桐山零という凄い新人がいることは前から耳が痛くなるくらい聞いていた。
俺はプロになってから間もないし、奨励会に知り合いも多い。
友人といえる間柄の奴がまだ奨励会に残っているのもあって、そいつらとの飲み会の時などに、散々愚痴を聞かされた。
突然ふってわいたように現れた新星。
負けた奴は口々にこう言った。
全く勝てる気がしないと。
自らの得意戦法で挑み、とてもよい感じに指せていたはずなのに、いつの間にかあざやかにひっくり返されている。
そして、桐山自身の得意不得意が全く見えてこない。
あいつが、一度、たった一度だけ奨励会の対局ですこし本気を出したと思われる対局の棋譜を見せてもらったが、戦慄するくらい高度な内容だった。
対局相手の二海堂もすごいが、明らかに主導権は桐山にあった。
これで、小4だって? 本当にそんなことがあるのだろうかと疑ったほどだ。
プロ棋士たちの間でもすこし話題になっていた。とても小さいけど優秀な記録係。
彼の複雑な境遇は、その人たちがする噂話で勝手に耳に入ってきた。
奨励会員たちは、完全に桐山にびびっていて、もっというなら畏怖してる奴すらいたので、勝率やその強さ以外で得られた情報はあまりなく、彼の人となりや性格はプロ棋士たちから、聞いたようなものだ。
棋士たちの間では、いち奨励会員の対局成績を詳しく知っているひとはまだ少なく、また実際に自らが対局したわけでもないためか、彼に脅威を感じている人は少なかった。
何人かは、あいつはすぐに上がってくると気を引き締めている人もいたが……。
そもそも、奨励会員のうちからそんな話が上がるだけで凄いことだ。
そういうわけで、親がいないながらに、記録係の仕事でお金を稼ぎながら、将棋に打ち込みにくい逆境をはねのけて、プロになろうとしている少年を純粋に可愛がっている人が多いようだった。
対局者の昼食は、会館で出前をとるか、外食に自分でいくかだけれど、最近は出前の数も充実しているので外に食べに出ない人も多い。
それなのに、桐山が記録係のときは、彼に奢って一緒にたべるために外食をする棋士も多くいると聞いたときは笑ってしまった。
とても一生懸命に仕事に取り組んでいるし、ごはんを頬張ってもぐもぐと食べている姿は可愛いと、自分の子供の姿をそこに重ねている年配の人ほど、彼を構いたがった。
少し幸が薄そうで庇護欲をさそう彼の細身で儚げな容姿が、それに拍車をかけていたせいかもしれない。
俺は、彼にとても興味があった。
鬼のように強い、人間じゃない、と奨励会員から怖れられている少年と、プロ棋士たちからかわいいと可愛がられている少年と、どちらも彼の事を指しているからこそ、実際に自分の目で彼のことを見て、確かめたい気持ちがあった。
だから嵐の日に、久しぶりにした記録係の仕事で運悪く会館に足止めをされたとき、桐山と知り合えたのは少しラッキーなことだった。
パッとみた印象はおとなしそうな良い子。
俺の後ろをちょこちょことついて歩いて来るのは、なんだか庇護欲を誘われてむずむずした。
これは、構いたくなる気持ちが分かってしまう。
案の定、会館に残っていた他のプロ棋士たちもあれこれ、声を掛けていた。
でも、そのやりとりを横で見ていて納得した。
この年齢の男の子に多い、落ち着きのなさや、小生意気な感じが全くない。
遠慮がちで大人の顔をよく見ている。それでいて、空気も読めて、それが貰うべき時なら、本当に嬉しそうに貰った好意にお礼をいうのだ。
普段、静かでスッとした表情の子が、その時だけ花が咲いたような笑顔をくれる。
これはもう一度みたいと思ってしまうのも無理はない。
その後、将棋盤を使って、先日のタイトル戦の対局について話しているのに、俺たちも加わった。
桐山は話を振られると、ちゃんと意見を言う。発言は少なかったが、その一手だけでも、彼のよみの深さがうかがえた。
目先の有利や、駒の動きには惑わされない、たいした大局観を持っているものだ。
正直、おれもかなり考えないと分からないような手もあったりして、若干凹んだ。
桐山は本当に楽しそうにしていて、夜もふけて就寝を促されると少し不服そうだった。
ようやくみれた子供らしいと思える一面だった。
小学生高学年といっても、急に慣れないところで寝るとなったらそわそわしたり、落ち着かなかったりしそうなもんだが、桐山はいたって普通だった。
だからこそ、雷が落ちたときの桐山の様子に、どんなに驚いたか。
青い顔を通り越して、いっそ白いほどの顔色で、表情がストンと抜けて固まっていた。
あわてて、何度か声をかけてみたが、聞こえていない。
完全に意識がどこかへ飛んでいた。
その瞬間、彼は一体何を思い出し、何をみていたのだろうか。
何にしても、こちらに戻ってきてくれないとマズイ。
肩を掴んで揺さぶってやれば、ぱちりと目を見開いて俺の事を見た。
そして、一呼吸したとき、ようやく桐山の顔にすこしだけ血の気が戻った。
雷が苦手なのかと問いかけると、そういうわけでもないらしい。
本人もとても混乱しているようだったので、俺はあまり深刻にとらえ過ぎないように、大きな音が苦手なのかもなと、適当に返してみた。
すると、桐山は少し思いあたるふしがあったようで、小さくそうかもしれないと呟いた。
車のクラクションとかも苦手らしい。
俺は、ふと彼の家族の死因を思い出した。
桐山はまだ、震えていたのに、平気そうな顔をして大丈夫だと告げてくる。
大丈夫なわけねぇだろうが。
俺はとりあえず、あいつの話は聞かずに、手を握ってやった。
冷たく冷え切った、小さな手だった。
桐山は、最初は少し抵抗してみせたけど、俺が引かないとわかるとされるがままだった。
でも、次第に震えは止まったし、すこしだけ温もりが戻ってきたのをみるとやはり間違っていなかったと思う。
そう、まだ大人に縋って良い年なのだ。
それなのに、この子は取り繕うのが上手すぎる。
その後も、本当に大丈夫だろうかと、注意ぶかく見守っていたけど、桐山はわりとすぐに眠りにおちた。
ギュッと毛布に丸まって眠る姿はあどけない。
起こさないようにそっと、頭を撫でてみたら、小さく父さん…と寝言がこぼれ落ちた。
あー堪らないなっと思った。
この子のこういう姿を知っている人は、一体どれくらいいるのだろうか。
落ちついてる。良い子。しっかりしている。大人っぽい。そういう評価が先行しているけど、まだ11歳で数年前に家族を失った傷が癒えているわけではないのだ。
そのことをたぶん本当に分かっている人はとても少ない。
なんとなく、俺はそれを知っていてあげたいとおもった。
そんなことがあったけれど、桐山の対局には何の影響も及ぼしていないようだった。
三段リーグ開始から数ヶ月経ったけれど、彼はまだ負けなしだった。
同い年の松本一砂がちょうど奨励会の三段リーグにいて、今期こそは抜けて見せると意気込んでいたため、彼から詳細な情報を得ることが出来た。
「聞いてくれよスミス―、桐山くんまぁた勝ってたよぉ。もう誰も勝てねぇよあんなん」
「情けねぇこえ出すなよいっちゃん。自分は当たらねぇんだからラッキーだって、対戦表出たとき喜んでたくせに」
三段リーグの人数は30人程度だが、その全員とあたるわけではない。たまたま今回いっちゃんは桐山と当たることはない。
三段リーグではこの対戦相手も結構な鍵を握ってくる。
実際桐山が10月から参戦することになって、当たらなければよいのにと思った奨励会員は多いはずだ。
「でもさーたった、2つしか枠ないのに、1枠もう決まったようなもんじゃん。きついよー」
「相変わらず、負けそうな気配はなし……か」
「もう。全然。全く。最近は気合いの入れ方が違うって思い始めた。
今までだって、別に手を抜いてたりはしてないと思うけど……なんていうかちゃんと俺たち一人一人にたいして準備してる気がする」
今日の一局など、最新の流行手を指してきた相手に対しても、鮮やかな切り返しを見せて絶好調だったようだ。
そいつの得意な戦法の振り飛車を使ったものだったので、使ってくるかもしれないと桐山も警戒していたのだろう。
「しゃーねーな。もう一つの枠とりに行くのは自分だって思っとくしかない」
「そうは言うけどさー」
「せっかく、前回それなりの順位で終わったんだ。今期チャンスじゃんか。一勝の差が昇段を分けるのは、よく分かってるだろ。他より、一敗するリスクを避けれたんだ。好機だと思えって」
「そうか……そうだよな……」
「そうそう。気持ちじゃ負けてたらだめだ。
はやく上がって来いよ、ずっとこっちで待ってるんだからさ」
プロでおまえと指したいと、はっぱをかけた俺の言葉に、いっちゃんは少しやる気を取り戻したようだった。
そして、3月。
蓋を開けてみれば、桐山は全勝でプロ入りを決めた。
もう一つの枠は、13勝5敗でいっちゃんが勝ち取った。
その下には12勝6敗の者が4名いた。4名ともいっちゃんとは違い桐山と当たることになり、一敗している。そのうち2名はいっちゃんよりも順位が上だった。
もし、その一敗がなくて13勝5敗にその2人が上がって来ていれば、プロになっていたのは、そのどちらかだ。
しかし、たらればの話をしても仕方がない。
運や、タイミングもプロの世界で勝ち抜くためには必要なものなのだから。
俺は、明日は我が身だ……と身を引き締めた。
ついに桐山が棋士になる。俺にも盤を挟んで会いに来る。
いくらあいつが才気あふれる有望株といえど、こっちにだって、数年先にプロになって闘ってきたプライドがあるのだ。
先輩として、そう簡単に負けるわけにはいかない。
スミスさん視点でした。
彼は奨励会の内情にも詳しかったので、少し奨励会員目線の桐山君の話も入れられて良かったかもしれません。