私は幻想郷の住人になった。ただし、否応なしに感じる過去の影を感じて。海を見たことないと告げるのは、まだ、痛い。

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早苗の海

 もう幻想郷に来て何年も経ったはずなのに、わたしの新参者というレッテルは未だに貼り付いていて、この郷の者は一体いつからここにいるのだろうと考えたりもしたものだ。

 うんと昔に還ると人は元いた場所に戻るという。だからこの人たちは、うんと昔からここにいるのだろう。白靴下を脱いで靴に丸め入れ、爪先から水の表面に触れた。足裏で揺れる水に嬉しさが広がり、わたしは勢いよく水の中に足を沈めた。

 

「水の中はさ、意外と冷たくないもんだよ。お母さんのお腹の中って、こういう感じかなって思うのさ」

「河童って、お母さんのお腹の中にいたんですか?」

「んー……いたんじゃない?」

 

 もし還るところがあるなら、お母さんのお腹の中ってところに行ってみたいじゃん。にとりさんは低い声で言った。早苗はお母さんのお腹の中にいたことあるんでしょ。曖昧に頷いた。お母さんのお腹の中って、どんな感じ。さあ……大昔のことなので、よく……。

 にとりさんは乾いた岩の上で工具を弄ってわたしを見つめた。ふーん、そんなもん。じゃあさ、

 

「海って、どんな感じ」

「海ですか」

「うん」

「見たことないんですか?」

「さあね。忘れちゃった……」

「わたしは……」

 

 幻想郷には海がない。人間たちは塩の大量に入った水を言葉では知っていながら、長い間死ぬまでそれを目に焼き付けることはできないらしい。しかしながら、妖怪は長生きなので、海を知っている者も少なからずいるのだ。この辺りの者でも海が見られた時代を生きたので。にとりさんがいつからここにいるのかは知らないけれど、海を知っていても不思議じゃない。

 わたしは大昔を思い出そうとしてみた。まだ外にいた頃のこと。幻想郷はまだわたしたちを新参者と呼ぶけれど、あのうだるような暑さと、息が切れる程全力で走った歩道橋、制服のベルトの隙間、つまづいて擦り剥いた膝の皮、大勢の声に紛れて聞こえなくなった自分の歌声、埃の溜まった階段をもう覚えてはいない。

 

「海、見たことないです」

 

 わたしはなるべく気づかれないように言った。にとりさんは青い目を揺らした。工具を弄る手を止めて、遥か遠くの山の上を見つめる。彼女はそういえば昔、遠くから来たと言っていた。「うんと遠くから来たんだよ」遠くって、どこですか。南? 彼女は首を横に振る。大陸の向こう。外国だよ。海、越えて。ずっと、向こう。指をさす。わたしはその指をしげしげと見つめたものだった。

 彼女は飛んでいきそうな帽子を押さえて、飄々と頷いてみせる。まるで初めての共通点を見つけたかのように。

 そうか。じゃあ、わたしたちと一緒だねえ。

 

 

 

 〇

 

 

 

 茄子と胡瓜を見つけた。

 それください、と言う声が自分のものではないかのように揺れている。帰りに河を通り、わたしは胡瓜を紐にくくり付けると河に投げ入れた。すぐに紐が重くなり、思い切り引っ張ろうとしたところ、ぷちんと切れてしまった。

 

「もぎゅもぎゅもぎゅ」

「……わーい河童の一本釣りい」

「うん?」

 

 河の底から現れたにとりさんはわたしを一瞥して帽子を深く被る。「うーん……早苗の胡瓜だった?」悪気もなさそうである。既に口の中の胡瓜は無くなったようだった。わたしは持っていた紐をくるくるとまとめてスカートのポケットにしまった。

 

「構いませんよ。どうせ、わたしの胡瓜ではないので」

「誰の?」

「精霊馬って知ってます?」

「噂では知ってるけども」

「亡くなった人がこの世とあの世を行き来するための乗り物のことです。その胡瓜、馬にしようかなと思ったんですけどね、食べられちゃいましたし、宗派違いますし」

「誰か、帰ってくるの?」

「え」

「違うの?」

 

 考え込んだ。にとりさんは河から上がってくると目の前で手を振って「おーい」と何度か言っている。(最近、三丁目の飯田さんのお爺さんが亡くなった。もう暑くなっていたので肉はだいぶ腐っていた。二丁目の三宅さんは妖怪の領土に誤って入った三日後、体の三分の一だけ戻ってきた。なんまんだーなんまんだー)

 わたしの身内は十数年前から連絡を取ろうにも取れない状況なので、死んでも分かりっこない。そもそも、元から交流が少なかったものだから、盆の時期になっても思い出しもしない。昔は乗っていた小舟を今は後ろから見送っている。この時期だけはわたしは小舟に乗って外に行こうと思う。だから、馬に乗るとしたらわたしの方なのだ。

 

「すいません、やっぱり、さっきの胡瓜わたしのでした」

 

 にとりさんは眉根をあげる。

 

「……そりゃごめん。なに、里帰りすんの」

「里帰り」

「早苗の実家って外?」

 

 外、というのが昔テレビドラマで見た内地という言葉に重なる。外国にでも行くつもりだろうか。わたしは目を逸らして鳥が飛んでいくのを眺めた。

 

「そこ海見える?」

「見えるわけないでしょ。うちは内陸なんですっ」

「そうなんだ。へえん、うちなあ」

「む……」

 

 にやついている彼女を置いてわたしは叢を進んだ。ついてこようとするので、わたしは勢いよく振り向いて睨みつける。「帰るんです!」

 

「うちに?」

 

 にとりさんは猫背の仁王立ちで背の高い叢に隠れていた。

 河童だ。

 唾を飲み込んで、思わずまじまじと見てしまう。そのうちにやっと気がついてみると、わたしは仰向けに倒れたまま、大勢の河童にとり囲まれていました……。視線を感じて、進む道を振り返った。誰もいない。「……そう、うちに……」勝手に動く口を押える。冷たい鼻の感覚が吸い付く。

 正面を向くと、にとりさんはいなくなっていた。

 

 

 

 〇

 

 

 

 十五日に新しい胡瓜と茄子に木の棒を刺して、庭先に並べておいた。諏訪子様はその隣に並んで小さく丸まっている。洗濯物を干していると足元から崩れそうになり、わたしは縁側から靴を履いたまま中に倒れこんだ。

 ざらついた木目、不思議なくらい冷たい。じっと座っていた諏訪子様は冷たくて小さな手でわたしの頬を撫でた。ごめんねえ、暑いよねえ、早苗。薄く目を開いて見たけれど、誰の姿も見えない。

 

「……諏訪子様?」

 

 気になって体を起こした。辺りを見回してみたけれど、誰もいない。さっきまでいた小さな女の子はどこに行ったのだろう。みーんみんみんみんみーんみんみん……蝉の声。耳の側を汗が流れる。……みんな、どこに行ったのかしら。

 

「早苗!」

 

 突然、叢から河童が飛び出してきた。背の低い、全身ぴかぴかしてる女の子。にとりさん。こんなところまで来るなんて、どうしたんだろう。

 

「どうしました?」

「今日なんだってね、里帰りの日」

「別に、里帰りの日なんかじゃありませんよ。ただ……」

「海、見たことある?」

 

 いつも通りの会話で少々むっとしてしまう。大体、彼女には何度か海は見たことはないと言ったはずだ。何度か。何度も。(外来人は外の世界のことを知っているから、知識や技術を伝えてくれる数少ない知識人として重宝される。ここに来た当時はわたしも質問攻めに遭ったものだが、何も知らないと分かるのも時間の問題だった。実は、わたしは後悔しているのだ。海は広いと一言でも言えばよかったのではないかと考える)

 わたしはちょっと外の話をするのは好きではなかったのだ。(にとりさんが外の世界の品を目の前に並べ、一つ一つ手に取る瞬間があまり好きではなかった。昔は好きだった。年々、知らない物が増えるし、にとりさんは一度もわたしにそれらが何か聞かなかったし嫌になった)

 

「……いいえ」

 

 にとりさんはわたしの反応を見て面白がっているようだった。

 ……いやな人。

 

「じゃ、海に行こうか」

「え」この会話に海に行くこととどういう繋がりがあったの? 呆けている間に、にとりさんは泥だらけの長靴で廊下に立ってわたしの手を引いた。注意する気にもならない。

「行こう」

 

 完全には起きていなかった体、脳が目を覚まし始める。鉛のように重い体が首を伸ばしてにとりさんを見つめた。彼女が笑う口元だけがよく見える。

 

「……本気?」

「わたしはいつも本気さ!」

「行けるの?」

「期待するなよ?」

 

 にとりさんは照れたように笑った。

 

 

 

 〇

 

 

 

 ちょっと前にさあ、早苗に海を見たことあるかって聞いたら、ないって言ったんだよ。早苗は覚えてないだろうけど、わたしは正直あの答えが引っかかってたわけ。人はうんと昔に戻ると元いた場所に戻るって言うけど、早苗はお母さんのお腹の中に戻ったりすんのかな。でも、幻想郷に来ちゃったから、もう戻らないような気もするんだ。ここでうんと昔に戻っちゃったら、早苗はどこに行く? 

 わたしたちは、うんと遠くから来た。それでいろんな人間を見てきた。船が漕ぎだしていくのを見送るみたいに。多くの人間を覚えてるよ。見た。見ただけ。わたしが船に乗るとしたら、その船を見送るのは早苗のような気がする。外から来たからかな。わたしたち妖怪は、外の人間に忘れられた存在だけど、終わる瞬間に見送る人間がいると期待してるんだな。いつか、見送る人間がいなくなって、誰もわたしたちを思い出すことがなくなったとしたら、わたしはどこに還る? 

 

 …………

 

 わたしを攫う音がして、目を開けた。

 眩しい。瞬きを繰り返し、辺りを見回した。眼前に広がるのは、広大な海だ。遥か遠くまで続き、たしかにわたしの知らない場所まで繋がっている。一歩踏み出そうとして、何かに躓いた。「うわっと」左腕をぎゅっと掴まれる。

 

「お願いだから動かないでよ~早苗。そこまで性能よくないんだ」

「すみません……でも、凄いですね。本当の海みたいです!」

「だろ? KVR(河童印の! バーチャルリアリティー!)だからなー。商売にするつもりなんだよ。早苗、ちゃんと感想聞かせてくれよ。タダで見せるんだから」

「にとりさん、あっち行きたい!」

「ま、待って待って。動かないんだってば」

 

 すぐそこに見える透明の水は、どうやら本物の海ではないらしい。本当は、じりじりと浮遊感を感じている。左側でわたしの腕を押さえているにとりさんの両腕だけが、ただ一つだけの現実感だ。「にとりさん、います?」

 

「ん? いるよ」

 

 左腕を湿った指先で掴まれる。

 早苗。わたしは淡水でしか生きられないけどさあ、還るとしたら、海じゃないかと思うんだ。早苗も、海のない国から来たらしいけど、還るのは海かもしれないよね。早苗は知らないかもしれないけど、幻想郷の沈む夕日の反対側、夜が来る空はまるで海みたいだよ。何もないから。

 わたしはにとりさんの手を右手で握った。

 にとりさん、わたし知ってますよ。この場所で見る季節の景色。空の大きさ。わたしたちは還る場所が、きっとない。けれど、還れるなら同じところに行きたい。わたしたちは外の人間に忘れられた存在だけど、終わる瞬間に覚えている人間がいると期待している。わたしたちは居なくなるけど、そのあとも消えるわたしたちを見送る人間がいると信じている。

 

「にとりさん、知ってますよ。もう、こっちに来て十年以上経ってるんですから」

「え?」

 

 彼女がいる方向を向いたけれど、そこには誰もいない。頭が重い。右手が強く握られた。「早苗?」頬に手が当てられる。その手が上に動き、目の上にはめられていたKVRがずらされる。

 にとりさんの青い目がわたしの目を見つめる。

 そうかあ、早苗、

 

「ずっとここにいたんだね」

 

 にとりさんは頬を染めて微笑んだ。

 

「でも、海は、懐かしい感じがします。きれいだわ」

 

 わたしはやっとそれ相応の感想を口にした。彼女はほっとしたような表情をした。テレビの画面越しに見るあの海を思い出す。初めて湖を割った時、上から降ってくる淡水を思い出す。

 

「わたし、ずっとここにいるよ。帰っておいでよ、この時期は。ずっといるから」

「里帰りに?」

「そうだよ」

 

 毎年この時期にすこしだけ思い出す。あの頃大事にしていたもの。大事だと思っていたもの。忘れないと信じていたもの。外に残してきたもの。あの時の空気。

 帰る場所はもうないと思っていたのにな。わたしは思わず吹き出す。「ふふっ」

 

「うちは内陸なんですけどね」

 

 彼女は青い目を揺らした。

 

 

 

 

 

 

 


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