小学生に逆行した桐山くん   作:藍猫

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桐山くんのお祖父さんの視点です。


受け継がれるモノ

 

 人生は後悔ばかりだ。

 こんな歳になっても、どうしようもならない現実を突きつけられる。

 

 振り返ると、まぁなんとも仕事に生きた人生だった。田舎者ながら医学の道を志し、周囲の支えもあり、医者になることができた。

 馬車馬のごとく働いた研修医時代、大学病院での専攻医としての長きにわたる研鑽の日々。

 理不尽な事がなかったわけではないが、医局にも恵まれたおかげで、腕を磨くことにそれほど不自由はなかった。

 そして地元の有権者の支えもあり、ずっと目標であった故郷での医院の立ち上げも果たせた。

 医者としては、これ以上ない成功の道の一つを辿れたと思う。他人からすれば、随分と華々しい人生だったのではと言われる事も理解している。

 

 ただ……。一人の人間として、親として、今思えば後悔しかなかった。

 

 最初に生まれた子は、男児であり、跡継ぎとして育てることに何の疑問も持たなかった。厳しく育てたし、要求する事も沢山あったと思う。

 一揮は、聡く、優しい子だった。期待に応えようと努力したし、仕事に忙しい父親に文句を言った事も一度もなかった。

 

 思えば、あの子が私の決定に異議を唱えたのは、将棋の事だけだった。

 奨励会に入りたいなど、正気かと思ったが、息子の意志は固かった。

 気まぐれに教えた将棋に、これほどはまり込んでいくと予期できていれば、私は絶対に将棋に触れさせなどしなかっただろう。

 息子には意外にも、それなりの才能があった。センスというよりも、努力出来る才能が。

 一揮が将棋に魅せられていくほどに、私の焦燥は増していき、そして親子が衝突することが増えた。

 息子が本気で悩んでいることが分かっていながら、此方を選ぶべきだろうと、迷う余地などないだろうと、責め立てた。

 大学生活終盤までもつれ込んだその攻防は、結局一揮が折れて、将棋の道を諦めることで片が付いた。

 

 息子が将棋を諦めてくれたことに安堵し、医学の道を選んだことは決して間違いではないと今でも信じている。……そう思わなければ、やっていけなかった。

 

 私がそうであったように、またおおよその医者がそうであるように、一揮もまた大きな病院で研修医、専攻医時代を働いた。そうやって先人たちからの英知を受け継ぎ、腕を磨いていくのだ。

 見合いの世話をしたこともあったが、本人が気乗りではなく縁は結べず。

 そのうち自分で気立ての良い女性を連れてきて、その方と一緒になりたいという。真剣な表情と息子の選んだ女性だった。私は言葉こそ、少なかったもののその縁を祝福した。

 私の妻も、私が求めた女性だった。支え合って生きて行ってくれれば、それでいい充分だった。

 家庭を持ち、親となり、一人の男として自立していった。

 その間、ひそかに将棋を続けていることも、プロ棋士となった同輩と交流を持っている事も、もちろん知っていたが、仕事を疎かにする事も無かったため、知らないふりをした。

 

 妻に早く先立たれ、一気に自分の衰えを感じ始めたときに、息子にすべてを譲ろうと思った。

 まだまだ頼りないが、人望もある。少し早いが、代替わりしても問題ないだろう。何か困った事があったとしても、この子なら周りが支えてくれる。

 そして、息子に後を譲り、あとは静かに見守っていくだけだと、そう肩の荷を下ろした。

 

 

 息子が事故に巻き込まれ、帰らぬ人となったとの一報が入ったのは、そんな折だった。

 

 

 まず、なにかの間違いだろうと考えた。まさか、そんなことがあるわけないだろうと。

 一揮の急死は、到底受け入れることなどできなかった。

 今でも鮮明に思い出せる。遺体の確認をした時の、足元から崩れ落ちる絶望を。

 真っ暗に覆われた視界と、深い苦しみは、私からまともな判断を奪い、その日からしばらくの記憶は曖昧である。

 そして、正気に戻ったのは、文字通り全てが、手遅れになった時だった。

 

 家の事も、病院のことも全て娘の貴和子が思い通りにしてしまっていた。少々性格には、難があったが、仮にも実子である。まさかあそこまでしてしまうとは夢にも思っていなかった。

 平等に接してきた……とは、とても言えない。貴和子自身にも、思う事は多々あったのだろう。

 決して敵わぬ、優秀な兄への劣等感、自分に期待しない家への不満。

 それをすべて、清算する機会だった。

 私には、娘を責めることは出来ない。自分が蒔いた種でもあったのだから。娘婿は、素晴らしいと称賛されるほどではないが、跡取りをなくした病院を継ぐという事に、躊躇しない程度の腕と野心もあった。少々の我の強さは、意志の強さにもつながる。何も全てが悪ではない。

 ましてや、既に様々な手続きが終わった現状で、私に残された道は多くはなかった。精々世話になった者たちや、ずっと病院を支えてくれていた者たちが、娘の意向でいいようにされないよう、口を出すくらいである。

 

 そして、やっと病院が落ち着いた頃、私はやっと思い出した。そう本当に情けないが、やっとその事に思い至ったのだ。

 生き残っていた孫の零は、どうしているのだろうかと。

 娘よりも信頼している壮年の秘書に、零はどうなったと聞いた時には、既に遠い地へと追いやられていたのだ。

 自分の不甲斐なさに唖然とした。気弱なところもあるが優しい子だった。厳しく接していたために、私の事を怖がってもいただろう。

 けれど、大事な孫だった。

 正気であれば、身内がいながら、どこともわからない施設に引き取られることを、良しとはしなかっただろう。

 

 今更だが、間に入ってくれたという弁護士を通して、連絡を取ろうとしたことがある。

 そして、零は会う事を望んではいないと、やんわりと断られてしまった。

 分かっていた、それも当然だろう。

 生まれた家の権利すら、管理という名目の下、叔母に奪われ、味方が一人もいない長野に帰ってきたい訳がない。

 それでも、諦めきれず、自由にならない身体の事もあり、東京に行くのが難しい自分の代わりに、秘書にこっそり様子を見てもらいに行った事もあった。

 同じ施設の友人と、元気に学校に通っていたと、将棋の大会でいい成績を収めていたと、そう報告を受けた。

 将棋……、また将棋なのかと不思議な縁を感じたとともに、なぜかストンと納得してしまった。

 あの時の気持ちを、うまく表す言葉を私は持ちえない。零がその道を行くことを止めたいとは思わなかった。

 

 それから、ずっと密かに見守り続けた。今の時分は、テレビや新聞でも随分詳しく将棋の事をとりあげてくれる。また秘書がどこからか雑誌などで零の様子が取り上げられていれば、ひっそりと教えてくれた。

 けれど、零が将棋を指す姿を観に行った事は一度もなかった。ただ、この長野の地から、孫の仕事の成果をひっそりと知るだけにとどめる。

 奨励会を抜けプロ棋士への道を歩みはじめた時、連勝記録を打ち立てた時、初めて公式戦で敗けた時、タイトル戦に挑んだ時、節目にはいつも一揮の墓へと報告に行った。おそらく、この地へ足を運ぶことが出来ないでいる、零の代わりのつもりだったのかもしれない。

 

 

 

 

 

 


 

 月日が流れ、零は粛々と棋士の道を極めていった。

 二度目のタイトル挑戦、その大事な一戦を急遽長野で行うと聞いた時、神はなんと残酷な事かと思った。

 集中したいであろう大事な一戦で、これほど心が乱される状況は無いだろう。あの子にとってやりづらい事この上ない。

 

 貴和子には、決して会場に近づくなと、釘をさしていたが、それも気休めだろう。対局の前には、前夜祭もあると聞いていた。地元の有力者のなかには、まだ一揮の事を覚えて下さる方が多くいた。そして、どれほど時が流れたとしても、此処で生きた記憶があの子のなかで、失われるわけではない。

 どうか、何事もなく終わってくれとそう願うばかりだった。

 しかし、何かはしたいと思う此方のわがままで、弁護士を通して、着物を贈った。一揮にと密かに仕立てていた着物だった。所詮こちらの自己満足、身に着けてくれなくても良かった。

 

 許されるわけがないと、会場に行く気がなかった私の背を押したのは、零の様子を東京まで見に行ってくれた秘書だった。

 あの子に僅かでも動揺を与えるわけにはいかないと固辞する私に、会わなくても一目みるだけでも、と珍しく強く申し立てた。

 もう何度もあるとは限らない機会を逃すのですかと、容易く失われると知っているでしょうと、諭されて、折れたのは私だった。

 実際、成長した零のすがたをこの目でみる最期の機会になるかもしれなかった。

 

 前夜祭では会う確率が高まるので、対局だけを観に行った。

 会場に現れた、贈った着物を身に着けた零の姿を目にした時、嵐のような感情が私のなかで渦巻いた。

 

 

 

 あぁ、生きている。零の中に紛れもなく、一揮が生きていた。

 

 

 

 面影、僅かな所作、ふとした時に感じる。無論すべてが同じわけではない、ただ余計にそのわずかな一致にハッとさせられた。

 そして何より、将棋を指すその姿にこそ、もう何十年も前の息子の夢の果てを観ているようだった。

 どれほど後悔しても、決して選ばせてはやれなかった一揮のもしもの道。その頂きに挑む零の姿に、ただただ涙がこぼれた。

 いっそ憎いほどだった将棋に、感謝する日がこようとは思いもよらなかった。

 おそらく、他の何であったとしても、こんなにも強烈に感じることはなかっただろう。

 一揮が私に抗ってまで、選ぼうとしていた将棋だったから、私が諦めさせた将棋だったからこそ、これほど駆り立てられたのかもしれない。

 勝手に重ねて、思う事が、零にとって重荷になるかもしれないと分かっている。

 しかし、湧き上がるこの気持ちは抑えることなどできなかった。

 零が将棋をしていると知ったあの日。もしかしたら、こんな姿を観たかったのかもしれない。

 

 息子が生き、育み、守ってきたものは、確かに孫の中に受け継がれていたのだ。

 ただ、此処で生きて将棋を指してくれている、その事だけで、すぎるほどだった。

 結果など、もはや些末な事だった。必死に打ち込むその姿に、ただただ幸あれと、神に祈った二日間だった。

 

 

 

 

 

 


 

 対局の翌日、息子の雄姿を報告しようと一揮の墓を訪れた。

 そこに、先客の姿をみて、私は静かに息を吐いた。

 

「来ておるかと、少し期待しておった。一揮に報告に来たのか?」

 

「はい」

 

 零は、まっすぐに此方をみてそう答えた。

 

「そうか……では、ワシが来る必要はなかったな」

 

 数年ぶりに面と向かって話す。花を添えながら、なんと続ければよいか頭の中で何通りも考えたが、全くまとまらなかった。

 

「今回の対局で着ておった着物なんだが……」

 

 昨日の対局する姿を思い出し、言わなければと思っていた言葉がようやく口をつく。

 

「あ、はい。ありがとうございました」

 

「あれは……一揮が着ることがあるかもしれんと、数十年前に仕立てたものだった。だから、少しデザインが古い。若いおまえにはもうちょっと、今時の物をやっても良かったかもしれんな」

 

「え。父さんにですか? でも、お祖父さんは将棋が……」

 

 零は、本当に驚いた様子だった。無理もない、この子が生まれてからわしは一度も一揮と将棋の話をしたことは無かった。

 

「矛盾しとるだろう。息子に将棋などやめて家を継げといいつつ、もしかしたらと思ってこっそり着物をしたてる。結局、あやつに見せたことは一度もなかったがな。だが、箪笥の肥やしにするよりは、お前が着てくれてよかった」

 

 今にして思えば、なんともくだらない意地だったことだろう。たった一言、告げているだけで変わったことなどいくらでもあっただろうに。

 

「対局をするお前をみた。零は、一揮に目元がそっくりだ。あいつがもし着ておったら、どんな風だったか、よく分かったよ。……大きくなったなぁ」

 

 しみじみとこぼれた言葉。零が見せてくれた“もしも”の姿は、眩しいほどだった。そして、私の後悔を深く募らせるものだった。

 対局を観に行った事に、律儀に礼を告げてくるその子に、思わず懺悔してしまうほどに。

 たられば、を言っても仕方ない事だ。全て後の祭り。そう分かっていても言わずにはいられなかった。

 息子への後悔、守ってやることができなかった、孫への後悔。一度口をつくと、次々とこぼれおちた。

 

「東京に行ったのは、僕の選択です。長野には、想い出がありすぎたから……、それに将棋をしたかったから」

 

 零は決して、私を責めなかった。その優しい心がいっそ酷なほどに。この子はもう乗り越えて、たった一人見知らぬ土地で生き抜いてきたのだ。

 

「東京での生活はどうだ?」

 

「楽しいです。色々あったけど、沢山の人に出会って支えて貰いました。東京に行ったから出会えた人達です。僕は、幸運だったと思います」

 

 忌み事一つも落とさずに、幸運だったと笑える強さを持っているこの子が眩しかった。そう、言わせてしまった自分の不甲斐なさを、今は、横に置いておく。

 零の隣で、静かにこちらを見守っていた男性をみた。後見人をしてくれている方とは何度か連絡をとった事がある。その時、門下の方々皆で、零の事をみてくれていると言っていた。

 そのお一人なのだろう。

 

「それなら、ワシももう後悔など言えんな。零が出会った方々に失礼だ。孫が良い縁に恵まれた事、感謝することにしよう」

 

 今更ながらに、その方とも連絡先を交わした。貴和子が何か言ってくるような事があれば、くれぐれも教えてくれと頼んだ。

 

「貴和子の事も、和也の事も、病院の事も心配するな。ワシが目を光らせておく。……おまえが、仕事で長野に来ることがあれば、また観に行く」

 

「僕の方も、近くに来ることがあれば、会いに行きます。何があったかとか、良かったら聞いて欲しいです」

 

 これまでの長きにわたる空白の時間に、思う事がないわけがない。それでもこの子は、会いにくると言ってくれた。

 

「……そうか。楽しみにしとるよ」

 

 本当に大きくなったと思う。背丈ものび、目線が随分と高くなった零に、しゃがむように頼んだ。

 その姿を目に焼き付ける。似た部分ばかりに目がいくが、この子だけの特徴が、とりわけ愛しくも思えた。

 

「零、一揮の分まで、沢山指してやってくれ。ワシは、時間の許す限りそれをみておるよ」

 

「はい。約束します」

 

 ただ、此処で生きてくれているだけで、眩いほどの希望なのだから。

 

 

 

 

 

 それから、少し季節が移った頃。零が獅子王就任式を行うと聞いた。

 孫の晴れ舞台だ。東京に行くことも考えたが、貴和子たちの気持ちと、いままで無関心だった身内が急に乗り込むのも、と考えて見送った。

 師匠の藤澤さんにご相談し、袴と花を贈れただけでも、御の字だろう。

 

 桐山獅子王、なんとも厳かな響きだ。まだ齢十四の子どもが背負っていける肩書なのか、些か心配でもある。

 けれど、零ならばそれは余計なことなのだろう。たとえ苦難の道であろうとも、あの子はこの先も、顔をあげてまっすぐに進んでいく。

 世紀の天才児、将棋の神に選ばれた子、世間は、華々しい言葉で、あの子をほめてくれている。その称賛が過ぎたるものかどうかは私には、分からない。

 そして、それはどうでも良いことなのだ。

 

 あの子は、ただの私の孫で、一揮の息子。それだけで充分だった。

 願わくば少しでも長く、その魂の輝きを、この老いぼれに見守らせてくれればと思う。

 

 

 

 

 





ただこの世にいきてくれているだけで、充分だと思ってくれる人がいる。たった一握りのその存在が身内の中にも居てくれたらなと思いました。
原作の桐山くんはお身内の縁が薄すぎるので……。

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