シチューの香り
すっかり寒くなり、年の瀬も近づいてきた。
今年の将棋界は激動の一年で、会長職にある俺としては、嬉しくもあり、忙しくもあった。
年が明けて早々に、宗谷が二度目の七冠となり、そこからの見事としかいえない防衛の連続。
まだこのまま、あいつの一強の時代が続くのかと思いきや、その宗谷へと挑んだ若き才能。
桐山が獅子王戦の第六局目に宗谷から、そのタイトルを奪取して、まもなく一ヵ月が経とうとしていた。
世間の注目を集めた対局だった事もあり、連盟としてもその後の対応に追われていたが、それも落ち着いてきた。
そして、話題の中心の桐山はというと、こちらが驚くほどに変わらずに日々を過ごしている。
舞い上がることも、気負い過ぎることもなく、ただ粛々と。
「失礼します。会長、こんにちは」
「よー。桐山お疲れさん。悪いな。学校帰りに」
扉が叩かれたあと、入室してきた桐山に声かける。
「いいえ、今ちょうどテスト期間なので。午前中に帰れるんです」
「お前さん、それ。勉強するように早く帰してるんだろ……」
「帰ったらテスト範囲の見直しはしますよ。下手な成績をとると藤澤さんにも申し訳ないので、そこはちゃんとします」
問題ないと告げたこいつが、優等生であり学校の成績も上位であることは知っている。
まともに授業が受けれない時期もあるだろうに、たいしたものだ。
「そういえば、来年は中三だっけ。おまえさん高校はどうするんだ?」
ランドセルを背負い、会館に通ってきていた記憶も新しいが、もう中学も最終学年になるとは、子供の成長ははやいものだ。
すでに身を立てて、忙しく働いている。進学をするかどうかはこいつの自由だが、来年はタイトルホルダーとしての仕事もある。受験は大変だろう。
「まだ、はっきりとは決めていませんが、進学するつもりでいます」
「ほー。そうなのか。いや、てっきり中学までにするのかと思ってな」
「駒橋高校に進学するには試験もありますが、外部受験でなければ、それほど受験は大変じゃないですよ。将棋界は、昔は学歴無用だったかもしれませんが、今は世間体的にも高校へ行っておきたいなぁとは思います。……勉強がしたいというのとは少し、違うかもしれませんが」
桐山は、まだ決めかねているようだった。
俺は本当にどちらでも良いだろうと思っていた。
そりゃあ、将棋に専念してくれた方が、外の仕事も振りやすいし、連盟としては助かるが、こいつはまだ未成年である。
大人が慈しみ、支えてやるべき年齢なのだ。
「まぁ良く悩むこった。勉強がしたいっていうなら、後になって高卒の認定試験うけて、大学に入った方が、時間的な融通は利きそうだが。
10代の青春ってことを考えると、今、高校に進学する価値もあんじゃねぇの? 文化祭、体育祭、研修旅行、いや~楽しそうだねぇ」
何十年も前の自分の若い頃を思い出すと、やはりそういう経験も大切にして欲しいと思う。
もっとも、宗谷はそんなもの知ったことではないといった風に、当然のように高校へは行かなかったが。
「それはそうと、今日は免状を書くんだったな。事務所の方に置いてあるから頼むわ」
「分かりました。夕方まで作業しますね」
将棋連盟では、アマチュア正式免状を発行している。
免状を取得した人の名前は、日本将棋連盟台帳に記載され、名前も保存されるのだ。
免状の文末には発行の年月日とともに、時の日本将棋連盟会長と名人、獅子王が自筆で署名することになっている。
俺たちとしても、収入源の一つであるし、申請する側としても、「棋力を公認する証し」となる。棋士の自筆というのも、そう安いわけでもないのに申請が途絶えない、理由の一端ではあるだろうが。
近年では、会長と名人、獅子王の他に、記録的なタイトル獲得があった時など、追加署名が入った免状が発行されることもある。記念にと言うやつだ。
おそらく、桐山の初の獲得タイトルが、獅子王でなかったら、名人と獅子王の署名の後に、こいつの名前とタイトルをいれた免状が、間違いなく発行されていただろう。
ここ数年は、宗谷ひとり呼び出せば済んだところが、名人と獅子王が分かれたために、二人分の署名となり、面倒にもなった。
だが、新獅子王の署名は、それを補ってあまりある。
新規の申請は、桐山の獲得前と後では、数倍になった。
ここ数年変わり映えしなかったうえ、桐山が挑戦権を獲得してからは、期待して待っていた人もいたのだろう。
「俺と宗谷の分はもう書いてあるから、書き損じるなよ」
「……プレッシャーかけないでくださいよ。なるべく、ある分は終わらせておきます」
「無理なくな。明日テストなんだろ」
からかったものの、桐山が失敗したことはなかったし、署名もその歳からすれば考えられないほど、達筆だった。
自筆の上、筆で書くわけだから、それなりに見栄えもいる。
場合によっては、ちょっと書道ならってこい、なんて展開にもなるんだが。
宗谷の初めてのタイトルの時を想うと、桐山は本当に手がかからない。
京都からわざわざ出てくる必要がある、宗谷と違いフットワークも軽いし、仕事もはやい。
もうすでに何度か書いてもらっているが、手慣れた様子に驚いたのは俺だけではない。
つくづく対照的な二人だが、将棋に関しては似ているところも多く、二人の再戦を心待ちにする将棋ファンは多いだろう。
宗谷は今年で30歳、まだまだ棋力が衰えることはないだろう。
桐山はまだまだのびるだろうし、この二人が指し続けるとどうなるのか、先がたのしみなものだ。
年が明けて、年始の行事も落ち着いた1月の末。
僕の獅子王就任式が行われる。
都内のホテルで関係者や将棋ファンなど約500人が出席するそれなりに大きな会となる。
一般参加は抽選となったらしく、参加される方には是非楽しんでいってもらいたい。
あまり無いことではあるが、スポンサーの新聞社の意向もあり、web上で配信もされるらしい。
当日は獅子王戦ランキング戦各組優勝者へのメダルの贈呈も行われるのが恒例のため、棋士の参加も多くなる。
初のタイトル獲得ということもあり、あわせて祝賀パーティも行われる。スポンサーとの関りを深める大事な機会でもあり、今日一日は忙しくなりそうだった。
「零くん、見違えたなぁ。今日もよく似合っている」
会場入りする前、控えの部屋に来た幸田さんに、声をかけられた。
「有難うございます。この袴、お祖父さんが贈って下さったんです」
着物はすでに何着か持っているけれど、式典に参加するなら紋付袴となる。
用意しようと思っていた矢先に、実家の祖父と藤澤師匠から、準備するから心配するなというお言葉を貰った。
「聞いているよ。師匠も贈りたかったようだけれど、小物を用意することで折衷としたみたいだ」
「驚いたのですが、後援会の名簿の中に、桐山医院の名前がありました。なんというか、上手く言えないのですが、あの日、獅子王戦の翌日にお祖父さんと話せて、本当に良かったとそう思います」
「あぁ、本当に。今日は来れないけれど、孫をどうぞよろしくと師匠のほうへ言付けもあったらしい。お花も贈られて来ていたよ」
「見ました。すごく立派でしたね」
幸田さんとそう話しながら、僕は祖父の胸の内を想った。
“来られない”のではなく、おそらく僕のために“来ない”という選択を取ったことを。
“行きたくないから”ではない。お祖父さんが動く事で付随する、長野の叔母さんたちの動揺や、また僕の気持ちも考えての“行かない”だと今は分かる。
来てほしいような気もするけれどやはり緊張してしまうと思うから。
こうして応援しているよ、と形にしてくれる事が、とても嬉しい。
式は、主催新聞社代表の挨拶から始まり、日本将棋連盟会長の挨拶、来賓の祝辞などが続く。
獅子王推挙状、獅子王杯の贈呈の後、花束をくれたのは、師匠の藤澤さんだった。
足は随分とよくなり、普段は杖も使っているけれど、少しなら普通に歩くことも可能だ。
頂いた花束とともに、師匠と写真を撮られ、そのあとお言葉をもらう。
「まずは、獅子王獲得おめでとうと、そう強く伝えたい。
彼を弟子にしたのは、小学5年生に上がったばかりの頃でした。
僅か数年ではありますが、実の孫のように思っています。子どもの成長はかくも早く、目を見張るものがありますが、彼は特にそうでした。もう、プロ棋士としても、一人の人間としても、立派に歩んでいます」
師匠は、そこで一度言葉を切った。
すこしだけ目線を上げて、遠くをみる。
「桐山くんとの縁が繋がったのは、彼の父親が私の弟子であったからでした。彼の人もまた、立派な将棋指しでありました。
私が自分の師匠から受け継いできた将棋が彼の人に繋がり、そして、また桐山くんの中にも息づいていると思います。
私はそれが誇らしい。我々の将棋を胸に抱きながら、どうかこのまま健やかに、歩んでいってほしいと切に願っています」
師匠は、僕の背中をゆっくりと叩いて静かに席に戻った。
言葉の中に、長く歩んできた重みと時間がある。
この人の弟子でよかったと、自然とそう思った。
最後は、就任者の謝辞で締める。
なんども経験したけれど、いつも身が引き締まる思いだった。
いっぱい考えてきたのに、何故だろう。いつも半分も言葉にできない。
「本日はお忙しいなか、本当に大勢の方に出席いただきまして誠にありがとうございます。
獅子王戦は私にとっては、二度目のタイトルへの挑戦でした。前回の棋神戦と同じく、相手は偉大な先人である宗谷名人、緊張と期待とともに、挑んだタイトル戦であり、大きな経験ができたと思っています。
第一局目に、白星を挙げてから、取って取られてのシリーズでした。千日手となった第六局目は、初めて故郷で開催された対局だった事もあり、私にとって忘れられない対局となりました」
長野に行けてよかったとそう、思える日が来るとは、僕自身も予想していなかった。
「沢山、たくさん応援してくれる方がいました。私が考えているよりも、もっと多くの方々が。その声援が大きな力となりました」
東京で応援してくれていた、藤澤家や川本家、施設のみんな。
長野でも心を砕いてくれた、幸田さんや会長、棋士の方々。
応援してくれている、地元のファンの人、祖父。
そして、あの夢。
それが無ければ、僕は果たして、勝てていただろうか。
「その事を忘れずに、これからも指し続けていきたいと思います。また、獅子王として、恥じない活躍ができるように、精進していきます。今日はどうも有難うございました」
沢山の拍手のなかで、深々と頭を下げた。
多くの期待と称賛が僕の上に降り注ぐ。
昔はそれが重荷でしかなかったけれど、今は素直に受け取ることが出来るようになった気がした。
その後の祝賀会でも多くの人に声をかけてもらった。
一息を付けたところで、見知った顔を見つけて嬉しくなる。
「二海堂も来てたんだ」
「うむ。友の晴れ舞台だからな。それに兄者のメダルの授与もあったのだ。
桐山、あらためて、獅子王就任、心からお祝い申し上げる」
二海堂らしく、律儀に向けられた謝辞に、僕の肩の力も抜けた。
「ご丁寧に、有難うございます。そうか、2組の優勝者は島田さんだったね」
獅子王戦ランキングの1組の定員は16名。毎年4人が降級し、2組から4人が昇級する。
優勝した島田さんは来期1組だ。
1組からは、当然他の組よりも多くの人数が本戦に進む。
次は挑戦者として来ると笑っていた宗谷さんの事もあるし、来年、僕の前に座るのは誰なのか。すこし怖くもあり、楽しみでもある。
「……随分先に、行かれたとは思う。でも、まだ此れからだからな! 俺とおまえの対局の歴史は、これから始まるんだ!」
こういう所が二海堂の良いところだ。そして、いつも僕に刺激をくれる。
「まずは新人戦だ。桐山、忘れてないだろうな? 俺は絶対に獲るからな!」
今年の4月プロ棋士になった、二海堂が参加する新人戦トーナメントは、この前の年末から始まったところだ。
これから来年の秋にむけてゆっくりと対局が進められる。
そして、優勝者は新人王となり、タイトルホルダーとの記念対局がある。名人との対局となることが多いけれど、近年では他のタイトル保持者が相手に選ばれることもある。
「待ってるよ。約束わすれてないから」
「当然だ! 楽しみにしていてくれ」
興奮気味に笑う二海堂は、もし僕が防衛出来ずに来期獅子王を奪還されたら、なんてきっと考えもしないのだ。
そして、自分は全力で新人王を取りに行くのだろう。
二海堂が新人王になれたとしても、その時僕が無冠では意味がない。
だとしたら、やっぱり僕も頑張らないとって背筋が伸びた。
沢山のお祝いの言葉をもらって、会も終了が近づいた頃。
僕はふと、物足りなさと寂しさを感じて、会場を見回していた。
僅かな気疲れとともに、どことなく帰りたいなぁと思う自分がいることに気づく。
帰りたいって何処に?
前回の初めての就任式の時はこんなことは思わなかったのにと不思議に思う。
その僕の鼻先を、するはずのないシチューの香りが掠めていった。
あぁ、そうか。そうだったな。
前回はこの場所に、彼女も居たのだ。ここに呼べる程の関係だったから。
一度気づいてしまうと、もう駄目だった。
誰よりも見て欲しかったし、そして誰よりも純粋に僕の努力が実った事を、喜んでくれただろう。
そう思うと、無性に会いたくなってしまった。
走り出したくなるような気持ちを、ひと呼吸して抑えて、そのまま会の終了まで役目を果たした。
着物もちゃんと片付けなければならないし、頂いたものへの対応もある。
結局その日は、随分遅くなってから、家路につくことになった。
就任式から、日が明けて、落ち着いたある日。
僕は川本家を訪れていた。
自分から希望したのもあるし、皆さんが改めてお祝いをしたいと言ってくれたからでもある。
「いらっしゃい、零くん。外は寒いでしょう。はやくおこたに入っちゃってね」
玄関で出迎えてくれたのは、あかりさんだった。
「れーちゃ!」
「こんにちは、ももちゃん」
まもなく1歳になるももちゃんは、伝い歩きが出来るようになって、発語もすこし単語らしきものを発するようになった。
一番最初にそれっぽかったのは、やっぱりママだったみたいだけれど、比較的はやく僕の名前っぽいものを呼び始めたことには、驚かされた。
相米二さんに、じーじより早かったぞと、苦言を呈された時には焦りもしたけれど。
「桐山くんが、シチューが良いって言っていたって聞いたから、そうしたけど。ほんとうにこんな簡単なものでよかったの?」
美香子さんは、産後すこし体調を崩していた時期もあったけれど、今も元気に彩さんと一緒に、三日月堂を切り盛りしている。
「有難うございます。とても好きなので、嬉しいです」
「おいしいよねぇ。私、お母さんとおねえちゃんの作るシチュー大好きだよ。毎日でもいいくらい!」
そう言って笑うひなちゃんに、僕は目を細める。
変わらない懐かしさと、愛おしさを感じて。
店仕舞いを終えた、相米二さんと、彩さんも来てくださって、皆でご飯を食べた。
就任式の様子は、ニュースでも流れたようで、口々に褒められて、嬉しさと同時に照れくささもある。
「良い袴だった。それに着られることもなく実に立派なものだ」
「ほんとうに、うちに来るようになったのが2年前だっけ。背もすごく伸びたよね」
食事を終えてそうしみじみと言った相米二さんに、片づけをしつつあかりさんが続けた。
「テレビでみるれいちゃんもカッコいいけど、私はここで一緒にシチュー食べて、ふわふわ笑ってるれいちゃんも良いと思う」
ひなちゃんが無邪気に告げた言葉が、胸に響いた。
「どっちの僕でもいいの?」
「うん! もちろん! あ、でもお着物着てるところはいつかみたいなぁ」
そう言ってほほ笑んだ彼女に、思わず口をついて出た言葉。
「僕も、本当は一番にみて欲しかったかも」
「え、誰に?」
「誰にって、ひなちゃんに。自分の晴れ舞台を一番近くで見てほしいなってそう思った。次の就任式には関係者枠で呼びたいから」
目を丸くして驚く彼女に、ぼくはまた伝えるのだ。
「だからさ、ひなちゃん。僕の婚約者になって下さい」
さっきまで賑やかだった川本家の居間が、一瞬でシンッと静まって、皆が動きを止めてしまった。
僕の言葉に彼女は眼を丸くして驚いて、小さく口をパクパクと動かす。
「えっ、えぇ!? それって、れい、零ちゃん。わた、わたしのこと」
あぁそうか、僕はまた形式ばっかり気にして一番大事なことを忘れていた。
「うん。僕は、ひなちゃんの事が好きだよ」
「えっと、えぇっとね。実はね。わた、私もっ……」
真っ赤になった彼女が目を回して、バタンキューになるところは前回と一緒で、なんだか懐かしくなってしまった。
おかしいなぁ、ちゃんと段階を踏むのは大事だと、以前こんこんと様々な人から言われたから、今回はいきなり結婚まで飛ばさなかったのだけど。
にわかに騒がしくなった川本家の中で、そんなことを思いつつ。
目が覚めた彼女に、今度は夢だったと思われないように、何度だって言葉を告げよう。
大丈夫。
僕は、玉を捕らえるのは得意だから。
ここは、やさしいシチューの香りに満ちた、あたたかい場所。
将棋の道で生きていく事、これから先の将来の事、考えるほどに気が遠くなる。
ただ、生きていくだけでも難しいけれど、この世界はまた、特別難解だから。
勝たなければ、強くなければ、無価値だと、そう思う日もある。
好きだけでは難しく。
時には深い闇に飲み込まれることもあるかもしれない。
溶けて、混ざり合い、身を削りあって戦って、身体がほどけて消えてしまいそうになる激戦を積み重ねて、僕らはただ、その先にある対局を目指す。
ギリギリの淵に立ち、深い深い河の底に沈みながら、何度でも何度でも。
ここは、そんな僕を引き上げて、ほっと息をつかせてくれる場所。
僕がぼくでいるための場所で、そうあらせてくれる場所。
それは、このシチューの香りで、君の隣だから。
就任式と、零ひな回でした。
就任式に関しては、9月に某棋士も初めて行ってまして、だいぶ参考にしましたね。
そういえば、零ちゃんとひなちゃんの関係の行く先を書いてなかったなぁと。
今の二人の年齢を考えると、中学生と小学生で、周囲としては可愛いやりとりだなぁって感じかもしれませんが、桐山くんは大真面目です。
原作の14巻と15巻。
柔らかく、やさしく、でもちゃんとこの二人が青春してるのをみるともう最高なんです。
まだ未発日も未定ですが、16巻に収録予定の話も楽しみで、たのしみで。
最終話の投稿以降も、沢山の評価、お気に入り登録、ご感想をありがとうございました。