小学生に逆行した桐山くん   作:藍猫

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第二訓 荊棘の道

 

 島田さんと過ごす毎日は、とても穏やかで、プロ入り前もプロになってからも、こんなに安定した日常を過ごせる事に、感謝しかなかった。

 

 前の時、僕が一番不安定で苦しんでいたのは、ちょうどこの頃だったからかもしれない。幸田さんの家に引き取られて、どうにかそこで居場所を得ようとする日々。それでもやはり、僕は他所者でしかなかった。

 誰が悪いとかじゃない。どうしたって無理があったと、一度おとなになった今ならわかる。

 だからこそ、今世ではあのまま施設で良いと本気で思っていた。

 

 島田さんが弟子になるかと聞いてくれた時、とても嬉しかった。前世でも大変お世話になったし、人としても棋士としても尊敬できる人だと知っていたから。

 でも、嬉しいのと同じくらい迷う気持ちもあった。島田さんも、タイトルを目指して、日夜努力し続けている。そんな生活の中に、僕という異物が入り込んで良いのだろうかと。

 

 それでも、弟子にしてくれるという言葉に甘えたのは、やはりこの人に師匠になって欲しいという気持ちがあったからだ。

 同じ家に住むようになって、出来るだけ島田さんの迷惑にならないように努めた。家事をするのも一人暮らしをした経験がある分、それほど苦にならなかった。

島田さんはあまり構ってやれていないと気にしていたけれど、対局や将棋連盟のイベントなど仕事で忙しいことは分かっていた。それに、家に一人の時間が多いのは僕にとってやりやすい事だった。施設では何処にいても誰かがいて、それはやはりストレスになっていたんだなぁと思う。

 島田さんは僕が手伝うと、ありがとうなと毎回喜んでくれた。その小さな積み重ねが、ここにいても良いんだと思わせてくれたのだ。

 

 6年生になり、プロ棋士としての対局もはじまったが、順調に勝ち星を重ねていた。学校と対局の両立が大変だということは既に経験済みだ。けれど、まだ対局の数が少ない事と、勉強の内容もほぼかつての記憶だよりで問題もなかった。

 

 ちょうど同じ日に対局があった僕らは、一緒に家をでて会館にむかった。

 朝のニュースの話や、僕の学校の事、とりとめのない雑談をして、会館までの道を歩く。

 いつも通り、何でもない日になるはずだった。

 その会話を遮るように、空気を裂くようなブレーキ音が鳴り響いた。

 僕たちのいる歩道とは反対方向の道路で、トラックが大きなクラクションを鳴らした。その場に響き渡るブレーキ音と、激しい衝撃の音。

 なんとも言い難い何かが壊れるような、潰れるような音。

 見なくてもわかった。あぁ……事故だなって。知っている音だったから。前世の最後で聞いた音とよく似ている気がした。

 巻き込まれた車は大丈夫だろうか。

 頭の中では冷静にそう分析しているのに、気が付けば、道端に座り込んでしまっていた。僕はゆさゆさと肩を触られるまで、その事にさえ、気が付いていなかった。

 立たなければと思うのに、抜けた力は入らなかった。

 差し伸べられた手をとって、立とうとしても、身体はいうことをきかない。

 心配そうな島田さんが、何度も声をかけてくれているのがわかる。

 

 その声が、まったく聞こえなかった。

 

 心臓の音が嫌にうるさい。バクバクと身体中に響いて、他の音が聞こえない。

 あの耳につくブレーキ音が何度何度も、耳の奥で響く。それが繰り返されるばかりで、他に何の音も入ってこない。

 さすがに自分でも変だと分かった。島田さんにとったら、それ以上だろう。

 向こう側で騒然とする現場を見ながら、ついでに救急車よんでもらうか? といった風なことを携帯でうって示された。

 その携帯を持つ手を握って、強く首を振る。

 僕たちはこれから対局で、だからせめて、僕は無理でも島田さんは会館に行かないといけないと、それだけが頭にあった。

 

 将棋会館に行きますとちゃんと声に出したはずなのに、その自分の声さえ聞こえなくて、うろたえてしまった。

 島田さんは困ったように眉を寄せたけれど、このまま此処に居続けるわけにも行かないと考えたのだろう。

 僕を腕に抱え上げると、足早に会館まで歩いた。

 

 

 

 

 


「会長、すいません。ちょっと部屋を貸してください」

 

「おー。島田じゃねぇか。どうした? おまえさんたち今日対局だろ」

 

「えぇ、そうだったんですけどね。表の通りで大きな事故があったみたいで、それを見てから桐山がちょっと……」

 

 なんとも間の悪いことだった。目の前というわけではなかったが、充分近かった。可哀そうなくらい蒼白になった桐山をみる。

 

「ここまで音が聞こえてきたから、救急車も来てるみてぇだし。桐山? おーい、大丈夫か?」

 

 会長の声にも反応しなかった。

 先ほどから聞こえているか怪しい。一度会館に行かないと、って小さな声で言われてから、それ以降は何を聞いても応えず、意志の疎通がとれない。

 

「これ、流石に今日の対局は無理なんじゃねぇの? もうすぐ開始時間だ。ここでみてるから、おまえはそっちに行かねぇと」

 

「いや、置いていけませんよ。手だってこんなに冷たい……。やっぱりこのまま病院に行ったほうが……」

 

 会長と話しているあいだも、桐山は心ここに在らずといった様子で、俺たちの声も聞こえていないようだった。

 これは、想像以上に不味いのではと焦る。

 すると突然、奥で仕事をしていた宗谷がふっと現れた。部屋にいた事すら気づかなかった。

 宗谷は、俺たちの座っている椅子の前の机へ、ぱらぱらと駒を落としてみせた。

 一体何をしているのだろうかと思ったが、ずっと俯いて何かに耐えているようだった桐山が、その音にはっと顔を上げたのだ。

 そして、ようやく俺の方を見た。

 

「あ……。あれ? 聞こえる」

 

 ぱちぱちと目が覚めたように何度が瞬きして、そう小さくつぶやく。

 

「大丈夫か? ちゃんと俺の声もきこえるか?」

 

 肩をつかんでそう尋ねると、

 

「はい。ちゃんと今は聞こえます。大丈夫です」

 

 ほっとしたように、そう頷いた。

 

「……そうか、いや、良かった」

 

 俺たちの様子も見ていた宗谷はおもむろに口を開く。

 

「戻ってくるのは、きっかけがいるから。僕は他の何の音が消えても、最後には駒の音だけは残る」

 

 ぽつりぽつりとそう呟いて、机におとした駒を拾って桐山の手の上に乗せた。

 

「雑念に呑み込まれたら、それ以上の何かで引き戻すしかない。この音は君にとって、それだけ価値がある音だ。そうだろう?」

 

 桐山は手の上の駒を触り、何度もその感触を確かめ、こすれあう駒のかすかな音に集中しているようだった。

 

「はい。ありがとうございます」

 

 宗谷と桐山は、やはり似ている。

 感想戦をする二人をみて感じたが、今痛烈にそれが分かった。

 一体誰が理解できるというのか。

 強烈な過去のトラウマを。震えが止まらない程怖がっていた気持ちを、駒音一つで引き戻せるなど。

 

「桐山、対局は大丈夫そうか?」

 

 会長は難しい顔をしながら尋ねてきた。

 桐山にはプロ入り後ずっと積み上げてきている連勝記録がある。それを不戦敗という形で途切れさすのは、避けたいのだろう。

 

「本当に大丈夫です。すこし驚いてしまったみたいで、身体は元気なので」

 

 まだ覚束ない様子で立ち上がると、

 

「島田さん行きましょう。ホントに対局開始ギリギリです」

 

 俺の手をとってそう言った。

 その手はまだ、微かに震えていて、少し体温も戻っていたけれど、いつもの子どもの体温ではなかった。

 無理をさせたくないと、俺は声をかけようとしたが、桐山の目をみて結局そのまま閉じてしまった。

 強く、つよく、光を宿していたから。こんなに震えて、今にも消えそうな儚い雰囲気なのに、その目が、彼の意志が、対局を強く望んでいた。

 それを見てしまうと、俺は何も言えなかった。

 

 

 

 別室の対局場まで桐山を送り届けた俺は、自分の対局に集中した。

 色々気になることは山積みだったが、それ以上に桐山よりはやく対局を終わらせて、あいつが終わったらすぐに連れて帰ってやりたかったから。

 会長に鬼気迫る勢いだったなんて、言われながら結局夕方になる前には終局になり、そして桐山もほどなくして、勝った。

 こんな日でも、あいつは勝ち星を重ねたのだ。

 

 

 

 家の近くまではタクシーで帰り、大通りからは少し歩くことにした。

 朝と違ってもう普通に歩ける桐山を、良いから、良いからと押し切って、背中に背負いながら。

 

「朝の事故だけど、怪我をした人はいたけど、誰も亡くならなかったらしいぞ。帰りに会長が教えてくれた」

 

「そうですか。良かったです本当に。……あの、すいませんでした。僕もまさかこんなことになるとは思ってなくて……」

 

「謝るなよ、気にしなくて良い。フラッシュバックってやつなのかもなぁ」

 

「僕は、家族と一緒に車に乗ってたわけじゃないんですけどね」

 

 大きくため息をついた桐山は、流石に少し疲れた様子だった。

 桐山のご両親と妹さんが事故で亡くなったことは知っている。桐山の保護者になるときに、弁護士の菅原さんが色々と話してくれた。

 通夜や葬式での親戚の出来事はもちろんだが、こいつはあの幼い時期に、その遺体をみている。

 どれほどの衝撃だっただろうか。事故に対してトラウマがあってもおかしくなかった。

 

「なぁ桐山、聞いても良いか?」

 

「はい。なんでしょうか?」

 

 背に感じる温かさと重さに、得も言われぬ寂しさのような物を感じて、俺は気づけば問いかけていた。

 

「おまえさん、ホントに将棋以外にやりたいことはなかったのか? この世界はなかなかに厳しい。好きや面白いだけで続けられるやつもいるが、ドツボにハマって長い間苦しむやつもいる」

 

 俺だって、思わなかったわけではない。三段リーグでくすぶっていた時は、本当に苦しかった。

 同世代にはあの宗谷冬司を筆頭に、彼と並んで表彰台の常連だった土橋さんもいた。自分がプロになれたとして、やっていけるのかと不安もあった。

 そんな時、奨励会を辞めて、将来は田舎で農業をするのも悪くないと、そう考えたことは一度や二度ではない。

 そこを乗り越えて、なんとかプロ棋士なった。

 だが、一度プロ入りしてしまえば、今度はなかなか辞める決心はつかない。かけてきた時間の長さ、将棋以外に自分に何が残るという恐怖がある。

 

「桐山さ、まだ小学生なんだよ。将来のことなんてまだ何も決めずに、ただ遊んで勉強して、無邪気に笑ってて良い歳なんだ。この先何にだってなれるんだぞ」

 

 俺くらいの歳になれば、意地も執着もある。

 すでに何十年もかけた道だ。この先もこの道で生きていくと決めた。

 けれど、桐山は違う。

 驚くべき速さでプロになってしまった。もちろん必死だったこいつの努力の結果だ。

 僅か12歳の少年が全てを、本当に全てをかけてきたのだ。俺が将棋をしてきた年数よりも、まだ彼の人生は短いにも関わらず。

 だからこそ最後に耳に残るのが、縋れるのが駒の音だったのだろう。

 宗谷はまるで当然のように、言ってみせたけれど、俺はそれが少し恐ろしかった。

「なっちまったもんは仕方ないし、今更なかなか辞めるなんて、周りの空気的にも言えないだろうけど。苦しかったら休んでいいんだ」

 この子には、立ち止まって考える時間が全くなかったのではないかと危惧してしまう。

 

「もし、他にやりたいこと見つけたらそっちの道を行っても誰も文句は言わない。それはちゃんと知っておいてくれ」

 

 きっと世間の人たちは落胆するだろう。止めるだろう。こんな才能をここで終わらせるなんて……と。

 でも決めるのは本人だ。桐山の人生なのだ。

 

 だから、もし桐山が将棋以外の道を選んだとしても、俺は……俺だけは絶対にそれを応援してやりたかった。

 

 

 

 

 


 

 島田さんに背負ってもらいながら、ぽつぽつと語られるその想いに、僕は何も言えなくなってしまった。

 将棋をやめることになっても、今更、追い出したりしないからと笑う彼に、感謝の念しかない。

 そう、いつだっていたはずなのだ。

 前の人生でだって本当はどうしたいのか? 僕の心はどこにあるのか? 聞いてくれる人はちゃんといたはずなのだ。

 選択肢を狭めていたのはいつも自分で、どうせ聞いてもらえないとあきらめていたのは僕自身だ。

 高校生になって、川本家の人たちに救われて、僕はちゃんと世界の広さを知った。

 それからは、多少はマシになったけど、それ以前にだってちゃんと助けを求めたら救ってくれる人はいたはずなのに。

 

「本当はたぶん、将棋が好きかどうかはよく分からなかったんです。ただ、もう僕にはこれしかないと思って、これまで走ってきました」

 

 前回のお葬式の場で、幸田さんについてしまった嘘。幼かった僕はそれしか手段を思いつかなかった。

 戻ってきて、やっとわかった。

 言葉にしてなかったのは僕で、だからこそ周りも気づけはしなかったのだ。

 一人で決めて、やり遂げなければ次の場所は無いと、そう思い込んで、プロになった。

 島田さんは、そうだよなぁ、そうなっちまうよなぁと頷きながら、僕の話を聞いてくれる。

 

「でも、でもね、島田さん。だからって嫌いだったら本当にいやだったら、ここまでできなかったんじゃないかなとも思います。やっぱり、勝ったらちゃんと嬉しいんです。負けたら凄く悔しいんです。新しい手を、誰も気づかなかった一手を見つけたとき、たぶん僕はもう引き返せなくなった」

 

 だから、結局タイトルホルダーにまでなってしまったし、二回目の今は将棋以外の道を歩むことは考えられなかった。

 

「宗谷さんのような高い目標があって、二海堂みたいに同じ世代で頑張ってるやつもいて、柳原さん、後藤さん、幸田さん、スミスさん、横溝さん、一砂さんって僕の周りは気がついたら将棋ばっかりの人でいっぱいだった」

 

 坂を上りきり、島田さんはゆっくりと家に前で立ち止まる。

 

「大丈夫です。ちゃんとこの世界は面白いって知ってるし、苦しくてもその先にある何かを僕は知りたいから、だから、これからもよろしくお願いします、師匠」

 

 肩口に振り返った島田さんは、柔らかく安心したように目を細めた。

 

「そうか、なら良かった。たぶん俺から将棋で教えられる事なんてほとんどないだろうけど、ちゃんとそれ以外で師匠をやっていくよ」

 

 桐山は今のところ、負けなしだもんなぁと苦笑した彼は続ける。

 

「宗谷との対局を夢にみるくらいなんだから、早くあいつとも公式戦で指せるといいな。まぁといってもあいつほとんどのタイトル持ってるから、まずは挑戦者になるところからなんだけど」

 

 そうか、そういえば、今回また将棋をしたいなぁって思ったのは、宗谷さんともっと指したいって気持ちがあったんだっけ。

 何でだろう。

 今もその気持ちには変わりないんだけど、僕が寧ろ今、タイトル戦で戦いたいのは……

 

「僕は、……島田さんがいいです」

 

「ん? 俺とはほぼ毎日指してるだろ?」

 

 玄関の扉をあけて、僕をそっと降ろしながら彼が言う。

 彼の正面に回り込んで向き合うと、靴を脱ごうとしゃがんだ島田さんに目線を合わせ、僕は続けた。

 

「島田さんとやりたいです。タイトル戦。上座で待っている貴方に挑みたい」

 

 大きな声ではなかった。

 囁くように、懇願するかのごとく、告げた僕の言葉に、島田さんはポカンと口をあけた。

 

「おまえ……それは……」

 

「宗谷さんとは、きっといつかすると思います、タイトル戦。僕はそうなりたいと思ってるし、そのために努力します。でも、それ以上に今の僕は、……島田さんとタイトルを取り合いたい」

 

 口下手だけれど、伝わっているだろうか。ありのままの僕の想いだ。

 当たり前のように、いずれ僕は宗谷さんに挑めるだろうと話すのに、自分のことは全く眼中にないと思ってるでしょう。

 ねぇ、どれだけ貴方のこと尊敬してたと思ってるんですか? どれほどかなわないと思わされたか。

 前も今も、その気持ちは変わらない。むしろ、毎日対局して研究する島田さんの背中をみて、その気持ちは強くなるばかりだ。

 貴方は凄い人だ。

 俺はいつも自分のことばかりだったから。

 多くの人の想いを、地元の期待を、一身に背負って、一つ一つを積み上げてここまで登ってきた。

 気持ち悪く思われたらどうしようって危険を冒してまで、前の人生の棋譜をみせたのか。

 それが、やっと分かった。

 

「出来ますよ。 島田さんめちゃくちゃ強いですもん」

 

 今日は涙腺がゆるいから、何故だか少し泣きそうになった。

 貴方は凄い人なんです。もっと自信を持ってほしかったんだ。

 気持ち一つで、一手が変わる。そんな世界だからこそ。

 

「ばっか……、おまえそれは……、はぁ……」

 

 頭を抱えて、大きなため息をついた後、彼はまっすぐに僕の目をみた。

 

「分かった、約束だな。宗谷からタイトル奪って、先に上座で待ってるよ。おまえさんの師匠だもんな」

 

 そう言って笑った彼の瞳の奥に隠しきれない熱い、あつい、想いをみた。

 燃え上がる炎のようではない。

 静かに燻っているその何かに、僕は少しでも風を吹き付けることが出来たのだろうか。

 

 島田さんは、今日の晩ご飯何にするかなぁといいながら、くしゃくしゃに僕の頭を撫でると、廊下の奥へと消える。

 大きくてゴツゴツとした、大人の男の人の手だった。

 ただ、ただ、将棋だけを指し続けた、節くれ立った手。

 僕のふにゃふにゃとした丸みのおびた手と比べると、かけた時間の長さがおもわれる。

 

 きっといつかは直ぐにやってくるかもしれない。

 僕もその日のために、指しつづけるしかないのだ。

 

 

 

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