷なんだ。
部屋で落ち着き無く、そんなことを考えていたらあっと今に前夜祭の時間が近づいてきた。
幸田さんが着物を着るのを手伝おうと、部屋に来てくれるまで、僕はそのことにまったく気づいていなかった。こんなに日が傾いて来ていたのに……。
着物は、青碧色の生地の新しく追加された物。
これは生地から仕立てたものではなく、あらかじめ出来ていたものを僕に合わせたので、何故か印象に残っている。
幸田さんは着付けた後に、僕をみて、何か少し言いたそうに口元を動かしたけれど、すぐに首を振って何でも無い、よく似合っていると背中を叩いてくれた。
いつもの頑張っておいで、という合図だ。
前夜祭が始まる。
いつもの流れなのに、どうしてか少し居心地が悪いというか、そう、僕は緊張していた。
明らかに歓迎ムードなのだ。
今までの対局地もそうだったのだけど、今回は僕個人への声援を大きく感じる。
隣には宗谷さんが居るというのに、こんなことは今まで一度もなかった。
開催地代表挨拶にきていた市長はもうほんとに喜んでいたし、対局者挨拶の後のフリータイムの時も熱心に声をかけてくれた。
握手を求める声の数、サインをお願いされる数、向けられるカメラのフラッシュの数、いつもの比では無かった。
有り難い事だから、一つ一つに答えるけれど、その小さな積み重ねが、ガリガリと僕の何かを削る。
そして何より驚いたのが、極稀に壮年の男性から告げられる、若先生に似ているね。というその言葉。
初めは一瞬、誰のことだろうと思った。でも、すぐに父のことを指していると気づいた。
閉じていた記憶の箱から、スッと出てきたその単語。
父に連れられて、お祖父さんが催す大きな集まりに何度か行ったことがあった。
そこで、父は若先生と多くの来賓から呼ばれていた。
そうだ、病院でもそうだったじゃないか。
医院長の跡継ぎ息子、皆の若先生。決して嫌みな感じでは無く、親しみと、期待と、そんな気持ちをこめて呼ばれていたと思う。
もう5年も経っているのに?
違う。まだたった5年だ。この地では、若先生という父の面影がまだしっかりと息づいていた。
幸田さんは、何度も僕に先に抜けるかい? と小さく聞いてくれた。
でも、それは出来なかった。
ここに居る、多くの人が僕を見に来てくれていた。挑戦者としてそれを蔑ろにしたくなかった。
そろそろ、お開きかな? というムードになったとき、零っ! と声をかけられた。
若い男の子の声だった。声の方をみると、僕と同い年くらいの男の子がいた。
「俺の事わかるか……?」
少し眉をよせて、所在なさげな様子だった。
大きくなっていたから、すぐには分からなかった。でも、その声と口調と、微妙に斜め下に向けるその視線。
「か、かずや……くん?」
僕の言葉に、従兄弟の和也は安堵したように一息ついた。
「忘れられてたらどうしようかと思った。獅子王戦、第6局の開催おめでとうございます。コレ、一応うちから」
ずいっと突きつけられた花束は、シンプルで細身にまとまっていた。荷物にならないような配慮だろうか。
戸惑っている僕にだけ、聞こえるように彼は小さく呟いた。
今だけ受け取ってくれ、嫌なら後で捨ててくれて良いと。苦み含む疲れたような声だった。
「ありがとう。貰っとくね」
なんとなく、彼がこの場に来た理由が分かった気がして、僕はにこやかにそれを受け取った。周囲に喜んで受け取ったように見えるように。
彼はほっとしたように見えた。
同い年の中学生が二人集まれば、この場では少し目立つ。
案の定、地元の新聞社の記者が写真を良いかと声をかけてきた。
彼は、サッと僕のほうをみた。頼むと言われたのが分かった。
花束がよく見えるように手に持って、笑顔で和也に肩を寄せた。
彼はすぐに、やんちゃな中学生らしさを全面にだして、僕を肩をくむと空いた手で、カメラに向かってピースをした。
眩しいほどのフラッシュとともに、耳元で、彼がごめんな。と囁いた。さすがにその後はすぐ別れると思ったのだけど、
「なぁ、5分でいいから話せないか? ……できたら、人がいない所で。この会が終わるまで待つから」
会話が聞こえるか、聞こえないかくらいの位置で見守っていた幸田さんが、間に入ろうとしてくれたけど、僕はそれを制した。
「いいよ。コレ、僕の部屋の番号。前夜祭が終わったら来て」
サイン用のペンで、彼の手の甲に小さく番号をかいた。うなずいた彼は、僕の側を離れると、先ほどの記者に話を聞かれているようだった。
終始にこやかに対応している。良い所のお坊ちゃんって雰囲気だ。あんな大人びた表情をする子だっただろうか。
その後は、何事もなく終了の時を迎え、僕と宗谷さんは退出した。
部屋に帰って、着物を脱いで、荷物を整理していたところで、扉がノックされる。迎え入れた、和也の表情は固かった。
「今日はさ、ありがとう。……零は、俺になんか来て欲しくなかっただろうけど」
「そんなことは無いよ。ただ、すこし驚いて」
数年ぶりの従兄弟と、何を話せばいいのか分からなかった。微妙な間とあまり好ましくない沈黙が入る。
「今更、どの面下げてって笑って良いんだぜ。俺の母さんのこと、恨んでるだろ?」
僕が何も言えずにうつむくと、彼はため息をついた。
「……すげぇ奴になっちまったと思ったけど、そういう所は変わってないなぁ。良い子ちゃんで、いつも言い返さない」
和也と僕が遊んだことはもちろんあった。お祖父さんのところにお正月は集まるのが当たり前で、そんなとき貴和子さんは絶対に旦那さんと和也をつれてきた。
子どもは仲良く遊んでいなさいと、よく二人で追いやられたけれど、正直僕らは気が合ったとは……言えない。
「わりぃ。何も悪くないよ、おまえは。こっちの都合なんだ。もうさ、みせてやりたかったなぁ。零が史上最年少の小学生プロ棋士になったってニュースになった時のうちの母さんの顔」
顔を上げた僕が目にしたのは、辛そうにゆがんだ彼の表情。たぶん初めて見た。
「すっげぇ、バッシングだった。そりゃそうだよ。一人残った息子を追い出して、病院をのっとって我が物顔だったのは、親戚中が知ってる! みんな手のひら返してさぁ。なんて非道なことをって。葬式の時は、だぁれも反対しなかったのにな」
じわりじわりと、彼の言葉が耳をさす。
プロ棋士になった直後、藤澤さんの家に連絡をしてきた、親戚が何人もいた。
僕のことを引き取りたいと。全部藤澤さんが一刀両断したし、その後も僕の耳に入らないように気を配ってくれた。
あの人達が、長野でどうしているかなんて、考えもしなかった。
「その後もずっと、何かニュースになる度に、長野は大きな人材を逃したってな。別におまえの功績が、キリヤマの功績な訳でもないのにさ。棋神の時、こっちには来なかったろ? 俺らのせいだって、そりゃもう鬼の首とったみたいだった」
もともとちょっと、ヒステリー気味だった貴和子さんは、その辺りからそれに拍車がかかったらしい。
「だから今日絶対にお前と会ってこいって、言われたんだ。全く自分で来ればいいのにさ。子ども同士の方がいいって。何を今更。……でも、ほんと助かった。写真も撮られたし、あの記者には従兄弟だっていうのは、伝えさせてもらってる」
「あ、うん。それは別に大丈夫。僕もあまり確執があると思われたくないし、実際に僕らは従兄弟だ。そういう写真が一枚くらいあった方が自然だろうし」
「仲良かったの? とか聞かれたけど、正月に一緒に遊んでましたってだけは言わせてもらったぜ? 一応事実だしさ」
「うん。分かった。確かにお祖父さんのところで、遊んだもんね」
それが、一般的な〝仲が良い〟だったかは、微妙な所だが、僕と彼も分かっている。ただ……僕たちには建前が必要だった。
思うところが、全く無いわけでもない。でも、苦しんで欲しいわけではないし、彼らだけ異様に標的にされるのは、何か違うと思う。
「良いよな……零は」
「え? 何が……?」
淡々とうなずき返していた、僕に和也が拗ねたように呟く。
「東京で一人で住んで、自分のやりたいことやって、すっげぇ才能があってさ。分かってるさ、ただの僻みだって。俺の知らない苦労があったはずだって。でも、でもさ、やっぱ羨ましいよ」
酷く息苦しそうな声だった。
「母さんは異常だ。最近は特にそう思う。何かの妄執にとりつかれてるんだ。父さんはそれに飽き飽きしてるしさ」
病院の事もあまり上手くいっていないそうだ。
お祖父さんはいまだに、株の多くを保持し、弁護士とともに病院の経営をにぎり続けている。でも、前線でもう医師はできないから、和也のお父さんが事実上は医院長。
閉鎖的なところがある田舎の私立病院で、東京からきた外の医者が馴染む苦労は、計り知れない。
おまけに、病院職員の誰もが知っているのだ。
医院長の娘が、兄の死後、何をしてどういう経緯で、夫をその地位に据えたのか。
「父さんも、最初は喜んだ。でも、数ヶ月もすれば思い知ったよ。病院の看護師も、他の医者も、事務員だって、皆が若先生は……てさ。いつまで経っても、消えないんだよ。今でさえ、医院長と呼ばれても、若先生には勝てないんだ」
もう、いない人間を引き合いに出されて、ずっとその人と比べられるのは、どんな気持ちなんだろう。
「零の父さんはさ、凄い人だったんだよ。皆、一揮さんに継いでほしかったんだ。未だに爺さんだって、認めてないから、ずっと名誉医院長なんてやってるし」
彼の口からでた、父の名前は生々しいほど、鮮烈だった。
遠い記憶が揺れる。
白衣を着ている父の背中。
それほどまでに、慕われていたと、幼い僕は知らなかった。
「零は数学得意だったよな」
「……うん。他の教科よりは、すこし」
「いや、勉強はいつも俺より少し出来た。母さんはすっごいそれが気に入らなくてさ、何度も怒られたんだぜ」
……そう、だっただろうか。あまり気にしていなかったから、覚えがなかった。
「眼中に無かったよなぁ、うちのことなんか」
僕の表情から、すぐに分かったのだろう。和也は呆れたようにそう続けた。
「一揮さんが生きててさ、病院継いでたら、おまえはきっと医者になってたんだろうなぁ。今もそんだけ頭の回転良いんだしさ」
和也の口から出る、もしもの未来は、僕が確かに辿ったかも知れない道。
でも、もう二度と選ぶことは無い道。だからこそ、言葉にされると胸に刺さった。
「和也くんは、この先どうするの?」
「あのおばさんが、俺に選ばしてくれると思うか? 今からもう詰め込み教育だよ。引かれたレールの上をいく以外、選択肢なんてない。医学部に強い有名私立の高校に受からなかったら、俺マジで刺されそうだぜ」
冗談半分と本気半分。そんな感じで自分をあざ笑うように告げる彼が痛々しかった。
「でもさ。あらがってまで、なりたい何かもないんだ。逆らうには、俺は子どもだし。せいぜい頑張るよ。別に、勉強も嫌いな訳じゃないし。……ただ、今日の零は、すげぇ格好よくて、なんつーか眩しくて、羨ましかった。それだけ」
「うん。……あの、僕ほんとに何も出来ないけど、病院の権利とかは全部もう放棄してるから。本拠地はこのまま東京のつもりだしさ。おばさんにはそう伝えといて。……気休めかもしれないけど」
「伝えとくよ。今日は会ってくれてサンキューな。……会場から追い出されるかもって実はちょっとビビってた」
「そんなこと! しないよ。……僕も、ごめん」
何に対してのごめんかは、僕自身、はっきりとはしなかった。
ただ、和也は和也で大変で、彼はこの地でもがいてて、ひょっとしたらそれは、僕が東京に行かなかったら、あんな風に目立つ形でプロにならなければ、避けられた事もあったかも知れないから。
和也は僕の言葉に、肩をすくめて、零はすぐ謝るよなぁと苦笑した。彼も別に僕を恨んではいない、それは分かった。
退室する彼を見送ろうとしたとき、ハッと何かを思い出したようだった。
「あ、そうだ。これだけは、俺の独断だけど、零は知っておいた方がいいと思って。お前の家な、ちょっと前に売れちまった。父さんはやめとけって止めたんだけど、母さんがもう見たくもないって手放したがって……」
一瞬、何の話かよく分かなかった。僕の家は東京の六月町にある。
「だったらお前に返してやれば良かったのにな。今なら維持する金も持ってそうだったし。……でも買い手がついたってきかなくて。一応知らないよりは良いかと思ってさ」
買い戻したいなら、急いだ方がいい、買い手がリフォームするかも知れないし。と、続ける彼の言葉は、スルリと僕の耳を通過して、全くとどまってくれなかった。
じゃあ、と去って行く和也に無意識に手を振りながら、やっと理解した。
家? いえ……? 誰の家? 何の家?
あぁ……そうか、僕の生まれた家、長野にあったあの家。
売られたのか。
そっか……でも、仕方ないよな。貴和子さんに管理を移譲したのは僕だし、あの時はそうする以外方法は無かった。
それに買い取ったとしてどうするんだ? 長野には、そう来るわけじゃ無いのに。そんな事が、ぐるぐると頭の中を回り始めた。頭では理解していた、だからどうだって言うんだって。
ただその瞬間に張り詰めていた何かが、確かに崩れてしまった。
その事に、僕は気づいていなかった。
なんだか寝てたのか、おきていたのかよく分からないまま朝を迎えていた。
大丈夫。だいじょうぶ。いつも通りで、対局に集中しよう。
呼吸をして、着物を身につけると少しだけ、落ち着いた気がした。
でも、なぜか何時もより時間がかかってしまって、少し早足で対局場へ急ぐ。
その途中、大盤解説の会場への入り口が見えた。
なぜ、そこが気になったのか。どうして、目にしてしまったのか、もうこれは運というか縁というかそんな類い。
見間違える筈が無い、車椅子の老人が入り口の側の陰にそっと佇んでいた。
父の遺骸に縋って泣いていた、怒号がふっと耳に浮かんだ。
僕の祖父に間違いなかった。
将棋は嫌いだったはずなのに、来てたんだ。
……なんのために?
分かっている筈なのに、それを期待するには、あまりに遅すぎる気がした。
対局場について、下座で宗谷さんを待った。
現れた彼は本当に何も変わらず、何時もと同じだった。
真っ白な、大きな鳥が、上座に舞い降りる。
いつもは、高く高く手の届かない所に居る鳥が、このときだけは僕だけをみて、目の前に座る。
……落ち着け。
大事な一戦だ。今は、この盤上だけを見ていたら良いんだから。
それでも、駒を持つ指先がビックリするくらい冷たかった。
先手は宗谷獅子王、初手角道を開ける7六歩。
僕の応手は3二飛車。角道を開けるより、飛車先の歩を突くことよりも、飛車に手をかけ、三間飛車にした。その後徐々に美濃囲いへと移行していく。
宗谷さんも最初は、あまり積極的に仕掛けにこなかった。
嵐の前に静けさのように、局面は穏やかな進行となり、お互いに玉の囲いに手をいれる。
宗谷さんは、角の上に玉を乗せ、左美濃囲いの形へと整えていった。
戦況が動いたのは昼食後だった。
正直お昼はあまり食べられなかったといって良い。というかもう何の味がするのかさっぱりだった。
宗谷さんは、角を自在に操って、攻守にバランスを取り、力を溜めていた。
そうして、じわりじわりと陣形を整えつつ、歩も生かして、僕の囲いを崩そうとする。
大きな失着はなかった筈だ。ただ、攻めきる事もできなかった。
僕はただ、彼の手を受け流し、耐え、自陣を守ることしか出来なかった。
あっという間に封じ手を迎え、一日目が終了して、部屋に戻る。
扉を閉めた途端、頭を抱えて座りこんだ。
決して悪い戦況ではない。
でも絶対に僕の方が良いのではない。これまでの獅子王戦の中では一番、悪い一日目だったと断言できる。
それが、悔しくて仕方なかった。
何度も気もそぞろになった。その度に、何度も、何度も、宗谷さんの駒音で盤上に意識を引き戻された。
今、何処にいて、何をしているのかを思い出しなよと、言われた気がした。
昨日からの出来事を思い出す。
懐かしい町並み。
よみがえる記憶。
ここに残っていた、父と母と妹の面影。
成長していた従兄弟。
そして、もう誰かの物になってしまった、生まれ育った家。
大丈夫。過ぎたことだ。
もう過去の事だ。全然気にしていない、つもりだった。
「バカか、僕は……」
気にならない訳ないだろう。それを自覚できていなかったことが、問題だ。受け入れずに、目を背けた結果がコレだった。
しばらく、そのまま座り込んでいたけど、皺にならないように慌てて着物を脱いでかける。
背中、背紋下がりの位置に、小さく一つ紋。
桐の花だった。よく知っている。
間違いない、うちの、桐山家の家紋だ。今の今まで、ここに刻まれているのに気づかなかった。震える指先でソッとなぞった。
朝、対局場にむかう途中で、チラッと見えた車椅子に乗った厳しい横顔が頭をよぎる。
コレを背に、対局していたのになんて様だ。
ははっ、と小さく声がこぼれた。
泣きたいのか笑いたいのか、自分でもよく分からなかった。
グッと唇と噛みしめる。なんだか、もうぐちゃぐちゃだった。
「……嫌だ。駄目なんだよ」
絞り出した声は、かすれていた。
このまま終わりたくない。
ここで負けても、勝率は並ぶ。まだ第7局がある。
でも、このまま負けてしまったら、僕は絶対に次は勝てない。
このまま、こんな情けない対局しか残せなかったら、僕はもうこの地に二度と自分で足を踏み入れることが出来ない。そんな気がする。
明かりもつけていない部屋の真ん中。
掛けた着物の前で拳を握りしめ、じっと立ち尽くした。