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「そういえば」
月明かりの下、波音や虫の鳴き声に耳を傾けながら木にもたれかかっていた織斑千冬はふと、背中を向けて岬の柵に腰かけている篠ノ之束に声を投げかけた。
「お前は何故インフィニット・ストラトスと名付けたんだ?」
気にしながらもこれまで聞くタイミングを逃していた事だ。
インフィニット・ストラトス。意訳すれば無限の成層圏。
それは地球と宇宙の断絶を連想させ、宇宙での活動を目的としたマルチフォーム・スーツにはいささか不釣り合いな名前だ。ISの登場で宇宙関連の技術開発や研究が活性化するのではないかという期待を裏切られた天文雑誌などでも皮肉られている。
「それがぴったりだと思ったんだよねぇ」
「……」
無言によって先を促すと束は的確に意図をくみ取った。
「あれはもう十年以上前になるね」
声には愛おしさが満ち、大事に仕舞っていた宝石箱を開くような喜びも滲んでいた。
「箒ちゃんと一緒にテレビを見てたんだけど、そこに映ってた宇宙飛行士が言ったんだよ。宇宙から見れば世界に国境はないってね。そしたら箒ちゃんはそれに感化されちゃったみたいでこう言ったんだ。「いつか世界中の皆は仲良くなれる」って。私はこう返したよ。それは無理だってね。歴史を顧みれば自明。ロケットは兵器として使われたから進歩したんだし、宇宙開発も結局大部分は軍事的な理由や自国の威信を見せつけるのが目的だしね。でも箒ちゃんは強情でね、聞く耳を持たなかったよ。まだ小さかったから口で説明しても駄目だと思ってね。実演する事にしたんだよ。そして兵器としての有用性を見せた上でなお自制心を見せたなら負けを認めようともね」
「……」
表情を崩さないまま千冬は束の話を咀嚼する。
不思議と動揺は少なかった。心のどこかで、どうせまともな理由ではないと分かっていたのだ。
「そうするよう仕向けておいて意地が悪い」
「心外だね」
背中に届く拗ねたような束の声。頬を膨らませているのだろうと、長年の付き合いから顔を見なくても分かった。
「きっかけや理由がなかったから争わないなんて、それはただ運が良かっただけ。善性が入る余地のない結果は箒ちゃんも認めないと思うんだよね」
自身の行動になんら迷いも後悔を感じさせない束の口調に千冬はそっと溜め息を漏らした。
自分の方が正しいと証明したいという、余人にはどうでもいい姉のプライドで世界は変貌した訳だ。
子供同士の意見の違い。そんな些細な出来事さえも、この異能の天才にとっては時間や労力をかける価値があった。むしろ妹との交流に比べればその他の多くは些事だろう。
そこで平和の為に活動するという発想にならなかったのは世界にとって不幸だが、まあ仕方ない。束の内面は良くも悪くも子供のそれだ。
才能や感性が極端な人間のやった事だから今の世界の歪さも納得出来る。
束の行動の結果、篠ノ之家は一家離散の憂き目にあったが、束の感覚では大学生が親元を離れて一人暮らしを始めるようなものだろう。否、地球の裏側でもすぐに会いに行けるのだから離れたとすら思っていないに違いない。
「これでも譲歩したよ。コアの詳細を明かさないで数を絞ったし、女にしか使えないようにした。他にもあえて問題点を残しておいたんだよ?」
千冬の中でこれまでわだかまっていた違和感が急速に消えていく。
束が他人の評価を求めた時点でおかしかったが、発表当初ISが誰にも相手にされなかったという話には首を傾げていた。机上の空論ではなく現物があったのだ。理解を示す人間がいるだろうと。
しかし何という事はない。理解されなかったのではなく、理解させる気がなかったのだ。
元々、他人の事はどうでもいいと思っている束だ。使われないと確信している用途の説明など、徒労以外のなにものでもない。
束に必要だったのは軍事とは無関係な場所で発表されたという事実だけ。
「銀の福音の存在はお前の正しさを証明した訳か」
広域殲滅を目的とするあの機体は各国が形式的でも掲げていた競技用という建前すら投げ捨てた狂気の産物と言ってもいい。
いかなる政治力学が作用したのか、千冬には想像も出来なかった。深謀遠慮かただの軽率か。どちらにせよ火種として燻り続けるのは間違いない。
そして世界にISの幻想を植え付けた原因は千冬である。この一件はそれを改めて突き付けられたようで煩わしさを覚えた。
福音の迎撃に携わった者には緘口令を敷いたが、それはIS学園が矢面に立つ事で彼女達の身を守る為であって情報の拡散を防ぐ為ではない。
あれだけ派手に動いたのだ。各国の衛星にしっかりと映っている筈。
隠し通すのは無理だろうが、武力衝突が起きるとは考えたくなかった。
ISは数の関係で防衛には不向きだが攻撃、特に奇襲や撹乱のような作戦では驚異的な性能を発揮する。運用に必要な人員や設備も少なくて済み、操縦者の生存性も高い反面、占領は出来ないから双方がISを投入すれば互いの国が荒れる泥沼の戦いになる。
各国の首脳が理性を働かせてくれる事を願った。
「……」
そこまで考えた所で千冬は一端思考を打ち切る。
束の話を聞いてなおISに兵器としての抑止力を期待している自分に気付き、内心で苦笑した。
「あれの計画が持ち上がった時点で「束さん大勝利!」ってしても良かったんだけどね。もうちょっとだけ様子を見ようと思ったんだよ。箒ちゃんへのプレゼントも兼ねていっくんがISを動かせるようにしたら各国の軍が一斉に検査を始めたんだよ。そんな事、毎年やってるのにね」
声には己の思い通りになった愉悦や相手への嘲りはなかった。むしろ予定調和に対する倦厭さえあった。
「戦争をするには不備が多いんだし、そんな事に予算を使うくらいなら人気取りに救助隊でも作ればいいのに」
有史以来、最も危険で破滅的な事を仕出かした女が平和的な利用法を語った。
閉じた世界にいる束は疑心暗鬼から軍拡に走る人間や組織とは対極の位置にいる。
そして世界と喧嘩しても負けないと自負しているから気軽に理想を口にする。もっとも、他人の事を意に介さないので口にするだけなのだが。
「今も必死に「軍事利用」の意味を再定義をしてるんだろうねぇ」
束は相手が誰であれ自分の考えを語る時には饒舌になる。それは対話というより一人問答に近いが、自分の言葉なので他者の言葉に感じる雑音がなくて気楽らしい。
「新しい技術が生まれればそれを使って如何に利益を得るか考えるのは国家にとって義務だ。だが、それを兵器という形にしてしまうのは、やはり人の業だろうな」
アラスカ条約に穴があるとは以前から指摘されている事だ。
量子化出来るISを監視する事は難しく、また各国は早々にコア・ネットワークの非限定情報共有で流れる情報を制限する術を習得した(今になって考えれば後ろ暗い事を誘発させる為にあえて簡単な監視網を用意してクリアさせたのだろう。そしてまず間違いなく束は各国が隠せていると信じている事も把握している)
表立って使えないだけでISを配備した部隊は存在して、いざ実戦投入した時のごたつきを減らすべく日頃から慣熟訓練に余念がない。
情報公開の取り決めもあってないようなものだ。
コアに依存しない技術なら律儀に公開する必要はないし、仮に依存する技術であっても、コア自体がブラックボックスで未解明なのだから誤魔化しは容易い。
それでも各国が技術を公開するのは遵法精神に篤いからではなく、ただ単に示威行為をしているだけだ。
戦争での使用は禁じても、ISの武力を背景にして外交の場で交渉カードにする事までは制限していない。
そう出来るように大国が条約を形作ったのだ。そもそもコアの分配数にしたって当時のパワーバランスが反映されている。
「そう。それが人の本質なんだよ。だから箒ちゃんから連絡が来た時は心が弾んだね。頼られた嬉しさもあったけど、やっぱり箒ちゃんも分かってるんだ。相手が力を持っているならそれ以上の力で潰すのが手っ取り早いって」
束は子供のようにはしゃいでいた。
好きな相手が自分と同じ考えや気持ちを共有する。それはさぞ幸せな事だろう。
語っている内容は常人が聞けば激怒しそうなものなのに、千冬はどこか微笑ましさを感じた。
しかし意識の片隅で別の思考が進んでいた。
幼き頃の箒は規律正しかったが、世界はその清廉さに冷酷で応えた。
多大な苦しみを伴う理不尽な別れによって無力感を抱かされると同時、反社会的な癖に制裁を受けずに法律や規範、権威や道理を軽々飛び越えて自由気ままに振る舞う姉の姿を見せつけられた。
そんな箒が力を信仰するようになるのも無理からぬ話に思えた。また、現状が満たされない時に慰めや言い訳として理由を自分にない物に求めてしまうのも人の性質だ。
「ねえ、ちーちゃん。今の世界は楽しい?」
不意の問いかけ。世界を変えた人間が片棒を担がせた相手にするにはあくどい質問だったが、千冬は気にしなかった。
この程度で物怖じするようなら束の友人などやっていない。
「そこそこにな」
「そうなんだ」
告げた言葉に偽りはない。だが、問いに対しての答えを正しく表現しているとも言い難い。
地球の面積が五億平方キロメートル、二百の国があって数十億人の人間が住んでいる。そういう知識を持っていても実際に人間が世界と認識する範囲は狭い。
束ほど極端ではないが千冬も赤の他人には無関心だった。精々IS学園の人間や学生時代の知人、近所の住人、あとはドイツ軍関係者くらいか(有名人や教師としての体裁を取り払えばもっと少ないかもしれない)
彼等が安泰にすごせるなら今の世界に不満はない。
かつてのモンド・グロッソの件は思う所があるが、それとてしっかりした暮らしが出来るならと、安易に国家代表になった自分の責だ。それを理由に不快感を示すのは恥だと千冬は感じた。
時折、見ず知らずの相手から女尊男卑の恨み節を綴った手紙が届く事があるが、それを読んでも心にさざ波すら立たない。
ISが発表された頃は女性の社会進出が進んだとはいえ中核を担っていたのは男性だった。
これほど短期間で、しかも世界中の価値観が変貌したという事は男も座して変化を受け入れたと判断するしかない。今更不満を述べても知った事ではないというのが本音だった。
ただ、十代前半の小娘が姉妹喧嘩の手段として作った代物によって崩れ去った制度や風習の脆さには哀愁のような気持ちがある。
「今のような世界になる事もお前は分かっていたのか?」
「想定はしてたけど、正直そうなる可能性は低いと思ってたかな。男の不甲斐無さと女の虚栄心を甘く見てたね。思いがけず当時の束さんの正しさが補強されちゃったよ」
一切の悪意なく、本当に意外そうな束の口調は、だからこそ人類の愚かさを如実に表していた。
救いにはならないが、人が愚かなだけの存在ではない要素は一応ある。女性優遇を主導した層が今も権力を握り続けている事だ。当時の指導者は自分達は優秀だから大丈夫だという傲慢にも似た自信の元で女性優遇の政策を推し進め、本当に生き残って見せた。
それには一部の女性の中に女尊男卑以外の価値観が熟成された事が関係する。
女性が優遇されるといってもポストが極端に増える訳ではない。ISに限った話ではないが、分野のトップにいるのは必死に勉学を納めて激しい競争を勝ち抜いたエリートだ。
弛まない努力や苦労と引き換えに地位を得たという矜持があるから、たまたま女性に生まれたというだけで特権を享受出来る今の風潮には否定的でさえある。
社会の上層は女尊男卑の世にあっても実力主義。特に以前と比べて高潔であろうとする女性も少なくない。
この実力主義の価値観が一夏がIS学園で受け入れられている一因でもある。
ただ、セシリアとの戦いで惨敗していれば両者の訓練時間などを無視して他の男と十把一絡げの扱い、それどころか実力もないのに厚遇される不愉快な人間として冷やかな目で見られていた可能性はあった。
学園の生徒はまだ若く、皆それぞれの地元では有数の才媛だったが故に驕りや他者を見下す面があるのも事実だ。
それでも決闘をやらせたのは千冬という人間が弟に過大な評価や期待を寄せているからだ。
両親がいなくなって以降、自分の手で育てた事による贔屓目や苦労は報われてほしいという思いがある。
その思いに報いるように剣術では天稟を見せていたし、ここ数年任せていた家事やマッサージも完璧にこなしていた事から彼女の根底にはどんな分野でも上手くやるだろうという思い込みもあった。
幸か不幸か一夏は大過なく日々を送り、千冬の認識は是正されないまま現在に至る。
弟妹へ過度の入れ込みをしているという点においては二人の姉は似た者同士だった。
「――――――――」
束の呟きは風に、姿は闇に消えた。
友が去った後、千冬はしばらく木に体を預けて再会の余韻に浸っていたが、彼女もやがて踵を返した。
後半の千冬の心理描写は当初プロットにはなかったが筆が乗って書いてしまった。