年が明けてからの棋戦もあいつは快調で、朝日杯の本戦もしっかりと勝ち抜いたのだ。
決して楽な相手ではなかった。一回戦は辻井さん、しかも良い日の辻井さんとだったが、吹き飛ばされる事も無く見事に勝利。そして、二回戦の対戦相手だった柳原さんにも勝利した。
「勝ったなぁおまえの弟子、これで歴代の連勝記録が更新!! A級棋士を倒しての更新、誰もが認める記録だな」
先に対局が終わって、観戦をしていた俺の元に会長がやってきてそう言った。
「勝つんじゃないかって思ってました。年明けから気合も入っていましたし」
「で、師匠の方は?」
「……隈倉さんに敗れましたよ。見てたでしょう!?」
「いやーそっちも気合いの入った良い将棋だったぜ! ま、今日の所は疲れた弟子をしっかり連れて帰ってやってよ。次の準決勝と決勝も話題性充分で、集客もウハウハだ!」
会長は大変ご機嫌で、俺の肩をそう叩いて立ち去った。
桐山は沢山の記者に囲まれていた。そろそろ終わりにさせて帰らせてやらないと、と近づいた俺にも目ざとく気づく記者がいる。
「師匠の島田八段ですよね? 桐山四段がやりましたよ。この結果についてどう思われますか?」
「誇らしいですよ。宗谷名人の記録は破られないだろうと、俺たち世代は思ってきましたからね」
「普段、ご自宅ではどんな風に過ごされているのですか?」
「対局をすることは少ないですね。棋譜の検討は良くしています」
桐山が夢にみる棋譜は本当に興味深く、あの棋譜の検討が一番勉強になっているのは確かだった。
「すいません、今日の所はこの辺りで」
柳原さんが向こうをいい具合に締めてくれていた。このタイミングで桐山を連れて帰るのが一番良い。
「桐山、帰るぞ」
「島田さん! お疲れさまです」
「はい、お疲れさん。良い対局が出来たみたいだな」
「はい! すごく楽しい対局でした。柳原さんの中盤の一手が……」
「ストップ! 帰りながらな、明日学校だろ」
感想を言い始めると止まらなくなりそうだったので、とりあえず止めておく。
A級棋士相手に、二局も対戦した割に桐山はまだ元気そうだった。
それがアドレナリンが出ている上での事だったと分かったのは、帰りのタクシーの中だ。辻井さんとの対局から振り返っていた筈の桐山は、プツンと電池が切れた様に静かになった。
ふと隣を見るとその数分で寝てしまっているのだから。
「旅行帰りの子どもと一緒だな」
そう子どもなのだ。その不釣り合いに高い棋力を除いて。
朝日杯、準決勝と決勝が行われるその日。
会場はいつもの三倍の記者と、観客にあふれ、異様な雰囲気だった。
「緊張してないか? こうも沢山の人に見られると少し違うだろ」
「たぶん、大丈夫です。はじまってしまえば、他は何も分からなくなります」
そう言った桐山は、ある一点をじっと見つめていた。
宗谷が、まっすぐこちらに歩いてきていた。
「桐山くん、今日はよろしくね」
いやに機嫌の良い声だった。聞いた俺がぎょっとしてしまうくらいには、珍しい事だ。
「はい! 楽しみにしてきました。全力でお願いします」
「僕も……正直公式戦であたるのは一年はかかると思っていたから、予想以上だった」
全棋士参加棋戦でもなければ、宗谷とは当たれない。数少ないその機会を桐山は逃さなかった。
先手が宗谷、後手が桐山ではじまった対局は、テンポよく進んでいった。
朝日杯は持ち時間が少ない。
早指しの傾向になるのは仕方なかった。
それでも桐山がペースを崩しているようには見えない。
主導権を決して渡さないように、絶妙なバランス感覚で対局を操る。
手堅く守る方が良さそうに見える場面でもしっかりと、攻撃に回っていた。
その指した手をみると、あそこで守ることの危険性がはっきりと分かるのだが、あのはやさの中で、そこを読み切っているのか……。
感心しながら、対局を追っているうちに、宗谷が頭を下げたのが見えた。
「負けた……宗谷が?」
理解が追いつかない。
会場がざわついている。桐山の快進撃を見慣れていたはずの俺たちですら、動揺していた。取材に来ている記者なんかはもっとだろう。
「中盤、だいぶ複雑になっていたのに、見事な切り返しだった」
「4二金と受けるつもりだったのですが、咄嗟に違うと思いました。危ないところでした」
当の本人たちだけが、淡々とさっきの対局の感想戦をはじめている。
置いていかれているのは、まわりばかりだった。
「トップニュースだ。宗谷名人に新人が勝った!」
「いや、まだはやい。次の対局もすぐあるんだから……」
記者たちがこのニュースをどの速さで記事にするか、議論している。
そうだ。桐山はこの後、隈倉さんとの決勝がある。
「桐山! ……落ち着いてな。いつも通りに」
決勝の対局に挑む弟子に、かけられる言葉を俺は持ち合わせていない。なんて当たり障りのない言葉だろうか。
「はい、精一杯やってきます」
桐山はしっかりと頷いた。
そこには、宗谷に勝ったという過剰な興奮もなければ、プロとして初めて挑むトーナメント出場の決勝の舞台への気負いも無かった。
落ち着いている。末恐ろしいほどだ。
隈倉さんの目の前に座り、その立ち振る舞いも、将棋の内容も、何一つ見劣りしない。
唯一の違和感があるとするならば、その姿がすこし幼いという、ただそれだけなのだ。
「将棋の神様の子ども、再来だな!」
会場はまだざわついていた。そんな中でも対局は続いていく。桐山にはそんな音も聞こえていないのだろう。
将棋の神様の子、当時の宗谷もそう言われて騒がれていた。
分かっていた。あの日、事故の現場に出くわした桐山が突発的に耳が聞こえなくなった日。宗谷だけが彼を理解していた。
あの二人は同類だと知っていた。
誰よりも知っていたはずだ。かけて来た時間や経験を全て吹き飛ばしてしまうような、圧倒的なセンスと才能。そういった類の人がいる事を。
そして、小学6年生にて、全棋士参加棋戦である朝日杯で桐山零は優勝した。
隈倉さんとの対局も宗谷との対局も内容は高度でA級棋士同士の対局ですと渡されても、なるほどと頷いてしまうものだ。
プロ棋士ならば当然分かる。宗谷も隈倉さんも最初から全力だった。
現代のトップ棋士相手に、期待の若手が見事に勝利したのだ。
先を越されてしまったなと、心の片隅で思った。さて俺、いつまで師匠面が出来るのだろうか。
「桐山四段、おめでとうございます! 初出場、初優勝。当然最年少記録です。そして、五段への昇段もこれできまりました。今のお気持ちは?」
「今日の将棋は、どちらも良い将棋が指せたと思っています。宗谷名人と隈倉九段相手に、この将棋が指せたことがまず嬉しいです」
そう、結果よりもまず将棋の内容を気にするんだよなぁ。偉業を成し遂げたというような興奮は相変わらず見られず、驚くほど平常通り。
「優勝ですよ! まず誰に伝えたいですか?」
記者の方がすっかり興奮しているみたいだった。
「施設の皆と、それから師匠に。感謝を伝えたいです」
その言葉に俺は、はっとして桐山の顔を見た。疲れも見えたが、高揚した表情で彼はまっすぐに俺を見ていた。
その顔を見て、かわいい奴なんだよなぁと思う。
大事な弟子なんだ。こうやって慕ってくれるから、俺も応援したくなる。
衝撃だったのは確かだ。
同期で絶対的存在で、俺がまだ追いつけないでいる宗谷に桐山が勝った事も、初出場のトーナメントで優勝したことも、俺が成し遂げられずにいる事だ。
悔しいと思う気持ちは……ある。これを無くしてしまえば棋士として終わりだ。
俺たちは矜持を持ってこの仕事に挑み続けているのだから。
けれど、……本当に良かったなぁとも思うのだ。
あの子の努力は本物だった。それが大きな形であらわれた。
施設からマフラーもしないで歩いて会館に通ってきていた少年を覚えている。
1ページにおさまりそうな携帯の電話帳。
毎週末ほとんど入っていた記録係の仕事。
内弟子にとってからは、一番近くで見ていた。
桐山は、ほとんど全ての時間を将棋に捧げていた。文字通り身を切るような努力だ。
決して、将棋が好きだというような明るく純粋な気持ちだけがあった訳ではない事も知っている。
世間からみたら、才能あふれる少年の輝かしい一歩にみえるだろう。
その裏にあった途方もない努力を俺は賞賛したい。
「おめでとう、桐山」
ここからでは当然聞こえないだろう。口に出してそう言って、軽く手をあげると、あいつはインタビューに答えながらも、パッと笑って、こちらを見て頷いた。
よく世話をしていた子ども将棋大会で、良い成績を収めた子どもが、親の元へと報告にいくようなそんな表情だった。
そうか、駆け寄って来られる側って俺なんだよなぁ。
……いっぱい褒めて、一緒に喜んでやりたい。あいつには一番近くで、それをしてくれる人がもういない。
出会ってからは三年が、内弟子にとってからは一年半が過ぎようとしていた。
逆行本編との差異
朝日杯で宗谷さんの勝利。連勝記録未だ途切れず。
島田さんと日夜対局してるので、桐山くんが一回目の勝負感を既に取り戻しています。