小学生に逆行した桐山くん   作:藍猫

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第九訓 雲の上はいつも晴れ

 

 桐山が聖竜のタイトルを手にした。本当に俺の弟子はたいした奴だと思う。

 プロ棋士になれば、誰もが一度はタイトル獲得を夢に見る。けれど、猛者ぞろいの棋士たちの中でタイトルを獲得できる者は僅かだ。

 

 桐山は傍目にみれば、いとも簡単にその栄誉を手にしたように見えるだろう。

 プロ入り後、無敗でその挑戦権を手にし、将棋界最強の名をほしいままにしていた宗谷を破っての獲得だ。

 その裏にある努力を本当の意味で知る者はいない。

 一番近くでみてきた俺からすれば、こいつほど努力家な奴はいないと、言って回りたいくらいだった。

 

 将棋会館に通いつめた奨励会時代、誰よりも記録係の仕事に勤しんでいた。

 プロ棋士になったあとも毎日研究を欠かさなかった。桐山がさらった棋譜の数は、その年齢からすれば考えられないほど多い。

 記憶している棋譜の量も、そこらの棋士よりは絶対に多いだろう。

 

 世間の評判では、天才と言われているけれど、決してそれだけではない。

 

 将棋に集中できるように師匠としていろいろと整えたつもりだったが、第四局のときは俺は負けも覚悟したほどだった。

 年齢に見合わない、落ち着きと冷静さを兼ね備えている桐山が、その実身内のことでは思いのほか、動揺するのは分かっていた。

 頑なに、触れて欲しくない長野の親戚の事、ただの一度も里帰りを希望しない背景。

 そのままでは良くないと俺も思っていたものの、どこまで踏み込めばいいか分からず、結局現状維持をしてきた。

 

 だからこそ、タイトル戦の間は関係者に会わないようにお願いしていたし、連絡も必ず自分を通すことをお願いしていたのだが……。

 見に来るのを止めはしないが、偶然廊下で出会うとは何事か。

 悪いが早島さんにはちゃんと対面で抗議した。対局の前の精神状態は些細なことで揺らぎやすい、そして将棋の内容に大きく関わると。

 

 彼も対局前の桐山の様子に思うところがあったのだろう、浅はかな行動だったといたく反省しているようだった。

 結果的には桐山の勝利で終わったからよかったものの、あれはほんとに紙一重だった。

 いや、桐山は見事に宗谷の猛攻をさばききったし、耐えきったのだ。

 

 宗谷が負けを宣言した時、すぐに反応せずに唖然としていた桐山の気持ちを、その場で理解できたのは俺だけだったと思う。

 あいつは終わったことに気づいていなかった。それくらい必死で盤面にかじりついていた。宗谷相手に、諦めることなくそれができる棋士は極一部しかいない。

 

 俺自身も夢にまでみたタイトルだったが、それを桐山が先に獲得したことに微塵の嫉妬も生まれなかった。

 

 ライバルで棋士である前に、あいつは俺の弟子で、寝食を共にして大切に育てて来た身内同然の存在になっていた。

 

 まだ実感も湧いていないような、どこか信じられないような面持ちで、対局場から出てきたあいつが、俺の顔をみて嬉しそうに駆け寄ってきた時、俺はホッとした。

 あぁ良かったと、朝の出来事のせいで、勝利の女神に見放されずに良かったと。泥臭くても、桐山が勝利を諦めなくて良かったと。

 

 心を満たしたのは、そんな安堵と、今日が終わるときに、こいつが笑っていて良かったと、そんな事ばかりだった。

 

「行きます、長野。島田さんと一緒に」

 

 疲れだって感じているだろうに、あいつの口から真っ先に出たのは、朝の会話の続きだった。

 未だ塞がることのない傷跡に、置いてきた過去に、こいつは向き合おうとしていた。同時に、俺に寄せてくれている信頼が手に取るように分かって、それが俺はたまらなかった。

 

 タイトル戦を見守っている間に幾度となく考えた。俺は桐山に何をしてやれただろうかと。

 

 緊張しながらも桐山は、あらゆる出来事を丁寧にこなしていった。師匠として俺が手伝えたことはあまりない。

 本当になんでこんなに手がかからないのだろうか? と不思議に思うほど自立していた。

 でも、やっぱり頼られると嬉しいもんだ。

 きっと、長野への旅は桐山にとって楽しいものではない。どんなことがあっても、俺はこいつの味方として、隣にいてやりたいと思った。

 

 

 

 

 

 


 

 タイトルホルダーになっても、日常生活に変化はない。

 テレビや雑誌の取材は相変わらず多かったが、適度にこなしながらタイトル戦の次の日も学校へ行った。

 クラスメイトにはお祝いの声をかけられたし、担任の林田先生も大喜びしてくれた。

 またすぐに他の棋戦の予定もあるし、いつものように島田さんと棋譜を考察して、眠りにつく。

 そんないつもの毎日だった。

 

「桐山、もうすぐ学校は夏休みに入るだろう? ちょうど7月末には二人とも棋戦が無い日が続くところがある。その辺りで一度長野に行くか?」

 

「はい、僕は特に予定ないので、大丈夫です」

 

「じゃあその予定で連絡しとくから」

 

 僕がしてもよかったのだけれど、島田さんは祖父に連絡をとってくれた。

 電話口で何を話せば良いのかも迷うから、正直に言うと助かった。

 

 当日の新幹線の切符、日帰りは疲れるから長野で泊まるホテルなど、島田さんがいつの間にか手配していた。僕は慌てて、せめて自分の分は出すと言ったが、島田さんはのらりくらり話題を変えて出させてはくれなかった。

 

 近づくにつれてそわそわと落ち着かない気持ちになった。けど思いの外あっさりとその日はやってきて、僕たちは長野へと旅立った。

 

 

 

 新幹線はあっという間で東京駅から長野駅まで1時間半くらいだった。

 遠いと思っていたけれど、意外と近いじゃないかなんて思ったりして。

 でも僕が住んでいたところは、長野市から離れている。在来線を乗り継いでいき、見覚えのある風景が多くなってきた。

 

 最寄り駅に着いて、此処からはタクシーかな? と思っていたら、早島さんが車で迎えに来ていた。

 彼は嬉しそうに僕たちを迎えてくれた。

 おかえりなさいと言われた時には、なんと答えたら良いか困ってしまったけど。

 これからむかうのはお祖父さんの家だ。

 

 お正月にお盆にと、たくさんの親戚が集まっても手狭にならない程度には広かった記憶がある。

 ある時は父の背中に隠れながら、ある時は母に手を引かれて、ちひろが生まれてからはあの子の手をとって、そうやって家族で何度も訪ねた家だ。

 

「おひさしぶりです」

 

 響いた声は、自分のものと思えぬほど硬かった。

 

「おぉ、零。ずいぶんと大きくなって」

 

 車椅子に座った祖父は、驚くほど小さくみえた。そっとのばされた手を僕は拒まなかった。

 

「日に日に、一揮に似てくるな」

 

「そうですか? 自分ではよく分からないので」

 

 あぁ、結局ここで出てくるのは父の名前なのかと、僅かな落胆がのぞく。

 

「あれ、叔母さんたちはまだ来てないんですか?」

 

「貴和子には1時間ほど予定をずらして伝えておる。そうでなければ零とゆっくり話は出来ないと思ったからな」

 

「もともと、話すならお祖父さんとは別で機会をもうけることを勧めたんだが、叔母さんがどうしても自分が同席しないのは嫌だそうで」

 

 島田さん的には、時間もあるしそれぞれとゆっくり話せばいいと思ったそうだ。

 

「人数が増えると腹を割って話せる内容も狭まるだろうし、時間をずらしたらどうかと、俺から提案させてもらった」

 

「貴和子はどうせ妙な心配をしておるのだろう。自分が知らぬところでわしの遺産がわずかでも零にわたるのは許せないとかな。ワシが話したいのはそんなことではないというのに」

 

 祖父はやれやれと首をふったあと、真剣な表情で僕たちをみた。

 

「今回の段取りも含めて島田殿には本当に、お世話になった。零のことも本当にありがとうございます。貴方には感謝してもしきれない」

 

「いえ、私の方こそ直接のご挨拶が遅くなったことを、お詫び申し上げます。零くんはとてもしっかりしていて、私も日々の生活では助かっている面も多いのですよ。先日も大きな対局で立派に将棋を指し切った自慢の弟子です」

 

 祖父にそう挨拶をする島田さんの表情は驚くほどに優しかった。

 

「島田さん……ありがとうございます。お祖父さん、僕の師匠です。凄い人なんですよ、弟子にしてもらえて、一緒に住んでもらえて、僕はとても幸福だったと思っています」

 

 島田さんがしてくれたことの大きさを伝えるにはとても陳腐な言葉だった。それでも、祖父にこうして、自慢の師匠の事を伝えられることは、すこし嬉しいと思った。

 

「そうか……ありきたりな言葉で悪いが、本当に良かったとそう思う。早島から伝聞できいていたが、この目で二人が一緒におるのをみて、零は立派な方に育てて頂いておるのだと実感できた」

 

 祖父は、島田さんの手を取って何度もお礼を言っていた。

 僕を弟子に取るのを決めた時、島田さんは菅原さんを通して、祖父と叔母に手紙を書いていたらしい。

 叔母とはその時の一回きりのやりとりだったそうだが、お祖父さんとは定期的に手紙のやり取りをしていたそうだ。

 

「あの、お祖父さんが話したかった事って……」

 

「おぉそうじゃった。零、今更だとはおもうかもしれんが……、一度きちんと謝らせてほしい。本当に申し訳なかった」

 

 そう言って、車椅子の上で深々と頭をさげたのだ。

 

「え、えっ? 何ですか? 何についてです!?」

 

 祖父がこんな風に誰かに頭を下げるところなんて、僕は見たことがなかった。その相手が自分である事も困惑する。

 

「一番、気にかけるべきだった時に、祖父としての責任を果たせなかったことを、ずっと謝りたいと思っていた。愚かなワシがそれに気づいたのは、四十九日の法要に零の姿がなかった時だ」

 

 祖父は当然その場にいるべき僕がいないことに違和感を覚えて、貴和子さんに尋ねたそうだ。

 

「東京の施設にやったと言う貴和子にワシは唖然とした。こんなにも長野に親戚がいるのに何故と。それと同時に深い後悔をした。一揮が亡くなった衝撃はあまりに大きく、ワシは抜け殻のようになっていた。そんな場合ではなかったのだと、その時になってようやく気づいた」

 

 葬式の日、棺に縋って泣き崩れていた祖父の姿が目に焼き付いている。祖父は深く傷ついていた。その絶望は、僕にも理解できた。病院のことも、家のことも、いつもの祖父なら、貴和子さんの一存で決めさせることは無かっただろう。けれど、息子を失ったということが、どれほど大きな出来事だったか。

 

「責めるワシに貴和子がなんと言ったと思う? お父さんは今の今まで忘れてたじゃないですか、だ。その通りだった。ワシには何も言う事は出来んかった。自分の愚かさと、その日まで死んだように過ごしてきた日々をただ恨んだ」

 

「もう……良いんです。僕は長野に残らなくて良かったと思っています。物理的にも精神的にも距離をおけたことで、あの時の僕は救われた面もあったんです」

 

「それでもだ。あの日ワシは、おまえの手をとって、隣で共に泣くべきだった。不甲斐ない祖父で、本当にすまなかった」

 

 少し痛いほど僕の手を握りながら、祖父は何度もそう繰り返した。

 

 もうだいぶ遠い記憶、以前の世界で家族を失ったあの日。9歳の僕は絶望した。この先、自分が安心できる居場所はどこにもないのだと。

 あの日、もし仮に祖父が手を握ってくれたなら、おそらく僕は幸田さんについて東京にはいかなかっただろう。

 

 でも、前回も、今回も、そうはならなかった。だとしたら、おそらく僕が東京にきて将棋をする運命だったのだとさえ思えた。

 

 何度も謝ってくる祖父の姿に不思議な感慨を覚える。祖父は僕の事なんて、なんとも思ってないのだと、勝手に諦めていた。

 でも、違ったのだ。この人の後悔は本物だった。

 

「僕、ちゃんと東京で暮らせてます。たくさんの人が助けてくれました。そのおかげもあって、将棋が出来て、この先もプロ棋士として生きていきます。お祖父さん、僕はもう大丈夫なんです」

 

 正直、今更だと思う気持ちもある。それでも良かった。あの日の僕を想って、この人は泣いて謝ってくれた。もうそれで、充分だと思った。

 

「ワシが応援することを、許してくれるか?」

 

「もし、そうなら嬉しく思います。でも、お祖父さんは将棋が嫌いじゃなかったですか?」

 

 父は、家ではこっそり将棋をしていたし、幸田さんを招いて指すくらいには好きだったけれど、絶対にそれを祖父に言わないようにと言われていた。

 僕にルールを教えてくれる時も、内緒だとこっそり教えてくれたのだ。

 

「……零にだけは話そう。ワシはな、一揮が将棋にとられると思ったのだ。一刻もはやく引き離さないと、息子は医者になれないと。愚かなことだ。それを決める権利は一揮にしかなかったと言うのに」

 

 それから祖父は、ゆっくりと若き日の父の話をしてくれた。

 

 優しい性格で頭の良い出来た息子だったと、生前は滅多に褒めている所は見せなかったのに、それを取り返すように沢山褒めていた。将棋にはまり、奨励会にまで所属したときに、医学の道との両立は無理だと何度も喧嘩になったそうだ。

 父が奨励会を止めた時は、正直ほっとしたらしい。

 

「ワシが一揮からとりあげた将棋が、零の人生の目的になり、支えとなったのは不思議な縁だと思う。ワシにそれを反対することは到底できない」

 

 お祖父さんは、大変な世界だろうけど頑張りなさいとそう言ってくれた。

 そして、本当はお父さんにあげようとおもっていた着物を貰ってほしいと見せてくれた。まだ僕には大きすぎるけれど、いつかこれを着てタイトル戦が出来たら良いなぁと思う。

 

 

 

 叔母がくる時間が近づいてきたので、僕と島田さんは少しだけはやくついて、祖父の家の中を見せてもらった風を装うことになった。

 

 立派な庭もある日本家屋なのだ。島田さんに見せてまわりながら、子どもの時にちひろと一緒に走り回って、草木を痛めないようにと叱られた事を思い出した。

 

「妹のちひろは、お祖父さんにも物怖じしない子で、花が好きだったからこの庭に次はこれを植えて欲しいとねだってました」

 

 綺麗に整えられた花壇には、ちひろが当時ねだった花が今もたくさん植えられていた。祖父が父の事しか気にしていないなんて、そんなことはなかったのだ。

 

「島田さん、ありがとうございました。僕はお祖父さんとあんな風に話す事ができるなんておもってもみなかったです」

 

「俺は手紙で時々やりとりをしてたからな。お祖父さんは本当におまえさんを心配していた」

 

 僕の小学校の卒業式の写真や、中学校の入学式の写真も送っていたらしい。僕の成長をそれはもう喜んでいたそうだ。

 

「桐山はさ、家族の縁はもう全く無いってそんな風だったけど、このまま何も話さずに終わるのは勿体ないとおもったんだ。でも、おまえさん偉かったよ。拒否する権利ももちろんあったんだ」

 

「……たぶん祖父は、世界中で一番、父の死を悼んでいてこの先何年経ってもそれは変わることはない。祖父と話す事で、僕も忘れないでいられる気がしたんです」

 

 祖父が覚えている父の事も話して聞かせてほしいとおもった。自分が知らない姿がきっとそこにある。

 覚えていることは、痛みを抱えたまま歩くことになるかもしれない。それでも、忘れたくなかった。

 長野に帰ってきて、いったいどれほどの思い出がよみがえっただろう。

 この家に足を踏み入れて思い出した些細な事の一つ、一つをずっと覚えていたいとそう思った。

 

「さぁ、次は叔母さんとの話だな。まぁ、そんなに構えなくても大丈夫だ。面倒そうな話になったら、俺と菅原さんで対応する」

 

「え? 菅原さんが来るんですか?」

 

「あの人も忙しい人だが、ダメ元で頼んだら来てくれることになった」

 

 叔母が来る時間に合わせて来てくれるらしい。

「お久しぶりです」

 

「えぇ、ほんとうに久しぶりね」

 

 叔母は、時間になると一人の男性と共にやってきた。

 

「こちらは私の夫。今の桐山医院の医院長ね。零くんは小さい時に何度か会ってるとはおもうけど」

 

「あ、はい。覚えています。今日はわざわざありがとうございます」

 

 うっすらと記憶にあった。ただ、父が存命だったときには、別の病院に勤めていたはずだし、僕ら家族とはほとんど交流がなかった。

 

「見違えたよ。活躍は耳にしてる。本当に大きくなった」

 

 かたい表情の叔母さんとは違って、その人は随分と朗らかに挨拶をしてきた。

 

「お互い忙しい身ですし、はやく始めましょう。それで? わざわざ時間を取ってまで、お祖父さんに会いに来た用事はなに?」

 

「いや、里帰りと墓参りにきただけですよ。それが一番の理由です。あとは私が零くんを弟子にとってから一度も挨拶をしていませんでしたので」

 

 島田さんが、機会があれば挨拶にきたいと以前からおもっていたと叔母につげた。

 

「そう……。わたしはてっきり……。急にお祖父さんと話がしたいと言うから、驚いて」

 

「わしはずっとこの方と手紙でやりとりしておったし、前から零とは会いたいと言っておった。孫なんだから当たり前だろう」

 

「そんなこと言ってお父さんは、うちの和也にはほとんど興味がないみたいですけど」

 

「そんなことはない、和也が中学受験を頑張っておったのも知っておる。せっかくの機会だ。今日も連れてくるのかと思っておったが」

 

 貴和子さんには一人息子がいる。僕にとっては従兄弟にあたるけれど、特別仲が良かった記憶はないから、この場にいても当たり障りない話しかできないだろう。

 

「今日は話の内容によっては子どもには聞かせたくなかったので、留守番してもらいました」

 

 そうはっきりと言った叔母の言葉で、場が微妙な緊張感を持った。僕も一応未成年なのだが、そこは目をつむるらしい。

 

「零くん、この際はっきりさせておきたいのだけれど、本当にこの先病院の経営に関わりたいとか全く考えてないの?」

 

「ありえないです。まったく考えていません」

 

「医療の知識はなくても、経営関係で関わることは出来る。もちろん、君が成人して、それを希望するならだが」

 

「万に一つも、希望することは無いと思います」

 

 僕の返事に二人は納得はしていないようだった。

 

「一揮さんが亡くなられたときに、相続順位の一番上は零くんでした。当時、未成年の彼は相続人にはなれません。彼が成人するまで待つ選択もあった。でも、あなたたちは代理人をたててでも、はやく遺産整理を済ませたかった」

 

 割って入るように菅原さんがそう確認した。

 

「……一揮兄さんは病院に関する財産も持っていましたから、滞ると困るので」

 

「えぇですから、私が特別代理人として選任され、零くんの代理として協議に当たらせてもらいました。貴女はとても急いでいた。零くんにもお父様にもゆっくりと喪失の傷をいやし、考える時間をあげてほしいと頼んだ私の提案は認められなかった」

 

 そうだったのだろうか、そういえば何度が菅原さんから叔母が欲しいと言っているが僕はそれで良いのか? といった確認があった気がする。

 僕は、その時すでに東京にいく決心をかためていたから、ほとんどのものをいらないと言ったと思う。

 

「結果貴女は金銭以外の、家、土地、そのほか全てを手に入れたはずです。葬儀の日に叔母さんの良いようにと言った零くんの言葉を言質として掲げてね」

 

 菅原さんは本来はもっと時間をかけて良かったことだと念をおしていた。

 たしか、色んな手続きがおわった後に菅原さんにあまり力になれずと謝られた覚えがある。でも、僕に不満はほとんどなかった。むしろ菅原さんが動いてくれたことで、叔母と直接交渉せずにすんで助かったのだ。

 

「この際だから言いますが、父の遺産に関して、零くんは私と同じ権利があるわ。困るのよ、あとから何か言われると……。お父さんが遺言一つ残せば、私の知らない間に決まっていたなんてこともありえるし」

 

「貴和子や、事前に説明もせずにそんなことはしない。それに、病院に関するものを零が貰ってもこまるだろう」

 

 いや、全くその通りなのだ。むしろ叔母と諍いの原因になるくらいなら絶対にやめてほしい。

 

「そうは言いますがお義父さん、開業医の遺産相続に関しては、トラブルが多いのです。私の友人でも揉めたという事例はよく聞きます。事前によく話し合っておきたいと言う私たちの懸念も理解してほしい」

 

「跡継ぎは君だ。はっきりとそれは認めたではないか?」

 

「……それでも、まだ名ばかり医院長ですわ。実際の全ての名義はお父さんのまま。私がいくら今のうちに整理をお願いしても、まだ良いだろうってそればかり」

 

 ……なんだかとても込み入った話になってきたが、病院関連の話は僕には関係ないという気持ちが強い。

 

「まぁまぁ、少し落ち着きましょう。開業医の相続の問題はたしかによく耳にします。どうでしょう。ここは公証人をたてて皆さんの希望を整理しつつ、公正証書遺言を作成しておくというのも手だと思いますよ」

 

 急いで作る必要はないが、そういう方法もあると菅原さんが提案してくれた。

 

「えっと、僕は本当に何もいらないんですが、そういう書類があった方が良いなら、作成に参加するのは問題ないです」

 

 叔母はきっと書面で残せば少しは安心するだろう。

 

「私たちとしては、その方が助かりますわ。お父さんも良いですね」

 

「そろそろそういった事も必要かの。生前贈与についてもせかされておるしな」

 

 お祖父さんがやれやれと言った様子でそう頷いた。

 

「あの、僕はこのまま将棋を指して生きていきます。将棋に一生を捧げる気です。だから病院のことには関われないし、関わる気もないです」

 

 叔母にも、そこは理解してほしいと思う。

 実際、長野には時々墓参りにかえってくるくらいで、ほとんど東京にいることだろう。

 

「 ……兄さんにそっくりだわ。本当になんでもない顔をして、私が一番ほしかったものをあっさりと手放すの」

 

 その声はいたって冷静だったけれど、言葉の底にふつふつと煮える何かがあった。

 

「たしかに私はチャンスだと思って行動した。貴方が本来もつべきだった物を打算的に奪った。それは認めるわ。でもね、本気で兄さんに死んでほしいと思ったことなんて一度もなかった。それだけは本当よ。あの人はずっと私の前を歩いているものだとそう信じていたわ」

 

 何十年も父の妹をしてきたこの人には、この人なりの苦悩があったのだろう。

 僕とは真逆の気持ちだったかもしれないけれど、叔母にも衝撃的な出来事だったことは間違いない。

 

「それから、これは貴方にお返しします。もう自分で管理ができるでしょう。登記の書き換えは、その弁護士さんなら詳しい人を紹介してくれるでしょう」

 

 叔母はそう言って書類の束と一緒に一本の鍵を机の上にのせた。

 

「これって、もしかして」

 

「兄さんの家の鍵よ。あの人が建てて、貴方が数年前まで住んでていた家の鍵。ほとんど手つかずのまま、家具もなにかも置いてある」

 

「どうして……」

 

「片づけるのが面倒だったのよ。それよりも最初の一年は病院の事で手一杯だった。やっと少し落ち着いてきた頃に、貴方はプロ棋士なんかになって世間を騒がせるし。その時に思い出して売ろうかともおもったけど、急に不安にもなった。病院に関係する土地はともかく、これの売却はあの人への当て付けにすぎないって、私にも分かっていたから」

 

 叔母さんはただ、忘れたかったらしい。お父さんの思い出が残る全てを手放して、楽になりたかった。

 けれど、僕がテレビに映るたびに、その権利が自分だけのものじゃないことに、心のどこかで思う事があったらしい。

 そうやって悩んでいるうちに菅原さんを通して島田さんから連絡があったそうだ。

 

「貴方の実家の売却は待ってほしいと、近々ちゃんと話にいくからと。私にとってはどうでもいいものだもの、貴方が決めれば良いんだわ。まだ子どもだけれど、これを管理できるくらいには、自立してるのでしょう」

 

 連絡がこなかったら、何かのきっかけで売っていただろうと言われて、僕はこのタイミングで帰ってきて本当に良かったと思った。

 

 

 

「その零くん……別れ際で申し訳ないんだが、何枚かサインを頂けないだろうか?」

 

 話し合いが終わり、別れ際に貴和子さんの旦那さんは居心地悪そうにしながら、そう言った。

 

「あなた! ……もう、お好きになさって下さい、私は先にいってますからね」

 

 叔母さんは、そう言うとさっさと歩いていってしまった。

 

「いやね、医者には将棋が好きな人も多いんだよ。学会とか集まりの時に、うっかり桐山理事長のお孫さんだって言ってしまって……」

 

 叔母さんの剣幕をものともせずに、そう言ってのけるこの人は、だからこそ旦那さんをやれているのかな、とちょっと思った。

 

「数枚なら構いません。もしお名前が必要なら教えて頂ければその方宛てに書きますので」

 

「そうか! いや、助かるよ本当に。あと、今後大きいイベントや対局の時とかにお祝いが必要な時は病院からも花を贈らせてほしい。その……不仲説なんかがながれるとあまり風評が良くない」

 

「もちろんです。ありがたく受け取らせて頂きます」

 

「いやぁ、君が大人で助かるよ。貴和子はあんな態度だが、私は適度な距離感で交友できればと思う」

 

 適度な距離感とは上手い言葉だと思う。

 けれど、病院のこともこの人たちのことも嫌いなわけじゃない。普通の親戚として、付き合っていけるなら、それで良いと思う。

 

 

 


 

「こっちです。意外と覚えてるもんだなぁ」

 

 はやる気持ちをおさえられずに、ほとんど走っているような速さになっている。島田さんを案内しながら、僕は道に迷う事はなかった。

 

「叔母さんは、手入れしてないから荒れ放題だろうって言ってたけど……」

 

 その家は、まるで時間を止めたように記憶のままそこにあった。

 たしかに庭は草がたくさん生えているし、木も自由に伸び放題といった感じだった。

 玄関の鍵を開ける時、手が震えた。ほんとうに何年ぶりだろうか。

 

「ただいま」

 

 僕の小さな声が玄関に響く。答えてくれる人は誰もいない。

 しんと静まり返った家に、しばらく足がとまった。

 

「ほら、案内してくれるんだろう?」

 

 そんな僕の背中を島田さんがぽんと叩く。

 

「あ、はい。どうぞ上がってください」

 

 随分とほこりがたまっていたけれど、気にせず歩いて回った。きっと靴下の裏はまっくろになるだろう。

 母のお気に入りのダイニングには、食器もほとんど残っていた。冷蔵庫や一部の家電はあった場所から無くなっていたから、売ってしまったのかもしれない。

 家族みんなで寝ていた寝室。父は帰宅が夜中になることもあって、自分の部屋にもベッドがあったけれど、ほとんどここで皆で寝ていた。

 ちひろと遊んでいた和室の押し入れには、アルバムがたくさん残っていた。

 

「おまえさんが育った家か……。なんというかこんな事いうとあれだが、普通の家だ。だけど、そこが凄くいいな。ほらこの家具のシールとかいかにもって感じだ」

 

 島田さんが指さした箪笥には、僕がちひろと一緒にはったシールがそのままになっていた。

 

「ここで普通の家族をしてたんです。父は時々しかはやく帰ってこれなかったけど、家族で一緒に食事をして、母はほとんど家にいてくれて、いつも僕たちを送り出して、むかえてくれた。ちひろとは喧嘩もしたけど、ほんとに可愛い妹だった」

 

 当たり前にそんな日々がずっと続いていくのだと信じていた。

 でもそれは、ある日突然奪われた。

 別に僕に限った事ではない。事故、災害、病気……どうにもならない理不尽な出来事は、不平等に人にふりかかる。

 そういう離別の悲しみをほとんど知らずに大人になる人もいるのに、どうして僕はそうならなかったのだろう。

 今日くらいは泣いても許して欲しい。あの日、9歳の僕は絶望したんだ。この先どうやって生きればいいのかと。

 そうして、この家も、思い出も、全てを置き去りにして、将棋に縋るしかなかった。こぼれる涙をぬぐいもせずに、静かにアルバムを捲る僕の隣で島田さんは静かに座っていた。

 

「あの事故が無くて、あのまま長野で暮らしていたら、僕はたぶん棋士にはならなかった」

 

 予想にすぎないけれど、のんびり地元の中学に進学して、母や父の期待を裏切らない程度に勉強に励み、もしかしたら、父の背中をみて医者になろうとしたのかもしれない。

 将棋は好きだったけれど、保守的な性格だったから、東京まで何度も通って、なみいる強者を倒して、奨励会を勝ち抜こうなんて思わなかった気がする。

 

「そうしたら、たぶん島田さんに会う事もなかった」

 

「そりゃそうだろうな。おまえさんとの接点は将棋だったし」

 

「こうやって沢山の人に支えられながら、プロ棋士になった今なら言えます。僕が選んだ道は間違ってなかった。将棋を通して出会った人たちとの日々がそう思わせてくれました」

 

 この家で家族と暮らしていた未来は見ることは出来ないけど、この思い出を抱えて、生きていけばそれで良い。

 

「島田さん、ありがとうございました。本当にたくさん、たくさんありがとうございました」

 

「いいよ、そんなお礼なんて。俺はただついてきただけだから」

 

 そんな事ない。それがどれほど嬉しかったか。どれほど心強かったか。

 

「ずっと話す必要なんて無いって思ってました。でも、今は祖父と叔母と話せて良かったと思うんです」

 

「人間の感情ってのは複雑なもんだ。自分でも良く分からない。ましてや他人の気持ちなんて余計にな。俺も不安だったよ。おまえさんを無理やり引っ張ってきたものの、結局、傷つけるだけで終わるんじゃないかって」

 

 僕が傷つかないですむように、段取りをしてくれたのは島田さんじゃないか。

 

「島田さんって、本当に良い人ですよね」

 

「そうか? 俺はあたりまえの事をしただけだよ」

 

 僕がしみじみそう言うと、彼は何でもないようにそう答えた。

 あぁこの人の想いに報いることが僕に出来るのだろうか。

 こんなに心を砕いて寄り添ってくれた、この人に僕は何を返せるのだろう。

 

 長野の家のことは、時々掃除に来てくれる人を頼んで、ゆっくり考えることにした。

 しばらくは帰省したときに泊まるだけになるかもしれない。

 それでも良かった。自分の原点が此処にあるというだけで、気の持ちようが違う。

 すっかり日も暮れたので、ホテルに帰って休み、翌日は墓参りに出かけた。

 お墓はとても綺麗にたもたれていて、掃除をする必要が無いほどだった。住職さんに話をきくと、祖父はかなり頻繁にここを訪れているらしい。

 

 

 


 

 帰りの新幹線を待つホームで、僕は唐突に思い至った。

 

「島田さん、タイトルを取りましょう」

 

「おいおい、急になんだよ」

 

 気が付けば口をついて出た言葉だったが、僕はこれしかないと思った。

 

「取ってください、名人のタイトルを。絶対に出来ます。僕は島田さんに取ってほしい」

 

「しかも名人ときたか……。そりゃA級にいる以上、俺にもチャンスはあるが……」

 

「僕はまだ資格すらないんです、うまくいっても来年はB級2組にあがるだけですから、まだ数年はかかる。でも島田さんは今期まだA級順位戦で負けてないです」

 

 僕のタイトル戦を気にかけてくれながら、自身の対局もしっかり勝利を掴んでいたことを知っている。

 

「そうは言ってもなぁ。今期の順位戦は三局しか終わってないんだぞ。まだ土橋さんも隈倉さんも後藤さんとも対局があるんだ」

 

「それでも負けないでください。いつかじゃなくて、来年挑みましょう」

 

 勝手な言い分だったし、僕の一方的な希望だった。

 でも、島田さんが目指すなら、全力で応援したかった。どんな対策にだって付き合うし、何局だって一緒に指す。

 

 島田さんはきっといつかタイトルを獲得すると思う。

 

 でも、いつかじゃ嫌なのだ。

 

 その栄誉を手にするだけの、努力も、犠牲も、時間も、この人は既にやりすぎるほどかけている。

 何かきっかけあと一つ、ほんの少しがあるだけで、きっと手に出来る筈なのだ。

 

「名人か……。よりにもよって……。確かに幾度となく夢にみたタイトルだ」

 

 島田さんは、呟くようにそうこぼした。

 

「僕はそれが出来るって信じてます」

 

 言霊ってあると思うのだ。

 島田さんの口から言ってほしかった。

 

「俺に……、出来るのか。いや、やるしかないだろ……。目指すか! A級戦全勝、そんで名人戦の挑戦権を手に入れる」

 

「やりましょう!!」

 

 静かにそう呟かれたその言葉に、ぼくは大きな声で返事をした。

 それがどれだけ難しい事なのか、身に染みて実感してるからこそ、島田さんがこんな風に言うのを目にしたことはほとんどない。

 

 でも、僕は本気で出来ると信じていた。

 この人は強いんだって。

 

 

 

 

 

 

 

 




本編との差異
桐山くん長野の実家を取り戻す。

逆行本編で長野でタイトル戦にしたとき、慌ただしすぎて、家を別の人に売られたことにしたのが、自分の設定の癖になんかずっと引っかかっていたのでその供養。
叔母さんをめっちゃ嫌な奴にしたかったんですが、なんかそれほどでも無い感じになった。
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