本当は川のシーンとか入れたかった。
甘々のはまたいつか書くかもしれない。
私はベッドから起き上がり、ドアを開けた。蝶番が高い金属音を吐き出して、ほんの少しだけ視界が明るくなる。とっくに慣れてしまった黴臭い空気を吸い込みながら、階段を上がっていく。
「…あら」
レストルームから戻ってくると、階段を覗き込む影があった。それは今までに全く見た事がない者だった。私が知らない間に、同棲者が増えていたのかもしれない。
「貴女は、誰かしら?」
「こんにちはー」
「今日は」
影は質問には答えず、挨拶をしてきた。まぁ別に構わない。どうせこれから逢う事は無いだろうし。影は自己紹介をしないまま、会話を始めてきた。
「ねぇ、ちょっと教えて欲しいんだけど」
「何?」
「この下に、気が触れた吸血鬼がいるって本当?」
「本当よ」
私への来客、ということだろうか。だが、その張本人が目の前にいるのに気付かないというのは、なんとも滑稽だ。
「その吸血鬼に何の用があって来たの?」
「こんな黴臭くて暗くて湿気てる所よりも、素敵な場所があるって教えに来たの」
「…ふぅん」
私を地下から出してあげようということか。
大きなお世話だ。私は望んでこの黴臭くて暗くて湿気っている場所に居る。というより、吸血鬼なのだからこういう所に居る方が居心地がよい。あいつは例外として。
「多分、吸血鬼は出てこないと思う」
「えー?何でー?」
「出たくないだろうから」
「そっかぁ…可哀想だなぁ」
「可哀想?」
聞き捨てならない言葉だ。いったい何が可哀想だというのか。
「だって、ずっと独りぼっちのままだよ?」
「そうね」
「外に行ったら、きっともっと楽しくなれるよ」
「そうかもね」
「でしょう?だから、一緒に行こう?」
「…え?」
「今は真冬だし、もうすぐ陽が傾いてくるよ」
「ちょっと待って。貴女、いつから?」
まさか、最初からずっと。
「…何の事かなー?」
にやにや、と笑顔で知らん振りをする女。知っていた上でやっていたのなら、随分と性質が―もとい性格が悪い。徐に、女はとびっきりの笑顔を浮かべた。
「覚妖怪は意地悪なんだよ?」
「…そう」
窓から空を見上げてみると、確かに夜が近いようだった。太陽はかなり下に落ちていて、入れ替わるように月が上に登っていた。
別に私が黙って出て行っても、怒られはしないだろう。驚かれはするだろうが、そんな事はどうでもいい。問題は、どうやって抜け出すかだ。
「とりあえず、庭に出ましょう」
そう提案した。女は頷いた。
「空気が美味しいわね」
「そりゃ、あんな埃まみれの所よりはね」
くっくっ、とからかうように笑う女。こいつ、思っていたより性根が悪そうだ。こんなのと一緒に出歩かないといけないのを知り、少しだけ気が滅入ってきた。だが、そのネガティブは後回しだ。今は館から出る方法を考えよう。
「門番に出かけてくるよー、って言えばいいじゃない」
「それで出れたら苦労しないのよねぇ」
美鈴に気づかれず、ついでに上を飛んでいる妖精メイドに見つからないように脱出する。無駄に数が多いだけに、それは困難に思えた。
「吸血鬼ちゃん、あっち見てみて」
「なに?」
女が左の方を指さした。私は言われたとおり顔を向けたが、特に目につくような物はなかった。
そして、女が私を抱え上げる。
「…え?」
「全力でいくよー」
女は私を小脇に抱えたまま、猛疾走を始めた。地面が凄い速さで流れていく。女が地面を踏みしめるごとに、私にも相応の衝撃がきた。
「待っ、て、見つかっちゃう」
「大丈夫なんだって」
余裕綽々で庭を駆け抜ける女。舌でも噛んでしまえばいいのに。私のそんな儚い願いは天に届かなかったようで、女はどんどん速度を増していく。そして、大ジャンプで塀を越えた。
「星が綺麗だー」
湖を飛んで越えたあと、私達は森に入った。この中に素敵な何かがあるとは思えなかったけど。妖怪どころか、梟さえいない。ただ葉と葉がこすれ合う音だけが聴こえた。上を向いてみたが、何も見えない。茂った木の葉が空を覆い隠していた。
「貴女には星が見えるの?」
「葉っぱが無かったらねー」
歩いていくうちに、森から出る道が見えた。このまま森中を歩いていても何もなさそうだったので、私達は道に出た。
石畳の道がまっすぐ引かれている。道の端には水溝があり、落ちた葉っぱが積もっていた。
「この道、人里と神社を繋いでるんだよ」
「ふぅん」
という事は、道順に歩けば人里にも行けるということだ。
「どっちが人里?」
「あっち」
「じゃあ、そっちに行きましょう」
「あ、違う。こっち神社だ」
「……」
人里があるらしい方向に進んでいくと、確かに明かりが見えてきた。かなり弱弱しい光だったが。
「あー、あれはちょっと違うの。人里とはまだ距離あるよ」
一人きりで人里の外に住んでいるお婆さんがいるのだ、と言った。あの明かりはそのお婆さんの家だそうだ。
「寄ってみる?」
「どっちでも」
自然と、件の家に行く流れになった。
「あんらまぁ、小さぇ子が夜に何してんの」
お婆さんは想像よりも老けていたが、動きは活発だった。私達を見つけても、警戒するでもなく自分の家に招き入れた。羽が見えていないこともないだろうに。
「腹減ってねぇか?」
「減ったー」
「私も」
たったあれだけの距離なら歩いても疲れはしないが、やはりお腹は空く。
「待ってな、飯よそってくっからなぁ」
出されたのは、ご飯、みそ汁、何かの菜の漬物、何かの肉の燻製。
「何のお肉かな」
「いのしし」
独り言のつもりだったのだけど、ぽつりと女が言った。いのししの肉か。
「こんなもんしかなかったけど」
「全然いいよ!頂きまーす!」
「いただきます」
女は嬉しそうに手を合わせ、食べ始めた。女につられて、私も食べ始めた。慣れない箸で漬物を食べてみた。それはケーキみたいに甘くないし、紅茶みたいに香り高くもなかった。でも。
「…美味しい」
「そらよかった」
思わず洩らした言葉に、お婆さんが嬉しそうに笑った。
「もう真っ暗でよ。泊まっていかんのかい」
「うん。私達は大丈夫だから」
「ありがとねー」
お婆さんとお別れして、また石畳の道を歩く。お腹いっぱいになって、少し気分が落ち着いた気がする。
「ねぇねぇ、あのお婆さんさ」
歩き始めてすぐ、女が話しかけてきた。
「もうすぐ死ぬ気がするの。死因は何だと思う?」
そんなことを、あんまり普通の事みたいに言うから、一瞬何を言ってるのか解らなかった。
「老衰かな、それとも病死かな。あそこだったら妖怪に襲われるのもあるね」
楽しそうに、人の死因を述べる女。私は、自分でも意識しない内に女の横顔を殴った。殴られた女はきょとんとしていた。どうして自分が殴られたのか、解ってないみたいに。
「少し、黙ってて」
「いいよ」
それから私達は、霧の湖に着くまで何にも喋らなかった。
「どうだった?外は素敵だったでしょ?」
「…解らない」
本当に、心からそう思った。楽しかったと言えば楽しかった。でも、逆のことも言えた。
「さようなら」
「バイバーイ!」
そして、女は居なくなった。私は女が去っていった方向をしばらく見つめて、館に帰った。見つからないように地下室に戻って、いつもどおり黴臭いベッドに顔を埋めた。
ベッドに横になっていると、時々思い出す。女、お婆さんの死因、漬物の味。
あれから、もうずっと外に出ていない。