小学生に逆行した桐山くん   作:藍猫

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第五十四手 此処に在るもの

 

 ひんやりと部屋が冷え込む気配で、我に返った。

 気がついたら、随分と時間が経っていた。

 

 どうしたらいいのか、分からなかった。でも、このまま部屋にいたら駄目だと思った。

 ジーパンとシャツに着替えて、上着を掴んで、廊下に飛び出す。

 早足ギリギリくらいの、速度で会長の姿を探し続けた。

 控え室の側の部屋で、他の棋士たちと一緒にいるのを見つける。

 よかった、幸田さんも一緒だ。伝える手間が一つ減った。

 

「会長! ちょっと良いですか?」

 

「おぉ~どうした桐山。風呂には入ったのか?」

 

「いや、えっとお風呂はまだです。あの、……すいません。今から少し出てきてもいいですか?」

 

 僕の言葉に、会長は目を丸くした。

 

「今からって、外にか? そりゃあ別に時間の使い方は自由だが……」

 

 普通は明日に備えて、施設内でゆったり過ごして、早めに寝るのが通例だ。でも、今はそれでは駄目だった。

 

「絶対日付が変わる前には戻ります。お願いします」

 

「……分かった。幸田、ついてってやれ。それから、車。ホテルの人に借りれないか聞いてやるよ」

 

 何処に行きたいのか? 何をしたいのか? 理由は全く聞かれなかった。

 ただ、僕の好きなようにさせてくれて、少しでも動きやすいように考えてくれた。

 車はすぐに借りられた。ホテルの人が運転しようかとも、申し出てくれたけれど、断って幸田さんに頼んだ。

 これから行く場所は、幸田さんがよく知っている所だから。

 

 行ってどうしたいのかは、分からない。でも行かないと、絶対に後悔する……そんな気がしたから。

 伝えた住所に幸田さんは一瞬固まったけれど、なにも言わずに車を走らせた。

 僕はただじっと、窓から見える景色を見ていた。

 

 近づく度に、懐かしい場所が沢山あった。

 母さんと買い物に出かけた商店街。

 僕が通っていた小学校。

 父さんが務めていた桐山医院。

 ちひろと遊んだ公園。

 

 あふれてくるのは大切な想い出だった。どうして、忘れることができようか。

 ずっとずっと、仕舞い込んでいた。

 この地を離れて想い出すには、この記憶はあまりに優しすぎたから。

 

「着いたよ、零くん。だけど、中にはいるには叔母さんに鍵をもらわないといけないんじゃないかな」

 

「……もう。叔母さんにも此処の扉は開けられませんよ。誰か別の人の手に渡ってしまいました」

 

 幸田さんは驚愕して何か言おうとしたけれど、僕はただ静かに首を振った。

 中に入りたいわけじゃなかった。ただ、確認をしたかった。

 既に外観が変わってしまっている可能性もあったけど、建て直す事になって更地にでもなっているかと思ったけれど、変わらずにそこにあった。

 門構えも、奥にみえる家も、小さな庭も全部そのままだった。

 いっそ、更地になっていた方が諦めがついたかもしれない。

 あまりに当時のままだった。

 

「桐山七段……!?」

 

 道の端にとめた車のそばで、家を眺めていた僕に声がかかる。

 

「どうしたんですか、今は獅子王戦の最中では?」

 

「田村八段じゃないですか! お元気でしたか?」

 

「おぉ……幸田八段まで。おかげさまで元気にやっておりますよ。引退してから、時間を少々もて余しております」

 

 声をかけてきた初老の男性は、幸田さんの知り合いのようだった。

 八段……引退。この人もプロ棋士なのだろうか。田村八段、名前はどこかの棋譜でみた。顔はあまり見覚えが無い。

 

「零くん、こちら田村八段だ。きみが奨励会に入った頃はもうフリークラスにおられたし、プロ入りする頃に引退されたから、あまり面識がないだろう」

 

「こんばんは、桐山零です」

 

「おぉ、会えて光栄ですよ。同じ長野出身の棋士として、あなたの活躍は本当に嬉しかった。して、うちの前で何をやっとられたんです?」

 

「この家……田村八段が買われたんですか!?」

 

「えぇ、半年ほど前でしたかな。しばらくは引退後も東京におったのですが、長野に帰ってきたくなりまして。今は妻とすんどります」

 

「それは……なんと、不思議なご縁だ」

 

「この家は僕がむかし、長野に居た頃に住んでいた家だったんです」

 

 田村さんは僕の言葉に、目を丸くした後、れいというのは桐山七段のことだったのですね。と何故か納得した様子だった。

 そして、少し話をしましょうと、家の中に招き入れてくれた。

 中に入って、つくづく思った。

 当時のままだった、ほとんど手が加えられていない。痛んだところに修復がかけられているくらいだろう。

 通された居間は、僕と幸田さんがよく将棋を指した部屋だった。

 

「……そうでしたか、私が会ったのは君の叔母さんだったんだね」

 

 田村さんは、一通りの事情を聞くとそう呟いた。

 

「買い戻したいとかは思ってないんです。ただ、もう一度だけ見ておきたくて。いい人に買って頂いたようですし、良かったです」

 

「リフォームも随分薦められたんだが、私も妻もあまりこの家をいじりたく無くてね」

 

 そうだ、君も覚えているだろう。田村さんはそう続けると、僕たちを家の中央に位置していた大きな柱の前へと案内した。

 

「この柱を見たときなぁ、妻がリフォームはやめようと言ったんだよ。私たちにも子どもがいる。誰かがこの家で育って、想い出が息づいている。消してしまうにはあまりに忍びなかった」

 

 覚えている。

 はっきりと思い出せる。

 何本も小さく、線が沢山ひいてあった、僕のお腹の位置の高さまで。

 小さなその線の横には、れい何歳。ちひろ何歳。と、細いペンで書かれている。

 薄くなり、かすれていても、その文字は残っていた。母の文字か、父の文字か、どちらのものかもハッキリ分かった。

 ちひろの線は、僕の腰にだって届かない高さのまま止まって、もう二度と刻む事は出来ない。

 ふと、すこし目線をあげた先に、僕の頭一つ分くらい上。一本だけ線があって横にお父さん、と書かれていた。

 

 あぁ……そうか。いつか、追い抜くんだって、一回だけお父さんの高さにも印をつけたっけ。

 僕は、こんなにも貴方の視点に近くなっていたのか。

 柱に手を触れて、何分、そうやっていただろうか。

 引きつるような声が、ノドの奥から漏れた。

 

 いつの間にか、幸田さんも田村さんもいなくなっていた。

 だからもう良いやと、その手を握りしめ、柱に縋るように、声を上げて泣いた。

 理解できないまま、泣くことも出来ずに長野を離れた前世、落ち着いた振りを装って少しだけ泣いたけれど、淡々と荷物を整理した5年前。

 泣いても仕方ないから諦めて、悲しいから考えないようにして、頭の中から全部追い出した。

 

 記憶の限り、初めての事だった。

 家中に届くのではないかと思うくらいの声で、むしろ空のその先まで届いてしまえと思った。

 この体中に渦巻く、行き場の無い想いが洗い流されていく。

 僕の生まれた家は、その全てを受け止めてくれた。

 

 

 

 

 おそらく数分だったけど、つき物が取れたような気がした。

 目元は赤いし、服の袖はぐちゃぐちゃだし、酷い物だったけど、もうそれが可笑しいくらいだった。

 先ほど田村さんと話していた部屋をのぞく。

 幸田さんと田村さんはお茶を飲みつつ談笑していた。絶対に声は聞こえていたけど、さっきの事は何も言われなかった。

 

「桐山七段、幸田さんにもお話したのだが、落ち着いてからで良い、この家の名義は君に移そうと思う」

 

 田村さんは穏やかにそう切り出した。

 

「え? でも、買われたんですよね? そんな申し訳無いですよ」

 

「元々、妻と私の静かな余生のために買ったんだ、その後しかるべき人の所にもどるように先に手続きをしておきたい」

 死んだ後では、親戚たちが何か言わないとも限らない。そうならないために、先にもう僕に移しておきたいと。

 

「何、持ち主の名義など、住むものの心持ち一つでなにも影響はせん。その代わり家賃は勘弁してくれ」

 

「そんな、頂けませんよ。維持費だってかかるのに、僕ばかりが得してしまう」

 

 人が住まない家というのは不思議なもので瞬く間に、痛む。この家も一応、管理はされていたが、それでもこの数年でだいぶ古くなったところもあるだろう。

 水回りや、屋根の塗装など、直したところもあるはずだった。

 

「何、悪いことばかりでは無い。私は長野で将棋を教えたいと思っていてね。小さな教室を開こうかと。この部屋を使わせて貰っても良いかい? 桐山七段の生家だなんて、御利益ありそうじゃないか」

 

 茶目っ気たっぷりにそう言ってくれた。

 それは……なんて幸せな響きなのだろう。

 買い取って取り戻したところで、長野で寂しく佇む家になるならそれは意味がないのではと思っていた。

 でも、こうして将棋が好きな人に住んで貰って、そんな風に使って貰えるならこんな嬉しいこと無い。

 父さんに僕が将棋の楽しさを教えてもらった部屋で、新たに将棋の楽しさを知る子がうまれるのかもしれない。

 

「ありがとう、ございます。本当に、有り難うございます」

 

 何度も、何度も、お礼を言った。

 田村さんは、仕事で近くに寄ったときは、いつでも泊まりにきたら良いと言ってくれた。

 ここは君の長野の家だと。

 

 渡された合い鍵を握りしめる。

 大切な、大切な宝物だ。

 

 帰りの車の中で、幸田さんは後で、菅原に頼んでおくからと申し出てくれた。

 

「それからな、零くんが良かったらだが、第6局が終わったら東京に帰る前に、一揮に顔を見せにいかないか?」

 

「……はい。是非お願いします。本当は今日、家はきっと外からしか見れないだろうから、その後行こうかと思ってたんです。でも、今は終わった後に、ゆっくり会いに行きたいです」

 

 会って言いたいことがあったわけじゃない。ただ一度行っておきたかった。

 でも、もう大丈夫だ。

 僕は手のひらの中にある、鍵の感触を確かめた。

 長野にある家族の遺灰があるお墓、今世ではまだ一度も参った事がなかった。

 薄情な事だ。何度だって来ようと思えば機会はあったのになぁ。

 

「零くん、この対局で着ている着物のことなんだが……」

 

 言おうかどうか迷っている風だった幸田さんに僕は続ける。

 

「あ、大丈夫です。気づきました。お祖父さん今日観に来てくれてたみたいですし」

 

「まさか! 一揮が聞いたら、ひっくり返るなぁ。それくらい将棋を避けてらしたのに」

 

「でも、今日の内容はいまいちでしたから。……明日も来てくれたらいいなぁと思います」

 

 今はそう思える。幸田さんは僕の言葉に、何度もそうか、そうかとうなずいてくれた。

 そうして、僕は夜の10時頃には旅館に戻った。

 戻った僕をみて会長は、明日への準備は出来たみたいだな、と笑ってくれた。

 そして、じゃあさっさと寝るんだと僕を部屋へと促す。

 今日はちゃんとよく眠れるような気がした。

 

 

 

 

 

 


 

 

 翌朝、獅子王戦第6局、二日目が始まる。

 局面は中盤だ……ここからまだ、巻き返すことだって出来る。

 

 宗谷さんはまず6六銀と銀を強く前に出し、僕の角を払いのけ。

 それに対して、80手目、僕は、同歩としてその銀をもらう。

 81手目、さきほど取った角を、躊躇無く僕の陣営へと打ち込み4三角とする、一気に開戦か? と身構えたものの、宗谷さんは焦らずジッと自陣の再整備を施した。

 僕はそこで大きく、息を吐き出す。

 行こう、先にしかけられると今劣勢の僕にとって、良いことは無い。数手かけ左側から、桂馬を二度ほど跳躍させ、好所に飛び出し相手の角を取りに掛かった。

 それに対して、宗谷さんは89手目6四角。角を逃がすこと無く、強気に僕の金を取りに来て強襲。

 盤上で激しく駒がぶつかり合う。

 角に続いて、飛車も切り、僕の玉を守る2枚の金を剥がしにきた。

 この時点で、宗谷さん金2枚、歩5枚。僕の持ち駒は、角、銀、歩が一枚ずつ。

 両者とも持ち駒が多い、ここから大きく動きはじめる。

 守りに入る気はなかった。桂馬の3度目の跳躍から、飛車を投入しいち早く、寄せにいく。

 それでも、宗谷さんはまだ守りは万全とみたのだろう、99手目6三金。攻勢を示す強い一手だ。

 

 徐々に局面が落ち着き、終盤は7から9筋にかけての苛烈な玉頭戦になる。

 形勢が二転三転する中で、互いに時間が10分を切った。正念場の終盤だ。

 

 112手目、6九龍。徐々に徐々に、ペースを上げつつ、確実に宗谷さんの玉に迫っている筈だった。

 でも、7四桂。あえて、僕が指した龍は取らない、軽く羽ばたいたような軽快で、痛烈な一手だった。

 絶妙な6一の絶妙な位置にいた銀との連携で、あっというまに僕の玉が追い込まれる。

 

「詰めろ」だった。

 

 このまま、何も出来なければ9手詰めで僕の負けだ。

 

 どうする、どうする、どうする。

 持ち時間はもう無かった。

 でも諦めていなかった。

 一瞬で数千手をすっとばしたような感覚。

 

 パッと銀が光った気がした。

 

 気がつけば、122手目6六銀。

 銀をタダ捨てして先手の6六桂の打ち場をなくし詰み筋を消す。

「詰めろ逃れの詰めろ」起死回生の一手だった。

 

 はぁぁっと大きく息を吐き出す。呼吸をすることすら忘れていた。それぐらい集中していた。

 難を逃れたものの、宗谷さんの玉も硬く、最終盤の激戦は、どちらとも決めきれずもつれにもつれて、夜の22時をまわったところで、同じ局面を4回繰り返した。

 

 そう、千日手が成立したのだ。

 

 将棋において、駒の配置、両対局者の持ち駒の種類や数、手番が全く同じ状態が1局中に4回現れると千日手となる。

 千日手となった場合、公式戦では30分の休憩後、先手と後手を入れ替えて、最初から指し直しだ。

 千日手の成立が宣言されたとき、思わず笑いをかみ殺した。

 もう一度指せるのかと。一日目のようなふがいない立ち上がりにはしない。

 指し直し前の両対局者の各残り時間がそのまま持時間となり、片方または両方の対局者の持時間が60分に満たない場合は、持時間が少ない方の持時間が60分になるように、両対局者に同じ持時間を加えることになる。

 宗谷さんも僕もほぼ時間を使いきっていたので、おおよそお互いに持ち時間60分の指し直し対局だ。

 前の時も数度しかなかったが、その度に、酷く消耗した指し直し。

 ましてや、タイトル戦の長期戦の後だ。僅かな30分の時間を有効に使わねばならなかった。

 

 急いで部屋に戻り、体力を回復させるために少しだけ眠ることにした。

 思考が鈍るから、コレをしたくないという人も勿論いる。

 でも僕は迷わず、仮眠をとることにした。

 なんとなく、家の鍵をにぎりしめ布団のなかでうつらうつらした僕は、その僅かな時間で、夢を見た。

 

 

 

 

 いつかの、この旅館での光景だ。

 妹のちひろが中庭の鹿威しをよく見たくて、母の手をひっぱり庭に降りていく。

 実際にあったことか、僕の勝手な想像かは分からないけれど、その光景は眩しくて心地よかった。

 母は少し暑そうに、鞄から扇子を取り出していた。

 あぁ……あの扇子。

 なんで忘れていたんだろう。ちゃんと持ってきていたのに、対局に連れて行かなかった。やっぱりどこか余裕がなかったなぁと思う。

 

「大きくなったな、零」

 

 ポンッと肩に手が置かれ、そう声がかけられた。

 振り返ると、父が、穏やかに微笑んでいた。

 

「……うん。身長だいぶのびたでしょ? 父さんにだって追いつくよ」

 

「ほんとになぁ。こんなに視線近くなっちまって」

 

 言いたいことは、いっぱいあったはずなのに、言葉になるのは簡単なそんな会話だけ。

 

「プロ棋士になったんだな。いやーここまで強くなるなんてあの時は思いもしなかった」

 

「もう父さんには負けないよ。あ、そうだ。藤澤師匠に師事してるんだ」

 

「あぁ、驚いたけど嬉しかったよ。出来た方だ、人間としても、棋士としても。しっかり学ぶと良い」

 

 父は、これまでの僕の全てを知っているようだった。不思議なことにそのことに違和感はない。

 

「零、将棋は好きかい?」

 

 生前の父にも聞かれたこの質問、かつての僕はなんと答えただろうか。

 うん。とただ曖昧に頷いただけのような気がする。

 実際幼き日の自分はそれほど、将棋が好きなわけじゃなかった。

 将棋を通して、父が僕だけをみてくれる事が好きだったのだ。

 ……でも今は違う。

 

「うん。好きだよ。とっても好きだ。僕の大切な生き方そのものなんだ」

 

 自信を持ってそう告げて、僕は笑った。

 

「そうか……良かった、本当に。指しなさい。好きなように、自由に、お前らしく」

 

 父はそう力強く頷いて僕の胸を、三回叩いた。

 

 目ざめは、スッキリとしていて、先ほどの疲労感が嘘のようだった。

 残酷なほど優しい、そんな夢だった。

 スーッと頬をつたって、流れた涙を拭った。

 じんわりと暖かい気がする胸に手を当ててみる。

 

 僕は思い出した。

 最初に、僕に将棋を教えてくれたのは父だったことを。

 そして、僕の棋風の中に、確かに父の指し筋が息づいていることを感じた。

 

 

 


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