「はぁ……。今日は惜しかった」
帰路につく足が重かった。悪くない将棋だったけれど、負けてしまえばそれまでだった。それなりに、気合いを入れて挑んだ対局だっただけに、どっと疲れを感じる。
こういう時に独り身は辛いのだ。暗い家に帰っても待っている人はいないし、あたたかい飯も無い。おまけに冬が近づいている現在、部屋は冷たい。ずっしりと重たいこの身にその冷たさはきつかった。
「……行くか。直近で大事な棋戦はなかった気がするし」
長い棋士生活、こんな風になったときに立ち寄って愚痴れる場所があった。
そういう場所があることは、有り難いと思っているし、ここまで辞めずにそれなりに続けられているのは、そのおかげも少しだけある気がする。
家の前について、インターホンを押す。一応、訪問者としての礼儀は通すのだ。
「はい。どなたですか?」
小さな足音とともに聞こえた声に、俺はしめたと思った。
「桐山ー、オレだ。ちょっと島田に用があって」
この家の家主は、面倒くさがって、なかなか家に入れてくれないことがある。だが、最近この家に住みはじめたこの小さな弟子は、ガードがゆるいのだ。
「あぁ! 重田さん。ひょっとしたら来るんじゃないかって思ってました」
そう言いながら、桐山はあっさりと俺を家に招き入れた。
「悪いな、もう結構夜おそいのに」
「珍しいですね。普段はそんなこと気になさらないのに」
一応謝っておくと、そんな生意気な返事が返ってきた。
「あ、良かったらおでん食べていきますか? 沢山あるので」
「お、良いじゃん。何、作ったの?」
以前の島田一人だった時と違って、最近のこの家の飯のラインナップは随分増えた。桐山のために島田が気にかけているのもそうだが、そもそもこいつがそれなりに作れるからだ。
「えぇ、教えて貰ったのもあって、友人と一緒に作ったんです。結構おいしくできたと思います」
「せっかくだし、貰おうかな」
部屋は居心地よく暖かく、その上でおでんを食べれば、この冷えた身体もすこしはあったまるだろうか。
「うわ。やっぱり来たのか。はぁ……連絡くらいしろよな」
「悪いな。たぶん家にいるだろうと思って」
直近の対局日程的に、連絡なしで来たのは確信犯だったのだが、少し申し訳ない感じを出すと島田はすぐに折れた。
「まぁ良いけどさ。桐山、こいつの相手はオレがするから、もう風呂に入ってきな」
食卓に温めなおしたおでんを用意してくれた桐山に島田がそう声をかける。
「そうですか? では先にお風呂いただきますね」
「明日テストだろ。入ったら気にしないで寝ちまいな」
そう促す様子は、まさに保護者って感じだった。
「テストねぇ。ほんとに学生してんだな。桐山って成績も良いんだろ」
別に意識して聞こうとしなくても、あいつの噂は耳に入ってくる。人づてにというよりは、テレビや雑誌、新聞といったメディアが様々な事を宣伝するからだ。
「テスト期間ではやく学校を終わるのを良い事に、作りだめできる料理を作ってたけどな。テストは授業で聞いてたらほとんど問題無いらしい」
上から数えた方がはやい成績らしい。学力的にもかなりの私立中学だって聞いたけれど、ほんとそういう所も隙が無い奴だ。授業で聞いたら解けるってなんだよ。おまえその授業自体を受けれてねぇことあるだろ。
「高校はどうするとか話すことあるのか?」
「いや、そういうのは本人に任せてるから。それにまだ中一だよ」
その言葉にそれもそうかと思う。ついつい忘れてしまいそうになるが、桐山はまだそんな歳なのだ。
「中学生のタイトルホルダーとかほんと嘘みたいだよなぁ」
学生のタイトルでは無い。プロ棋士の中を勝ち抜き、歴代の中でも最強といわれる宗谷を倒して、桐山はタイトルを獲得した。そのうえ、この秋の獅子王戦決勝トーナメントも勝ち残っていて、挑戦者の最有力候補とも言われている。
「桐山の努力の結果だけどな。あいつの棋力はもうトップクラスだよ」
「桐山とは、家でどのくらい指してるんだ?」
「対局が無い日は、ほぼ毎日かな。最近は時間が許すなら待ち時間が長い対局をするようにしてる」
「ほぼ毎日ね……。それ聞いたら羨ましがる奴多いと思うぜ。タイトルホルダーと住んでて、毎日指してるって事だろ」
俺自身があまり交流が広い方じゃないし、島田の家で研究会に参加してるということを吹聴もしていない。もし知られていたら紹介してくれなんて言ってくる奴もいただろう。
「そうだよな……、贅沢な話だと思う。みんなあいつと指したいよな」
「他人事みたいに言ってるけど、おまえも今年は相当注目されてるぞ」
「え? オレが?」
「A級順位戦、今の所六戦全勝だろ。この前、藤本さんに勝った後なんてえらい絡まれてたじゃんか」
A級棋士が総当たりで戦うA級順位戦。その勝率が一番良い者が名人への挑戦権を得られる。島田は今期それを充分に狙える位置にいた。
「まぁまだあと四戦あるし、土橋さんも今の所全勝だから、気が抜けないよ。けどオレも譲る気はない」
その言葉にオレは驚いた。それなりに気心しれた仲とはいえ、島田がこんな風に言うところをオレは初めて見た。
「……本気で挑戦権を狙ってるんだな」
「身の丈に合ってないって思うか?」
「いや、思わない。お前なら出来る」
考えるより先に口をついて出た。島田はあまりにオレがはっきり言い切るもんだから、少し驚いたようだった。
「オレらの世代は諦めちまった奴も多い。宗谷冬司はそれくらい特別な存在だった。でもおまえは、一度も諦めた事ないだろ」
自分がどれだけ努力しても、あの天才も同じように努力をして、はるか先を行く。それに耐えきれなかった奴は沢山いた。
オレも思ったことは一度や二度ではない。どうせ頑張ったところで自分がタイトルをとることはないだろうと。
それでも、馬鹿みたいに実直にずっとただひたすら努力する奴がすぐ近くにいたから、俺も腐らずにやってきたのかもしれない。
抜けない事があきらかだからって、自分が努力しない理由にはならないからと、島田はずっと、積み重ねることをやめなかった。
「なんならかなり可能性あると思ってる。今年度唯一、宗谷冬司からタイトルを奪った桐山と一番指してるの、おまえだから」
「実際、かなり将棋に集中できてると思ってる。何かしら新しい事を思いついたとして、同じ家に実践レベルで試せる相手がいるわけで」
このレベルの棋士が同居して毎日指しているというのは、普通ならありえない事だ。頻繁にVSをするといっても限度がある。
だが、桐山の年齢がこの異常な状況を容認させている。誰があれは良くないから、中学生を一人暮らしさせろなんて言えるだろうか?
「まぁでもこの状況を実現させたのも、おまえだったからだ。他の棋士にだって機会はあったんだ」
二年前は誰も思いもしなかった。いくら有望な奨励会員がいるとはいえ、まだ学生のうちにタイトルをとることなんて。
「今時、内弟子にとるなんてリスクはあってもメリットなんて感じない。それでも、お人好しの性格と、面度見の良さで桐山を弟子に取ったのはおまえの選択だ」
子どもをひとり引き取るのと同じだ。自分のこれまでの生活が一変することは間違いない。親戚やよく知った子どもならまぁ仕方ないとなるかもしれないが、ほぼ接点がなかった桐山を弟子にとったと聞いた時、またあいつは貧乏くじを引いたんだなと思ったのだ。
今までずっとそうだった。人当たりが良く面倒見が良い、おまけに押しにも弱い。受けなくて良いような仕事をたくさん受けていたし、面倒な奨励会の世話役も随分と長くやっていた。
人が良い奴ほど、割を食うのが世の中だ。島田はその典型だったように思う。
また本人がそれを良しとしているから、余計にたちが悪いのだ。
もっと欲を出していけよと思っていた。
だから、今のこいつは悪くないように思える。
「負けんなよ。誰にも負けずに、挑戦権とってみせろよ」
「重田にまで、そんな事言われるとは思わなかったな」
分かってないな。俺からしたらおまえは誰にも負けないくらい将棋馬鹿で、才能だってちゃんとある。
ただ、同い年に数百年に一度の天才がいただけで、一度も日の目を見ないのは、不条理だと思っただけだ。
「さっさと取っておかないと、そのうちお前の弟子までA級順位戦に参戦してくるぜ」
「そうなんだよなぁ。桐山毎年しっかり昇級してるから、あと数年でほんとにあがってきそうで」
タイトルホルダーであっても、順位戦の飛び級はない。プロ入り後一年ごとに既定の成績を収めて昇級していく他に道は無い。
「ま、たとえお前らが何者になっても、オレはまたここにアポ無しでくるけどな」
皿に残ったおでんの出汁を飲みながらそう言うと、
「連絡は入れろよ。連絡は」
島田は呆れたようにそう答えた。
「こんにちは。今日はお世話になります」
年の暮れが近づく頃、僕は川本家を訪れていた。
島田さんが関西で対局のため前入りしてもらったため、自宅で留守番をするつもりだったのだが、いつの間にか川本家に話が通っており、泊めてもらう事になっていた。
こういう時に泊めてもらうのは幸田さんの家が多かったのだけれど、幸田さんの対局の都合もあり、最近は川本家にお世話になることが増えた。
今日は僕が事前に島田さんと買い込んだ食事を持ち込んで、料理も一緒にする。
和菓子屋の仕事が遅くなるから、もっぱら食事の用意はこの頃から、あかりさんがしている事が多かった。
「いらっしゃい。まぁ、またこんなに持ってきて。いくらなんでも多すぎるわよ」
「いえ、もし良かったら作り置きできるレシピもまた教えてもらいたくて」
「それはもちろん良いけど、あんまり気を使わないでね」
川本家の料理はピカイチだから、ついついこうして沢山買い込んでも持ち込んでしまう。
「ひなちゃんは、まだ帰ってないんですか?」
「ひなは今日学校のクラブがあるから少し遅いかもしれないわね」
なるほど、それであかりさんとにゃー達しかいないのか。
食材を狙いつつ、足元にまとわりつく猫たちをいなしながら、僕たちは料理のための下ごしらえをしだした。
「この前のおでん好評だったんです。島田さん以外にもちょうど来てた方に食べて貰えて」
重田にやるには勿体ない出来だったと島田さんが冗談半分に言っていたほどだ。
「良かったわ。この季節のおでんは本当に美味しいわよね。また作らないと」
「たくさん教えて貰って助かってます」
島田さんの胃に優しそうな料理のレシピを教えてもらっている。それに、僕は別に料理が好きなわけではないので、こうやって一緒に作ってもらえると楽しい上に、沢山出来るから一石二鳥と言うわけだ。
「うちのご飯のついでだし、いつでも言ってね。零くんたちにはお世話になってるから。お父さんの事、巻き込んでしまって申し訳なかったわ」
あかりさんたちの父親である誠二郎さんは、前世の時と同様でどうしようもない人だった。なんだかんだと口をだして、離婚の手続きが終わったのがちょうど数週間前の事だった。
「巻き込まれたんじゃなくて、僕が首を突っ込んだが正しいですよ。島田さんと菅原さんは流石だなって感じでしたね」
人様の家の騒動に首を突っ込むのは、いかがなものかという葛藤はあったものの、ひなちゃんが泣いて家出をした時点で、僕の方に躊躇は無くなってしまった。
とは言っても僕が出来ることにたいしたことはなく。弁護士の菅原さんを紹介して、話し合いの場に島田さんも居てもらったのだ。
「はやく大人になりたいと思ったわ。高校生なんて、まだまだ子どもよね。母にばかり負担をかけてしまった」
菅原さんに同席してもらい、事実確認と今後どうするのかを確認する日、話し合いが混沌を極めることは分かっていたからだろう。島田さんは、事前にお金を渡してきて、川本のお嬢さんたちとお昼を食べておいで、とやんわりと子どもたちを離席させた。
「島田さんはそういう所があるんです。まだ子どもで良いんだよって言ってくれてるんだと思います」
気が付けば大人の世界で働いているうちに忘れてしまうのだけれど、折に触れて島田さんが子どもとして扱ってくれることを僕は有り難い事だと思っていた。
「仮に僕たちもあの場にいたら、美香子さんは思いの丈を全てぶつけれなかったかもしれないし、誠二郎さんはきっとこう言いましたよ。やめろよ、子どもの前なんだからって」
僕の言葉にあかりさんは大きなため息をついた。
「はぁ……想像出来てしまうのが嫌だわ」
「あの後、あかりさんたちも交えて家族の話し合いはできたんですよね」
「えぇ。ちゃんと私とひなにもどうしたいかって聞いてくれた。父の心が此処にない事はもう私たちも分かってたから、きっちりお別れしました」
今でこそ、淡々と話しているけれど、あかりさんやひなちゃんにとっても辛い経験だったはずだ。
「母は少し冷静になったみたい。それもそうよね、弁護士の菅原さんも、棋士の島田さんもとっても立派でしっかりなさってて、父の言動がどれほど支離滅裂でおかしいのか客観的にみれたんだと思うわ」
百年の恋もさめたわとあかりさんにポロッと言ったそうだ。
「島田さんと比べたら、そりゃあそうなりますよ。僕の師匠は凄いんですから」
「ふふ、零くんは、本当に島田さんのこと慕ってるわよね。二人を見てると、ずっと一緒に住んでたみたいな同じ空気を感じることがあるわ」
「ホントですか? もしそうなら嬉しいな」
「師弟って事だから、家族とは違うのかもしれないけど、素敵な繋がりだとおもうわ。そんな姿を見てたからかな。私たちも新しい形で、頑張って行こうって思えたの」
あかりさんはそうとても穏やかに笑っていた。大変な時だろうにそうやって前を向いている姿は彼女らしい。
「さぁ、湿っぽい話はおしまい。料理は楽しくするものだからね。たくさんつくるから、桐山くん頼りにしてるわよ」
「任せてください!」
そう気合いをいれたあかりさんの指導の下、料理を作った。
そこに少し遅れて帰ってきたひなちゃんが加わって、一層賑やかになる。まだ小学生なのに、ひなちゃんもしっかりと台所を手伝っていて凄い。
夜になると、三日月堂の仕事を終えて、美香子さんと相米二さんたちも帰宅した。
「おぉ、今日は坊主が来る日だったんだな」
「お邪魔してます」
僕の顔をみた相米二さんは、ゆっくりしていけば良いと笑ったあとに、すこし心配そうに続けた。
「しかし、おまえさん。棋戦の方は良いのか? 今、獅子王戦の真っ只中だろうに」
「次の対局までは少し間が空きますから。ずっと気を張っているわけにもいきませんし」
秋にあった獅子王戦のトーナメントを勝ち上がり、挑戦者の資格を手に入れた。 七戦あるうちの先に四勝した方が獅子王のタイトルをえる。現在は一勝一敗で、一筋縄ではいかない気配を感じていた。
二日制の対局は慣れないものの、島田さんとの度重なる対局が功を奏してか、なんとか自分の将棋が出来ていると思う。
「いやはや、宗谷名人を相手にたいしたもんだ。もし奪取に成功すれば二冠になるわけだ」
「まだ、はじまったばかりですけどね」
でも、負ける気では挑んでいない。あわよくばという気持ちはもちろんあった。最強の代名詞、その宗谷冬司のイメージを覆したい。
それが僕に出来る最高の追い風だと思うから。
〝将棋界で一番長い日〟A級順位戦の最終局が行われる日のことをそう称するようになった。
様々なタイトルの予選がある中で、毎回、A級棋士全員が同じ日に対局をするのは難しく、六月から少しずつ各対局者のスケジュールを調節しつつ終わらせていく。
ただ第八局と最終局だけは、公平を期すために同日で行われるのだ。
名人への挑戦権の行方や、B級一組への降級者の決定など、注目を集める要素は多い上に、往々にして最終局までその結果がもつれ込むことが多い。
また順位戦は持ち時間が6時間と大変長く、その結果勝敗が深夜までもつれ込むことは珍しくない。結果を待ち望む多くの人がいるため、そのように言われるようになった。
順位戦は混戦になることも多く、勝率が同率の者が複数いる場合はプレーオフが行われることもある。だが、今回はそれはなさそうだった。
共に全勝でここまできた俺と土橋さんの対局がたまたま最終局だったからだ。
勝った方は全勝で名人への挑戦権を手にし、負けた方は八勝一敗で挑戦権を逃す。A級順位戦で八勝一敗なら、本来ならば挑戦権を手にしていてもおかしくないのだが、これが総当たり戦の面白い所なのかもしれない。
普段の順位戦は、将棋会館で行われているが、最終局は、静岡の徳川慶喜公の屋敷跡〝浮月楼〟で行われている。
前夜祭もあることが多く、明日の当事者という事で随分と声をかけられた。
勝った方は、歴史上でも少ないA級順位戦全勝という成績で宗谷に挑むことができる。負けた方は、たった一敗でその栄誉を逃すのだ。まぁ見ている方には面白いのだろう。
「島田さん、そろそろ会場に行きましょう」
「もうそんな時間か……桐山は大盤解説がんばってな」
前夜祭の後、会場近くのホテルで泊まったが、桐山も仕事できていて一緒だった。
「はい。宗谷名人も一緒なので少し緊張します」
桐山は、年末に最年少で獅子王になった。宗谷とのタイトル戦は白熱し、フルセットまでもつれ込むかと思われたが、最終的には四勝二敗、第六局で桐山が奪取に成功した。
大盤解説にタイトルホルダーをゲスト解説として呼ぶのは分かるが、今年は名人も呼んだ上に、獅子王まで解説に呼ぶとは、会長も張り切ったものだ。
いや、本来は名人以外のタイトル保持者はこのA級順位戦に出場している可能性が高くなる。たまたま桐山がまだプロになってまだ二年で、ここに絡んでこなかったために実現したのか。
「今日は長くなると思うから、おまえはほどほどで帰って良いんだからな」
A級順位戦最終局は深夜までもつれ込むことが珍しくなかった。棋士は、個人事業主のため、深夜の労働規制の対象外である。だが、中学生の桐山が、自分の対局で無いにも関わらず、そんな時間までいるのはいかがなものかという気持ちはあった。
「えっ。あり得ないです。保護者も会場にいるんですから、最後までいて問題ないでしょう」
「保護者っておまえね。たしかにオレは会場にいるけどさ」
「じゃあ、はやく安心して帰れるように頼みますね」
「……そうだな、気合い入れて行くよ」
軽口を応酬する余裕がある。間違いなくこれまでの将棋人生の中でも極めつけの大一番にもかかわらずだ。
充分すぎる対策はしてきたと自負している。それに付き合ってくれたのは、今隣にいる桐山だ。あとはきっちり俺が結果を出さなければ。
先手は俺から、初手飛車先を突く2六歩からで対局を開始する。
対する土橋さんの二手目は8四歩。相掛かりの出だしとなる。ここから俺が目指すのは角換わりだ。定石通りの手順進行で、9手目、8八銀と角交換を要求した。
土橋さんはこれに応えてくれて、10手目7七角成とし、手損のない標準的な角換わりが成立した。
その後端歩を突き合った後、土橋さんは自陣の駒組みの安定より先に、30手目に5四銀と腰掛銀の形をとる。
俺はここで31手目、4七銀と同じく腰掛銀の形をとるふりをした。
34手目に、8四飛とした土橋さんの手を見て、仕掛ける事を決める。対する俺の35手目は3五歩。ここで流れが変わったことが分かったのだろう。土橋さんは長考した。
こういうところは本当に慎重なのだ。新しい手を面白がったり、こちらの研究手にすぐ応えてくれたりするが、それは絶対の自信があるから出来ることだ。
36手目、同歩とされたのをみて、俺は37手目1五歩といま一歩踏み込む。
先にしかけたのはこちらだ。主導権を渡してはいけない。
再びの長考して、38手目1五同歩。想定の範囲内だったため、すぐ39手目4五桂と返した。時間は向こうの方が使っている。俺は、終盤に残しておかなければならない。
受け手にまわった土橋さんだったが、当然ただでは済ませてくれない。持ち駒を駆使し、俺の飛車を吊り上げにきた。ここで、下手に粘らないことだ。飛車は捨て、桂馬を確保し、そのまま攻め込む。
旗色の悪さを感じたのだろう。金を捨て、俺に2筋への突破を許してもなお、中盤での交戦へと持ち込もうとした。
56手目3七と金とされて、ここが踏ん張りどころと前半残せた時間を使い長考する。57手目5六銀、狙われた銀をその戦場へと繰り出した。
向こうが交戦を望むならそれを制するまでである。此処で受け手にはまわらない。前半、研究手で作った優勢を失うわけにはいかなかった。
一手、一手が重くのしかかってくるが、盤上の支配権は決して渡さなかった。
こういう終盤戦でひっくり返されないように、幾度となく対局を重ねてきた。
永遠にも思える時間の中で、ただひたすら正解の選択肢を選び続けた。
そして、129手目、5三銀にて終局した。
「負けました」
「ありがとうございました」
丁寧に頭を下げた土橋さんに返答しながら、やっと息が付けた。ずっと、呼吸もままならないで、走り続けたような疲労感だった。
ふと時計をみると、すでに0時をまわってしまっている。
「良い将棋でした。今回は完敗です。勉強させてもらいました」
「いえ、とんでもない。いつひっくり返されるかと冷や冷やしました。はぁさすがに堪えますね」
互いに満身創痍だったが、簡単な感想戦を終えて、土橋さんが言った。
「僕は、最近宗谷くんの家に行って研究会をすることがあるんですが、たまに話題になります。貴方と彼は、普段どんな対局をしているんだろうと」
彼と言った、土橋さんが視線を後ろにうつした。
振り返ると、会場の入り口に桐山が立っていた。握りしめた両手がみえた。あいつがどれほど緊張して、この対局の行方を追っていたかが分かる。
結局、深夜まで付き合わせてしまった。不出来な師匠だ。
「もし、機会があれば4人で指せたら良いなと思います」
「いやぁ、それは流石に。私の家だと手狭ですから」
本当にそんな機会があれば面白いとは思う。
「無論、大事な対局が終わってからで構いません。名人戦応援してます。貴方は全員に勝たれた。文句なしの挑戦者です」
そう激励されたが、あまり実感はわかなかった。
土橋さんが席を立ったあと、時間も時間だったので、インタビューが軽くあって今日は解散となった。
疲労感から、なかなか立ち上がれない俺の肩が遠慮がちに叩かれる。
「島田さん、おめでとうございます。次は名人戦ですよ」
半泣きでそう言う桐山の表情に俺は思わず笑ってしまった。
「なんで、泣いてるんだよ」
「嬉しかったんです。全勝ですよ? ほんとに出来るなんて凄すぎます」
「ありがとうな。なんとか此処までこぎつけたよ」
その頭を撫でながら、じわじわと俺は勝ったのかとやっと思えた。
4月から宗谷と名人戦が出来る。
ずっと夢見てきたことが現実として、迫ってきた。
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