36歳になる。
娘に誕生日の予定をたてようと言われて、僕はようやく気づいた。
とっくに前の世界で、事故があった日を越えていた事に。
千陽は、前回は居なかった子だ。
僕とひなちゃんの間には二人娘がいたけれど、今回は千陽が長女で、そのあとに二人娘が出来た。以前の長女は次女になり、次女は三女になった。
生まれた日も一緒だった。顔をみて、あぁそうだこの子だと思った気持ちを忘れてはいない。
だから名前も一緒だった。
千陽だけが、全て違っていた。
不思議なことに、将棋へとても興味を持ったこの子は、みるみる強くなり、そして、プロになった。
以前、二児の父だったからわかる、親がしていることにある程度の興味はもってみせても、ここまでハマることは珍しい。
千陽は、まるでそう運命づけられたように、将棋の駒を持ち、その興味が他へうつることは一度もなかった。
一般的に幼児がハマるようなキャラクターやアニメにハマる事もなく、じっと駒をみている子だった。
詰め将棋を解けるようになるころには、もう僕と指すようになった。
幼い手が駒をもち、おぼつかないながらに置いていく様子は、ただただ眩しく愛おしかった。
強くならなくてもかまわない、将棋を好きでいてほしい、そう思いゆっくり好きなように指させていた。
いつ頃からだったか。
あの子が詰め将棋を自由帳に書き出した頃かもしれない。
ひ孫が将棋に興味を持ったことを喜んだ相米二さんと指せるようになり、半年も経たないうちに、勝ちはじめた頃だっただろうか。
大きくなるにつれて、興味は他にうつるだろうと思っていた僕の予想を裏切り、千陽はただただ将棋が好きだった。
年末年始の大きな門下の集まりに子どもを連れていくことは珍しい事ではない。
そうやって連れて行った千陽は、ひなた譲りの愛嬌で、気が付けば多くの人と将棋を指していた。
父親の自分が知らぬところで、あの子はいつのまにか、沢山の人の将棋を吸収し強くなっていった。
ごくたまに将棋を指すことはあっても、将棋の内容の指導のようなことはほとんどしなかった。
僕が教えたのは、将棋のルールと礼儀作法と、少しの定跡くらいだ。
父親として、そこに余計な感情を入れずに、この子に将棋を教えることが出来るとはとても思えなかったから。
子ども大会に出場するようになった頃には、もう同年代の子で相手になる子はほとんどいなかった。そのうち、僕の関係のプロ棋士たちとも、それなりに指せるようになっていて、奨励会という話がでるのも、頷けた。
入会するにあたり、棋力の心配はほとんどしていなかった。
香子姉さんに聞いていたから、女性が奨励会に所属する過酷さが少し気になっていた。
女流棋士は増えていたものの、女性が奨励会に入ったり、三段リーグを抜けようとしたりすると話題になる。挑戦する人が少ないからだ。それに、僕の娘が挑むのかと思った。
師匠を後藤さんにしてもらってよかったかもしれないとふと思ったのはこの頃だ。
もし、僕がしていたら、余計なことまで口出しをしてしまって、彼女と僕自身のペースを乱すことになっていた気がした。
後藤さんは必要な手続きをこなすと、その後一切、千陽に特別声をかけたりはしなかった。
千陽はほとんど負けなかったから、特別言うこともなかったのかもしれない。
にわかに色めきたったメディアへの対応を、バッサリと終わらせ、自分もそうだが、千陽に時間を取らすこともなかった。
彼がした事といえば、手が空いたら、将棋を指すそれだけだ。
「いつも、そうなの?」と聞いたひなたの言葉に、千陽は、「棋士と棋士とのことなの。将棋を指す以上の対話を知らない」そう答えた。
あぁ、この子は自分の子だなと思うと同時に、ほぼ足踏みすることなく、プロの世界にくるなと直感した。
同じ時期に参加していた女流棋戦で、次々に勝っていき、小学生でタイトルホルダーになったあの子は、奨励会も随分とはやくに突破した。
自分の最年少記録がまさか娘に更新されるとは、不思議な縁だと思う。
公式戦で、負けた千陽が本当に悔しがって泣いている様子に、僕は少しほっとした。
二海堂には悪いが、良い仕事してくれたと思う。
大きな負けをあまり経験してこなかった子だ。プロになって早めにこういう経験をしておいて欲しかった。
泣いても、感想戦をやめないところなんかは本当に負けず嫌いだと思う。
すぐにもっと強くなると宣言した姿は、ひなたによく似ていた。
この子はまっすぐに強くなっていくとそう思えた。
ずっとどこか千陽に申し訳なく思っている。
僕が打ち立てた最年少記録の更新を期待されることは、残酷なことだ。
それを達成したときの、僕の将棋の経験値は、その年齢のものではない。
それでも、千陽はやり遂げてみせた。
奨励会を勝ち抜き、最年少でプロ棋士になった。
その後も、彼女のペースで様々な記録を更新している。
もし、仮に更新されるとすれば、それは宗谷さんのような時代を変える天才が現れる時だと思っていた。
いずれやってくるだろうと思った、その天才は、自分の娘だった。
なんというか、不思議な縁だと思う。
以前、孤児になってしまい、単身東京の施設で育ち、プロになった僕を将棋界の子どもだと表現されたことがあった。
千陽も将棋界の子どもかもしれない。
主に関わったのは藤澤門下だけれど、島田研のメンバーとも僕の研究会のメンバーとも指してきた。
でも、僕の時とは明らかに違うところが一つある。
この子はずっと暖かい陽だまりのような場所で育った。
将棋以外はポンコツだけれども、この子のためなら命すらかけるだろう僕。
優しく、おおらかで、料理も上手な最高の母。
喧嘩もするけれど、慕ってくれる妹たち。
なんでも嬉しそうに話を聞いてくれる祖母。
全てを肯定するレベルで溺愛してくれる曽祖父と、その横で笑っている曽祖母。
無限に広がる世界と、自由の中から、それでも将棋を選び、好きになった。
他にいくらでも選択肢はあった。
将棋を選ばなくても、どんなことでも出来ただろう。
今から急に別の何かになりたくなっても、この子が本気なら家族は止めない。
それでも、おそらく千陽はこの先も変わらず将棋を愛して生きていく。
それはなんて、尊いことなのだろうと思う。
未来の記憶とは随分と違う人生を過ごしてきた。
自分の将棋で様々な流れを変えて来ていた。
それでも、どこか不安だった。
僕は35歳で一度死んだから。
漠然と、またそうなるのかもしれないと思う気持ちもあった。
でも、この子が生まれて、将棋のプロになり、僕の私生活だけでなく、将棋界も大きく変わった。
激動の毎日と、娘の成長をみている目まぐるしい日々に気づけば、いつの間にか、あの日を通り越していた。
宗谷さんと、将棋の神様の話をしたことがある。
「桐山は僕にとって、生涯を賭して指し合うために用意された相手だと思った」
真顔でそんなことを言われて、唖然としてしまったけれど、案外そうなのかもしれないとさえ思った。
不思議な力はきっとある。
なぜ僕が、未来の記憶を、あの葬式の日に思い出したのか。
そうでなければ、この年齢差で宗谷さんと長く指しあうことなど出来なかった。
そして、千陽だ。
この子は、タイトルホルダーの娘として生まれた。
以前の娘二人もそうだったが、当時の僕は藤澤門下との関わりは薄いし、自分で研究会も持っていなかった。
千陽は、僕というきっかけで、生まれた時から将棋がそばにあり、ひなた譲りの愛嬌で、その将棋の世界をいつのまにか広げていた。
その事が、女性で初めてのプロ棋士になるまで、彼女の棋力をあげたことは間違いない。
「まだまだ下にタイトル譲る気なんてないんでしょう」
千陽が、イタズラっぽく笑い、こちらを見上げた。
何かに導かれている。
全てを注がれて、生まれた子のように思える。
千陽はきっと、そう遠くない未来に僕の前に座ってみせるだろう。
親子でタイトル戦……なんて、現実味のない響きだ。でも、実現すれば、きっと大盛り上がりだと思う。
「いつか、千陽がとりに来てくれるの待ってるんだ。恩返ししてくれる?」
将棋の神様の愛を一身に受け、育ったこの子の前に座るラスボスの座を、他に渡すわけにはいかない。
千陽が輝かしく花開くその最高の瞬間を、1番いい席で見るのは僕でありたい。
なんだか、また頑張る理由が出来てしまった。
あぁ、本当に、なんて将棋は面白いんだろう。
March winds and April showers. Bring forth May flowers.
文庫版のサブタイトルでずっと使い続けた英文です。
多くの苦難を乗り越えて、その先で、大きく花が開くことでしょう。
長い間、お付き合い頂き、本当にありがとうございました。
今後の事とかは、また活動報告でも書きます。