12月も半ばに差し掛かった頃。
ちょっとした事件に巻き込まれて、またあかりさんと知り合う事ができてから、僕は結構な頻度で川本家にお邪魔していた。
ひなちゃんにも会う事ができたし、お祖父さんだけでなく、お祖母さんもお母さんも元気そうで、それが嬉しかった。
人が良く朗らかな川本家の皆さんは、男二人で生活している僕たちの食事が少し心配のようで、よくお裾分けをしてくれるようになった。
特にあかりさんは、島田さんのガリガリ具合が気になったようで、胃痛もちであることも考慮しながら、様々な料理を教えてくれた。
零くんも成長期とはいえ細すぎよ、と言われて僕は笑って誤魔化すしかなかった。
クリスマスには、昼間、施設の方に顔を出したあと、夜は川本家でご一緒させてもらった。
チキンやケーキを差し入れたらとても喜んでもらえたし、僕たちも島田さんと二人だと食べきれないから、買わなかったかもしれないので、丁度良かった。
冬休みにも入り、棋戦もそろそろ納め時になった頃。
「桐山、年末なんだけどさ。挨拶回りがおわったら、一度山形に帰ろうかと思って」
いつもの家での対局後に、島田さんがふとそう言った。
「分かりました。留守は任せてください。戸締りちゃんとしておきますね」
「……いやいやいや、何言ってんの。一日やそこらの出張ならまだともかく。数日かかるのに、小学生を一人置いてはいけません。学校も冬休みだし、対局も休みだろ。おまえさんも一緒に行くの」
僕の言葉に島田さんは、少し呆れたようにそう言った。
「え? 僕も一緒にですか?」
一緒に行くという選択を考えもしなかったので、思わずぽかんと聞き返してしまった。
「そう。そういえば、弟子に取ってから一度も皆に紹介してなかったし良い機会だろ。いいところだぞ、山形はまだ行った事もないだろ?」
「はい、初めてです」
以前の僕は、山形にはイベントや対局で、何度か訪れたことがあった。その半分以上が島田さんと一緒だったように思う。本当に故郷を大事にする人で、そして島田さんの周りの方々も彼の事を大切にしていた。
「何度か電話とかで、桐山の事を話してるんだ。いつか会いたいって言われてたしな」
「それは……、ちゃんとご挨拶しないとですね。僕は、島田さんの一番弟子ですから」
多くの人が島田さんを応援している。
この人の弟子になったのなら、きちんと顔を合わせるべきだ。
「そういえば、桐山の実家の方はいいのか? 確か、長野だっけ?」
ふと、思い出したように島田さんが言った。
「いえ、長野は……大丈夫です」
僕は、とっさに耳に入ったその地名に、声が詰まってしまった。
「そうか、分かった。じゃあ山形だけだな。まぁ俺の実家は山形でも特に奥の田舎だから、行くのも時間かかるし」
島田さんは、僕の様子にあまり深くは聞いてこなかった。
墓参りくらい行くべきだと言う気持ちもあるのだが、なんとなく今じゃない気がしていた。
それに、島田さんはきちんとした方だから、長野に帰るということは、祖父に挨拶を……という流れになるかもしれない。
祖父がいったいどんな反応をするかも想像がつかない。
残念ながら、今の僕でもうまく間を取り持てる気は、とてもしなかった。
東京の寒さも身に染みる年の暮れ。
諸々の用事を済ませた後に、僕たちは新幹線で山形へと向かった。
天童市は、将棋の町ということで、あちらこちらに将棋の意匠があった。
JR天童駅1階には、将棋専門の資料館があって、駅前の大通りの歩道や電柱に詰将棋の問題が設置されているのには、驚いたものだ。
なんとなく目に入るとふと立ち止まってしまう僕を、島田さんは急がせることはなかった。将棋に関するイベントも熱心に行っているらしい。
桐山と仕事で一緒に来ることもありそうだな、と言われて、今度もそうなるといいなと少しだけ懐かしく思えた。
電車とバスを乗り継いで僕たちは、山形の奥地へと向かった。
ほんと時間がかかるよなぁと笑っていた島田さんは、行く先々の街並み一つ一つに懐かしさを感じているようで、その瞳はとても優しかった。
望郷の念とでも言うものだろうか。僕には、ずっと縁がなかったものだ。
「開、よう帰ってきたな。東京からは遠かったやろ」
バス停で降りると、数人のお祖父さん、お祖母さんが迎えにきてくれていた。
誰もが、島田さんの帰りを待ちきれなかったようだった。
「ただいま、良かったみんな元気そうで」
島田さんもとても嬉しそうだ。
「で、あの子は? 一緒に帰ってきたんだろう?」
どこかそわそわと一人のお祖父さんがそう言った。
「あぁ、桐山ね。ほら、この子だよ。桐山零、俺の弟子」
なんとなく島田さんの陰にひっそりと隠れていた僕を前に押し出しながら、島田さんがそう紹介した。
「はじめまして、桐山零です。島田さんのところで内弟子をしています。よろしくお願いします」
失礼がないようにと、深々とお辞儀をしながら挨拶をする。
「おぉぉ! この子がそうか。めんごい子やな」
「開に似て、かすこそうな子や。おいで、車に行こう、道中は寒かったやろ」
「こんなに小せえ子だったんか。テレビで見たときはもうちょっと大きく見えたげど」
あっという間に、囲まれてそれぞれから声がかけられる。
おおよそ聞き取れるけれど、人によって少しだけ方言もきつかったこともあり、僕は混乱してしまった。
「皆、桐山がびっくりしてるから。それくらいにしてやって」
島田さんはこうなることを予想していたように苦笑した。
僕たちは、そのあと一人の方の車に乗せてもらい村の中心地まで向かった。
車中から見える景色が一面の雪景色で、それを飽きることなく見る僕に、島田さんは何もないところだろって笑っていた。
車が無いと何もできないそうだ。村の人口も、若者も年々減るばかり、過疎化の進行は止まらないとも。
島田さんの家に行くのかと思ったら、着いたのは小さな公民館だった。
「開、おかえり!」
「開くん、元気だったかい?」
中には想像よりたくさんの人がいた。皆島田さんを待っていたようだ。
「ほとんどが塩野将棋クラブの人だ。その家族とか知り合いも来てたりするけど」
冬場はやることがないし、家にじっと一人でいるのもしんどいしで、公民館に集まる人も多いそうだ。今日は島田さんが帰ってくるからと、いつもよりたくさんの人が集まったみたいだけど。
中では食事を作れるそうで、僕は沢山の山形の料理をごちそうになった。
食べたはしから、勧められて本当にお腹いっぱいになるまで。
島田さんも、そんなに食べられないよといいつつ、いつもより随分と沢山食べたようにみえた。
将棋クラブというだけあって、そこにはいくつか将棋盤もあって、島田さんだけでなく僕も沢山の人から一局どうかと誘われた。
感想戦でも、流石だ小学生のプロだ、開の弟子だと、沢山褒められて、僕は照れっぱなしだった。
夜になると一応、島田さんのお家にも顔をだした。
そこにも近所のお祖父さんやお祖母さんをはじめ、沢山の人が顔をだしていた。
この村は一つの家族のようだと思った。
「開にこんなかわいい子が出来るなんてね」
「開の弟子なら、もう村の子同然だ。遠慮せずに、ゆっくりしていき。何もねぇどごろだげど」
「島田門下かぁ。いいねぇ、二人で一緒に頑張ってるんやねぇ」
会う人、会う人が快く歓迎してくれた。
僕は沢山の人と話しをした。それは主に島田さんの事だった。
皆、島田さんの事を心から慕っているのが良く分かった。
「零くんや、すこぉしこの爺と話しをせんか?」
夜、島田さんがお風呂に入りに席を外していた時だ。
一人のお祖父さんが声をかけてきた。
「開は、最近はどうかの。飯、ちゃんと食うとるか?」
「……? はい、僕と一緒のものを毎日」
「そうかぁ、胃もちょっとは良くなったんかの。あの子は、毎日ちゃんと笑っとるか」
しみじみとそう聞かれて、僕は少しだけこの方が何が聞きたいのかわかった気がした。
少し前、島田さんの背中におぶさって帰宅した日。
あの事故の日に、僕が島田さんに聞かれた事と、おそらく同じような事だ。
「島田さんは、いつも穏やかな方で、僕は毎日とても、楽に過ごさせてもらってます。将棋もたくさん、二人で指してきました。集中して指して二人してご飯も忘れて、のめりこむときもあるくらい」
うまく伝わるかは分からないけれど、僕は精一杯自分からみた島田さんの様子を伝えた。
「弟子の、まだ子どもの僕には見せてない面もあるかもしれない。だけど、島田さんは将棋ちゃんと楽しんでると思うし、プロ棋士になった事、後悔してないと思いますよ」
「そうか、そうかい。良かった。あの子はほんとうに優しい子でね。村に子どもが久しぶりに生まれたって、それこそ村中で可愛がって育てた。将棋も皆で教えて、あっという間にだれも勝てなくなって、プロになれるんじゃないかって盛り上がった」
お祖父さんはそこで、一度言葉を途切れさせた。
「内心ね、期待が重いのじゃないかと、皆がみんなあの子がかわいくてしかたないから、それがかえって生きづらくなっていないか、心配になるときがある」
「そんなことはっ、……それは、ないと僕は思います」
思わず言葉を遮る形で、言ってしまった。
以前の獅子王戦の時、僕が初めて島田さんと対局して、そして彼の宗谷さんへの挑戦を見守った時、島田さんを支えていた大きな思いは故郷への気持ちだった。
それは、決して簡単な気持ちじゃない。
プレッシャーもあったかもしれない、苦しい時もあっただろう、でも絶対に彼には必要なものだった。
「島田さん、よく皆さんの話をされます。普段は東京に居ても、心は山形にあるんだろうなって思ってました。此処は、村全体が一つの家族みたいで、暖かくて、島田さんは自分の育ったこの村が、皆さんが本当に好きなんだと思います」
「……ありがとう、君はほんとうにいい子や。やっぱり良い子のところには、そういう子がくるんやな。開は君を弟子にとって良かった」
僕の頭を何度も撫でながら、お祖父さんはそう言った。
「僕の方こそ、沢山助けてもらってるんです。島田さんがいなかったらどうなってたか」
「弟子を導いてあげるのは、師匠の仕事や。開はちゃんとこなしてるって事やな」
呟かれた言葉には、嬉しさと愛おしさが滲んでいた
「零くん、あの子をよろしく頼んます。わしらは後ろから、応援しかしてやれん。でも君は棋士として、同じように悩めるし、隣に立てる。今はまだ、あの子にお世話さしとき。子どもを可愛がれるのは大人の特権やから。でも、もう少し大きくなったら、同門として本当に時々、あの子に肩を貸してやってくれ」
お祖父さんの優しい瞳が、真っすぐに僕をみていた。
大切な、本当に大切なものを託すように、一つ一つの言葉が紡がれた。
「はい。必ず。いつかそうなれるように。僕は島田さんの弟子ですから」
お祖父さんの言葉はおそらく村の人のたちの総意だ。
島田さんは、この村の人たちの大切な宝で、僕はそれを一緒に守ることを許された気がした。
昼間に出会った人たちに、開の弟子なら、村の子も同然だと言われた言葉を思い出す。
少しだけこそばゆい、誇らしいそんな気持ちになった。
年が明けて3日の朝に僕たちは、東京に帰ることになった。
鳩森八幡神社で行われる「将棋堂祈願祭」や、将棋会館で行われる「指し初め式」は三が日が明けるとほどなくして行われるからだ。
抱えきれないほどの、お土産と沢山の方の見送りとともに、村を後にした。
帰る道すがら、駅の入り口でふと島田さんが足をとめた。
「将棋のまち天童から名人を……」
見上げた先にあった横弾幕は、以前から島田さんがずっと心に留めていたものだ。
「取りたいな、タイトル。やっとA級にまで上がってきたんだ」
今期の島田さんは、調子が良かった。
幾つかの棋戦は、本戦まで勝ち残っていて、まだ分からない。
順位戦に関しては、昇級したばかりだったこともあり、今年の勝率では、来期の名人の挑戦権はもう取ることはできないけれど。
「島田門下か……。なんか、嬉しかったよ。みんなの期待を、夢を、背負っているのが俺だけじゃない気がして」
しみじみとそう呟いた。
「僕は、……島田さんの弟子ですけど、山形出身の棋士にはなれないですよ」
僕の言葉に島田さんは、はっとしたようにこちらをみた。
この横弾幕をこのまま、煤けさせとくわけにはいかないと、言った貴方の気持ちが今なら少しだけ分かる。
でも、それはほんの少しだ。
ずっと、ずっと、この町の人が応援してきたのは島田さんで、それに応え続けてきたのも島田さんだ。
過疎化する地域の復興に尽力してきたのも、僕じゃない。
「大丈夫です。僕はこれからも勝ちますし、島田さんも沢山勝ちます。この先、長いんですから」
このままじゃ、終わらないですよっと、島田さんの手を引いた。
「そうだよな、まずは師匠の俺が、だよな」
島田さんは、そう笑うと、僕の手を強く握り返してくれた。
僕のプロ入り後の連勝記録はいまだ、途切れていない。
年が明け、この一年もまた沢山の棋戦がある。
チャンスは等しく訪れるはずだ。
僕たちはそれを掴むべく、ただひたすらに腕を磨き続けるしかない。