いつからだろうか、こんなにも君との対局を心待ちにするようになったのは。
初めて会った炎の三番勝負の時から、君の印象は鮮烈だった。
おそらく長い将棋人生で初めてだった。初めましての対局で、年下の子に負けた、と思わされたのは。
あの対局、僕はただ興味のそそられるままに指し、そして、君は、勝利のために全力を尽くした。盤上を支配され、主導権を握れないまま終わるなんて、同輩たちとの対局でもそうは無い。
年齢など関係無いのだと、いつも思っていたはずなのに、実感させられる側にまわったのも初めてだった。
僕にとって将棋は、言語よりも簡単な対話の手段だった。
その将棋で、対等に、話し合える存在が増えたことが嬉しかったのだと思う。
だから、気長に待っていようと思ってたんだ。
でも、君は予想に反して、あっというまに目の前に座ってみせた。
プロ入り後、ただの一度も負けずに君は上がってきた。少ない機会をものにして、公式戦での対局を勝ち取ったのだ。
連勝記録を抜かれたことはニュースになっていたが、そんなことは気にもならなかった。記録はいつか破られる。
それよりも、その無敗の君に、初めての黒星を与える役目を貰えたとさえ思った。
序盤の主導権は桐山くんにとられたものの、そう簡単に運ばせるつもりはさらさらなかった。
中盤以降、持ち時間が少なくなったこともあり、早指し気味になって、君に失着がみられた。あぁ……もったいないな、と少し思ったけれど、そこから一気に畳ませてもらった。
「楽しかったよ。でも、今度はもっと持ち時間が長い対局でもやってみたい」
終わったばかりで、そんな感想をつぶやくと、
「僕も……そう思います。終わったばっかりなのに、またすぐ次こそはって。あぁ……でも悔しいです。終盤に差し掛かった頃、失着したのは僕です」
桐山くんは、指先を触りながら、そう答えた。
「分かるよ。そういうものだから。君はやっぱり僕と似てるね」
果てしない経験の蓄積の結果か、生来の勘の良さか、感覚が思考を上回ることを、すでにこの子も知っているのかと、感慨深かった。
ゆっくりしたかった感想戦は、次の対局のこともあり早々と切り上げることになる。
少し疲れた様子で、失着に気落ちしているようにみえたから、思わず声をかけてしまった。
「タイトル戦の上座で、君が奪いにくるのを待ってるよ」
聞こえなくても良いくらいの小さい声だったのだけれど、君はしっかりと僕の目をみて答えた。
「必ず、その場に行ってみせます」
闘志が宿る、良い目をしていた。
朝日杯で君と指した日。あの日たぶん僕は、君を後輩のプロ棋士としてではなく、好敵手としてみるようになった。
そこから、わずかに半年経たず、君は約束を果たしにきた。
最年少挑戦者の誕生。
ざわめく将棋界のことなど、いざしらず僕は単純に嬉しかった。七番勝負を君とできることに心を躍らせていた。
会長は口うるさく、僕にこれまで以上にタイトルホルダーとして、しっかりしてくれと、後輩のフォローを頼むぞと言ってきた。
初めてのタイトル戦の時、僕も沢山失敗をしたし、将棋を指すだけなのに、こんなことに何の意味があるだろうと疑問に思いながら、様々な雑事をこなした。
まだ中学生のはずの桐山くんは、想像よりずっとしっかりしていた。
一人前に挨拶をし、会話をこなし、そつなくこなしていた。大人となんら変わりなく感じられた。
だから、僕はほんの少しだけ、第一局で驚いてしまったのだ。
あぁ、この子はまだ子どもだったんだ。
一日目の対局内容は素晴らしかった、棋力においてなんら遜色ないことを示していた。それゆえに二日目の急激な手の粗さが目立った。集中力が切れていることは明らかだった。
思えば、まだ中学生だったのだ。
当時の自分でさえ、三段リーグを戦っていたころだ。
二日制のタイトル戦、疲れないわけがない。残念に思ったけれど、仕方ないと分かっていた。
でも、君はそんな評価をものともせず、二局目には新しい手で挑んで勝ってみせて、五局目には長時間の対局さえも、ものにしてみせた。
久しぶりに、楽しいタイトル戦だった。
第六局も場合によっては僕は負けていただろう。そして、もし第七局が出来たなら、それもきっと面白い内容になったと思える。
ストレートで勝つタイトル戦が増えていた。そんな中で、もう少しでイーブンまで戻されるところだったのだ。
疲れていたけれど、僕はその日まともに寝られなかった。頭の中はその日の対局でいっぱいで、もし彼がこう指していたらと、無数の分岐を考えていた。
翌日、体調を崩して寝込んでいると知って、やっぱりなと思ってしまったのは内緒だ。桐山くんが、それだけ全力で挑んでいたのは分かっていた。そして身体はギリギリでついてきていたのだろう。
なんとなくお見舞いに行った先では、島田が世話を焼いていた。すこし外したいとのことだったので、代わりに様子をみる。
眠っている様子をみていると、昨日まで対局をしていた相手と同じ人物にはとても思えなかった。まだ、幼く、未熟だ。それなのに、将棋は強い。
昨日の棋譜をながめながら、改めてそう思った。
目覚めた桐山くんは、僕がいることに少し、驚いたようだった。
「それ! 昨日の第六局の棋譜ですか?」
けれど、すぐ僕が持っているのが、昨日の棋譜だと気づいたらしい。
「うん。ずっと見てるんだ。どれだけ考えても、次から次に別の手が浮かぶ。本当にいい将棋だった。僕が勝てたのは運の味方もあったね」
互いに最高のパフォーマンスを発揮しなければ、指せない対局がある。これは、間違いなくそんな対局だった。
「嬉しいです。……他の誰にそう言って貰うよりも、一番うれしい」
まだ、相変わらず覇気が無いけれど、桐山くんは少しは嬉しそうだった。
その様子をみて、言っておかなければと思う。
「昨日の対局の駒音が、僕の耳から消える前に、またちゃんと前に座りに来て」
「え……でも、他のタイトルは……」
「新人戦の記念対局でもいい。MHKだってまだ勝ち残ってる。待ってるから」
他人の対局の状況を把握してるなんて、今までは無かったことだった。
でも、昨日の対局が終わって、次はいつ公式戦で当たれるのだろうかと、調べてしまった。
負けたばかりの相手に言う言葉じゃないって、分かっている。
それでも、伝えておくべきだと思った。
日々の棋戦を重ねていく、変わりのない日々。けれど、それが何より生きていると感じられて好きだった。
そうするうちに、僕たちは似ているなんて言われるようになった。
桐山くんが僕が持っていた最年少記録を悉く塗りかえている事も要因の一つだっただろう。将棋が強いという点において、僕たちはたしかに似ていたのかもしれない。
でも、他のところはちっとも似てないと思う。
会長はよく、宗谷が当時これくらいしっかりしてくれていたらと愚痴をこぼしているし、僕も桐山くんは人としてなかなかに自立が出来ていると思う。
何度も家に将棋を指しに行かせてもらった。
部屋はいつも、それなりに片付いていて、自炊もして、師匠から託された猫の世話もしていた。僕が泊まった時には、僕の予定も把握してくれていたし。
何もかもぼんやりと通り過ぎていく、僕の日常と違って、彼はたぶん普通にも生きていける人だと思う。
それを羨ましく思った事はない。ただ、その普通にも生きられるはずの彼が、将棋を選び、常人では考えられない熱量を注いでくれていれば、それで構わなかった。
その年の暮れの事だった。
東京へ行く用事があった僕は、宿のついでに将棋を指したくて、また桐山くんの家にお邪魔していた。
なぜかついてきた土橋くんと、隈倉さん。そして、勝手にやってきた島田と後藤さんがそろい、なかなか面白いメンバーでの年越しになった。
一足先に、眠ってしまった桐山くんを横目に、話すみんなの言葉をなんとなく聞いていた。
「まぁ、プロ棋士の中で、一番桐山くんに勝ち越してるのは、僕だけどね」
思わず、口を挟んでしまったら、お酒が入った面々が口々に言い募る。
「おまえはあの七番勝負で、対局数を稼いだからな」
「早くA級にもあがってくればいいのにね。総当たり戦きっと楽しいよ」
A級順位戦の総当たり、僕が名人をとってしばらくになるから、もう数年は参加していない。今の順位戦はとても面白いだろう。
「桐山くんとのタイトル戦は良かったよ。特に後半戦。……はやく、またあんな対局ができたらいいな」
暑かった夏はすっかり遠ざかり、もう冬になってしまった。
「あのタイトル戦から、宗谷の棋風ちょっと変わったよな?」
「そうだね。受け身が多かったのに、ちょっと好戦的になったし、目新しい手が増えた」
「そう? あんまり、意識してなかったけど。でも、刺激を受けたのは確かだから。色々やってみたくなったのかも」
皆が言うならそうなのだろう。今までだって停滞していたつもりは無いけれど、最近のモチベーションは随分変わった。
「刺激ね……棋匠戦にやたらと気合いが入ったのもそのせいか?」
「うーん、挑戦者側も久々に体験したくなったからかな」
現在、僕が持っていない唯一のタイトルだ。挑戦者になりたければ、勝ち上がるしかない。
「後は……なんとなく欲しくなったんだ。七つ目のタイトルも。そうしたら、あの子がどのタイトル戦で挑戦権を取ったとしても、目の前にいるのは僕でしょ」
口にして、自分でもはじめて自覚した。
そうか、ぼくはあの子とまた、タイトル戦がしたいのだ。ただの公式対局では満足できない。
「かー! 俺らは眼中にないってか!! おまえ、今に見てろよ」
「くっそ、余裕こいてるうちに、ぜってぇ引きずり降ろしてやる」
「別に、隈倉でもいいよ。後藤さんとも土橋くんともタイトル戦をやるのは楽しいし。島田もはやく上がってきてね」
なんだか、やる気を出してくれたようなので、隈倉さんと後藤さんにも、発破をかけておく。
「宗谷くん、今いろいろと楽しいんじゃない?」
嬉しそうに笑いながら、土橋くんにそう尋ねられた。
「……うん。 そうかも。 これはたぶん楽しいって感情だと思う」
何かを心待ちにして、わくわくするなんてそんな気持ち、もう随分前に忘れてたと思ったのに。
年が明けて、僕は棋匠を柳原さんから、奪取した。
これで、二度目の七冠となる。
今年は、どんな一年になるだろうか。これから6つあるタイトル戦のどれかで、もう一度、なんてそんな風に思った。
いつか、なんてそんな風に思っていた僕の予想を上まわり、その冬のMHK杯の決勝で桐山くんと再戦となる。
全棋士参加の棋戦であり、撮影もされる特殊な棋戦。
わずか13歳で、彼はそのタイトルを取りに来た。
そして、忘れもしない5二銀。
優勢だった戦況を一気にひっくりかえされた、その一手を、僕は超えることが出来ずに負けた。
桐山くんは六段から七段になった。プロになってまだ二年、彼は着実に上ってきていて、そしてその肩書きでも僕に並ぼうとしつつあった。
1月から3月の王将戦は土橋くんと、4月から6月にあった名人戦は隈倉さんと、6月から7月の聖竜戦は島田と、7月から9月にかけての棋神戦は後藤さんと対局をした。
あわやという対局もあったけれど、わずかの差で勝り、ストレートで防衛してきた。
不思議なもので、あの年末に、桐山くんの部屋で話をしたメンバーとそれぞれ対局をしたことになる。
タイトル戦を一つ終えるごとに、自分の段階が一つまた一つと上がっていくような気持ちになれた。
今年僕は、桐山くんに負けたMHK杯の対局以外、公式の対局では負けていない。あとは、彼が来てくれたら最高なのになって思った。
9月の上旬、土橋くんとの三番勝負を彼が戦っていた。再び上がってきた。それも獅子王戦という最高の舞台だ。
どちらも一勝一敗、次の対局で僕の挑戦者が決まるというその対局。
戦局はどちらが良いとも言えない状況だった。夕食後、たまたま桐山くんとすれ違う。
本来対局者に声をかけたりなどしない。
だから、これは独り言だ。聞こえても聞こえなくても構わない。小さな声で囁く。
「土橋くんと指すのも楽しいけど、僕は次は君がいいな」
だって、土橋くんとは、もう今年タイトル戦はしたからね。
桐山くんに、聞こえていたかは分からない。
彼は勝った。最年少の獅子王挑戦者がやってくる。
正直に言おう。
僕はわくわくしていた。それはもう楽しみにしていた。
第一局目、桐山くんにとっての初めての海外での対局になる。
僕は土橋くんと違って移動の時間が大嫌いだから、海外の対局はあまり好きではない。日本の方が落ち着くし。
彼はどうだろう。時差にやられてはしないだろうか。慣れない気候は体調に影響してはいないだろうか。
そんな心配はすべて杞憂だった。
僕はもちろん勝つつもりだった。負けるつもりで指すことなど一度もない。
本気だった、叩き潰しに行くくらいのつもりだった。
それなのに、二日目。特段大きなミスをしたわけではない。それでも、戦局は彼に傾きはじめた。
封じ手をしていたのは僕だった。悪くない手だったと思う。けれど、想定の範囲内だったのだろう。盤上を支配したのは彼だった。
そして、僕は負けるのだ。
今年のタイトル戦で初めて一つ落としたことになる。
会場の誰もが思っただろう。
桐山零はすでに、僕と比肩する実力を持つと。
このまま、負けてしまっては面白くない。第二局は僕がとった。
そのまま、勝てるとは微塵も思わなかった。予想に違わず、僕らはそれから、お互いに取って取られて。そうやってこの番勝負を進めてきた。
この第六局も本当に楽しみにしていたのだ。
対局の旅館が長野になった事に、僕は何も思わなかった。桐山くんもそうだと思っていた。
すこし異変を感じたのは前夜祭の時、君はすでに人気者だったけれど、今回はその予想をはるかに上回っていた。
会長が少し不安そうだった理由がようやくわかった。僕が京都で対局するときもこんな感じだけれど、それよりもさらに熱の密度が凄かった。
彼が初めて、故郷でする対局だったからかもしれない。
でも、君なら、今までのようにそんな事は歯牙にもかけず、対局に集中してくると思っていた。
一日目、それは裏切られた。
明確なミスがあったわけではない。けれど、このシリーズ内の対局からは、明らかに一手への集中力が違った。
あぁ、どうして。
どうして、人は、煩わされてしまうのだろうか。
憤りを感じるというよりは、ただ、残念だった。
このまま終わるのだろうか。
僕がかりに勝ったとしたら、まだ第七局がある。
でも、なんだかなぁ。やっぱり要らないな、と思った。将棋に影響がでるなら、他のすべてが邪魔に思えた。
煮え切らない気持ちで、その日は終わった。
二日目、対面にすわる桐山くんは、すっきりとした表情だった。
数手指しあって分かった。何かにケリがついたようだった。これは面白くなりそうだと思う。
詰めろを先にかけたのは僕だった。勝ったと確信さえしていた。
でも122手目、6六銀。
それは、息を飲むほど、美しかった。
死んだはずの盤面が、一瞬で息を吹き返した。
千日手が成立し、この対局は流れてしまった。
23時前に始まった、指し直し対局はもうすぐ深夜2時をまわろうとしている。
対局中に疲労を感じることは少ないのだけれど、さすがに僕も思考の鈍りを感じていた。
指し直しは、先手後手を入れ替えるから、桐山くんが先手で対局は開始した。
彼の選択した戦法は矢倉。
僕もそれに応えた、長時間の対局後すぐの持ち時間1時間しかない指し直しでは、定石がある程度整備されている戦法がやりやすい。
桐山くんは次第に、4七銀3七桂型と言われる現代矢倉の王道へと、構えを整えていった。
本当に、興味深いよ君は。さっきみたいな誰も思いつかない手を指したかと思えば、手堅く無難だからこそ強い、こんな形も操ってみせる。
あぁ本当に楽しかったなぁ、このシリーズ。終わった5局も全て面白かった。
あの、6六銀。あれは素晴らしかったなぁ。全く僕の読みに入っていなくて意表を突かれた。
もう少し、時間がかかると思っていた。
それでも良いから待っていたら、そのうち上がってくる子だとは知っていた。
初めて指してから2年と少しか、想像よりもずっと早かったよ。
ありがとう、ここまで来てくれて。
元々持っていなかったのか、途中で捨ててしまったのか分からないけれど、将棋以外は本当にどうでもいい僕と違い、君の周りは色々と煩わしそうだった。
この第6局だってそうだ。昨日指した時は、悪くはなかったが、らしくも無かった。
だから少し、残念だなと思うと同時に、やはり煩わしいことは切り捨てるに限るなんて思った。
でも、少し違うのかもしれない。
その全部を抱えてたまま、いや抱えているからこそ、今日の君は強かった気がする。
そんな形もあるんだね。知らなかったよ。
どうして全てのタイトルを手に入れてまで、君を待ちたかったのか、今ようやく分かった。
僕は、確かめたかったんだ。
捨ててきた僕と、大事に抱えてきた君と。生き方が真逆の二人が、これほど美しい対局を作る事が出来る。
どちらの生き方だって間違っていない。
この将棋がその証明だ。
神の子と称されているのは知っている。
僕は別に将棋の神様なんてものはいないと思っている。
でも、もし、そんな存在がいるのなら、二つだけ感謝しても良い。
僕を将棋と出会わせてくれた事、それからこの子を僕の前に座る相手として、連れてきてくれた事を。
……勿体ないなぁ。終わってしまう。こんなに楽しかったのに。
まだまだ、もっと指していたかった。もっともっと面白くなるんじゃないかってそう思う。
あぁ、そうか。忘れていただけで、僕にだってあったのかもしれない。
だって今僕は悔しいんだ。
久しぶりだよ、こんな気持ち。
君が僕に思いださせたんだ。
来期の獅子王戦、今度は挑戦者になって戻ってくるのも悪くないな。
何故だかそれは、上座で待ち続けるより楽しそうだと、心が躍った。
147手目、桐山くんの8四角にて僕は投了した。
この瞬間、将棋界に新たな獅子王が誕生した。