煙草というものを初めて吸ってみて最初に思ったことはこんなものの何が美味いんだ、という直球な感想だった。人生で初めての喫煙は文字通り苦い思い出だ。加減も分からず煙を思いっきり吸い込んで一時的に呼吸困難になったし、煙が目に染みて涙が出そうになった。
「おいおい一護、気分が悪いなら止めとけ」
「ゲホッ! ……なんともねえ」
「あー、じゃあ肺に煙を入れるな。口の中で留めとけ。そうすりゃまだマシだ」
「……おう」
親父の言う通り、口の中に煙を漂わせて、肺の中には決して入れないようにする。口の中の不快指数が飛躍的に上がっていくが、先ほどよりはマシになった。そうやって少し妥協しながらも最後まで吸い続けたのは半ば意地だった。げらげらと笑う親父は煙草を美味そうに吸っていて、途中で諦めるのは負けたような気がした。
負けず嫌いな性格だという自覚はあったが、まさかここまで頑なだというのは我が事ながら驚きだ。
おかげで吸った後の気分は最悪だ。片頭痛のように頭が痛くなるし、口の中には煙の味がこびり付いて、今なら何も食べても味を感じないに違いない。
「お兄ちゃん、大丈夫?」
少し離れた場所で見ていた柚子が駆けよってきて、リュックの中からペットボトルのお茶を差し出す。
「……助かる」
素直に受け取ったペットボトルのお茶を思いっきり呷り、何度か嚥下して、ようやく気持ち悪い感覚も落ち着いた。そもそも、俺は煙草なんて吸うつもりはなかったのだ。
「お前も二十歳になったから吸ってみるか?」
そういって親父は俺に煙草を一本差し出した。それが始まりだった。墓掃除を終えて全員でお参りをして、柚子達を車に帰らせようとした時のことだ。
お袋の命日だけ親父は煙草を吸う。唯一、お袋が褒めてくれたセンスというのが煙草を吸う時の仕草だったのだという。もっと褒める所はなかったのかよお袋、と言いたくなるが普段の度重なる奇行を見ているとそれぐらいかも、と思わなくもない。
……もう、五年も前になるか。雨が降り注ぐ日に煙草を吸った親父を見たのは。
その時まで親父は煙草を吸っているのを俺達に隠していた。いや、親父の意識としては隠していたつもりはなかったかもしれないが、俺にはそう見えた。
けれど、次の墓参りからはそれを隠さなくなった。勿論、柚子達を車に退避させてから一服していたが、煙草を吸うという行為を公然のものにしたのは俺が高校二年生になってからだった。
何か心境の変化があったのだろうか。俺に見られたからもう隠す必要はないと思ったのだろうか。
将又、単なる気まぐれだったのか。
『お父さん! もう、煙草なんて吸って! 夕食のおかずはお父さんだけ抜きだからね!』
『柚子!? それだけは! それだけは勘弁を!』
墓前で実の娘を拝み倒す姿を見てお袋はどう思ったのだろう。
……それは兎も角として、親父が墓参りの時だけ煙草を吸うのはなんとか柚子にも黙認してもらえることになった。
「ちょっとお父さん! お兄ちゃんが不良になっちゃうでしょ!?」
「止めといた方が良いんじゃない? 一兄」
柚子と花梨は揃って止めた。しかし別に俺も二十歳になったのだから、煙草を吸う権利はある。
俺はちょっと逡巡して親父から煙草を受け取った。オレンジ色の髪のせいで不良だのなんだの言われてきたが、煙草というものに縁はなかった。しかし興味がまったくないか、と言われると少しくらいはある。
もう! とぷんすか怒る柚子を後目に俺は煙草を咥えてみる。火は点けていないのに、煙草独特の匂いが鼻腔を刺激する。親父から差し出されたジッポを取って火を付けようとするが、中々煙草に火は点いてくれない。
「息を吸い込みながら火を付けるんだよ」
親父のアドバイスに従ってようやく煙草に火が灯る。煙が揺蕩い、息を深く吸い込み―――。
「ゲホッ! ゲッホ!」
盛大に咽た。俺が苦しんでいる間、親父は爆笑した。柚子は心配そうな顔をして、花梨は呆れたような顔をした。
「一護、お前にはまだ早かったかな」
にやにやと笑みを浮かべる親父に反論する気力すら湧かない。
「もー! お父さん、お兄ちゃんを虐めちゃ駄目でしょ!」
「えぇ!? いや違うぞ柚子! これは父親と息子のスキンシップで!」
怒る柚子にしどろもどろに言い訳をする親父。以前からその傾向はあったが、年を重ねる毎に親父は柚子に敵わなくなっていく。実質的に黒崎家の家事を仕切っているのが柚子だから、親父も俺も柚子には逆らえないのだ。黒崎家のヒエラルキーのトップに君臨しているのは柚子であることは間違いない。次点で花梨。
その花梨は俺の背中を擦っていた。
「大丈夫、一兄? 髭に騙されて煙草なんて吸うから」
「……おう。後悔した」
初めての喫煙の思い出はそんなもの。明るく晴れた天気と墓地というギャップの中でぎゃぎゃあと騒ぐ声。何度も繰り返した墓参り。そこに悲しみを悼む気持ちはあれど、空気は明るい。
墓前で騒ぐ奇特な家族なんてのは恐らく黒崎家くらいのものだろう。大体は親父が突拍子のない発言をすることで始まるどんちゃん騒ぎが原因だ。
ただ、俺も一応大人としてカウントされるようになって、なんとなく親父の気持ちも理解できるようになった。多分、お袋に元気な黒崎家を見せたいのだと思う。
お袋がいなくなっても黒崎家は元気で生きているんだ、と言いたいんじゃないか。
「い、一護ォ! 助けてェ!」
「ちょっとお父さん! そうやってまた逃げて!」
……ただ、柚子の説教から逃げて俺の背中に隠れる親父を見るとやっぱり勘違いなのかもしれない。俺はため息を吐いて柚子を宥めて、ついでに子泣き爺のように俺の背中に張り付く親父を前に押し出す。
確かなことは一つ。
黒崎家は今日も平常運転だということだ。
本人には絶対言わないが、実のところ俺も少しだけ親父の喫煙姿がカッコいいとは思っていた時期があった。俺が小さい時、親父はまだ煙草を普通に吸っていた。勿論、俺の近くでは決して吸わなかったしヘビースモーカーというわけでもなかったから、そのシーンを目撃することは希少だった。
いや、希少だったからこそちょっとした非日常感があったのかもしれない。
テレビの向こう側、ハリウッド俳優が煙草を吸っているシーンは実に様になっていてちょっとした憧れがあったことは否定出来ない。
それになんというか、煙草を吸えれば大人、みたいな純粋な子供が抱きがちな幻想があったから当時の俺にとって煙草というのは大人の象徴のようなものだったのかもしれない。
「一護、煙草なんて吸えてもそんな良いことねえぞ」
墓参りを終えて、車のハンドルを捌きながら、助手席に座る俺を横目で見て親父はそう言った。
俺はまだグロッキー状態で窓を全開にして新鮮な空気を吸って親父の話を聞いていた。
「金も掛かるし健康にも良くねえからな。……まあ、俺が強く言える権利はないんだが」
「そうだよ、煙草なんか吸っちゃ駄目だよお兄ちゃん。お父さんみたいになっちゃうよ?」
「柚子!?」
「馬鹿親父! 前見ろ!」
さらりと罵声を浴びせかけられた親父は過剰な反応をして花梨に叱られてうっとおしく泣き真似をする。
「俺も無理に吸おうとは思わねえけど……医者とかは結構、吸ってる人もいるみたいなんだよな」
医学部に通っているから良く分かる。意外と先輩達や同学年では吸ってる奴は多い。
なんだったら大学構内の喫煙所から出てくる教授を見たこともあるぐらいだ。
「医者っていうか医療とか福祉関係の仕事をしている奴らの喫煙率は高いらしいな。俺みたいな町医者はまだしも、大学病院にいるような連中はストレスも溜まるんだろ。それでなくても大変な仕事だしな」
「あー、それはなんとなく分かるな」
親父はクリニックを開いていて、俺も簡単な手伝いをすることがあるから分かっていたつもりだったが、その予想を越えて医者という仕事は大変だ。何せ実習に入ったばかりの段階で結構大変なのだから。俺は体力的にまだ余裕があるが、早くも弱音を吐いている奴だっている。だからストレス解消の一つの手段として喫煙を選ぶ気持ちは分からないでもない。勤務中のアルコールは論外だから、手っ取り早くストレス解消で煙草という選択肢に行きつくのは分からないでもない。
「やっぱ親父の大学時代でも吸ってる奴が多かったのか?」
「いや、俺の医師免許は浦原が用意してくれたから……」
「え」
車内の空気が何度か下がった気がした。多分それは気のせいではない。
犯罪者やら無免許医者やら逮捕やら、危険な単語が俺の脳裏に過っては消えていく。一家離散という単語がでかでかと浮かんだあたりで俺は正気に戻った。
「なぁ親父、今からでも警察に……」
「そうだよね。悪いことしたらちゃんと償わないと……」
「だらしない親父だとは思ってたけど、まさか犯罪者だったなんて……」
「じょ、冗談だよ! そんなガチなトーンで言うなよ! やだなーもう! ちょっとしたジョークだって! ちゃんと医学部卒業してるから! 卒業証明書もあるから! ちゃんと後で写真見せるから!」
必死になって否定している姿は寧ろ怪しいが、俺も追及は止めた。
大体、そんなことを言い出したら斬月を街中で振り回していた俺だって銃刀法違反で捕まるだろう。
俺の場合は霊体だったからという言い訳が出来るが、思い出せば浦原さんはガッツリ地下に巨大な空間を作っていた。あれは普通にガチの犯罪だ。
「……」
それ以上のことはドツボに嵌るような気がしたから、深く考えないようにした。
半ば現実逃避気味に窓から見える風景を眺める。ぎゃあぎゃあと騒ぐ親父たちの声をバックミュージックにそうしていると睡魔が襲ってきて、俺は眠りに落ちた。
―――夢を見た、とその映像を見ながら俺は確信した。
ふわふわしたファンシーなもんじゃなくて、俺がまだ小さかった頃の記憶だ。
ビービー泣いている俺の手をお袋が引っ張っていた、そんな昔のワンシーン。
なんで泣いているのかは覚えていない。竜貴にでもこっぴどく負けたのだろうか。
お袋は黙って俺の手を引いていた。放置ではなく、俺が立ち直るのを待ってくれているような気がして、俺はぐしぐしと袖で涙を拭って俯いていた頭を上げた。
『――――』
お袋が何かを言った。口は動いているけど、何を言ったか分からない。何せもう十年以上前の話だから細部にガタが来るのは当然だ。それでもこの景色にしっかりと華やかな色が付いているのは、これが忘れがたい記憶だとでもいうのか。
……ああ、そうなのかもしれない。
そうしてどこか感慨に耽っていると意識が急浮上する。
重たい目を開けると―――。
「おーい一護ぉ、着いたぞー」
毛穴一つ一つが見えるくらいドアップの親父の顔があった。
「……」
「うわっぷ!」
無言で俺は顔面を掴んで退ける。中年男特有の脂の入った若干ぬめっとした感触が実に気持ち悪い。眠気はあっという間に全部取れた。
「近え」
「だって一護、全然起きないんだもん」
「だもんじゃねえよ。歳考えろ」
オッサンがそんな可愛い物言いをしたところで気色悪いだけだ。
「……気分の方はどうだ?」
「あ?」
「煙草だよ。合わねえ奴だと結構引きずるからな」
言われてみて、俺は煙草を吸った時の不快感が抜けていることに気づいた。多少口の中から煙草の臭いがするくらいで、その臭いももうすぐ消えてしまいそうだ。
「……まあ、何ともねえけど」
ああ、でも悔しいな。煙草吸えるか吸えないかで大人かどうかなんて決められるものではない。そんなことは分かってる。というか親父が平然と吸えて俺が全然吸えないという事実に腹が立つ。
「来年」
「ん?」
「来年、もう一回吸ってみるわ。そん時にリベンジするから」
親父はきょとんとした顔を一瞬作って笑った。
親父と揃って煙草を吸う。嗜好が似たのか、吸っている煙草もまったく同じものだ。
息を深く吸い込んで吐き出す。紫煙はゆっくりと広がって、やがて周囲の空気に溶けて消えていく。
何度かそんなことを繰り返し、ポケット灰皿に灰を入れようとしてポケットを漁るが車内に置き忘れてしまったらしい。そんな俺を見かねた親父がなにやってるんだよ、という風な顔で俺に灰皿を差し出す。わりい、と返事をして煙草を揺らして灰を落としていく。
「随分サマになったじゃねえか。何年か前、咽て泣いてた奴とは思えねえな」
「何年前の話をしてんだよ。何回か吸ったら慣れたわ、舐めんな」
「お前は何でムキになってんだよ……」
お互いに煙草を吸い終えた。一瞬静かな時間が流れて親父が墓に喋りかける。
「真咲、見てるか? 一護の奴が煙草を吸う様になったぜ。時の流れっていうのは早いよなぁ。俺も爺になっちまったし一護も立派な大人になって今じゃ医者だ」
「……」
親父の頭には白髪が目立つようになった。ちょっと身長も低くなったかもしれない。それだけの時間が過ぎた。親父の言う通り、俺は医者になった。昔みたいにチャドとつるんで喧嘩なんて出来なくなった。カッとなっていた感情も理性で押しとどめるようになって、果たしてそれは良い事なのか分からない。喧嘩が駄目なのは分かる。今じゃ俺も大人として数えられるようになったから、勝手なふるまいをすることは出来ない。しかしそうやって理不尽に蓋をして自分を抑え込むことが正しいことなのか―――。
『良い事じゃねえか』
親父はそう言った。
『お前にも守るべきもんが出来たってことだろ。自分より優先すべきものが出来て、それを守るためにお前は戦えるようになった。……いや、それは昔からそうだったな。お前は昔と変わんねえよ』
それは結局のところ、俺の高校時代と似たようなことだった。俺がルキアを助けたいと思ったように、藍染を止めたいと思ったように。目に見える戦いから目に見えない戦いになった。戦いの形が変わっただけ、という単純な話。
……大人って面倒だなと散々思ってたけど、親父の言葉になんとなく救われた気分になった。
なんだかんだで親父という存在は偉大だ。お袋が死んで男手一つで三人を育て上げてきたわけだし、業腹だが今後親父のアドバイスを聞く機会も増えるかもしれない。
「一護は黒崎クリニックを継いでくれるんだってよ。まあしょうがねえよな、土下座までされて懇願されたら―――」
そんな風なことを思っていると聞き捨てならない言葉が俺の耳に飛び込んできた。
「さらっと過去を捏造すんな。人手が足りないから助けてくれって言ったのは親父じゃねえか」
「馬っ鹿! 分かってねえな、偉大な父親像を真咲に見せてやりてえの!」
「分からないでもないけど墓前で嘘ついてまで言うことじゃねえだろ……」
親父は咳払いをして続ける。
「まあ、兎に角だ。家族も増えて黒崎家は楽しくやってるよ。だから心配すんな」
短くそう締めてそう終わった。
「……もう良いのか?」
「おう。ま、長々と話してもしょうがねえしな」
そうして俺達は墓を離れる。後ろ髪を引かれる思いで、俺は最後に振り返った。そこには来た時よりも綺麗になったお袋の墓が佇んでいる。
足を止めていたのは一瞬だった。車を止めた駐車場の奥から俺を呼ぶ声が聞こえたからだ。
「はぁい! 今行くよー織姫ちゃん!」
「なんで親父が返事するんだよ……」
馬鹿らしくなって俺は親父の後を追った。
口の中に残る煙草の芳香。それと違和感なく付き合えるようになってどれぐらい経っただろう。
時は流れていき、もう戻ることはない。仕事が大変で高校時代を懐かしむ時がある。
死神だった頃は文字通り死ぬほど大変で、それでも振り返ってみれば良い思い出だ。
もうあの頃には戻れないと分かっているからこそ、懐かしむのだ。
今が苦痛かと言われればそういうわけでもない。昔のものはもう手に入らない。でもその代わりに得たものもある。
煙草だってそうだ。健康の良し悪しは置いて、高校生の時では扱えなかったものだ。
……かつては大人の勲章として憧れの存在だった煙草。それを何の気兼ねなく吸えるようになって、
何かが変わったわけでもなかった。
昔は早く大人になりたかった。早く大人になって、早く強くなってお袋を守りたいなんて思っていたものだった。その願いは、もう叶わない。けれど墓の前で親父が煙草を吸って、その隣で俺も煙草を吸う。ただそれだけの行為なのに親父から何かを引き継いでいくような、奇妙な感覚がした。
全ては流動的で何もかも変わっていく。けれど形を変えて残っていくものもある。それは想いだったり、目には見えないものだったり。
再び俺を呼ぶ声がした。苗字ではなく、名前で呼ばれるようになって結構な時間が経った。そもそも彼女が既に黒崎家の一員なのだから苗字で呼ぶのはおかしいのだが、最初の頃には結構な抵抗があったようだ。そう呼ぶのが嫌というわけではなく、恥ずかしいという意味で。
それは俺も同じだ。けれどその照れなんてものも何回か繰り返していくうちに無くなって今ではそう呼ばれることが当たり前になった。
ふ、と笑う。そして数えきれない程呼んだ名前を、今では当然のように呼べるようになった名前を口に出す。
「ああ。今いくよ、織姫」