「負けました」
宗谷さんの声は静かでもよく通る声だった。
「ありがとう……ございました」
終わった。勝った。僕が!
その瞬間、こみ上げた気持ちを表す言葉を僕は持ち得てはいない。
たまらなかった、顔をしばらく上げることが出来なかった。
伏せた視線の先で、着物と扇子が目に入った。ありがとう、おかげで勝てたよ、と心の中で呟いて、一滴こぼれた涙を拭った。
深夜2時をまわったにもかかわらず、まだ報道陣は残っていた。
僕も、もうほんと限界のギリギリだったけれど、不思議とこういう時、頭は冴え渡っていて眠くは無い。
「桐山七段、いや、新獅子王ですね。おめでとうございます。素晴らしい対局でした」
「はい。……はいっ! 有り難うございます。本当にまだ実感はわきません」
実は夢でした。という方が現実味を感じるくらいだ。
「プロになり3年目の年……まだ千日手の経験はなかった筈です。その上タイトルが掛かった大事な一戦。どういう心持ちで望まれたのですか?」
「指し直しの前に、……夢をみました」
「夢ですか?」
自然と口から出てしまった。
あっ……言ってしまったものは仕方ない、記者の困惑を余所に続ける。
「父と母と妹が出てくる夢です。とても幸せな夢でした。……なので、その気持ちを抱えたまま、僕らしく指そうとそう思いました」
父の言葉が対局中ずっと胸のうちにあった。
夢の中で三回叩かれた胸のうちがずっと熱かった。あれは3人分のエールだった。おかげで心地よく指せた気がする。
「長野でのタイトル戦、色々な思いもあったかと思います。今の一番の気持ちを教えてください」
「将棋が好きです。もうただ、それだけで良いんだって、ようやく分かった気がします」
随分、回り道をした。
この先も何度も悩むし、ひょっとしたら揺らぐこともあるかもしれない。
でも、今の気持ちを大切にしたいと思った。
「では、宗谷前獅子王。本シリーズを振り返っていかがでしたか?」
「全体的に、非常にハイレベルだったと思います。一局たりとも、不格好な将棋はありませんでした。そのことに関して、私はとても満足しています」
宗谷さんは淡々と応えた。その表情は落ち着いていて、本当に満足しているみたいだった。
「本局は終盤一度、宗谷前獅子王が詰めろをかける場面をありましたが、桐山獅子王の見事な切り返しがありましたね、それに関してはいかがでしょう?」
「あれは桐山獅子王の6六銀が、見事だったとしか言いようがないですね。あの手について考えたいことも山ほどあります。本当に素晴らしい一手でした。あまりに良すぎたので、指し直しの間も気になってしまって、それが私の敗因ですね」
「桐山新獅子王の印象について、教えてください」
「印象というか、一つだけ。取られて悔しかったから、来年は僕が取りに行きます。なので、上座でお待ち頂ければ」
「え? あ、はい。楽しみにしています?」
こちらに直接、宗谷さんが笑顔でそう言ってくるものだから、僕は意表を突かれてそんな返ししか出来なかった。
対局室にいた関係者からは、いくつか耐えきれなかったのだろう笑い声が漏れた。
感想戦を行いたかったところだが、僕も疲弊していたし、時間も時間だったので、後日ということで、そこでお開きとなった。
明日というか、もう今日だけれど勝った僕にはそれなりにこなす仕事もある。さすがに今日は眠らないとまずいだろう。
激闘から数時間後、諸々の仕事を終えたその日のお昼過ぎ、僅かな休憩時間を使い、僕は郊外の墓地を訪れた。
墓前で手を合わせ、対局の報告と、遅くなってごめんと一言。
カラカラと車輪が回る音が聞こえて視線をそちらに向ける。
車椅子に乗った祖父の姿がそこにあった。付き人に車いすを押してもらいながら、墓参りに来たようだ。
「来ておるかと、少し期待しておった。一揮に報告に来たのか?」
「はい」
「そうか……では、ワシが来る必要はなかったな」
祖父はそう言いつつも、持ってきた花を墓前に供えた。
近くにくると、記憶の中の姿との違いが際立つ。細く小さく、年を重ねたことが感じられた。
しばしの間、沈黙が流れる。
「今回の対局で着ておった着物なんだが……」
それを破ったのは祖父の方からだった。
「あ、はい。ありがとうございました」
「あれは……一揮が着ることがあるかもしれんと、数十年前に仕立てたものだった。だから、少しデザインが古い。若いおまえにはもうちょっと、今時の物をやっても良かったかもしれんな」
「え。父さんにですか? でも、お祖父さんは将棋が……」
「矛盾しとるだろう。息子に将棋などやめて家を継げといいつつ、もしかしたらと思ってこっそり着物をしたてる。結局あやつに見せたことは一度もなかったがな。だが、箪笥の肥やしにするよりは、お前が着てくれてよかった」
知らなかった。祖父もそんな風に葛藤していたなんて、お祖父さんの前で将棋の一言は禁句だった。一度だって、そんな素振りをみせたことはなかったのに。
「対局をするお前をみた。零は、一揮に目元がそっくりだ。あいつがもし着ておったら、どんな風だったか、よく分かったよ。……大きくなったなぁ」
一般的によく耳にする、息子と孫を慈しむ、祖父の言葉だった。一度でも良いから聞きたかった、言葉だった。
「あの……観に来てくれて、嬉しかったです。二日目も、来て下さってて」
「一揮が将棋に興味をもったのは、ワシが昔していたからだ。もっともあいつがのめり込み、プロになると言い出した時に、すっぱり止めてしまったがな。だが今でも、ある程度は分かる。見事な対局だった」
今日此処で、会えなければ、この人が将棋を指せることを、僕が知ることは無かっただろう。
「……後悔しておるよ。今更、と思うだろう? 死んでからでは、何にもならんのになぁ」
自分が築きあげ、そして地元の人々にも愛された病院だった。だからよそ者やよく知らない人では無く、自分の息子にと思ってしまったそうだ。父さんが戻ってきて、仕事ぶりをみていても、それは間違いでは無かったと感じたそうだ。
「最終的に選んでくれたのは、一揮だ。それを誇りに思う。ただ、もしプロ棋士になっていたのなら、今回の零のように対局していた未来もあったのかと。そして、おそらくその時は東京にいるだろう。あの事故にはあっていなかったかもしれない」
せめて、年齢制限ギリギリまで、挑戦させてやるべきだったと。それだけが、未だに心残りだという。
「零、……すまんな。お前に関してはワシはもう謝る事しか出来ん。いつまでも死んだものを悼み続け、気がついたら、残った孫は娘によって長野を追い出されていた。こんな情けない祖父はおらん」
「そんな事! 東京に行ったのは、僕の選択です。長野には、想い出がありすぎたから……、それに将棋をしたかったから」
スルリと自然に素直な言葉が落ちる。将棋をしたいと祖父の前で口に出来たと知ったら、父は驚くだろう。
「東京での生活はどうだ?」
「楽しいです。色々あったけど、沢山の人に出会って支えて貰いました。東京に行ったから出会えた人達です。僕は、幸運だったと思います」
祖父は、チラリと僕の付き添いに来ていた幸田さんをみた。そして大きくうなずいた。
「それなら、ワシももう後悔など言えんな。零が出会った方々に失礼だ。孫が良い縁に恵まれた事、感謝することにしよう」
祖父はその後、幸田さんと少し話をしていた。長野の事で何かあれば、一報が欲しいと。
老い先短い老人に何が出来るかは分からないが、親戚の尻拭いくらいはすると。
「貴和子の事も、和也の事も、病院の事も心配するな。ワシが目を光らせておく。……おまえが、仕事で長野に来ることがあれば、また観に行く」
「僕の方も、近くに来ることがあれば、会いに行きます。何があったかとか、良かったら聞いて欲しいです」
「……そうか。楽しみにしとるよ」
祖父は、少しだけ僕にしゃがむように頼んだ。
そっと僕の頭を撫で、顔の形をなぞり、僕の手をそっと握った。
もういない誰かを重ねつつ、今ここにいる僕の存在を確かめていた。
「零、一揮の分まで、沢山指してやってくれ。ワシは、時間の許す限りそれをみておるよ」
「はい。約束します」
祖父の手を握って、何度もうなずいた。
長野から僕をみてくれている人、長野で僕を待ってくれている家。
僕がずっと、目を背けていただけで、ちゃんと此処にあったのだ。
長野から戻った翌日。
獅子王位を得たからといって、僕の日常がこれといって変化するわけでは無い。
今日は対局がないから、朝起きて、猫たちとごはんを食べて、学校へ行く。普通の中学生と同じように。
肩書きが獅子王に変わることと、このタイトルを取った時点で段位が八段になったそれくらいだ。
ただ、携帯には、読み切れないくらいのお祝いの連絡が入っていた。
二海堂や島田さんといった将棋関係者からは勿論、川本家の皆さんに、林田先生を初めとした学校の皆、青木くんや藤澤さん、今日は沢山の人に報告とお礼に行かなければ。
マンションを出て何時もの川辺を行く。
穏やかな水面、川の流れは、どれほどの時間を重ねても変わらない気がした。
一度目を生き、そして今を生き。
長い時間を将棋に注いできた。
それでもなお、飽きること無く、惹きつけられる。
多くの人に支えられて、僕はこれからも将棋を指して生きていく。
桐山零、これが僕の名前。
長野の桐山医院の孫、名前は父が付けてくれた、この名前を誇りに思う。
順位戦B級2組在位、八段、14歳。
獲得タイトル獅子王一期。
僕が僕である限り、たとえ何度やり直したとしても……
――職業プロ棋士。
長いあとがきが読みたいひとは活動報告の方で。
お付き合い有り難うございました。
ひとまず、これにて逆行桐山くんシリーズ本編は完結となります。
私が一番書きたかったのは、長野で桐山くんが宗谷さんと対局し、そして色々あったけど、タイトルを獲得する、その一連の流れです。
こちらで初めましての方も沢山いたようで、私としては嬉しかったです。
それなりに畳んだつもりではあるのですが、pixivの方では、まだまだ蛇足というか番外編をという声もあるようで。
気が向いたら、またいつか上げようと思います。
それでは、3月のライオンが好きなすべての方に感謝を。
藍猫