第三局に宗谷相手に、勝ち白星をつかんだ後、何か少し吹っ切れた気持ちで、続く第四局も勝つことが出来た。
二勝二敗になりイーブンになった事で、少しほっとしたのは事実だ。
だからという訳では無いが、第五局は宗谷が勝利する。初日から少し分が悪くなってしまって、それをずるずると挽回する事が出来なかった。
あいつ相手に指すときは一瞬の隙が命取りになることを忘れてはいけない。
これで、二勝三敗……もう一敗もすることが出来ない、角番に追い詰められたわけだ。
だが、なんとか第六局までくることができた。
開催される山形県は俺の故郷だ。念願叶った凱旋対局というわけだ。
「また、一つ夢が叶ったなぁ」
気を抜くわけにはいかないのだが、流石に感慨深いものがある。
山形県天童市は将棋駒の生産地として有名で、その歴史は江戸時代にまでさかのぼる。将棋と縁が深くイベントも盛んで、幼い頃からそれに参加してきた。
まだ、奨励会員だった時に、勉強や刺激になるからと、この地で開催されたタイトル戦の観戦に行ったこともある。
憧れだったし、夢にまでみた。いつか自分もああやって対局がしてみたいと。
「僕もこんな形でついて来れて嬉しいです」
「桐山、聖竜の防衛戦も始まったし、無理についてこなくて良かったんだぞ」
6月に入り、桐山は初の防衛戦があった。その挑戦者になったのは、破竹の勢いで勝ち上がった宗谷だ。四月の下旬、名人戦と同時進行だったにも関わらず、宗谷は見事に挑戦権を手に入れた。
その聖竜戦の第一局があったのは先週の事だ。桐山は見事、宗谷相手に白星を掴んだ。
「大丈夫です。次の対局への準備もばっちりですので。それについてこないで家で研究をしてても、気になって身が入りませんから」
続く第二局が6月の中旬になる。宗谷にはかなり過密スケジュールになっている事だろう。時期はずらしているとはいえ、一年に7つものタイトル戦が行われる。フルセットまで続くと、次のタイトル戦と被ることは仕方なかった。
去年の話になるが、名人戦は第五局までに切りがつき5月で終了した。その後聖竜戦が6月からはじまるためタイトル戦の被りがなかったのだ。
宗谷が長年、複数タイトルを保持できている要因のひとつに、勝率の高さがあることは間違いなかった。
おまけに今回の開催地は山形で、宗谷が住む京都からは遠い。前夜祭の事もあるし、移動ははやめにするだろう。拘束時間は三日では済まない。
あいつの疲れも考慮してか、俺たち対局者が関わるイベントは最小限にされていた。
「会長おまえのサイン会とか予定してただろ」
その分、桐山にお鉢がまわっていた。抽選会にだす景品へのサインは俺も書いたが、桐山はここ最近やたらと頼まれている気がする。今回の山形ではトークショーまでさせられるらしい。
「あぁ、良いんですよ。出来る事ならなんでもしますって言ったの僕からなんで。師匠の故郷なんですよ。いっぱい人来て盛り上がってほしいですしね」
本当に出来た弟子を持ったと思う。当の本人は仕事があれば、前夜祭の分は経費で来られるから良いのだと言っていた。負担はあるだろうが、随分と強かになったもんだ。
前夜祭は大盛況だった。もちろん桐山のお陰もあるのだが、ここまで俺が声をかけられるのは予想外だったと言っていい。
参加している将棋ファンの半分以上は、地元の人じゃないだろうか? 山形の方言がこんなに飛び交う前夜祭ははじめてだった。第六局の前夜祭のチケットが売り出された時、随分と沢山の人が応募してくれたらしい。
「宗谷は先に休むってよ。せっかく地元だし、ここはお前が頑張って」
会長は途中でそんな言葉をかけてくる始末。たまには宗谷が先に休むのは良い事だとは思う。
「開、ほんとに立派になってぇ。わしゃその姿を見れただけで、満足だ」
「んだんだ。明日も明後日も来るけんなぁ」
既に涙を流して、そう言ってくれるじい様たちもいて、ここまで喜んでくれるなら、頑張った甲斐があったなぁと思った。一人一人に挨拶をした。全く苦ではなかった。
時間も遅くなり、会長の一言で解散になった後も、お客さんの相手をしている俺の手を引いて、そろそろ出ましょうと促したのは桐山だった。
正直、切り上げ所を見失っていたので、随分と助かった。
「わるいな、桐山」
「島田さん、駄目ですよ」
あいつは真剣な表情で俺を見上げた。
「皆さんに心を配りすぎたら、駄目です。主役は貴方だ。明日からの二日間は自分のことだけ、考えてください」
一瞬見透かされたのかと思った。現状に満足すらしていた自分を。
「これで終わりじゃないですよ。勝つんですから」
そう鼓舞されて、気持ちを立て直さないといけないと思った。
「ありがとう。二日間、しっかり見ててくれ」
頼りない師匠ですまんと思いながら、ひたすら俺だけを見ていてくれるこいつのおかげで、ここまで踏ん張れた気がした。
これだけ背中を押してもらってきたんだ。ここで終われないだろう。
翌日、天気は生憎の雨模様だった。むしろこっちの方が俺らしいかなとすら思う。体調も万全。大盤解説には、この雨の中多くの人が観戦にきてくれているらしい。
第六局の先手は宗谷だ。飛車先を突く出だしから定跡手順の進行となり、戦型は相掛かりとなった。序盤は流れを崩さずに、そのまま追従した。15手目で、2筋の歩を互いに交換した。
そこから間合いを見ながら、互いに自陣の駒組みを整えていく。
相手の出方を伺うべきだろうか? いや、ここで先にしかけておくべきだ。
角を先に5筋へと出し、前線を上げて圧力をかける。宗谷はそれをみても淡々と自身のペースで駒組みを進めていた。
今回の封じ手をしたのは宗谷だった。
その晩、不思議と俺はその手がそれほど気にならなかった。それは次の一手に目星がついたというわけではない。いくつか候補はあると認識した上で、冷静に考えることが出来た。
寝る前に少しホテルの敷地内を散歩した。朝はあんなに雨がふっていたのに、夜は月が見えるくらいには晴れていた。
田舎だといっても、市内はそれなりに明るい。実家がある辺りほど星はよく見えなかったが、不思議と、あぁ帰ってきたんだなぁと思えた。
今日は、誰に言ってもらわなくて、自然と思えた。
あぁ、たぶん俺は大丈夫だ。
島田さんは見事に、第六戦を勝利した。これで、三勝三敗となり、名人戦はフルセットにもつれ込んだ。
山形でのタイトル戦は凄かった。対局はもちろんなのだが、島田さんの人気ぶりがである。宗谷さんが先に退出する前夜祭なんて初めて見たかもしれない。
なんだかもう、名人位が取れちゃったんじゃないか? というくらいの盛り上がりだった。もしかしたら島田さんの集中が切れてしまったかもしれないと、少し不安だったが、全く問題は無かった。
第六局の二日目は、宗谷さんが感想で、
「巨木相手に殴りかかってるみたいだった」
といったほどだった。
それくらい、島田さんの駒組はガチガチで、それを無理に切り崩そうとした宗谷さんの浮いた一手を見逃さなかった。そして、見事島田さんが取り切ったのだ。
最終局の開催地は山梨県甲府市にあるホテルだった。なじみの開催地として有名で数々の名局が誕生した地である。
しかし天童市にあるホテルと同じく、近年は宗谷さんがはやめに勝利を決めることが多かったため、タイトル戦は行われなかった。そのため、念願のタイトル戦というわけだ。
最終局の手番は不公平がないように再び、振り駒が行われる。先手をとったのは島田さんだった。これはとても幸先が良い。
初手は飛車先を突く2六歩。対する宗谷さんの2手目は角道を開く3四歩。
ついに、今期の名人が決まる、第七局の火蓋が切られた。
横歩取りの模様へ進むかと思われた対局は、8手目に宗谷さんが、飛車先を保留にして先に3三角とすることで、島田さんからの角交換を要求した。
島田さんは一瞬考えたものの、長考というほどの時間はとらず、その角交換にこたえ、9手目に3三同角成となる。
宗谷さんからの挑戦を真っ向からうけた島田さんは徐々に自陣の駒組みを進めていき、31手目5六銀とし、腰掛銀の形を作った。そして、35手目2四歩、まずは一つ敵陣へ踏み込み、貴重な歩を獲得した。
宗谷さんはというと、島田さんの序盤からの揺さぶりをものともせずに、ゆったりと構えて自陣を整えているようだった。
島田さんの45手目は、4五歩。宗谷さんは46手目に9二香とし、盤面全体を見ながら、今後の展望を考えているようだった。次の一手で島田さんは長考。
1時間ほど考えたのち、47手目は4六角。手持ちの角を4筋の戦場に投入し、先に形を決めた。
宗谷さんは、慎重に間合いを図りながら、仕掛けどころを探っているようだった。手数をかけながら飛車を横へと動かし、50手目は2一飛とする。
戦況が、駒組みの飽和がきそうな煮詰まった感じになってきたところで、初日は終了。
封じ手をしたのは、宗谷さんだった。
僕はその夜、どうにも落ち着かなくて、自分の対局の時以上に眠れなかった。
夜が明けて、全てが決まる最後の二日目がやってくる。
封じ手は8五歩。宗谷さんの切り込みがはじまる一手だった。
島田さんが63手目に7七銀とそれを交わすと、すかさず6筋の歩を突き合わせてくる。同歩と応じた島田さんに対して、66手目に6五同桂とし、歩交換したうえで、桂馬を前線へと跳ね上げ、攻撃の拠点を作った。
じわじわと攻撃態勢を築き、圧力を高める宗谷さんに対して、島田さんは75手目に5五歩として、歩を突き合わせて対抗する。
対局は、終盤へ向けてどんどん激しさを増していった。
神様、神様、どうかお願いします。
祈ることしか出来ない事がもどかしかった。
こんなにもただ一方的に、誰かの勝利を祈った事があっただろうか。
神様なんていないって思っていた。祈ったって救われないし、報われない。人生に困難は付いてまわり、それを打開するのは自分だと思っていた。
もう、でもなんでも構わない。今、僕には祈ることしかできないのだから。
もし、将棋の神様なんかがいて、気まぐれに僕を小学生に戻したのだとしたら、それならこの人に、タイトルの一つもあげてくれて良いだろう?
もし、そうなったら、この不思議な出来事に意味があったと思えるのだ。
ずっと強く無くて良い。この一局、この一時、この瞬間勝っていればそれで良い。
どうしてもこの勝利を彼に掴み取って欲しかった。
僕らは全てを将棋に捧げてきた。人生を、魂をかけて将棋をしてきた。
この一局、その一手がそれを証明する。
「大丈夫。島田さん、貴方は勝つ」
祈りの様に、いっそ通り越して呪いだとしても良かった。
両手を組んで握り締め、ただずっとそう願い続けた。
気が付けば終盤戦、もはや自分がどこを走っているのか分からないくらいだった。それでも、必死に盤にくらいついた。
ああぁ、そうだよ。充分すぎるくらい出来過ぎた名人戦だった。
まずもってして、順位戦の段階から全勝なんで出来過ぎた。あの宗谷相手に三勝あげて、故郷の凱旋対局だって勝利した。華々しい成果じゃないか。
それでも欲しいんだ。そのタイトルが欲しい。柄じゃないと言われようが、その器ではないと思われようが構わなかった。
誰よりも信じ続けて、一緒に走ってくれた。あいつがこの瞬間も、ただ一途に俺の勝利を願っているのを背中に感じる。
絶対にあきらめはしない。
141手目、3一角にて、俺たちの名人戦は幕をとじた。
「負けました」
宗谷が頭を下げたあと、一瞬の静寂があった。
「あ、ありがとう、ございました」
これにて終局。
この瞬間をどれほど渇望しただろうか。
流石に名人位、時間は遅くなったが結果を待っていた記者は多く、その一人一人の質問に対応した。
「おめでとうございます。念願の初タイトルですね。今の率直なお気持ちをきかせてください」
「嬉しいです。前半はなかなか踏ん張り切れずに、落としてしまった対局もあったのですが、どうにか掴んだ勝利だと思っています」
「全体を通して、勝因はなんだったと思いますか?」
「首の皮一枚繋がって、そこから多くの人に背中を押されて、やっとこさ叶えられたって感じですね」
まだ頭がしゃんと回っておらず、現実味がない。
当たり障りのない事しか話せなかった気がする。
「流石に、二兎を追いかけて、名人位を守れるほど甘くは無かったね」
インタビューが終わったあと、宗谷が俺にだけ聞こえるようにそう言った。
「なんだか、君たち二人に負けたような気がするよ」
宗谷は桐山との聖竜戦をすでに二局落とし、角番に立たされていた。来週その第三局が控えている。
「最初は君が対局に集中出来てないみたいに思っていたけど、名人戦に向き合えてなかったのは、僕の方だったみたいだ」
そう一息つくと、また一からやり直しだと呟いた。
「おめでとう、君に一年名人位を預ける」
廊下にでて、大盤解説の会場にいる人たちへの挨拶に行く途中。目の前を走ってきたのは桐山だった。
何をそんなに急いでいるのか、途中危うく転びそうになっていた。
俺の前に立ったあいつは、何故だかボロボロ泣いていた。そして、嗚咽混じりにこう言った。
「おめでとう、ございます。島田開名人」
何とかそれだけ言い切って、そのあとはまた、ただ泣きだすんだから。
「ありがとうございます。……ほんとに、色々ありがとな。おまえが、そんなに泣いててどうするんだよ」
「すいません、なんかもう嬉しくて。ずっと呼んでみたかったんです。島田名人、すごく、すごく似合ってます」
「この肩書きに見合った棋士になるよ。お前に尊敬されるに相応しい棋士に」
「そんなの、もうとっくになってますよ」
激闘の名人戦が終わり、僕の聖竜防衛戦も無事勝利に終わり、ひと時の日常が帰ってきた。
「桐山、そろそろ行くぞ」
「はい、今出ます」
二人とも対局がある日、僕らはいっしょに家を出る。
「ちょっとはやい気もするんですが」
「いや、途中何があるか分からないから、はやめに出る方が良い。道に迷ってるお爺さんとかいる事あるから」
「島田さんは優しいからなぁ」
「本当に! 嘘みたいなタイミングでいるんだって」
島田さんのお人好しは相変わらずで、それで割を食う事もあるけれど、それもまた人生だと彼は笑っていた。
「会長がそろそろ免状たまってるって言ってました。今度の二海堂の対局がある日、将棋会館に行って書きませんか?」
「会長、この前どうせ、名人と獅子王が同じ家に住んでるんだから、持って帰って書くか? なんて言うんだ。個人情報だって載ってるのに、このご時世に大事な書類を会館から出すなっての」
「まぁ、関東と関西で別れている時よりは、順調に記入出来てると思ってるんですが」
名人と獅子王が師弟の上、同時期にタイトルを取ったことはこれまでなく、珍しい免状だと申請が多くなっているそうだ。送り先の住所で山形県はとても多いなんて言われるとちょっと嬉しい。
「名人島田開の署名の隣に、獅子王桐山零って書くの嬉しいので、僕は何枚でも書きますけどね」
半分本気でそう笑うと、島田さんは出来るだけ、長く保持できるように頑張るよと言った。
僕らはこの先も、勝って、負けて、取って、失って……。
そうやって、将棋を指して生きていく。
これにて一旦一区切りになります。長い方のあとがきは活動報告にでも。
早足で書きましたが、もともと書きたいところだけ書く番外編として始めたので、島田名人と桐山獅子王が並ぶ展開までかけて良かったです。私はそれが見たかった。
原作18巻のあとがきにて、次巻で3月のライオンは最終巻だということで、衝撃を受け……、もっと描いてくれても、いくらでも待つのに……と思いつつ。
何か書きたいと衝動がわいたので、再び筆をとった感じです。
お付き合い頂きありがとうございました。