小学生に逆行した桐山くん   作:藍猫

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オリキャラです。
桐山くんとひなちゃんの子どもの視点です。
大丈夫な方は読んでください。


将棋の国の子ども

 桐山 千陽(きりやま ちはる)

 これが私の名前。

 歳は、12歳。

 そして、職業はプロ棋士。

 

 幼い頃から、将棋に触れて育った。

 将棋の駒を口にいれてはいけないと分別がつく歳になると、駒を触って遊んでいた。

 文字を覚えると同時に、数字を覚えて、棋譜が読めるようになるのも随分とはやかったらしい。

 詰め将棋が理解できる幼稚園の年長ごろには、わたしはそれにすっかりハマっていた。

 いつの間にか、自分でお絵かき帳に問題を作っていたのは、流石に驚いたとお父さんは笑っていた。

 

 私の父という人は、すこし変わった人だ。

 

 まず職業が日本に、数百人しかいない、将棋のプロ棋士だった。

 そして、その中でも、タイトルホルダーというかなり強い人だった。

 時にテレビで、時にネットの中継で、棋戦に挑む父の姿を、リビングでみんなで応援するのが日常だった。

 

 でも、家ではただの優しい父だった。というかお母さんにも私にもとても、甘かった。

 

 お母さんの実家は、和菓子屋さんをしていて、私や、妹たちの子育ての間でも、頻繁に手伝いに行っていた。

 美味しいものを作ることに携わること、人を笑顔にできるものを作ることが好きな人なのだ。

 私には妹が二人いる。3つ年下の次女と5つ年下の三女は、二人とも将棋にそこまで興味を示さなかった。

 それぞれが、それぞれに好きなことがあって、興味を持つものも違った。

 妹たちはかわいい。喧嘩もするけれど、大切な家族だ。

 

 長女によくあるらしい、お姉ちゃんがほしいという気持ちも私にはあまりなかった。

 母方の叔母であるもも姉ちゃんは、私より10歳年が上なだけだった。

 末っ子だった、もも姉ちゃんは、私を凄くかわいがってくれて、私たちは姉妹のように育った。

 

 

 

 私にとって将棋は、お父さんと遊べる道具で、そして沢山の人に構ってもらえる恰好の遊びだった。

 指せる相手は沢山いた、まずは、相米二おじいちゃん。本当はひいおじいちゃんなんだけど、おじいちゃんって呼んでる。

 覚えたての頃どんなめちゃくちゃな手を指しても、否定なんてされなかった。なんども何度も気長に対局に付き合ってくれた。

 

 それから、お父さんの友だち。

 学生時代、同じ部活だったらしくて、将棋が指せる人も多かった。アマの免状の申請を出してくれる人が今もいるらしい。

 お父さんは、初めて獅子王になってから、ほとんどの期間そのタイトルを保持してきた。たまに名人も一緒にとっていることもある。

 ついにこの前、三段の申請をしてきたよ、ってお母さんに嬉しそうに話しているのを何度か、名前を変えて耳にした。

 

 そして、私が大好きな作家の青木先生も時々、遊びに来てくれる。

 ファンタジー小説に定評があって、映像化された作品もいくつかある人気作家だ。

 そして、将棋について書いている本をいくつか出している。

 「獅子王と歩む道」というタイトルで、お父さんとの幼少期の思い出から、七冠達成のその日までを描いた、ノンフィクションの小説は、ロングセラーになっている。映画化の話も出ているらしいが、本人たち二人が照れくさいからと、断っているそうだ。

 

 最後に、ネットの誰とも知らない人々。

 パソコンを使えるようになると、すぐにインターネットを通じて、沢山の人と指すようになった。

 いろんな人がいたけれど、時間を選ばず指せることが良かった。

 幸田のおじちゃんの息子の歩さんは、その方面のお仕事をしていて、時々うちにやってきた。

 AIを使った将棋ソフトの開発に携わっているらしく、お父さんにプロ棋士の視点からの意見がほしいそうだ。

 解析ソフトの使い方も、詳しく教えてくれて、お父さんをはじめ、お父さんの研究会の人たちは、かなりお世話になっているらしい。

 

 お父さんは門下の集まりにも時々私を連れて行ってくれた。

 藤澤のお師匠さまも、幸田のおじさんも優しくて、大好きだった。

 そして、時間があれば皆が将棋を指してくれるのだ。

 それが嬉しくて、楽しくて、私はただ夢中になった。

 

 大人とばかりじゃなくて、子どもとも対局した方が良いと、お父さんは子ども大会にもよく連れて行ってくれた。

 勝ったらみんな喜んでくれるし、年の近い子たちとの将棋も楽しかった。

 

 そして、私は負けなかった。

 

 今でこそわかる。お父さん一人だけではない、ある程度指せるようになると、お父さんの家に訪れるプロ棋士の方も私の相手をしてくれた。

 そんな人たちと将棋を指して育った私は、知らず知らずのうちに英才教育を受けていたのだ。

 

 勝てるから、というよりも、私は誰かと将棋を指すことがとても好きだった。

 棋譜に美しいという感覚があることが分かるようになると、よりその傾向は強くなった。

 父の棋譜は美しかった。

 自分もいつかこんな棋譜を残せるような人になりたい、そう思うようになった。

 

 

 

 優勝したことがないこどもの大会がなくなった頃、お父さんに付いて行って混じっていた藤澤門下の会合で、興味があるなら奨励会に入会しても良いのではないかと話題になった。

 私が小学3年生になる時の事だ。

 

「少し、はやいような気もするのですが」

 

「本人が望むなら、実力的には充分だろう。君も小学4年生の時には入会していたし」

 

 お父さんのお師匠さまがそう答えた。

 

「千陽は? どうしたい?」

 

 お父さんはそう聞いてくれた。いつだって、まず私の希望をきいてくれた。

 

「受けたい! 強い人と戦いたい」

 

「大会には出れなくなるよ? 大丈夫?」

 

「うん、もういっぱい出たから、大丈夫」

 

 幼い私は、はやく皆の仲間入りをしたいと思っていた。

 それはつまり、プロにはやくなりたいということだった。

 

「正式に師匠を決めないといけないね。勿論、父親の零くんでもかまわないが」

 

 幸田のおじちゃんがそう言った。

 

「僕としては、父親は師匠とは違うと思うので……出来ればどなたかにお願いしたいと思っているのですが」

 

 私もお父さんが師匠はなんか、ちょっと違うなと思った。

 

「正宗おじさんが良い!」

 

 こういう時に自分の意見を言うのが大事だと教わって育った私は、すぐに手をあげて発言していた。

 

「えぇ!? 後藤さんが良いの?」

 

「そりゃあ良い、正宗もそろそろ弟子を取ってもおかしくない頃だ」

 

 藤澤のお師匠さまが、嬉しそうにそう笑う。

 

「……勘弁してくれよ」

 

 おじさんはそう眉をひそめたけれど、嫌だからじゃないって事が分かるくらいには、長い時間を過ごしてきた。

 

「駄目ですか?」

 

 弟子になるなら、敬語だろうと、言葉を改めて伺ってみた。

 

「……本気か?」

 

「いつだって、将棋については本気です」

 

「なら良い。……弟子になるなら、もうおじさんじゃ締まりがねぇな」

 

「はい! 師匠! よろしくお願いします」

 

 お父さんはそれなら、幸田さんでも良いじゃないかなんて言っていたけれど、藤澤門下の中で一番厳しいから、後藤おじさんが良かったの。

 なんだかんだ、皆が私に甘いのだ。

 将棋に関して手を抜かれたことは無いと思っているけれど。

 一番容赦なかった正宗おじさんを師匠に選んだことを、しばらくして会った香子姉さんは褒めてくれた。

 

 

 

 

 師匠は今は独り暮らしだ。

 私が小学生にあがってすぐ、師匠の奥さまの美砂子おばさまは、病気で亡くなられた。

 

 師匠はその時、しばらく将棋をおやすみした。

 藤澤門下の会にも顔を出さなくなったのを覚えている。

 数週間たって、お父さんが将棋を指しに行き、それからまた顔をだすようになった。

 

 その後しばらくは、妙に私と指してくれることが増えた。

 公式戦に復帰する気がまだおきず、暇だったからなんて言ってたけれど、幼い私はそれが嬉しかった。

 ちょうどそのころ、20代後半だったお父さんは、タイトルを幾つも持ち、それゆえに多忙だった。

 タイトル戦をしている時のお父さんに将棋を指してと頼めないくらいには、私は将棋の事を分かっていたし、将棋が好きだった。

 師匠は強かったし、容赦がなかったけれど、その時期沢山指してくれた事が、私の大きな成長に繋がったと思う。

 

「これ、美砂子おばさま? すごく綺麗」

 

 奨励会に入ってから、師匠の家に勉強にいくこともあった。

 

「ちょっと若い時の写真だな、おまえは殆ど覚えてないだろう」

 

 リビングに飾られていたその写真はとても素敵だった。

 

「私、おばさまの事、凄く好きだったの」

 

「美砂子は、おまえが覚えてるような歳のときは、もうだいぶ弱ってたろ」

 

「それでも、綺麗で優しかった記憶しかないよ。所作だったり、佇まいだったり、おばさまは私の憧れだった」

 

 美しく、しっかりとした女性だった。

 沢山素敵な女性をみてきたけれど、その中でも群を抜いて、カッコいい人だった。

 

「おまえ、俺の事はおじさんだったけど、美砂子のことはかたくなにおばさんとは呼ばなかったもんな」

 

「だって、師匠はお父さんと夜通し将棋したり、飲んだくれてたり、いっぱいカッコ悪い所もみてたんだもの」

 

 藤澤門下の人々は、身内のような気安さがあった。

 鬼のように将棋は強いけれど、どこか仕方ないところも沢山見てきた。

 

「師匠も分かってるでしょう。私はカッコいい女性が好きなの。香子姉さんみたいなね」

 

「香子? やめとけ、あんなキツイの」

 

「えぇ……ひどいなぁ。優しくて繊細なところもあるんだよ。姉さんは、弱く見られたくないからそういうところを、男の人の前じゃ絶対出さないの」

 

 お父さんより歳上の香子姉さんは、おばさんで良い、と言ってくれたこともあるけど、私はずっと、姉さんと呼んでいた。

 私の母は、名前のとおり陽だまりのような人で、いつもぽかぽかと暖かい。

 もちろん、大好きだけれど、私とはあまり性格が似ていないと思う。

 香子姉さんとは、将棋のこともふくめ、何故かとても波長があった。

 将棋にのめりこんでいく私を、母はお父さんに似たんだねと、無条件に応援してくれていた。

 香子姉さんは、もし、お父さんのように本気で将棋の世界で生きるなら、それはとてもしんどい事だと、そっと教えてくれた。

 それでも、私は、頑張ってみたかった。

 

 

 

 


 

 小3の8月に私は奨励会の入会試験を受けた。

 周りではいくらなんでも、早過ぎるだろう、親の欲目だなんて、声もあったらしいが、問題なく合格できた。

 奨励会の入会試験は最低の6級でもアマチュアの三段くらいの実力が必要だと言われている。合格率は三割程度らしい。

 

「甘くみてくる男がいたら、将棋でひっぱたいてやりな」

 香子姉さんは、私が合格したことを知ると、そう激励してくれた。彼女はそこで勝ち抜く辛さを誰よりも分かっていた。

 奨励会に女性は少ない。というかほぼ在籍していない。

 

 女性で将棋を仕事にしたければ、女流棋士の道がある。

 研修会という制度もあった。そういえば、周りからは、研修会に入れば? という話が一度も出なかった。そこからも、周囲の期待がわかる。

 

 私が指したいのは、お父さんで、そして藤澤門下や、島田門下、他交流があるプロ棋士たちだったから。

 初めから、奨励会を選んだことに後悔はない。

 

女で、奨励会は無理。入って分かったことだけれど、そんな雰囲気を肌で感じた。

 面と向かって言われたら、言い返すのに、現タイトルホルダーの娘に正面からそんなことを言ってくる人はいなかった。

 でも、陰口って意外と本人の耳にはいるものだ。

 

 だから、私は負けなかった。

 

 無敗で奨励会を突破した記録がある。

 そう、父、桐山零が残した記録だ。

 同時にそれは、奨励会の突破の最短記録でもあった。

 私は、父よりも一年はやくも入会した。

 昇級の規定は連勝であれば6連勝する事。難しいだろうか? そんなことは無い。

 現役タイトルホルダーにさえ相手をしてもらっている。

 今の奨励会の流行りも、充分に対策してきた。棋譜も、練習相手でさえ、伝手で望めば手に入った。

 私は間違いなく、恵まれていた。

 

 そして、それゆえに勝たなければならなかった。

 

 一度の奨励会で戦う局数は三局まで。

 父は、一度も負ける事なく三段リーグに到達し、それを一期で抜け、プロになった。

 同じことを出来ないとは思わなかった。

 

 小学四年生で三段リーグ入りを目指す。そう決めて、ひたすらに将棋にのめりこんだ。

 奨励会には、強い人はいっぱいいた。だからこそ、面白い棋譜も沢山出来た。

 私は、それが嬉しかった。

 無敗で級位をぬけ、初段になったころ。もう、私のことをとやかく言う人は、奨励会の中にはいなかった。

 

 どうやって、昇段を阻もう。どうすれば、勝てる?

 周りの目がすっかり変わっている事が分かった。

 

 流石に、初段に上がってからは、全勝ってわけにはいかなかった。

 初めて負けて帰った日、父はかえって良かったかもしれないと、呟いた。

 勝ち続けると、それが自分にプレッシャーになるから、と。

 

 その言葉どおり、負けてしまったものは仕方ないと開きなおると、連敗することはなかった。それに10月の後期リーグ入りをしたければ、もうあまり負けてはいられなかった。

 父は急がなくても、めちゃくちゃ先は長いと言ったけれど、まさに目の前のこの人なのだ。異例のはやさで奨励会を駆け抜けて、プロになってしまったのは。

 

 

 

 

 


 

 女流王座戦の一次予選に出ないか? と話を声をかけられたのは、小四の4月の事だ。

 隈倉会長が、負担でなければ是非と、そう持ちかけてきた。

 女性の奨励会員は、それだけで出場資格がある女流棋戦があるらしい。マイナビ女子オープンと女流王座戦がそれにあたる。

 

 随分と迷った。奨励会に集中したいような気もした。

 香子姉さんは、ここでも相談に乗ってくれて、とりあえず出れるなら出たら?と言ってくれた。

 誰でも資格があるわけじゃない、アマの人は予選を勝ち抜かなければ出れない。

 私は、研修会にも所属していたことはないし、全くそちらに関わらないというのは、なんとなく面白くない人もいるだろうとのことだった。

 

「それにね、やっぱり観たいと思うじゃない。きっと千陽は零みたいに、全部かっさらっていくわ。そこに女でしかとれないタイトルがあるなら、そっちも取ってほしいって思う」

 

 そこまで、好戦的な気持ちだったわけではないが、確かにお父さんは出られないのだから、自分が、という気持ちが生まれたのは確かだ。

 

 私は一次予選からの参加になる、そこで勝ち抜けば二次予選。

 本戦はシードの女流棋士と、二次予選を勝ち抜いたものを合わせて16名で行われるトーナメントだった。

 こんなことを言ったら良くないと思うので、ここだけの話。奨励会で戦うよりずっと楽だった。

 でも、同じ女性でしかも、同じ年頃の子も沢山参加していて、それは少しうれしかった。

 並行して、奨励会は初段から二段へとあがった。

 

 8月からは、マイナビ女子オープンに参加しながら、女流王座戦の本戦トーナメントを勝ち抜き、同時に奨励会での勝率も重ねていった。

 

 多数の棋戦を抱えることは、大変だと感じた。

 これがプロになったらもっとなのか、と父の多忙さも今なら納得できる。

 

 9月の一回目の奨励会で、12勝目をあげて、10月からの三段リーグ入りを決めた。

 将棋界の歴史で三段リーグに在籍した、女性会員は数人である。

 今期はもちろん私しかいない。

 

 鬼の住処と言われるほど過酷なその場所に挑む私を、父はまだはやいと思うんだけどなぁとひたすら心配していた。

 藤澤門下の人々は、喜んでくれて、二人目の小学生プロが生まれるのではないかと、激励してくれた。

 当然そのつもりだった私は、父と同じように一期で抜けますと宣言して、皆に驚かれた。

 師匠が、生意気なところがそっくりだと、小さく横で呟いて、当時の父と比べてか、懐かしいと皆が頷いた。

 

 同時に、私は10月から女流王座のタイトルへ挑む。

 小学四年生での挑戦は、最年少記録だった。

 一日制の5番勝負が出来ると聞いて、お父さんみたいだと、無邪気に喜んだ。

 

 世間がこの話題に注目しはじめたのはこの時くらいからだ。

 現役最強の棋士の子どもが、プロの手前三段リーグへと到達した。

 そして、同時並行で女流とはいえタイトル戦に挑む。タイトルホルダーは当然、大人だった。

取材をしようとしてくる人も多くなった。

 ただ、私は子どもだったから、その対応はすべて、家族や師匠がしてくれた。

 まだ、この時はそこまで大きな話にはなっていなかった。

 

 年末に3連勝で、そのタイトルを奪取した。

 小学生でタイトルホルダーという肩書きは父ですらもっていなかった。

 女流とプロでは色々違いすぎるが、それでも、世間は盛り上がりはじめる。

 

 そして、年が明けるとマイナビ女子オープンの挑戦者決定戦も勝ち抜き、私は来年度そのタイトル戦への挑戦も決めた。

 王座戦とは違い、このタイトル戦は、全戦通して和服で行われる。

 挑戦権を得てすぐに、着物を誰が仕立てるかで随分と、大人たちがもめていた。

 当然、父親にまず権利があると、お父さんが主張。師匠も勿論、贈ると言い出す。藤澤のお師匠さままで、でてくるし。結局、三組はつくることになった。

 着物は直しがききやすい。この先も着る機会を沢山作ろうと思う。

 

 

 

 

 


 

 いよいよ3月。三段リーグが終わる。

 お父さんのように全勝というわけにはいかなかったが、16勝2敗で、私は四段への昇段を決めた。

 

 二人目の小学生プロ棋士、そして、はじめて女性でプロ棋士を名乗ることが出来る。

 

 私の想像よりもずっと、大きなニュースになってしまった。

 小学校にも取材が来た。三段リーグを勝ち進んでいるときから、注目が高まっているのは知っていたけれど、これほどとは思わなかった。

 青木先生がお祝いの時に、既に私についての本を出さないかって依頼がくるって、お父さんに話していて、私も困ってしまった。

 アイドルのように扱われたいわけじゃないのだ。

 お父さんは困っている私をみて、色々なアドバイスをしてくれた。

 こんなに盛り上がるのは一時的だから、もう少ししたら落ち着くとか。

 でも、人気商売のところもあるから、ある程度は仕事だという心構えとか。

 道端で声をかけられたときの対応、これから起こるであろう、トラブルの予想。

 あぁ、お父さんも苦労してきたのかなって、思った。

 

 もう一つ、大きな選択をしなければならなかった。

 

 私は、奨励会を通過し、四段となった。研修会には所属していない。

 けれど、女流棋士の申請を出せば、今まで出場できた二つの棋戦とは別の女流の棋戦にも出場が可能になる。

 これは、将棋連盟が、いずれは生まれるだろう女性のプロ棋士のために、以前から決めてあったことだ。

 この申請は、四段になって二週間以内に出さなければならない。

 両方の棋戦に出るということは、それだけ日程は忙しくなる。

 三段リーグと並行して、二つの棋戦に出るだけでも大変だった。

 

 随分悩んだけれど、とりあえず申請を出すことにした。

 もし、しんどくなれば女流の方はお休みしてもいい。とりあえずは、頑張ってみようと思った。

 

 

 

 小学5年生で将棋界に入ってから、私は父の記録に挑み続けた。

 具体的には父が残した様々な最年少記録を更新することが期待されていた。

 父の時でさえ、今後破られることはないだろうと言われていたその記録を、娘が塗り替えようとしている。

 周囲の期待と目線が重いと感じることもあったが、私は家族と師匠に守られていたから、それほどひどくはなかった。

 藤澤のお祖父様も、幸田さんも、零の時を思い出すと、色々力になってくれた。

 

 騒がれるほどに、将棋界に父が刻んできた偉業を思う。

 

 二世に関しては、それなりの悩みがつきまとうとはよく言ったもので、私は常に父の背中を意識していた。

 父はよく自分は特殊だったから、気にするな、千陽の方がもっと凄いと、しきりに言ってくれた。

 私は、それに素直にはうなずけなかった。

 

 だって、お父さんはめちゃくちゃに強い。プロになって、ますます思い知らせられた。

 将棋界の歴史を塗り替え続け、今や最多のタイトル保持記録すら持っている。

 中学2年生で初めて獅子王のタイトルを手にしてから、一度も無冠になったことはない。

 だから、桐山九段と呼ばれたことはない。

 常にその背に、何かのタイトルを背負っている。

 25歳の時には史上二人目の七冠を達成し、35歳の現在は全てのタイトルで永世資格を持っている。

 

 

 

 対局相手に父の事を言われることは沢山あった。

 将棋が強い人ほど、もっと将棋が強い人のことが気になってしまうのはよく分かる。

 半分恨み言のような事をいう人もいたが、多くは好意的であったし、そして、並々ならぬ気持ちを持っている人もいた。

 

「桐山名人の娘さんだよね?」

 

「はい、桐山零の娘の千陽です」

 

 父の話をしたがる棋士は多い。この人は対局後の感想戦の時に持ち出してくれたから、まだ良識がある方だと思う。

 藤本九段なんて、「また小さい桐山か」と対面に座って早々に、止まらない想い出トークだったのだ。

 あんなに話しかけられながら、指した対局は無い。

 

「いやー、娘さんがもうこんなに大きくなったんだね。時の流れは残酷だ。僕は、今日きみに負けたけど、同じように君のお父さんにも負けたんだ」

 

 負けた話をされることも、沢山あった。この方が違ったのは、それをどこか嬉しそうに言うことだった。

 不思議そうな私の顔をみて、彼は続けた。

 

「忘れもしない三段リーグの17戦目、昇段を確実にしていた君のお父さんに僕は完敗した。当然、三段リーグは突破できなかった。当時の私は、23歳。君のお父さんは10歳だったかな。君は今、いくつなんだっけ?」

 

「10歳です。誕生日がきたら11歳になります」

 

「そうかぁ、娘さんがもう10歳なんだね。僕は、君のお父さんに負けたけど、それでも諦められなくて、年齢制限ぎりぎりまで粘るって決めたんだ」

 

 今、この人はプロ棋士だ。ということは、ギリギリでもそのチャンスをものにして、プロになったという事だ。

 

「プロになれて本当に良かったと思っている。……君のお父さんに負けてなかったら、たぶんプロにはなれなかった気がして。それからもう20年くらいか。相変わらずパッとしない成績だが、それでも将棋を指せることが喜ばしいよ」

 

 プロになって父と指したことがあるらしい。父はちゃんと気付いたそうだ。

 嬉しいと言ってくれたことが、何より感動したらしい。

 

 三段リーグで負かした人達の事を、私も覚えている。

 あそこは特殊だ。だって、文字通り人生がかかっている。プロになれるか、なれないかの目に見える線引き。

 私は、プロになった。なら、指さなければいけない。

 誰もが、感動するような一局を、一つでも多く残さなければならない。

 重たいとおもったけれど、負けたくなかった。

 

 

 

 マイナビ女子オープンのタイトルも奪取し、女流二冠となった私は、徐々に他の棋戦にも参戦していった。

 女流名人位戦と倉敷藤花戦のリーグ戦は、4月から始まった。女流王将戦はすでにタイトルをもっているから、本戦からの参戦で良い。

そして、プロ棋戦の方もある。

 まだ一年目の春は良かった。けれど、夏を過ぎると、どんどん棋戦が重なっていった。

 自分がいったいどの棋戦にでているのか、わけが分からなくなりそうだった。

 そんな私の棋戦の管理をお母さんは、きちんとしてくれた。

 次はどこにいく、何を着ていく、ちゃんと把握して伝えてくれた。

 

 女流棋戦と合わせると、連勝記録はどんどんたまっていった。

 

 

 

 そんな私の記録を止めたのは、父の親友の二海堂さんだった。

 

 女流の棋戦を除くと、連勝記録は27。

 父が持つ最多連勝記録の43勝にはとても届かなかった。

 内容も完敗だった。私にはまだA級棋士と最後まで指しあえる自力がないことを、目の前に突きつけられた。

 

 悔しかった。

 ぐずぐずと涙しそうになりながらも、決して感想戦をやめない私に、「千陽くんはもっと強くなるな」と二海堂さんが豪快に笑った。

 

 師匠は酷かった。負けて泣いてるようじゃ、プロじゃないって叱られてしまった。全部終わって家で一人で泣けという。

 父は、まだ小学生ですよ。悔しかったら泣きますよと私の頭を撫でたけれど、最後まで仕事をしろという、師匠の言葉を否定はしなかった。

 

 将棋だけじゃない、感情のコントロールも未熟だと、痛感した。

 お父さんだって、小学六年の時からプロ棋士だった。

 負けて泣いたところなんて、中継にもテレビにも映ってはいない。

 私も、ちゃんとしないとって落ち込んでいると、千陽と僕は違うからと、真剣な表情で諭された。

 男と女だから? って聞き返したら、そうじゃないって首を振られた。

 僕は特殊だったんだよって苦笑していた。

 

「悔しくてインタビューで泣いてる人をみて、千陽は情けないって思う?」

 

 スポーツの試合などでたまに見る光景だった。

 

「ううん。思わない」

 

 それだけ、真剣だったんだ、涙なんて止められるなら止めている。

 

「そうだよね、だから泣くのは悪い事じゃない、千陽はちゃんと感想戦もしてたからね」

 

 でも、やっぱり女の子が泣いているとなんとなく居心地の悪さがあるだろう。相手の二海堂さんに悪い事をしてしまった。

 

 それにめそめそ泣いていたら、私自身が侮られる要因になるかもしれない。

 それは、嫌だった。

 

「私、もっと、もっと、強くなる。勝ったら泣かないもん!」

 

 涙をぬぐって勢い良く立ち上がり宣言した。

 

 父はそんな私をみて、そういうところが本当に母に似ていると笑っていた。

 

 

 

 

 

 

 


 それからも、棋戦を重ねる日々だ。

 

 女流のタイトルは、小学生のうちに全部とってしまった。

 今や私は、女流五冠である。

 

 タイトル戦をするだけなら、まだ対局数が少なくてすむから、中学に上がってからも、何とか両方の棋戦に参加するつもりでいる。

 私が両方の棋戦に参加するようになって、女流側の視聴者もスポンサーも随分増えたらしい。

 隈倉会長は無理はしなくていい、と言ってくれたけれど、将棋人口を増やしたいから、まだ頑張れると思う。

 この先、私がもっと強くなって、それこそ、お父さんとタイトル戦が出来るくらいになったら、さすがにこちらに集中しようかな、と思っていた。

 

 プロ棋戦の方は、なかなかに難しかった。まだ、本戦で良いところまで勝ち上がれたことは一度もない。

 順位戦は順調にクラスを上げてきた。

 中学一年になった4月。今期から、B級2組になる。

 父の研究会に参加している棋士の人とあたることにもなるかもしれない。

 どうしても、比べてしまうのだけれど、私と同じ年に、お父さんはタイトルの挑戦権をとっている。

 勿論私は、頑張るが、今年度それを達成するのは、なかなかに厳しいと思う。

 本当にA級棋士をはじめ、B級1組にも、びっくりするくらい強い人たちが、ごろごろいる。

 父はよく、こんな世界で、何十年も戦っていると思う。

 

 そうだ、忙しくて忘れるところだった。そろそろ、予定を立てないといけない。

 

「お父さん、今度の誕生日どうする?」

 

 お父さんは4月生まれだ。

 本当は、サプライズとかしてあげたいけど、それなりに忙しい、予定はあらかじめ合わせないと無理だった。

 私の質問に、お父さんは、はっとしたように立ち止まった。

 

「千陽、お父さん今度36歳になる」

 

 父は驚愕したようにポツリとそう言った。

 

「うん、だから聞いてるの。皆で予定合わせてさ、お祝いしようよ」

 

「もう、あと1週間だ」

 

「そう、1週間しかないの。お母さんとか、おばちゃん達の予定もあるでしょ?」

 

 何をそんなに驚いているのだろうか。

 父は、それから、この間にタイトル戦は無いし、それにもうとっくに超えてしまったと、唖然と呟いていた。

 

「何が越えてるの? まだだよ、誕生日」

 

 本当に将棋は鬼のように強いのに、日常ではどこか抜けているところもある人なのだ。

 

「いや……そうだね、ごめん。そうかぁ、36歳になるんだって感慨深くて」

 

 そうやって、溜め息をつかれると、何だが年をとったように見えてしまう。

 でも私は知っているのだ。

 

「そんな事言って。まだまだ、下にタイトル譲る気なんてないんでしょ」

 

「ないね、全く」

 

 父はすぐにそう答えた。

 30歳も後半になれば、少しは棋力がおちる人もいるが、まだそんな心配はいらなさそうだった。

 

「いつか、千陽がとりに来てくれるの待ってるんだ。恩返ししてくれる?」

 

 将棋界で、弟子が師匠に勝つことをそう表現する。

 私たちは師弟ではないけれど、実の親子だ。

 タイトル戦がもし実現すれば、そう表現されることもあるだろう。

 

「じゃあ、もう少し待ってて。そんなに待たせないから」

 

 きっと、この先の長い時間私は、お父さんや皆と将棋を指していく。

 その先できっと、そんな機会も訪れるだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




千陽は以前の世界線では居なかった子です。
そして、将棋に興味をもつ子でもありました。

そのパラドクスが桐山零の人生にも、将棋にも影響を及ぼし、結果35歳の壁を超えることになります。
この先も、将棋界には様々な風が吹き、盛り上がっていくことでしょう。

連投します。
次の桐山くん視点で、この感想戦も一応の締めです。

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