藤澤さんの家で暮らしはじめて数日がたった。
僕は思ったよりもはやく、ここでの暮らしに順応し始めていた。
寧ろ、小学生に戻ってからこんなに将棋に集中し、穏やかに過ごせた時があっただろうかと思うくらいだ。
藤澤さんの奥さんの和子さんはもの静かな方だった。無理に踏み込んでこようとはしない距離感が心地よく、それでいて、とても気のまわる方でもあったので、僕が過ごしやすいように色々と配慮をしてくれた。
料理もとてもお上手だった。僕が手伝ったときも、つたないこの手をうまく使ってくれたおかげで、邪魔してるんじゃなくて、ちゃんと手伝いができたと思えたので、嬉しく思えた。
洗濯物を一緒に畳んだり、奥さんの手が届きにくい高いところの掃除を手伝ったりと、くるくると動き回っていたら、零くんは本当に働き者ねと微笑まれた。
最初は僕が無理をしてるんじゃないかと随分と遠慮されたりもしたんだけど、動いてる方が性に合っているというか、落ち着くんだということを理解してもらって、それからは色々手伝わせてもらっている。
藤澤さんは、私より零くんの方が和子と仲が良い気がすると、まだ数日しかたっていないのになぁと複雑そうな顔をしていた。
猫たちもだいぶ早くに慣れてくれた。シロはとてもマイペースな子らしく、あまり人にべったりすることはないそうなのだが、何故かぼくのことを気に入ってくれた。
ご飯のときや、駒をならべているときなど、静かに足元によってきて、僕が膝に乗せるのを待っているのだ。成猫の雄だけあって、小学生にはいささか重たいのだけど、その待ってる姿がいじらしくて、すぐ膝にのせてあげる。一度乗せるとなかなか降りてくれないところも可愛かった。
藤澤さんは信じられないって顔をしてたけど。気難しいところもあるので、普段はめったに抱っこをさせてくれる子ではないらしい。
僕があまりに将棋に集中しすぎて、和子さんや藤澤さんによばれていることに気付かなかった時など、ザラザラの舌で手や顔を舐めてきて教えてくれる、とても賢い猫だ。
クロはちょっと臆病で用心深い子だと聞いていた。迷いネコだったそうで半年ほど前にこの家に居ついたそうだ。そのときの名残か、ガリガリというほどではないが細身で小さい子だった。
初日は警戒されて僕には寄り付きもしなかったけれど、ある時朝目が覚めると、僕の布団の足元で小さく丸くなっていた。そのあとも、ぼくが寝てたり将棋に集中してたり、意識がどこかに向いているときに限って、気づけばそばに寄り添っていたりする。
もう少し時間をかけたら、シロのように甘えてきてくれないかなって思った。
たまにやってきて、僕のことをからかい一局さしていく後藤さんは、クロと僕を似ているといった。特にクロは後藤さんに全然なれてなくて、彼の姿をみたら小さな身体の毛を精一杯、逆立てて威嚇してみせるんだけど、その姿が僕にそっくりだそうだ。……なんだか、納得がいかない。
なにより僕を喜ばせたのは、藤澤さんが保有している資料の多さだ。
さすがに会長が現役時代に、彼としのぎを削り、名人位についた棋士のお宅だけあって大量の棋譜が保管されていた。
今年度の後期の三段リーグが開始するのは10月からなので、僕にはそれまで棋戦がない。
準備できる時間がたくさんある……と考えることもできるけれど、対局がないのは、やっぱりつまらないなって思った。
でも、せっかくなのでその分の時間を使って、僕はたくさんの棋譜を並べ続けた。
不思議なことに、戻る前に記憶していた棋譜と、同じ棋譜は相当古いものだけで、僕が生まれたあとに指された棋譜は見覚えのあるタイトル戦とおなじ対局者同士だったとしても、内容が変わっている。
将棋というものは、それだけ繊細だ。ちょっとしたことで、無限の可能性と道筋をしめす。対局内容が変わっていることは、僕にとってはありがたいことだった。だってそれだけ、新しい名局がたくさん見られるということなのだから。
師匠の藤澤さんは引退して日が経っているとはいえ、相当な指し手である。お忙しくない日は、かならず一局、相手をしていただけるのも、ありがたいことだった。
感想戦や、検討が想像以上に盛り上がってしまって、すっかり深夜まで話し込み、和子さんに注意されたりもした。
成長期のぼくは日付が変わる前には寝なければならないと言われている。健全な身体の育成のためには必要なことだと思う。
和子さんは、零くんと指しているとあなた10年くらい若返ったみたいに活き活きしてるわ。と藤澤さんに呆れたようにつぶやいていた。
学校もないので、記録係の仕事もたくさん入れてもらっている。
長い対局も持たせてもらえるようになったけど、基本的に待ち時間が短いものが主だ。
だいたいどの対局日でも藤澤門下の誰かが対局予定が入っていることがおおく、駅まで一緒にいったり、車の人はそのまま送ってくれたりもする。
まだ、対局が長引きそうだったりして、ちょっと待っててといわれると、その時間を施設に遊びにいって待たせてもらったりもした。
その時は、事務の人が有り難いことにまたお菓子をくれたりして、お土産をもっていけることも多い。何もない日は自分でなにか買っていくけど。
本当に来てくれたーと、ちょっと早過ぎだと笑いつつも、僕が遊びに行くと皆歓迎してくれた。
ちびっこたちと遊んだり、夏休みの宿題をするのを手伝ったり、青木くんとはたくさん本の話をしたりした。
青木くんは僕が藤澤さんの家で、どう過ごしているのかとても気になっているようだった。
奥さんも優しいし、師匠はたくさん将棋で構ってくれるし、猫たちも可愛いし、門下の方々も親切だと伝えると、本当によかったと嬉しそうだった。
僕が新しい場所でうまくなじめているか、心配してくれていたようだ。やっぱりとても優しい子だと思う。
そういうわけで、夏休みは記録係の仕事に勤しみつつ、ほかの日はほぼ藤澤さん宅にもうけられた、僕の自室で棋譜に溺れるという、素晴らしすぎる毎日を送っていた。
そして、とある平日のこと。
朝食の準備を手伝っていたとき、僕の携帯が鳴った。これはとても珍しいことである。この携帯の番号は10人足らずの人しか知らないし、その人たちも僕にとくだん連絡をしてくることもないのだから。
いったい誰だろうと、電話をとると相手は神宮寺会長だった。
緊急事態だという。
なんと今日行われる棋匠戦の挑戦者決定トーナメントの4回戦の記録係をするはずだった大学生の奨励会員から、高熱をだしたとの連絡があったそうだ。
どうやら、いま巷で大学生に流行中の麻疹の気配がするそうで……これから慌てて病院で検査をするそうだ。
どっちにしろ、今日の仕事は出来ない。ということは誰かに代打を頼まないといけない。けれど、あいにく近くに住んでいる奨励会員は僕以外、都合がつかず全滅だったそうだ。夏休みだし、いろいろ予定があるのは当然のことだろう。
連日で申し訳ないと言われたが、僕は特に予定もなかったので、喜んで引き受けた。
対局開始まで、あまり猶予はなかった。
僕は大急ぎで身支度を調えて、師匠に外出の旨を告げて、会館へ急いだ。
ついてから知ったのだが、今回の対局はネットで動画中継される予定の対局だったらしい。
それは余計に、記録係が来られなくなって、慌てたことだろう。
僕はまだあまり目立ちたくなかったのと、小学生に記録係をさせているということが、労働の基準の法律的に好意的にみられるばかりではないと予想できていたので、すこしでも露出がある対局を担当したことがなかった。
けれど、この場合は仕方ないだろう。
自分に与えられた仕事をいつものようにこなすだけだ。
<以下にこにこ動画のコメントを想像してお読みください>
[おーし。藤本九段の対局はじまりますぜー]
[今回調子よさそうだし、嬉しい]
[この人の対局はみてて面白いからな]
[しゃべりすぎ]
[いつも相手の対局者困ってるw若い子とくになw]
[バカ、あれが面白いんだろ]
[マシンガントーク、からのイリュージョンw]
[イリュージョンというなの失着]
[今回は失着でたら困るよ]
[せっかくだから、決勝まで上がっていてほしい]
[お、会場準備はじまったな]
[ん? なんか小さい子いる]
[なんかちょこまか動いてるんですけどwww]
[誰や、お子さん連れ込んだん]
[偉いなー。お手伝いしてる]
[ちょっとちょっと記録係の席座布団二枚重ねてますがなw]
[座布団かさましw]
[ふかふかにする気遣いw?]
[あれ?]
[おい、嘘だろ]
[まじ?]
[座っちゃったよ]
[え? この子記録係?]
[ほんとに? いたずらじゃなくて?]
[確かにこの子なら、2枚くらいないと机高くて書きにくそう……]
[いやいやいや]
[問題そこじゃない]
[どう考えても小学生]
[本気で?]
[記録係そこまで足りてなかったの……]
[えー対局者入場になっちゃった]
[藤本九段どう動く]
[あの人なら絶対ほっとかない]
[たのむぜ、俺たちの疑問を……]
[ファァァァァァwwwww]
[wwwww]
[まじかwwwwww]
[これは笑うwww]
[着席前に頭撫でやがったw]
[えw何wこれ、雷堂先生の知り合いw?]
[どう考えてもそうだろwww]
[照れてる。小さい記録係かわいい]
[ちょっと髪直してるのかわいい]
[顔見てもほんと幼いな]
[やべ、和んだ]
[うーん、人手不足で身内の駆り出し?]
[いや、藤本九段のお子さんは娘のはず]
[弟子もとってないはずだし……]
[ま、考えてもしゃーない]
[対局始まるでー]
[さて、今回はどういう戦法か]
・
・
・
・
・
[うちかけですなー]
[ご飯ターイム]
[俺らも飯くわねーと]
[いやーいいね、序盤から終始九段のペース]
[ついでに絶好調のトーク]
[午後もこの調子でお願いしたい]
[ん?]
[お? まさか]
[小さい記録係ごはん誘われてるwww]
[え? これ日常なの?]
[対戦相手の田村七段も誘おうとしてたぽいね]
[藤本九段の先手必勝www]
[お? ついてくの?]
[大丈夫? そのオジサンちょっと刺激強いよー]
[いたいけな小学生に彼の相手がつとまるのか……]
[僕は心配です]
[ちょっと困ってるぽかったけど、でも嬉しそうだったぞ]
[うーん、ますます気になる]
[ありゃwwww]
[藤本九段声でかいwww]
[桐山はしっかり食わんといかんってw]
[まる聞こえですwwwww]
[速報 小さい記録係の名前は桐山くん]
[まー奨励会員なら、おそかれはやかれ名前割れただろうし……]
[桐山くんね。どっかできいたような……]
[しっかし、小学生が書く棋譜が気になる]
[仕事してるなら読めるんだろ]
[手馴れてた。少なくとも今日が初めてではないと予想]
[対局中、びっくりするくらい動かなかったな]
[ずっと固まってた]
[再び動き出すまで、人形みたいだった]
[姿勢良すぎ]
[美しい記録体勢]
・
・
・
・
・
[おーお帰りのようで]
[戻ってきたー]
[何食べたのかな?]
[桐山君なんか若干疲れてる気がww]
[藤本のおっさん元気だなー]
[吸われたんじゃね、気力]
[ん?]
[なんだ何だ?]
[藤本九段開始そうそう、棋譜を要求]
[お? まじで?]
[めっちゃ画面に度アップで見せてくれたw]
[さすがっす!]
[俺たちが求めていることをよくわかってらっしゃるw]
[うお……すげ……]
[マジか]
[え? これホントに小学生の書いた棋譜?]
[字、綺麗すぎでしょ……]
[完全に負けた俺氏]
[げんじつを受け入れられない]
[大人かおまけ]
[読みやすさを追求したみたいな丁寧な棋譜]
[字って性格あらわれるよね]
[あ、返した]
[雷堂せんせーありがとでした]
[また、頭なでてるw]
[撫でてるっていうか、かき回してるなw]
[午後もたのむぞーだって]
[仲良いのかな]
[わー桐山君はいって!!!]
[声、かわいい]
[ボーイソプラノ]
[声変わりしてない]
[ぐわーおじさんのハートに突き刺さった]
[くっそ和む]
・
・
・
・
・
[桐山ってどっかで聞いたと思ったら、去年の小学生名人だった]
[おい、対局中だぞ~]
[ま、長考中だし]
[へぇ、てことは去年、奨励会はいったのかな]
[やばい、今何級なのかなって思ってホームページの成績みてきた、やばい]
[いまどき、個人情報だだもれ]
[まープロになるなら仕方なし。成績とかは特に]
[やばいよ。級どころじゃない]
[はい?]
[うそだろ、そんな一年ちょっとで]
[このこ、じゅうがつからさんだんりーぐ]
[ぎょえぇぇぇぇぇ]
[絶対うそだ]
[桐山って子が2人いる説]
[いや、名前他になかった……]
[実は小さくみえるけど、もう中学生だった説]
[去年、小学生名人取ったとき10歳って記事に書いてた]
[じゃあ今小5じゃん!]
[小5にしても小柄だな]
[男の子はこの年けっこう、個人差あるでしょ]
[見てきた。連勝記録半端ない]
[ずっと真っ白い○ばっかり]
[へー、一度も汚れてないのね]
[その表現なんかやだな]
[つまり彼は天使だったと]
[かわいい]
[ここやばい視聴者いる]
[まぁノータッチをちゃんと守れるんならいいんじゃね]
[ショタコンが湧くの不可避]
[ぐう有能なのだから記録係も一生懸命なのか]
[逆じゃね。記録係ちゃんとしてるから、成績よし]
[どっちも正しいだろ]
[お、藤本九段さした]
[5七金ですか]
[渋いっすなー]
・
・
・
・
・
[98手目で投了]
[おつかれしたー]
[888888888888]
[8888888]
[ 888888888888888888]
[田村七段も健闘してたよな]
[88888888888]
[8888888888888888888888]
[さすがに雷堂先生だった]
[今日は、絶好調でした]
[この後の感想戦も期待できるな]
[これは長くなるのか?]
[お、桐山君もきくぽい]
[まじめー]
[かわいいなー]
[話ききながら、頭がちょっと動いてる]
[うんうん。って感じ]
[わかってるのかな、カワイイ]
[暗くなるのにだいじょうぶなのか]
[お迎えあるんじゃないの]
[小5なら親くるんじゃね]
[桐山君保護者いないらしい]
[は?]
[ちょっとあんまりデリケートな話題は……]
[師匠の家に内弟子入ってるって]
[だからって、親いないってのは早計だろ]
[去年の記事であったかも]
[えーなんかめっちゃ大変じゃん]
[応援してあげたい]
[まー俺たちは将棋みてるだけだし、そのへんの事情はそっとしておくべき]
[ん? 感想戦おわりかな]
[席たとうとしてるね]
[お二方おつかれさまでしたー]
[いやーいいもん見せてもらった]
[お?]
[どうした、どうした?]
[ちょ、藤本九段、いきなりむちゃぶり]
[桐山君こまってる]
[奨励会員にここで意見求めるとは……]
[お、指した]
[どうなの? どうなの?]
[うまく盤がみえない]
[先生方のあたまがじゃま]
[え、なんかめっちゃびっくりしてね]
[田村七段ちょう食いついてる]
[これは……めっちゃ難解だけど]
[ひょっとしたら、ワンちゃんあった……のか?]
[うっお藤本九段が駒片づけちゃった]
[あらまーこれはひょっとしたら、ひょっとしたのか]
[田村七段まだ固まってるぞ]
[頭のなか今フル回転だな]
[藤本九段退出]
[そして、盤のそばから動けない桐山君]
[帰っていいと思うぞー]
[律儀だ]
[田村七段が帰るのまってるのか?]
[お? なんか誰か呼んだ?]
[お迎え?]
[あ、顔あげて退室した]
[田村先生にちゃんと一声かけてくのえらい]
[先生聞こえてなかったぽいけどな]
[ちゃんと一礼して出てくのえらい]
[ちょww雷堂せんせー声やっぱでかい]
[今日の送迎は後藤かーってwwwww]
[え?]
[後藤って、まさか後藤九段?]
[そんな、ばかな]
[あの子供うけしなさそうな、顔で]
[いや、でも言われてみればさっきよんでた声……]
[どういう関係?]
[同門とかかな……]
[あーね]
[いや、でも後藤九段が桐山くんと話して、連れ帰ってるのを想像すると……]
[やめろ、それ以上言ってはいけない]
[犯罪的ですね]
[だーーーーーーーwww]
[くっそwwwww]
[うわー超きになる]
[みたい]
・
・
・
・
・
記録係の仕事は問題なくこなせたと思う。
藤本九段の対局だったのは、ちょっと誤算だった……。
すでに何度か担当しているけど、最初の時にやたらと絡まれて、そのあとご飯のときに僕の境遇とかしゃべらされて、それからなにかと構ってくるのだ。
まぁありがたい話なんだけど……。
そして、今日の帰宅のつきそいは後藤さんらしい。
いろんな門下の人が送ってくれたことがあったけど、彼は今日がはじめてだ。
こんな面倒なことするような人に見えないけど。
今までもっぱら多かったのは幸田さんで、彼の対局がある日に僕が記録係に入っていないか、事務にきいているらしい。
僕は一人でも問題なく帰れるので、そこまでして頂かなくても大丈夫だと、それとなく伝えたんだけど……
20時や21時を過ぎたときの子供の一人歩きは推奨できないらしい。
今日自分が付けたばかりの棋譜のコピーを見ながら、後藤さんのすこし後ろをついて歩いて帰っていた。
今日は電車をつかって帰るのだ。
最寄り駅まであるかなければならない。
と、僕の手から棋譜が取られる。
「ぼーっと歩いてんなよ、ちびすけ。転ぶぞ」
後藤さんは呆れたような顔をしていた。
いつのまにか、結構距離がはなれていた僕のことを待ってくれていたらしい。
会館で、帰るぞって声をかけてから無言だったくせに。意外とこちらを気にしてくれていたようだ。
「すいません、ちゃんと前見て歩きますから。返してください」
「どうだかな……これ、今日の藤本のおっさんの対局か」
手元の棋譜に視線を落とした後藤さんの問いかけに、僕はうなずいた。
「ふーん。あのおっさん今日は絶好調だったみたいだな」
「はい。終始藤本九段ペースでした。でも田村七段もかなりくらいついていらっしゃいましたよ」
「まーな。あいつももうちょっと、やりようがあったか……感想戦のあと、藤本のおっさんに絡まれて、おまえなに言ったんだ?」
あれは、正直失敗したと思う。
僕はどうしても、問いかけられるとその時思いついた手を言わずにはいられない。
でも、てっきりもう終わっていたと思っていた中継がまだ切られていなかったらしいし、田村七段にとったらいい気はしなかっただろう。
「藤本九段に、午後の長考で指した5七金の受け手、他に何か思いつかんかと聞かれたんです。あの一手で形勢はほぼ藤本九段有利に固まりましたから」
「時間かけて指しただけの価値はあった一手だな。で、おまえの返事は?」
「田村七段は3二金とうけました、僕は3三銀の方が有力かと」
「あ? それだと1手損して……いや……」
眉をしかめた後藤が、そのまま少し考え込む。
「△3三銀 ▲6七金 △8五桂……ときて、△6六歩までつなげれば……。
へぇ……面白いな」
僕は午後の対局をみながらずっと考えていた一手だけれど、すぐにそこにおもい至るのは流石としかいいようがない。
「相変わらず、くそ生意気な手だが、わるくねぇ」
「それは……どうも」
この人は素直にほめることはないのだろうか……。
「おい、続きどうなるか指してみるか?」
「え?」
「目隠し将棋くらいできるだろ。俺とおまえがこの続き指したらどうなるか、ちょっと興味がある」
「わ、やります! やります!」
そんな面白そうなこと、乗らずにいられようか。
結局僕らはそのまま、頭のなかの将棋盤をなぞりながら、藤澤さんの家まで帰った。
後藤さんはそこで、帰る予定だったはずなのに、何故かヒートアップしてしまって、上がり込み、今度はほんとに駒と盤をつかって、続きに付き合ってくれた。
そうこうしてるうちに日付の変更が迫るくらいまで、夢中になってしまったようで、部屋を見に来た師匠に止められて、お開き。
あーもったいない。もっといろいろ出来たし、別の一手も思いついたのに。
これが大人だったなら、夜明けまで指し続けたのかな、と思って惜しかった。
9月、新学期が始まった。
といっても、別段学校生活に大きな変わりはない。
青木くんと学校で会えるのは嬉しかった。彼の成績はどんどん伸びていて、僕が教えなくても、自分で勉強の要領をつかんだようだった。もともと、賢い子だったのだと思う。
いよいよ、三段リーグが目前に迫ってきて、僕はすこし記録係の仕事を減らしたらと心配もされたけれど、特別何かを変えたりはしなかった。
それは、自信でもあったし、その先を見据えてのことだ。
半年後にはプロになる。僕の中では確定事項。
だったら、なおさらプロ棋士たちの対局は見ておきたいし、今の流行、定跡、最新手……興味は尽きることがなかった。
そういえば、8月・9月といえば台風のシーズンである。
東京が直撃をうけることは少ないけれど、年数回は豪雨に見舞われることもある。
そして、その日がたまたま僕が記録係をしていた土曜日の夜のことで、この日小学生に戻ってから、初めて会館に泊まるという経験をした。
「ごめんね。桐山君。こんな日は早く帰してあげるべきだった……」
事務の人がほんとに申し訳なさそうな顔をしている。
「気にしないでください。こんなに早く荒れるとは思ってませんでしたし。師匠にはちゃんと連絡しましたから」
師匠の藤澤さんはとても心配してくれて、迎えをよこそうとしてくれたけど、この雨のなか車で移動するのも危ないだろう。
会館では最後まで残っていた事務の人や、他の長引いた対局の対局者や記録係も足止めをくらって、今日はここで一夜をあかすようだ。
他の大人もいるから、大丈夫だと納得してもらった。
「とりあえず、何か食べようか……。事務所にあるカップラーメンとかしかないけど……」
「わー僕あんまり食べる機会がないので、新鮮です。ありがとうございます」
高校生の時、一人暮らしを始めて、川本家にお世話になりだす前は、それこそ毎日のように食べていたけれど、施設では給食のようなそれなりの食事が量が少なめでも出たし、藤澤さんの奥さんが、そんなジャンクフードを出すなんてことはありえないので、随分とご無沙汰である。
「そう? まぁ子供はけっこう好きかもなぁ。ラーメンでいい? そばとかうどんもあるよ」
「あ、うどんが食べたいです」
「一つでいいの?たくさんあるし、遠慮しないでね」
「そんなには食べられないので、大丈夫です」
ここの事務の人たちは、お菓子の時もそうだけど、僕にやたらと食べ物を勧めてくる。そんなに貧相にみえるのだろうか……。
将棋以外の前の時の記憶があいまいなことも多くて、小5のときどれくらいだったか、うろ覚えだ。
でも、ちゃんと高校生の時には人並みに成長していたし大丈夫だと思う……たぶん。
「ちーす。俺も何かもらっていいですか?」
「お! スミスくん、お疲れ様。どうぞ、どうぞ、何でも持って行って」
僕は懐かしいその声に、顔をあげた。
これまでも、何度か遠目にみることはあったけど、顔を合わせるのは今回が初めてだ。
「いやー、まいっちゃいますよ。代打で久しぶりに記録係してみたら、この嵐ですからね」
「君はプロ入り後も、調子よさそうだったからね。かりだしちゃって、ごめんね」
「それは、まぁお互い様なんで。ん? 君は、たしか……」
「あ、スミス君初めてだった? 桐山くんだよ、記録係としては一年ちかく連日はいってくれてるベテランさん」
「こんばんは、桐山零といいます」
事務の人の仲介をうけて、僕は彼に挨拶をした。
「あー噂はしってますよ。そうかー君があのスーパー小学生ね。
三角龍雪だ。よろしく」
スミスさんはそう言って、僕に手を差し出してくれた。
僕はその手を握り締めて、嬉しくなった。
前のときもそうだった。挨拶のあとに手を差し伸べてくれたのは彼の方。
気さくで人当たりがよい先輩棋士。
現在は20歳、たしかC1に上がって活躍されているはずだ。
相変わらず元気そうでよかった。
「スミスくんよかったら、桐山くんと一緒にいてあげて。今日は彼も泊まりになっちゃったんだけど、同門の人誰もいないみたいだから」
今日残ってる人の中に藤澤門下の人はいない。事務員の方は雑務でそれなりにお忙しいだろうし、僕のことを気にしてのことだろう。
「いいっすよー、俺も若いやつ他にいなくて、暇してましたし。ま、君が嫌じゃなかったらだけど」
スミスさんは、快諾してくれて、僕にそう声をかけた。
「とんでもないです! 嬉しいです」
人見知りな性格は残っている僕だけど、彼と話せるのは嬉しい。純粋に笑顔がこぼれる。
「おー素直だなぁ。かわいいやつめ。とりあえずは飯だな。お湯かりよう」
そう言って、手招きをしてくれるスミスさんの後について回った。
お湯を借りて、麺を戻して、一緒に晩御飯を食べた。
その時は、他の棋士さんたちも集まってきて、わいわいみんなで食べるのがすこし楽しかった。
小さい記録係も、災難だったなーって、たまたま自分がもってたお弁当のおかずを分けてくれる人とか、今日は冷えるかもなーってカイロを分けてくれる人とか、たくさん構っていただいて、申し訳ないくらいだった。
ご飯を食べた後に、他にすることもないので将棋盤を使いながら、駒を動かして、残った棋士たちが集まって研究会もどきみたいなこともした。
でも、そろそろ僕は寝ないと、藤澤さんに怒られるということで、スミスさんに連れられて、控え室から、別室に移動することになった。
こういうときに、やっぱりこの小学生という身体はネックである。僕も朝まで将棋をしたい……。
将棋会館には宿泊施設も一応あるけれど、それは有料で本当にホテルのようなものだ。
一般的に帰れなくなった記録係が始発電車を待つときなどは、対局室の畳のうえに座布団を引いて、ちょっとした毛布を借りてきて、雑魚寝をして朝を待つことが多い。
毛布はそんなに数があるわけでもないんだけど、あの人たちはそもそも寝る人が少ないだろうし、遠慮なく使えと言われて、ありがたく貸してもらった。
座布団はあまるほどあるので、多めに敷く。
桐山は小さいから、一つの幅で体の横幅余裕だなってスミスさんに笑われてしまった。
3つくらい縦に並べて、少し足があまるくらいである。
準備ができて、そろそろ眠ろうかというとき……。
ダァァァァァァァァァァァンと地面が割れるような大きな音がして、電気が消えた。
近くで雷が落ちたのだろう。
電気はすぐに復旧した。
パッと明るくなった部屋で、スミスさんがビビッたと小さくつぶやく。
僕は、その言葉が全く聞こえないくらい、驚いて固まってしまっていた。
心臓がバクバク鳴り響いて、そのおとばかりが煩くて、周りの音が遠ざかる。
手足の血の気が引いて、すこし震えてしまうような感覚。
「……い、……おいっ、桐山!」
強く肩を揺さぶられて、はっと息をつく。
しゃがみこんで、心配そうに視線を合わせてくれたスミスさんと目があった。
「大丈夫か?雷は苦手?」
そんなことは、なかったはずだ。
もどってからも、遠くで鳴り響いた音を施設で聞いたことは何度もあった。
「……わ、わかりません。でも、音に、びっくり、しました」
自分の声じゃないみたいにかすれてしまった。
「そうか……大きな音が苦手なのかもな……」
スミスさんの言葉に、あぁ……そうかも、しれないと思った。
そういえば、たまに遠くで聞こえた、車のクラクションの音とかも、なんだかとても嫌だった気がする。
「すいません、そうかもしれないです」
以前はこんなことはなかったはずだ。
……死んだときの事故の時の記憶は曖昧なのだけど、やっぱりなにかしみついているのだろうか……。
「すいません、もう大丈夫ですから」
「んー、でもなー。すっかり手冷えちまってる。お兄さんがしばらく握っててやるよ」
「うぇ!? いや、ほんと大丈夫ですから!!!」
「いーから、いーから。ほら、もう寝ちまおうぜ。寝て起きたら、嵐もどっかいってるよ」
そういって、スミスさんは笑って、結局僕が寝入るまでそばにいてくれた。
なんだか、すごく照れくさくってこそばゆい感じがしたんだけど、断りきれなかったのはなぜだろう。
いつもなら、ぜったい辞退したはずなのに。僕にもよくわからなかった。
夜が明けると、嵐はさっていて、小雨がふっているけれど、すっかり静かな日常が戻ってきていた。
駅まで一緒に、ついてきてくれたのもスミスさんだ。
今回は、本当にお世話になりっぱなしで申し訳ない。
なんだか、とっても子ども扱いされている気がするが……、昨日の今日ならそれも仕方がないかなって思った。
10月、ついに三段リーグが始まる。
奨励会は東と西で二段までは分かれているが、三段リーグはその東西の奨励会で三段まで昇段してきたものと、まれだが、三段編入試験に合格してきたものとで構成されている。
開催期間は4月から9月と10月から3月を1期として数え、年2回。
各々が、18戦ずつ戦い、1回の三段リーグにおける上位2人は四段に昇段し、順位戦C級2組に入る。
この四段からが、プロ棋士だ。
つまり年に4人しか、プロ棋士は誕生していない。とても、とても、狭き門。
約30人を超える三段に在位している奨励会員たちが、そのたった2つの枠を争う三段リーグは、鬼のすみかとも言われるほど厳しいものだ。
過去の四段昇段への成績をみてみると、13勝5敗や12勝6敗くらいの成績が多くなる。実力がほぼ拮抗しているため、頭一つ抜け出た成績者はほぼあらわれない。
上位陣はどうしても昇段ラインである12勝6敗または13勝5敗という成績に集約されることが多く、同じ成績を取る人が数人でてくることもある。
それでも、枠は二つだ。
同じ勝率の時にどのように、昇段者を決めているかは、順位がカギを握っている。
順位はひとつ前の期に開催された、三段リーグの成績によってつけられている。つまり、惜しくもあと一勝ほどの差で、昇段を逃した人は、来期開催のリーグでは一位や二位の成績を与えられ、ほかの奨励会員よりも昇段へ一歩リードした状態から始めることができる。
もし仮に、12勝6敗者が5名いた場合などは、プレーオフなどの制度はなく、順位が上の者が昇段する。
前期でどれだけ頑張れていたかが、今期の命運を分けることがあるのだ。
三段リーグの在位者は常に気が抜けない戦いを強いられる。
そのほかにも、いくつもの切迫した状況が彼らの首を絞める。
リーグ戦での勝率が2割5分以下、すなわち18戦で4勝以下であると降段点がつき、次期も続けて降段点を取ると二段へ降段する。
僕の父さんがそうだったように……。
二段に降段した奨励会員で、再び三段リーグへ戻ってきて、プロになった人は現行の制度ではただ一人もいない。
そして、年齢制限。
現行の制度では、満26歳までに三段リーグを抜けて四段にならなければならない。
20歳をこえ、中ごろに差し掛かってきた奨励会員はどうしても、この年齢制限を意識してしまう。
そのことが生み出す焦燥は、かれらの平常心を奪い、さらなる成績の停滞を引き起こすこともある。
プロになるということは、そういった人たちの想いを背負ってのことだということを忘れてはいけない。
僕は今期からリーグ入りするので、順位はほぼ最下位からだ。同時期に二段から昇段した人の中では、これまでの成績がよいので、その人達よりは上になるけれど。
でも、要は勝てばいい。
だれよりも勝率が高ければ、順位は関係ない。
もっといえば全勝してしまえば、文句なしで昇段だ。
今まで、誰一人として、そんな記録を残した人はいないけれど、一刻も早くプロになりたい僕としては、躊躇している暇はない。
そして、半年後の3月、僕は全勝で三段リーグの突破を決めた。
史上初の小学生プロ棋士の誕生である。
このことは、僕の特殊な境遇と奨励会無敗という成績と相まって、ずいぶんとメディアを騒がせることになる。
奨励会無敗とか、だいぶぶっ飛んでるけど、今思うと現実もだいぶぶっ飛んでる(某F先生とか)から別にいいかって思いますね。
次の話はスミスさん視点