気になる人は見て下さい。
サクッと答えだけ言うなら展開、文章共に全く変わりません。そのまんまです!
その子は、身なりの良い賢そうな男の人に連れられて、僕たちのところにやってきた。
職員の人たちとの会話も問題なく終わったようで、1時間もしないで、男の人は帰って行こうとした。
だいたいの子は、この時に泣いたり、怒ったりするんだけど、その子は深々と男の人に頭を下げてお礼を言っていた。
置いていくはずの大人の方が、何かあったら連絡するようにと声をかけるのなんて、初めてみた。
その子、桐山零くんは入ってきた時から、印象に残る子だった。
僕たちは、あまり新しい子がくるのは、歓迎すべきことではないと思っている。
此処にくるということは、それだけ何かに傷つき、何かを背負ってきているということだ。
多くの子は、様々な傷を身体や心に抱えていて、職員の人たちはそちらに掛かりきりになるし、酷い子だと僕たちにまであたってくる。
だから皆、新入りの事は最初そっとうかがってかかる。
でも、寂しがったり、怖がったり、心細そうだったりしているようなら、誰かが声を掛けることも多い。
そして、いつの間にか馴染んでいるのだ。
僕らは皆、親や家族に捨てられたか、置いて行かれた、同じような境遇の仲間だから。
身構えていた僕たちだったけど、桐山くんはびっくりするくらい普通だった。
ごはんを食べない、夜に泣く、玄関や部屋の隅から動かない。初日は皆だいたいこんな感じなのに、彼は夕食の時に皆の前で挨拶するのも大人の人みたいに落ち着いてたし、その後ごはんも普通に食べて、片づけまで職員の人に声を掛けて、手伝っていた。
なんか、凄い子が入ってきたかも? といつもとは少し違う意味で動揺した。
同い年の男の子というわけで、僕と桐山くんは寝るときに同じ部屋になった。
僕はあまり誰かと一緒にいるのが好きじゃなくて、しかも運が良いことに前の年に年上の人が此処を出て行ったあと、独りで使っていたからちょっと嫌だなって思った。
桐山君は、二段ベッドの上と下、どちらを使っているのかと僕に聞いて、上だと答えたら、じゃあ下を使わせてもらうね、とあっさり答えた。
ベッドの上と下の争いは、意外と僕らの間ではメジャーな喧嘩の理由の一つになったりするんだけど、拍子抜けするくらい簡単に終わってしまった。
その後も、お風呂の時間や消灯の時間をきくだけで、必要以上に僕の領域に踏み込んでは来なかった。
それはとても有り難いことで、この子となら上手くやれるかな、と思えた。
小学校も同じクラスだった。
季節外れの転校生で、彼はとても注目を集めていた。
桐山君はそれを気にもしていなくて、色んな子からの質問にも丁寧に答えていた。
勉強も凄く出来た。
学校によって進度も違うだろうからと、先生が最初何度も彼に、此処は大丈夫? この問題はとける? とついてこれているのか、確認をしたけど、彼は全く問題なく全てに答えていた。
昼休みの時に男の子たちが、外でドッヂボールをしようと誘っていたけど、自分はあまりそういうのが得意じゃないからと、彼はあっさりと断っていた。でも、声を掛けてくれてありがとうと、笑顔でお礼を言っていて、断られたほうもなら仕方ないなーと残念そうながらも、納得していた。
そして、何かの本を出して読書をし始めようとする。ふと、僕と視線があって、青木君も本が好きなんだねと笑いかけてくれた。
僕はとても嬉しかった。
男が部屋でじっと本を読むなんて、軟弱だと馬鹿にしてくる子もいるのだ。特に外で遊ぶのが大好きな子とかは……。
だから、いつも図書館の隅のほうでそっと本を読んでいることが多かった。
けど、その日から僕ら二人は、教室の一角で、二人で本を読むようになった。
一人から、二人になる。それがどんなに心強かっただろう。
僕は、少しだけ学校が楽しくなった。
僕と一緒に居ることが多かった事と、桐山君が全く隠そうとしなかったから、彼が施設にいることは転校後すぐに知れ渡った。
これはとても、悔しいことなんだけど、親がいないことを可哀想だといいながら、あからさまに下に見てくる人がいる。
一年生の頃から、そういう視線と言葉を受けて来た僕は、それを身に沁みて実感していた。
桐山君は、勉強がとても良く出来たし、いつも落ち着いた雰囲気で、クラスで既に一目を置かれつつあった。
それが、面白くなかった男の子の一人が、親無しは大変だなー優等生でないといけないからっと大きな声で冷やかしたのだ。
僕にもこういうことは覚えがあったから、あー嫌だなって思った。そして、こんな時になにか言い返せる性格でもなかったから、いつも黙って耐えていた。
でも、桐山くんは違ったのだ。
「だから? 親が居ても良い子でいるのは、当然じゃないの?」
怒ってるようじゃなくて、まるで当たり前のような顔をして、こいつ何言ってんの? くらいの雰囲気で問い返したのだ。
僕みたいな反応を期待していた男の子は、虚をつかれたような顔をしてグッと黙り込んだ。
桐山くんは、それ以上は何も言わずに、全く気にしてない様子で席に着いた。
どう考えても、彼の方が正しくて、大人だった。
僕は、それがとてもカッコイイと思った。
数日後、僕は勇気を出して、彼に勉強を教えてくれないか? と声をかけてみた。
僕は国語や理科は得意だけれど、一度算数が難しくなりだしてから、少しついていけなくなっていた。
彼は少し驚いたようだったけれど、すぐに嬉しそうに笑って、とても丁寧に教えてくれた。
僕が分からなくなっていた少し前まで遡って、解説してくれて、今の問題が自力でとけるように導いてくれた。
分かるようになれば、少し算数が楽しくなった。新しく習った難しいことも、桐山くんに聞けばまた、かみ砕いて教えてくれた。
彼は僕らの視点にたって、教えるのが上手だった。
僕は勉強が少し面白くなって、それが少し自信になっていた。
そのことが、俯き加減だったぼくに前を向かせてくれるようになった。
でも、やっぱりそれが面白くない子もいるのだ。
特に僕の今までのカーストは、常にクラスの最下層だったからなおのこと。
陰口はなかった。僕に言えるようなことは大体桐山くんにもあてはまるし、僕らは二人でいることが多かったから。
ただ、消しゴムだったり、鉛筆だったり、小さなものが良く無くなるようになった。
教科書が無くなったりはしなかった。無かったら、ちょっと困るくらいのものが無くなって、教室の本棚の裏だとか、ロッカーの上だとか、変な場所に置いてあるのだ。
もちろん、僕が置き忘れたわけじゃない。
桐山くんはすぐに気が付いたみたいだった。
でも、僕があまり大事にしたくないと思ってるのを分かってくれてるみたいで、何も言わずに、消しゴムが無いときは貸してくれて、僕の持ち物を見つけると届けてくれるようになった。
ある日の事だった。
昼休みが終わるころに席に帰ると、机の上に置いてあったはずの筆箱が無かった。
あーついにやられた、と思った。
さすがに、これには困ってしまって、僕はおろおろと戸惑った。
教室の後ろの方で、三人の男の子たちがニヤニヤと笑いながら、僕の様子を見ていた。
あいつらだっていうのは分かってる。
面白半分でやっているのも。
でも、僕にとっては嫌なことで、止めてほしいことだ。
どうしよう……。返してと言えばいいだろう。
そのくらい、分かってる。
でも、それが出来るなら、僕はこんな目には合っていない。
ふと、隣に立った桐山くんが大きな声で溜息をついて、少し大げさに教室を見まわしてこういった。
「困ったな……。この教室には、自分の物と人の物の区別がつかない、お猿さんがいるみたいだ」
肩をすくめながら、心底呆れたという風な彼の発言に、近くにいた女の子たちのグループがドッと笑った。
やだー、そんな人いるの? っと口々に囃し立てる。
僕は気づいた。この子たちは、前に桐山くんに勉強を教えてもらった子たちだ。
彼の発言に追従してくれたのは、桐山くんが勝ち取ってきた人徳によるものだ。
「ねぇ……そんな幼稚なことする人はいないよねぇ?」
桐山くんは、ホントだよねっと彼女たちに頷いて見せた後、まっすぐに、あの男の子たちを見つめて言った。
彼らの顔は真っ赤になっていて、その中から怒ったように一人の子が僕に向かって筆箱を放り投げてきた。
「うるさいな。落ちてたから、拾ってやったんだよ。誰のかわからなくて……」
言い逃れのように呟く彼に、桐山くんが追いうちをかける。
「へぇ……。名前が書いてあるのにね。それとも、君この漢字が読めなかった?」
鼻で笑われて、男の子は言い返そうとしたけど、それも出来ずにまだゴニョゴニョと何か悪態をついていた。
その様子に、桐山君は困ったような顔したあとに、こう続ける。
「あのさ、まだ間に合うよ。
自分がされて嫌な事は、他の人にもしないようにしましょう。って今時、幼稚園児でも分かってる。君たちが本当に、小学三年生だって言うんなら、こんな時になんていうのが正解か、分かるだろ?」
静かで、でも良く通る声だった。
余計にそれが、桐山くんの存在感を際立たせていた。
怒鳴るよりも、時に効果的な声があることを、僕はこの時はじめて知った。
教室中が静まり返って、だれも身動きをしなかった。
「……悪かったよ。ごめん」
その空気に耐えられなくなって、筆箱を投げた子が謝ったのをきっかけに、残りの二人も、ごめん、冗談がすぎたっと後に続いた。
彼らは桐山くんに気圧されたのもあったと思うけど、ちゃんとバツが悪そうで、本当に少し悪戯くらいのつもりだったのだろう。
その言葉に、桐山くんはかるく頷いたあとに、僕の方をみて耳元で小さく囁いた。
「青木くん、何か言ってやりな。こういう時はね、それが一番効くから」
彼の言葉が、僕の背中を押した。
「こういうことは、もう止めてほしい。物が無くなるのは困るから。
僕には構わないで、君たちは、君たちで遊んでたらいいだろ」
自分でもびっくりするくらい、はっきりした声で言えた。
彼らは、それに肩を落として、もう一度ごめんなっと頷いてくれた。
僕は、拍子抜けした。なんだ、こんなに簡単なことだったのか。
桐山くんはそのあと一回、大きく手を叩いて、はい。じゃあこれはこれで終わり! っと言った。
教室のはりつめた空気がそれでふっとゆるんで、もとの日常に戻る。
この間、僅かに5分ほどだ。
先生が教室に入って来て、授業がはじまるからと着席したとき、僕は内心、興奮していた。
彼は、すごい。本当に凄い!
この日から、桐山くんは僕のヒーローになった。
帰り道で、彼は僕に謝った。
結局大事になってごめんと。
どうせなら、もっとはやくに上手くやるべきだったって。
僕はそんなことないとすぐに言い返した。だって、放っておいてほしいという空気をだしていたのは、僕だ。
何度も、何度も、お礼を言った。
彼は、それなら良かったと少しほっとしたように微笑んだ。
それから、僕に対する嫌がらせは無くなったし、クラスの雰囲気も落ち着いた。
もともと、目立ったいじめとかは無いクラスだったけれど、小さな嫌がらせさえもなくなったのだ。
桐山くんは最初が肝心だとは思ったけど、このくらいの年の子はまだ素直だなぁと小さく呟いた。
僕には、意味がよくわからなかったけれど、彼はいったいどんな経験してきたんだろうと、少し不思議に思った。
桐山くんが来てから、なんだか施設の居心地と雰囲気も良くなってきている気がした。
小さないさかいとかは彼がうまくいなすのだ。
職員の人が気づかなかった、体調の悪そうな子に気づいたり、落ち込んでいる子には声を掛けたりもしていた。
勉強も僕が教えてもらっているのをみて、俺も、私もっと彼に声を掛ける子が増えた。
桐山くんは、何をきかれてもすぐ答えていたし、苦手な教科なんて無いみたいだった。
驚いたのは、ちょっと素行が悪い六年生が、あーわかんねーやってらんねーと愚痴をこぼしていた算数の問題にヒントをあげて、答えまで導いたことだ。
その人は単純にスゲーと喜んで、問題がとけるのが面白かったんだろう。前よりも宿題をするのを嫌がらなくなったし、桐山くんに一目を置くようになった。職員の人の言うことよりも彼の言う事の方に耳を貸すこともあったくらいだ。
桐山くんが入った後にも、新しい子が何人か来たけど、その子たちが馴染むようにも上手く立ち回っていた。
荒れている子には、そっと手助けしてあげて、意固地になっている子には、まぁとりあえず何かたべなよって自分のおやつを分けてあげていたのも見た。
僕らのような経験をした子には、大人を強く警戒している子もいる。
特にそう、ネグレクトや暴行をうけて保護されて此処に来たような子だ。
そういう子には、職員の人があれこれ言うより、子ども同士の方が上手くいくことも多い。
桐山くんがきてからは、もっぱら彼がその役目をしてくれていたし、職員の人も相当助かっているようだった。
新入りの子がある程度落ち着いてきたようだったら、元からいた仲間の中で、その子にあいそうだったり仲良くしてくれそうだったりするグループを見つけて、上手くその子を入れてあげていたりもしていた。
僕はどうして、そういうことまで分かるのか不思議で仕方なくて、彼に一度聞いたことがあった。
桐山くんはひとの顔を伺って過ごしてきた時間が長かったからなぁ……と言ったあとに、まぁ経験則上かなって苦笑いで答えた。
そうして、日々を過ごしてしばらくたった頃。
桐山くんがあることに熱中していることに気づいた。
将棋だ。
彼が読んでいるのはいつも将棋関連の本だったし、時間があれば盤をひろげて駒を並べて何かをしていた。
ただ、施設に居るときに彼が、放っておかれる時間は短い。
年下の子たちには特にしたわれていたし、構ってほしがる子も多かったのだ。
そして、そういう時に近寄ってきた小さい子を、決して無下にするようなことはなく、いつもそちらを優先していた。
やがて、休日はどこかに出かけるようになった。
図書館に行っているらしい。
職員の人は桐山くんを信頼していたので、好きにさせていた。
歩いて20分くらいの近い場所にあったのも大きいと思う。
小さく僕がいいなぁとこぼしたら、桐山くんは僕の事も誘ってくれた。
てっきり一人になりたくて行っているのだとばかり思っていたから、一度は遠慮したのだけど、青木くんとは教室でも、静かに本を読み合ってる、場所が変わるだけだよって言われた。
本を読むのは大好きだったから、彼の言葉に甘えてついていくようになった。
図書館には学校に無い本も沢山あって、何より静かで僕からしたら天国みたいな場所だった。
桐山くんは二人だと、職員さんが安心するみたいだと言って、僕に付いてきてくれて助かると言ってくれた。
少しでも彼の助けになれたのなら嬉しいし、僕も本が読めるしで良いことだらけだった。
桐山くんがきて、最初の冬が深まった頃だっただろうか。
休日に図書館に向かうはずの彼が、僕にごめん、ちょっと共犯になってくれないかな? と頼んできた。
将棋の大会に出るから、午前中は別の場所に行きたいらしい。
帰りは合流するから、ずっと一緒に此処で本を読んでいたことにしてくれないか、と。
僕は嬉しかった。
彼と秘密を共有できることも、彼に頼られたことも。
僕を信頼してくれているのが分かったから。
何度も何度も頷いて、大会頑張ってと彼を送り出した。
桐山くんは勝ったよっと笑って夕方には図書館に現れて一緒に施設に帰った。
そんなことが何回かあって、春になったころ、彼は大きなトロフィーをもって帰ってきた。
僕はびっくりしてしまった。
そんなに大きな大会だと思ってなかったのだ。なんと彼は小学生名人になったという。名人という肩書きが将棋界では特別なのは、少し調べたから知っていた。
桐山くんは、想像以上に将棋も強かったらしい。
そして、これは流石に隠しておくのも限界かなっと笑う彼に同意をせざるを得なかった。
だってあんなに大きいもの、隠せるわけがない。
施設の人も当然とても驚いていて、桐山くんと園長先生は何か園長室で話し込んでいた。
僕は心配だった。
彼が怒られてしまう、もう将棋ができなくなったらどうしようと、そわそわした。
桐山くんにとって、将棋が特別なのは傍で見て来た僕にはよく分かっていたから。
しばらくして、部屋から出て来た桐山くんはいつも通りの様子で、僕が廊下でまっていたのをみて、駆けよって来てくれた。
勝手をしたことはちょっと叱られちゃったけど、大丈夫だった、これからはちゃんと報告してから大会に行ってくるよ、と言われて、僕は一安心した。
そして、小学4年生の夏に、彼は奨励会というところに通い始めた。
今までとは何か違うの? と皆からの質問に、将棋のプロを目指す人たちが集まってくるんだよって説明してくれた。
将棋のプロって何? と聞いたら、少し悩んだ後に、分かりやすくいうなら、将棋を指してお給料貰える人かな、と教えてくれた。ほんとはもっと色々仕事もあるし、なかなか奥が深いらしい。
それは、とてもすごいことだって思った。だって、大人にならないとお金はなかなか稼げない。
桐山くんがプロ棋士だよってみせてくれた人たちは皆大人だった。
彼がどんどん遠い世界へと足を踏み入れ、自分で未来を切り開いていっているのを実感した。
休日には記録係という仕事をしだしたこともあって、桐山くんと過ごす機会は減って、すこしだけ僕は寂しかった。
でも、学校では一緒だから、他の子たちよりは彼と一緒に居られたと思う。
ある日の学校からの帰り道。僕はなんとなく、桐山くんを誘ってすこし、遠回りをしてとある公園まで彼を連れて行った。
そこで、僕が施設にいるようになった経緯を話した。
暗黙の了解というか、ルールが僕らの間にはあって、前の家族や家の事を話すのは、本当に稀だ。
でも、僕は彼に聞いてほしかったのだと思う。
彼は静かに話を聞いてくれた。
そして、彼の話もしてくれた。
尊敬する父のことを、優しかった母のことを、可愛い妹のことを。
僕は思わずいいなぁって呟いてしまったんだ。
あたたかな家庭の記憶、両親と妹との思い出を持っているのが羨ましかった。
だってそんな家族が、僕のあこがれだったから。
後から、なんてことを言ってしまったんだろうと凄く後悔するのに。
純粋に羨ましいと口からこぼれた言葉だったんだけど、それがどんなに残酷だったか、その時分かっていなかった。
桐山くんは僕の言葉に少し、困ったような顔をして、ありがとうと言った後、でももう会えないからなぁと小さくつぶやいた。
僕はその言葉に、冷水を浴びせられたみたいに、サッと頭が冷えた。
僕にはまだ可能性がある。
顔も覚えていない母親だけど、どこかで生きていてひょっとしたら、また会えるかもしれない。
あの掌の感触をいつかまた感じることが出来るかもしれない。
でも、彼にそれはありえない。
だって、みんな死んでしまった。
たった一人、彼だけを残して。
こんなに羨ましいと思えるような優しい場所を、突然奪われて、そして、もう二度とそれは彼の手に戻らないのだ。
そのことに思い至って、あわをくって謝る僕を、彼は落ち着いてとなだめてくれた。
嬉しかったと。
自慢の家族の事を褒めてもらえて嬉しかったと、柔らかく目を細めた。
そして、彼の家族の事を知っていてくれて、覚えて居てくれる人が増えたのは喜ばしいことだと。
桐山くんが本心からそう言っているのは分かった。
僕は耐えられなくなって、どうして、そんなに強くなれるの? 君はいつもいつも優しくて、すごく大人だって尋ねた。
彼はすこしだけ、考え込んだあとに、僕だけに教える秘密だと前置きして、実は人生2回目なんだよって笑ってみせた。
僕はそのときはぐらかされたのかと一瞬思ったけれど、桐山くんならありえるかもしれないと、なんだかあっさり納得してしまった。
信じてもらえるとは思ってなかった桐山くんは少し驚いた顔をしたけど、うん。だから、僕の事はそんなに心配しないで、もっと頼ってくれて大丈夫、と力強く頷いた。
本当かどうかなんて、どうでも良いこと。彼がそういうならそうなのだ。
だから、僕はこの秘密をだれにも言わないと心に誓った。
それからの桐山くんは本当に凄かった。
記録係の仕事を頑張っているらしくって、事務の人に貰ったと大量のお菓子を度々持ち帰るようになった。
クリスマスの時など、わざわざ自分でケーキまで追加で買ってきてくれた。
滅多に食べれないご馳走に僕らはとても喜んだし、そんな僕らをみている彼の表情は本当に優しくて、なんだかお兄ちゃんみたいだなって、同い年なのに思った。
小さい子たちは無邪気に試合には勝ったのかと度々聞くけど、桐山くんが負けたと返事をしたことは一度もなかった。
本当に彼はプロになるだろうなっと思った。
そして、その時がきたら、此処から出て行ってしまうのだろうかと思い至って、僕はその日が来るのは、なるべく遠い日がいいな、なんて考えてしまった。
彼が居る日々はそれほど充実していて、穏やかな日々だったのだ。
小学5年生になって、僕はまた桐山くんと同じクラスになれたことを喜んでいた。
けど、その喜びは長くは続かなかった。
梅雨が明けた頃、就寝前の桐山くんに話があると声を掛けられた。
明日園長先生にも話すけど、青木くんに一番最初に言いたかったって。
将棋のお師匠様が決まったらしい、そしてその人は桐山君を内弟子…つまり引き取ってくれると言ってくれたらしい。
あぁ……ついにこの日が来てしまったのかと思った。
僕の中には、行かないでほしいとか、寂しいとか、まだ一緒にいたいとか、そんな気持ちがいっぱいいっぱいあったけど、でも全部グッと飲み込んだ。
だって、彼にとってはとっても喜ばしいことだ。
此処にいるよりずっと将棋に集中できる。
彼が大好きで、全てを注いでいる将棋に思う存分打ち込める環境が手に入る。
だから、へたくそだったと思うけど、精一杯笑って、良かったね。おめでとう。って答えたんだ。
桐山くんの師匠という人が優しい人であってほしいと思った。
あの公園で、もう家族には会えないからと困ったように笑っていた彼を、守ってくれる大人だったら良いのになってそう願った。
桐山くんが引っ越すのは、夏休みになってからになった。
施設の人たちは喜ばしいことだけど、桐山くんがいないと色々大変だと苦笑していて、小さい子たちは、行っちゃやだーと彼に突撃して、困らせたりしていた。
でも時間があったのは良かったかもしれない。
なんとなく年長にあたる中学生たちとか、それから僕のような小学生高学年の子たちの間で、しっかりしないとなっていう自覚が出て来た。
桐山くんは確かに凄かったけど、僕らだって何かできるはずなんだから。
ずっとこなければ良いと思っていたその日は、あっという間に来てしまった。
前日は小さなお別れの会をしたりした。
出し物とか結構みんなで頑張って考えたから、桐山くんが喜んでくれたみたいで嬉しかった。
寄せ書きとかも作ってみた。言いだしっぺは僕だ。生まれて初めて、皆に呼びかけて何かをしてみた。
寄せ書きの内容がびっくりするくらい将棋頑張ってみたいな内容ばっかりだったのが、なんだか彼に贈る色紙らしくて、笑ってしまった。
絶対泣かないって決めてた。桐山くんが困るのは嫌だから。
でも、彼がお世話になりました。と頭を下げて、玄関を出ようとした時、あぁもう行ってきますじゃないんだなって。
もうただいまって、此処に帰ってくることはないんだって、そう想ったら身体が勝手に動いていた。
ギュッと彼の服の裾を掴んで、何か言いたいのに、でも何を言ったらいいのかも分からなくて、固まった僕の耳に彼の言葉が響いた。
「ありがとう。僕は君と居る時が一番、居心地が良かったよ」
そんなの、ずるいよ。
僕だって、そうだ。
僕の方こそ君と居られた日々がどんなに楽しかったか。
「……桐山くん、本当に行っちゃうんだね……残念だなぁ。僕、君が来てから本当に楽しかったから……」
だれかと一緒にいた方が楽だって、生まれて初めての経験だった。
なんの見返りも求めずに僕の事を助けてくれた人も君が初めて。
無条件で頼ってもいいのかなって思えた相手も君が初めてだった。
「……ごめん、ごめんね。良いことなのにね、笑顔でさよならしたいなって思ってたんだけど……」
最後まで弱虫で情けないな。って思ったけど結局涙は止められなかった。
「学校でまた会えるよ。クラスは一緒なんだから。それに、此処にも遊びにくる」
「絶対? ぜったい来てくれる?」
里子に出た子は桐山くんのほかにもいたけど、また遊びにくるって言って、きてくれた子なんてほとんどいない。
そして、その子たちだって、数回きたら、その頻度は減ってやがて来なくなる。
「うん。絶対だよ。約束する」
でも、桐山くんは力強く頷いてくれた。
彼が来てくれるっていうなら、来てくれる。
「わかった。約束だね」
だって、出会ってから一度も嘘は言わなかった。
いつも正直で、優しかった僕のヒーロー。
いい加減この手を離さないといけない。
いつまでも、君に縋って守ってもらうばかりじゃ駄目だもんね。
「桐山くんは、ずっと僕の憧れだった。どうしたら君みたいになれるの?」
ついでだからと、日ごろからの疑問を投げつける。
桐山くんはえっ? と戸惑った後に、少し考え込んでいるようだった。
「……そんな大層な人間じゃないんだけど……。うーん……何か、何か一つでいいから人より自慢できる物を持ったらいいと思う。
それは、自信になるし、自分を強くしてくれるし、助けてくれるはずだから」
そっか……君にとってはそれが将棋だったんだね。
「……これ、餞別にあげる。僕が一番好きな本」
「え? いいの? だって青木くん自分の本ってそんなに数ないよね?」
僕はほんとに数えられないくらい多くの本を読んできたけど、僕の私物の本というと数冊しかない。お小遣いなんてそうそう貰えないからだ。
「うん。でも、桐山くんに持っていてほしい。代わりになんでも良いから、一冊本をくれないかな?」
桐山君は将棋の本しかないよって言いながら、詰将棋の本をくれた。
彼は知らなかったみたいだけど、僕は将棋がちょっとだけ分かるようになっていた。
だって、この先も桐山くんを応援するのに、全くわからないなんてつまらないじゃないか。
もう少し、勉強して、自分でもすこし指せるくらいになりたいなって思っていた。
最後にもう一度頭を深く下げて、車に乗り込んだ彼の事を車が見えなくなっても、しばらく見送っていた。
そして、僕もなにか見つけたいなって思った。
彼のように人生を掛けても良いとおもえるなにかを。
そうしたら、なんだか色々厳しくてつらい世の中だけど、桐山くんみたいに強く生きていける気がした。
オリキャラの青木くん視点でした。
桐山くんはそんなに、凄いことしたとか全然思ってないんですけど、周りからしたら、結構な影響を与えてたよって感じです。自分が過ごしやすいようにと立ち回っていただけのなで、別に感謝してほしいとか思ってません。施設の子たちも健やかに育ってほしいと思っています。
青木くんは大人になったら、人気の小説家になります。
その過程にはまた色々あるんでしょうけど、桐山くんが頑張ってるのをみて、自分もがんばらないとって諦めずに夢に挑み続けます。
桐山くんとの交流はちゃんと今後も約束通りずっと続いて行く模様。
(この子メインの視点を書くという事にだいぶ迷いましたが、青木くんに関しては必要だったかなと今は思います。特に桐山くん施設に入れちゃってたし……その辺りをあまり薄っぺらくしたく無かったので)