「中学を受験したい? いや、桐山の自由だけど、またどうして」
朝日杯優勝から慌ただしく日々が過ぎていた。記者会見や取材の問い合わせを桐山と共にこなし、ようやく落ち着いた頃にそんな相談を受けたのだ。
「対局での休みの多さを先生に指摘されまして、誤解は解いたんですけど、校長先生にスポーツ推薦や芸能推薦がある私立中学の方がその辺りの融通は利くんじゃないかと……」
「なるほどな……来年度はもっと対局が多くなるしなぁ。そんな相談をもってくるってことは、もう受験先の目星はたってるんだろ?」
明らかに普通の小学生とは違った生活をしている桐山が、色々と苦労しているのは知っている。本人が希望するなら受験も必要な事なのだろう。
「はい、駒橋中学を受験しようと思っています。受からなければ、このまま学区の中学に進学するつもりなので、一校だけで。それで、保護者欄のところに名前を頂けないかと」
「構わないが、こんないきなり決めて受かるもんなのか?」
「大丈夫だと思います」
桐山はあっさりと頷いた。私立の中学受験ってもっとこう対策とか勉強をするイメージだったのだが、今は違うのだろうか?
俺は地元の中学に普通に進学したし、周りに中学受験をする人もいなかったため、その辺りは分からなかった。
それから、特段缶詰めのように勉強する様子もなく、いつも通り対局をこなし、俺と棋譜を読み、数週間後の土日に試験を受けに行った。
合格したから、4月からはすこし遠いが駒橋中学に通うと告げられた時には、あいつは既に入学金の手続きまで済ませてしまっていた。
俺がしたことといえば、書類に判を押したくらいである。
「島田八段、ちょっと良いかな?」
対局の後、珍しい人に声をかけられた。
「幸田八段、どうされました」
「いや、零くんの事で少し。彼も今月で卒業だろう。歩と同じ中学かと思ってね」
幸田さんは桐山の父親と同門だった。父親が奨励会を辞めたあとも交流があったらしく、桐山の事を何かと気にかけていた。
そういえば、同じ年頃の息子さんがいるんだったっけ。
「桐山は駒橋中学を受けたんですよ。なので別の学校になるかと」
「私立を受験したのかい? 相当忙しかっただろうに、両立させるとは凄いな……」
「年明けに急に決めたようで、この辺りは本人の意志にまかせてますので」
話を聞いている限り、都内の私立中学はどこもそれなりの学力は要求されるようだった。桐山が受かったのは普段の努力の結果だろうか? 正直いって、将棋をしている所しか見たことがなかった。
「それでその相談なんだが……入学祝いを贈ってもいいものだろうか? 師匠の藤澤も出来るなら何か贈りたいと言っていて」
「それは勿論。あぁ……すいません、藤澤名誉九段に桐山と挨拶に行くべき所をずっとそのままになってしまっていて……」
失念していた。俺は藤澤氏との関わりは無いけれど、桐山の父上が弟子だったのなら、桐山は孫弟子だと言われてもおかしくは無い。
「そこは気にしないでくれ。君の弟子だし、将棋に関してではなく桐山の息子として、見守って行きたいらしい。その……私は、零くんの弁護士の菅原とも親しくて、長野での事はある程度知っている。本来は多くから祝われるべき節目で、彼はそれがどうしても少ない。それが気にかかっていてね」
菅原弁護士から、決して円満に東京に来たわけではない事は聞いている。
桐山は実家の家も手放し、ほぼ何も持たずに東京へ来た。
年末に長野に帰ることも望まなかった。本人がそのことに触れられるのも、どうも嫌がっている節があるのでそっとしてある。
「喜ぶと思います。幸田さんとは俺より長い付き合いでしょう。それから、やはり藤澤さんの所にも一度、ご迷惑でなければ顔を出そうと思います。日程を聞いて頂ければと……」
「勿論だ。師匠も喜んでくれると思う」
桐山も同期の松本や、面度見の良いスミスとの関わりを通しながら、棋士の知り合いが増えてはいっている。けれど、やはり年齢の事もあり棋界での繋がりは薄いといっていい。
藤澤氏は会長ともしのぎを削り合った名棋士で、顔も広い。桐山と繋がりが出来るなら、それに越したことはない。
「そういえば、桐山。小学校の卒業式いつなんだ?」
「三月の二週目の金曜日です」
都合の良い事に、対局は入っていなかった。もし、入っていれば都合を付けてもらう事も考えていたのだが、その辺は心配要らなさそうだ。
「え、まさか島田さんが来られるんですか?」
「え? そりゃ行くだろう。……嫌だったか?」
「いや! 全く! 嬉しいです。……そっか島田さんが見に来るのか」
桐山は考えもしなかったといった風に黙り込んだ。
「写真、撮ってやるよ。一生に一度の機会だもんな」
「別に良いですよ。見せたい人とか特にいませんし」
男の子だからこんなものだろうか。そういえばもうそろそろ、思春期真っ只中になるわけだ。反抗期とかもくるのだろうか……桐山に? と想像もつかなかった。
「それは、まだ分からないぞ。好きな人とか出来たら違ってくる。節目の写真はあっても困らないだろう」
「好きな人!? いませんから! まだ!」
なるほど、〝まだ〟らしい。意外と良い反応がみられた。
情緒面での成長を感じつつ、こうやって子どもは育っていくんだなぁと感慨深い。
やはり川本の家の子だろうか。助けてくれたあの彼女が初恋なら色々とハードルが上がりそうだが、下の妹さんとも桐山は仲が良い。
……そっと見守っておくべきだろう。大人がつつくと碌な事にならない。
卒業式の日のクラスの様子をみると、桐山は随分と慕われているようだった。
すっかり将棋の子として認識されていて、次のトーナメントも頑張って! なんて声をかけられていた。
このクラスの子は随分と将棋に詳しいらしい。
しっかり身近な所に布教して、将来の自分のファンも増やしている。
施設に居た時からの親友だと、友だちを紹介してくれた。
うちに子どもが遊びにくることは無かったため、若干交友関係を心配していたのだが、要らぬ心配だったようだ。
卒業式の後に、顔を見せに行った藤澤氏の家でも随分と歓迎された。桐山は機能性の高そうなリュックとスニーカーを卒業祝いに貰ったようだった。登校に便利そうだ。
「桐山、俺からの卒業祝い」
「わぁ! ありがとうございます。……時計だ!」
「そう、今時の子は携帯で見るんだろうけど、まぁ一個くらい腕時計があっても良いだろう」
まだスーツを着るのは先だろうけれど、イベントに出る機会も増えるだろうし、付けていた方が様になる。
こんなことを言うと、また婚期を逃すと会長たちにはからかわれるだろうが、この先、この子が中学を卒業し、高校はどうするかは分からないがいずれ成人する。そういう節目にちゃんと祝ってやれる存在が一人はいてもいいだろう。
節目となる三月は学校の行事もそれなりにあり、春休みに入ってから説明会に行く桐山について行った。
あいつは学校行事に俺を付き合わせていると、申し訳なさそうにする。気にしないで良いんだがなぁ。
会長から桐山が休んでも大丈夫なように、心象よくしとけと冗談半分に言われていた。
全体の行事が終わってから、連盟からの説明の書類も持ち、職員室を訪れた。
「林田先生、今時間は良いかね」
すぐに対応してくれた教頭先生が、一人の先生に声をかける。
「はい、大丈夫ですが……。あぁ! 本当にそうだったんですね。そうか、今日は説明会の日だから」
担任は俺と同じくらいの年齢の方だった。
「林田高志と言います。桐山くんを受け持たせて貰います」
「桐山零です。よろしくお願いします」
「いやぁ、名前を聞いた時はまさかと思っていたんですが。本当に桐山五段ですね」
林田先生は桐山をみた後、横の俺に視線をうつした。
「師匠の島田です。この子はいまうちに住んでますので、保護者への連絡は私にお願いします。どうしても我々の職業柄、欠席が多くなるとは思いますが、勘弁してやってください」
「うわ……島田八段の名刺だ……。いや、失礼。欠席に関しては、届出を出して下されば考慮しますので。しかし、教職についている間に、学生のプロ棋士をみれるとは思いませんでしたよ」
しげしげと俺の名刺をみたあと、彼はそう笑った。
「先生は将棋がお好きなんですか?」
「好きなんてもんじゃないです! 一番の趣味です。実は……朝日杯も見に行ってたんだよ」
林田先生は小さな声で桐山にそう告げた。対局の会場に足を運ぶほどの将棋好きならかなりのものだろう。
「え! そうなんですか。……気づきませんでした」
「あれだけ人がいたら、一般人は見分けがつかないよ。今期まだ負けなし! 来年度も頑張ってな。島田八段もA級維持、流石です」
「私のことまで、ありがとうございます。この子共々頑張ります」
「実は私は貴方と歳が同じで。勝手ながらずっと応援しています。いやーすいません、公私混同ですね」
随分と好意的だと思ったが、なるほど昔から応援してくれているらしかった。
「嬉しいです。伸び悩んでいた時期もあったのに、そう言って頂けると」
「だからこそですよ! 若い快進撃は見ていて痛快ですが、それとはまた別ですから」
林田先生と少し話が弾み、結局最後には彼をはじめ、校長や教頭にまでサインを書くことになっていた。
桐山の今後の学校生活は明るそうである。
「先生とは、上手くやっていけそうだな」
「はい、林田先生は島田さんともきっと合うと思いますよ」
桐山はまるで確信を持っているように、そう頷いた。
桐山と後藤さんが、何事か口論していたらしいとの噂が俺の耳に入ってきた。
桐山はトラブルを起こすような性質ではない。珍しい事だ。
その場で仲裁をしてくれたらしい幸田さんに、それとなく話を聞いてみたところ、双方の主張の行き違いが発端だそうだ。
内容については後藤さんのプライバシーに関わる事だからと、あまり詳しくは聞けなかった。第三者の立場の幸田さんからみると、後藤さんの方が少し分が悪い感じらしい。
何か礼儀的な面で失礼をしたのなら、師匠として間に入るべきかもしれないが、幸田さんからその手の事ではないと断言された事と、本人から何も相談も無かったため、人間ぶつかる事もあろうと、そっとしておいた。
これはいつもの事なのだが、桐山の対局への準備はどんな相手だろうと余念が無い。相手が自分と同じC級の棋士だろうとA級の棋士だろうと同じようにしっかりと準備をする。
ただ、今回はより一層気合いをいれて、後藤さんとの対局の準備をすすめているようだった。
「勝者の言葉じゃないと、重みがない」
本人がボソッと呟いていたのを聞いた。
将棋に関して、勝敗以外の意識が入り込むことは、あまりよろしくないのだが、人間というものはそんなに出来たものでは無い。誰にだって、今回は負けたくない、この人には勝ちたい等、様々な背景があるものだ。
ある意味で、これも情緒の成長の一つなのかと思いながら、見守っていた。
そして、ついにその対局があった日。
「たいした奴だよ、コイツ」
玄関先で、寝落ちた桐山を背負った後藤さんは、なんとも形容し難い表情で、俺の顔をみるなりそう言ったのだ。
棋神戦、決勝リーグの一つの対局だった。中継をみていたため、桐山の勝利で終わった事は知っていた。
俺の方は今日は対局日ではなく、イベントがある日で、桐山の対局の状況によっては先に帰宅することになるだろうと思っていた。
桐山から感想戦をするから、迎えは大丈夫だとメールが入り、タクシーで帰ってこいよと返信したのは数時間前の事。
まさか、後藤さんが送ってくるとは思いもしなかった。
「すいません、送り届けてもらって。連絡をくれれば迎えにいったんですよ?」
「いや……、感想戦に遅くまで付き合わせたしな……。車に乗るまでは、ずっと喋って元気なもんだったんだが、一瞬黙ったとおもったらコレだ」
子どものスイッチが切れる瞬間を見たことがなかったのだろうか。少し戸惑っている後藤さんは、面白く思えた。
「かなり気合いを入れて準備してましたから、気も張っていたんでしょう」
彼は、背中の桐山をそのまま布団まで運んでくれた。意外な事の連続で、俺はあっけにとられるばかりだった。
そのまま、それじゃあと帰すのも何なので、お茶の一つでも入れてみると、飲んで行くかは半々だろうと思っていた彼は、そのまま居間に座った。
「多少は耳にしてたんだろう。俺とあいつが険悪に口論したって事は」
「えぇっと……まぁ、軽く幸田さんから聞きました」
「片は付いたから気にするな。元々、あいつは間違ったことは言ってないんだ。言い方は気に食わなかったけどな」
どうにも詳しく教えてくれる気は無いらしい。
「ガキに諭されてたら世話がない……。おまけにムカつく事に将棋も勝ちを奪っていきやがった」
珍しい事だった。この人と俺との関係は棋士同士以上の何者でもなく、こんな風に愚痴っている姿を見たことは無かった。
これはお茶ではなく、酒の一つでも出すべきだっただろうか。
「島田はこいつと住みだして、けっこう経ったのか?」
「そろそろ二年になりますね。まだ桐山が奨励会に在籍してた頃から、一緒に住み始めたので」
「まぁでも内弟子とはいえ、師匠と弟子だ。家族とは違うわな……」
後藤さんはひとりごとのように呟いた。
「出身はこっちじゃないんだろう?」
「小学校三年生の時に、長野から東京の施設にきたらしいです」
「なんでわざわざ東京に来たのかは、聞いた事はあるのか?」
「桐山のお父さんの知り合いだったという弁護士さんが言うには、本人が長野にいたくなかったらしいです。どうにも叔母さんとの折り合いも悪かったようで」
菅原弁護士とは桐山を内弟子にしてからも、何度か連絡をとっている。おそらく、当時の桐山が唯一といっていい頼る事が出来た大人だった。
「縋れる可能性すらなく、突然奪われた」
後藤さんは唐突にそう言った。驚いた俺に彼は続ける。
「あいつがそう言っていた。全部いっぺんに亡くして、どんな心境だっただろうな。たった一人を失う可能性にただ尻込みしてる俺が、どれ程贅沢にみえただろう」
それは俺が、一度も聞いた事が無い、当時の事故に関する直接的な言葉だった。
桐山は自分の家族のことを話さない。長野の事も触れて欲しくなさそうで、その様子は一緒に住みだしてからも、一貫していた。
桐山の親戚と名乗る人からのコンタクトが無かったわけではない。プロ入りして以降、菅原弁護士を通して、俺に連絡が来たことがあった。遠すぎるくらいの関係なら、関東圏に住んでいる人すらいたのだ。
その人達がなぜ、当時の桐山に手を差し伸べてくれなかったのかと、苦く思ったこともある。今になって、繋がりを持とうとされても、桐山は既に自分の足で立ちしっかり歩いているのだ。
そして、父親の妹だという叔母夫婦から連絡があった事は一度も無く、桐山がそれを望む事も無かった。
あの子は本当に肉親の縁というものがどうにも薄い。
「俺やお前が思ってるよりずっと寂しい奴で、それでいて強い奴なんだろうな。いや……そうでなければ、生きられなかっただけか」
後藤さんは少し疲れた様子で、ただそう呟いた。もはや俺の相槌なんてどうでもよさそうだった。
「自身の柔らかい傷をさらしてでも、他人にぶつかっていけるくらいには甘い子どもだ。師匠なら、しっかりみててやれよ」
最後の方なんて、本当に一方的に話していただけだった。
けれど、あの人の瞳の奥に、時々桐山に感じるなんとも言えない孤独を感じた。
あの年頃の子がするには、あまりに寂しい目だった。
おそらく俺には、知りえない感情で、後藤さんがこんなにも桐山を気にかけてくれたのは、その一点で何か共感するところがあったからなのだろうと、そう思った。
「島田さん。どうしてこう……人生って。自分ではどうしようも無い事がおこって、理不尽に大切なものを壊されるんでしょうか……」
桐山が突然俺に、そう言ってきたのは、年度が替わって少し経った頃だ。
「え、何? どうした? 学校でなんかあったのか?」
桐山はこの4月から中学生となった。制服も新たに通っていく姿に、大きくなったもんだと感傷にひたった日も、そう遠くない。
受験して進学した中学だ。小学校の時の友人もおらず孤立しているのだろうか。
初めてみるほど落ち込んでいる様子だった。
「あ、いえ。僕の事ではなくて……。むしろ、僕がしてあげられる事が無いことに、こう……無力感を感じると言いますか」
「自分の事じゃない……? あーもしかして、川本のお嬢さんから何か相談されたのか?」
桐山がこれほど影響される人物は他に思い当たらなかった。
俺は今日、遠方でのイベントがある日だった。泊まりが必要なほど遠い遠征の仕事は今はほとんど入れられていない。連盟もそれなりに考慮してくれているのだ。それでも遅くなる日はある。
そういった日、桐山が川本家で晩御飯に誘われる事は、近頃の決まった流れであった。あの一家は桐山や、師匠の俺にも、本当に良くしてくれている。
あまり人を頼りたがらない桐山が心を開いていることもあり、俺としてもこの関係を大切にしたいと思っていた。
「今日、ひなちゃん達のお父さんに初めて会ったんです……」
いつものように、皆で食事をとっていると川本家の父親が帰ってきたそうだ。
「実は前からひなちゃんには、お父さんの事を相談されていたんです。全然お家に帰ってきてくれないし、経済的にもお母さんにだいぶ負担がかかっていたようで」
俺は勝手に、川本家は母子家庭だと思っていた。桐山と共に、食事によばれることも多かったが、そう勘違いするほどには、父親の影が無かったのだ。話題にすら上らなかったため、まさか、不躾に尋ねるわけにもいかないだろう。
一家の大黒柱がそこまで不在とは……単身赴任の家庭だったのだろうか? 漁師って事は、住んでいる地域的に無さそうだし、長期的に出張があるような職だろうか?
それにしても、娘に経済的な心配をさせる親とは……。
「島田さん、僕って下心あるように見えました?」
そんな事をつらつらと考えていると、突然桐山がそう言った。
「は? おまえさんに?」
「その人と少しだけ二人で話す時間があったんです。そうしたら、どっちが本命なの?って。そうじゃなきゃ、三日月堂になんか通わないだろうと言われて……。僕はそれが凄く嫌だったんですよね」
桐山は三日月堂の事をそんな風に言うなんてと、怒っていた。
俺はと言うと、なんて事を言ってくれるんだと、声をあげそうになった。
なんというか、桐山が川本のお嬢さん達を気に入っているのは間違いない。ただ、その感情は恋と言って良いかすら分からない。本人だってその気持ちに名前なんて付けれていないだろう。
それを下心なんて無粋な言葉で、言い表してほしくはなかった。
「桐山は……、ただ川本のお嬢さんたちの力になりたいって思ってるんだろう? その気持ちを大事にしてほしいと俺は思う。他人がどうこういうのは気にしなくていい」
おそらく友情とも恋情とも違うのではないかと、薄っすらと思っていた。
桐山は川本家に、失った家族の安らぎを感じている節がある。
それは内弟子として迎えてしまった俺には与えられないもので、無意識に桐山が一番欲しいと思っているものではないだろうか。
俺は訪れた回数こそ少ないが、あの下町ならではのあたたかい雰囲気と、一家の様子は、ひたすらに優しかった。
それをそんなふうに俗物的に言われると、衝撃は大きかっただろうと思う。
「良いですよね? 変じゃないですよね? 僕は何を言われてもひなちゃんたちの味方でいたいです。頼られたら、してあげれる事なら何でもしたい」
ただの友情としては行き過ぎた感情のような気もするが、それもまぁ良いだろう。
「相談にのるのは良い事だと思うぞ、子どもでも親に対しては色々悩むこともあるだろう。ある意味で家族には相談しにくい事だろうし。まぁ、経済的な話になれば、首をつっこむのはどうかと思うが……」
それにしても、半年以上も関わってきて一度も姿を見なかった父親とは如何に。俺の人生経験をもってしても、あまりお目にかかった事が無い。
あまり気は進まないが、相米二さんにでもそれとなく聞いてみた方が良いだろうか。
人様の家の事情に首を突っ込むのも気が引けるが、桐山にとっては自分の事以上に気にかかっている様子だし。遠い親戚より近くの他人とも言う。少し状況を整理することは悪くない事に思えた。
聖竜戦決勝トーナメントの準決勝が迫っていた。
これまで、一度も桐山との公式戦での直接対決は無かったが、いよいよという訳だ。
昨年プロになった桐山は一次予選からこのトーナメントに参加している。その一次予選を突破した8名と本戦トーナメントのシードを持つ者で行われる二次予選を見事突破し、彼は決勝トーナメントにたどり着いた。
16人で行われるこの決勝トーナメントで、俺がベスト4まで来たことも実は初めての事だ。
もし、ここで桐山に勝ち、向こう山の決勝に上がってくるであろう、隈倉さんか土橋さんに勝てば、今年の聖竜戦の挑戦者というわけだ。
こんな大一番を、中学生になったばかりの弟子と争うというのはなんとも不思議な心持ちであった。
普段と変わらず研究会をして、桐山のもつ不思議な棋譜の検討も相変わらず進めていたものの、次の対局が近くなると、流石に直接指す事はやめた。
未だ一度も負けることなく、全ての対局で勝ち続けている桐山は、抱えている対局数が異常な域であった。
来年はシードが確定している棋戦も多いため、これほど忙しいのは今年だけだろうけれど、学校にも行きつつ、その10日の間にも3回ほど別の対局があったほどだ。
既に何回か、A級棋士との対局もあったが、白星を掴んでいる。
誰よりも一番傍でその様子を見て来た。勝率はなんなら俺の分が悪い事も自覚があった。
ただ、師匠としての矜持もある。そうやすやすと、勝ちを譲る気もさらさらなかった。
その日もいつもと同じように起きて、共に朝食を食べて、一緒に家を出た。どうせ、同じ場所に行くのに、わざわざ時間をずらす気にはならなかった。
桐山もいつも通りだった。明日は天気が良さそうだから、洗濯は明日で良いかなんて、日常的な会話をしつつ、将棋会館への道を行く。
振り駒の結果、先手は桐山からだった。
家で指している対局と雰囲気が変わるかと言われると、そういう事も無い。真摯に盤面に向かういつもの桐山だった。こうしていると本当に年齢など気にならなくなる。
立派な将棋指しの一人なのだ。
初手は飛車先を突く、2六歩からはじまった。
俺は、2手目に3四歩と角道を開いてみせる。
続く3手目に、桐山は同じように角道を開いたのをみて、自分の角道は止めて、振り飛車を示唆してみせた。
桐山はそれをみて、一度意外そうに考え込んだ。けれどそのまま飛車先を突き、角道を開けてから居玉を解除し、自然な駒組みを進めていく。
俺は飛車先を保留したまま駒組みを進めて、20手目で7筋の歩を突いた。
桐山はそれを受けて、また少しばかり長考をしたものの、3筋の歩を突き合わせてくる。
俺はその手を待っていた。同歩とは応じずに7筋の歩を突き合わせ反発。
歩交換を挟みながら7筋に飛車を合わせ抜け目なく拠点を作り、9筋の歩を突き合わせ、端から反撃を試みた。
研究手がハマった鋭い切り返しだったと思う。桐山は、それでも大きくは動じず、果敢に6筋の戦場に手持ちの角を投入して、受けてみせた。
それに構うことなく9筋から敵陣へと踏み込み、5筋から追撃をかける。
形勢は一気にこちらに傾いた。
そのまま夕食に入るまで、こちらの優勢を保ったまま対局は進んだ。
上手く攻められていて、桐山はそれに対してなんとか凌いでいる状況だった。
夕食の休憩後、しばらく指し続けての65手目、2一飛。これがこの対局の潮の流れを変えてしまった。
対する俺の66手目は4一飛。飛車合いの受けを選択し、直接桐山の飛車を消しに動いてしまった。
あとから考えればこれが失着となったわけだ。ここは、3一歩か4一歩の底歩が有効であった。
桐山は素直に同飛車と応じることなく、6五角で切り返してきた。
この瞬間俺は、やられたと思った。
終盤の細かくなってくる場面でコレが出来るのがこいつの強みだった。
有利だったはずの盤面が一気に、分からなくなってしまった。
あぁ……強いな。本当に年齢に見合わない完璧な程の安定感だ。
幾度となく検討してきた夢の中の棋譜が示していたが、桐山との対局はその発想の柔軟さで、最後まで分からないのだ。
たった一つ間違えば、盤面はひっくり返ってしまう。
直後の攻防で桐山は、俺の攻撃を支える金を素早く抜き去り、形勢はさらにあちら側へと傾く。慌てて寄せたところで、その流れは変わらなかった。
結局19時を過ぎたところ、81手で俺は投了を余儀なくされた。
「負けました」
驚くほどスルリと、その言葉は口から滑り出る。普段の家での対局となんら変わりはなかった。
「ありがとうございました」
桐山はどこか少しほっとしたように、頭を下げた。劣勢からの挽回だったため、ギリギリまで神経を使ったことだろう。
「……まさかこんなに早く恩返しされるとはな」
将棋界では師弟対決の時、弟子が師匠に勝つことを〝恩返し〟という。
後身の成長を見守り、自身の経験や技術を伝授して、棋界のレベルをあげることは棋士の使命だ。
だが、これは本当に〝恩返し〟と言えるのか?
俺は、公式戦で桐山とあたるのは初めての事だ。
初戦で成し遂げられる恩返しなど今まで聞いた事も無い。
……いや、朝日杯で宗谷に勝った時から分かっていた事だ。将棋に関しては俺たちは師弟というより、切磋琢磨する研究仲間と言った方が正しい。
無論、悔しいと思う自分がいた。66手目の事が無ければ、勝ち切れた対局だった。
そこをひっくり返されるなんて未熟の一言だ。
まだ、そう思える自分がいる事が、可笑しくもあり、ほんとうに諦めが悪いとも思った。
同年代の宗谷との間にはずっと埋められない差のようなものを感じて来た。それでも、指し続けた俺にとって、こんなことはままある事なのだ。
桐山の連勝記録は未だ切れず、前人未到の域に達していた。
このまま宗谷とのタイトル戦までいくのではないかとまことしやかに囁かれている。
そう、今日の勝ちでその実現はあと一勝にまで迫る事になった。
一人の人間としては、それを楽しみにしているのは間違いない。この二人のタイトル戦を見てみたいとさえ思っている。そして、おそらくその日が来れば、俺はおそらく自分の出来る範囲で助力するのだろう。