『いい? シンジ君。まずは歩くことだけを考えて』
「はい、」
心臓を落ち着けるよう、深く息を吸ってイメージする。怪物ーーー使徒は私の出方を待っているのか、顔を傾げながら動かない。焦らなくていい、今は操縦することだけを考えろ。
葛城さんの言葉通りにイメージした。私が、普段歩いているように。曲がり気味の背を伸ばして左足に体重を、重心を脊髄付近にして左腕を前、右腕を後ろに振って右足を前に出した。足の重さから、しっかりと歩くように右膝を曲げて普通に歩くよりしっかり持ち上げて踏み出す。
右足が道路に密着し、体はバランスを保っている。通信の先で、赤木さんやオペレーターたちの歓声が聞こえた。初号機が動くのって本当にすごいことなんだな。
続いて、同じようにして左足を前に出した。イメージしてから少し差はあるが、何とかバランスを保って歩けている。ほっとした。
『シンジ君っ避けて!』
「えっ、うあ”っ‼︎」
葛城さんの焦った声の直後に、左腕を掴まれた。しまった、いつの間にっ!
いつの間にか目の前に来ていた使徒に、左腕を掴まれた。左腕だけじゃない。頭も掴まれていて、まるで左腕を引きちぎるかのようにありえない力で引っ張られる。
実際に掴まれているのはエヴァのはずなのに私にも同じ痛みが襲いかかってきた。抑えきれない悲鳴が漏れ、エヴァが掴まれている部分と同じ部分の血管が盛り上がっている。
『シンジ君、落ち着いて! 貴方の腕じゃないのよ!』
「う”あ”あ”あ”あ”あ”あ”………!」
葛城さんの声が耳に入ってくる。煩い、わかってる、わかってるけど痛みのせいで脳が勘違いを起こしているんだ!
私が痛みで呻いている間にも、使徒の力が増していって痛みが増えていく。痛い、痛い、痛い痛い痛い痛い!
「ガァっ………は、な”せぇっ‼︎!」
痛みと苦しみ、それらとわかっていることを言ってくる葛城さんへの怒りをぶつけるかの如く、自由だった右足で使徒の胸で鈍く輝く赤いコアを思い切り蹴飛ばした。
突然の攻撃に、使徒の体がそのまま後ろへと倒れ、エヴァも必然的に使徒の上に倒れる。好機だっ!
「うあ”あ”あ”っ!!」
何故か二つに増えていた顔に向かって頭突きを繰り返す。ぶっちゃけ私の額も痛いけど、それ以上に掴まれたままの左腕が痛い。ただ、倒れたことによって使徒の片手が私の頭から離れた。
頭突きを繰り返しながら、膝立ちをして右手でコアを殴りつける。殴りながら、視界の端に使徒の左手が私をもう一度掴もうとしているのが見えた。
「ぅおっらぁ!」
右足を前に出し、掴まれたままの左腕を動かして使徒を投げ飛ばすような形で傍のビルに叩きつける。そこでようやく、使徒の右手が左腕から離れた。予め赤木さんから聞かされていたボタンを押すと、左肩から武器であるプログレッシブ・ナイフを取り出した。それを右手で引き抜きながら、左手で既に動き出している使徒の顔を押さえつける。
「動くな、っつってんだろうが」
痛み、苦しみ、イライラ、怒りに関するほぼ全ての感情から絞り出すような声が漏れる。シンジ君だったら絶対に言わないだろう言葉だが、生憎と今、碇シンジで初号機を動かしているのは“私”だ。口調が悪くなってしまっても仕方ないだろう?
『っ初号機のシンクロ率、50.9%に上昇!』
『ちょうどいいわ、シンジ君! そのままプログ・ナイフでコアを突き通しなさい!』
「言われっなくともぉ!!!」
赤木さんの言葉にキレつつ言葉を返し、思いっきり使徒のコアにナイフを突き立てた。しかし、貫けない。
『コアが硬いんだわ!』
「知るかんなこと、押してダメなら押すだけだ!!!!!」
火花を散らすナイフとコア、無理矢理ナイフを刺す。だってエヴァなんだから、兵器なんだから。人間に出せない力だって出せるに決まってる。
「うああああああああああああっ!!!」
雄叫びをあげながら、押し込んだ。コアに刺さっているはずなのに、使徒は動き続ける。私を押しのけるような動きをしていた使徒が急に私に抱きついて来た。
まさかっ!
全身を衝撃が包んで、視界が暗転した。
意識が浮上する。なんとなく、肌がピリついている。軽い火傷をした後のような感覚が全身を包んでいるのだ。眠気は一切なく、目を開くと知らない天井が広がっていた。
窓からは月明かりが私とベッドを照らしていて、夜であることを告げる。独特の匂いは嗅いだことのあるもので、確認のために左上を見るとナースコールがあった。
やっぱり。ここは病院だ。病室の独特な匂いと、着替えさせられてはいるが肌に残ったL.C.Lの匂いが混じって中々に気分が悪い。
体を起こしながら、私が目覚めたことを伝えるためにナースコールを押した。
待合室のような場所で座って、窓の外を眺める。結局、あのナースコールを押したのは使徒を倒した後の深夜だったらしく、時間も時間なので葛城さんやネルフの方には連絡だけ入れてもらって、もう一度寝直した。
朝になって連絡が来て、葛城さんが迎えに来てくれるということなのでこうして待っているのだ。
自販機で買ったペットボトルの水を飲みながらぼんやりと昨夜のことを考える。思っていた以上に、フィードバックはキツかった。今も、左腕に使徒に握られた感覚が残っている。予想するに使徒はこれからも現れるのだろう。今回は上手くいったが、私は戦闘に関してはど素人だ。戦い方やパターンを考え、練らないといけない。戦闘訓練も必要になってくるだろう。それに、使徒は最終的に自爆して私を巻き込もうとした。奴らの目的が何なのかはわからないが自爆するという手段が奴らにはあるのだ。私が生きているということはエヴァも損失はしていないだろう。
怪我も今回はなかった。けれどあそこまでフィードバックが大きいのだ。今後の戦闘によっては内臓といった機能に何かしら障害が起こるかもしれない。
そも、人間の脳というのは勘違いしやすいのだ。前の世界ではその筋に有名だったある実験。人間を椅子に縛りつけ、ナイフを目の前にチラつかせる。存分に恐怖を見せつけた後にその人間を目隠しして、ナイフを手首に滑らせてその旨を伝えて体温程度に温めたお湯を手首に流すのだ。実際には切ってはいない。切っていない、にも関わらずその拘束された人間は死んだ。ショック死したのだ。痛みもない、血も流れていないのに、人間は死ぬ。エヴァとパイロットはシンクロ、つまりは繋がる。脳でイメージしたことや、エヴァの感覚が全てパイロットの脳に送られる。だからエヴァの受けた攻撃や衝撃がパイロットに反映されるのだろう。だったら、もしもエヴァの首が飛んだら? その痛みや、感覚が私に反映される。痛みの程度などは本当に首を切られるのよりも少ないかもしれないが、それだけで私は死ぬかもしれない。ならばエヴァの体が受けた攻撃や衝撃によって私の脳が勘違いし、死ぬだけではなく内臓やそれぞれの器官に影響を及ぼす可能性も0ではないのだ。
そして、仮に、そんな影響を受けながらも使徒を倒し終わって、平和な世界に戻ったら。平和な世界で、本物のシンジ君がこの肉体に戻って来たら。絶望するかもしれない、悲しむかもしれないーー私を、恨むかもしれない。
半分ほど中身の減ったペットボトルを握り締めた。
そんなの、嫌だ。彼に恨まれるのも、彼が不自由になってしまうのも、全部。だったら私が頑張るしかない。戦闘パターンや訓練を受けて、使徒に備えなければいけない。
「シンジ君」
「……葛城さん」
足音が響いて、葛城さんがやって来た。微かに微笑む彼女を見上げる。
「あの、エヴァは」
「使徒の自爆の影響で損傷は酷いけれど、なんとか修復可能よ。今も作業中なの。………シンジ君の方こそ、大丈夫?」
「全身の肌がちょっとピリピリしたみたいな感覚が残ってて、左腕も掴まれてた部分が筋肉痛みたいになってますが大丈夫です。目が覚めた後もぐっすり寝られました。ありがとうございます」
心配そうな表情を浮かべる葛城さんを安心させたくて、微笑みを浮かべると葛城さんも笑ってくれた。よかった、安心してくれたみたいだ。
行かなければいけない場所があるから、と葛城さんに着いてエレベーターホールへと向かった。数十秒も待たずに、チンと甲高い音が響いて扉が開く。その先には、父さんが立っていた。こちらを見下ろすような形の父さんの横をすり抜けて、エレベーターに乗ると開くボタンを押した。
「葛城さん、乗らないんですか?」
「え、あ、えぇ………碇司令、失礼します」
「あぁ」
恐る恐るだが葛城さんが乗ったことを確認して閉じるボタンを押して私たちが降りる階のボタンを押した。
居心地悪そうに隅っこでちっちゃく立つ葛城さんを今は無視して口を開く。
「勝ったよ、父さん。いや、エヴァンゲリオンがネルフの所持してる兵器なら僕もネルフ所属の人間になるのかな。碇指令ってお呼びした方がいい?」
「………好きにしろ」
「ありがとうございます、碇司令」
ピクリ、と父さんの肩が動いた。
「宣言通り、使徒には勝ちました。お時間はいただけますね?」
「あぁ。後日、機会を設けてある」
「ありがとうございます。では、後程」
チン、と甲高い音が鳴って父さんが降りる階に着いた。扉が開き、背を向けながら父さんが降りていく。
「シンジ」
「はい?」
「よくやった」
父さんの言葉が終わると同時に扉が閉まり、また動き出した。フルリ、と体が震える。
「シンジ君………」
「クッッッッッソがぁ………………!」
「シンジ君っ⁉︎」
堪えきれずに漏れ出た言葉に、優しそうに声をかけて来た葛城さんが驚きながら声をあげた。
いや、だって、仕方ないじゃん。
「今まで何の連絡も寄越さなかったくせに、必要になったからって呼び出して、それでよくやった? 僕はお前の駒になりに来たんじゃないぞ、クソ親父がっ」
「え、えぇー………使徒との戦闘の時も思ったけど、貴方結構口悪いのね…………」
「普段は落ち着いてる方です、ただ腹が立ったりすると悪くなっちゃうだけです………クッソ、あのヒゲオヤジめ………今に見てろよ」
「ヒゲオヤジって、ぷっ」
噴き出しましたね、葛城さん。貴女も道連れですよ。
昨日、ボロボロになってしまった葛城さんの愛車に乗って移動をする。あの後、男性から一人暮らしであることを伝えられたが葛城さんが何故か父さんたちに猛抗議して、共に住むこととなった。赤木さんに報告した時の「手は出さないわよ」という言葉にはほとほと呆れてしまった。きっと学生時代はプレイボーイならぬプレイガールだったのだろう。綺麗で若くは見えるが会話内容だったりからして恐らく二十代後半、対してシンジ君は十四歳である。普通に犯罪。だがしかしまぁ、不安は残るので葛城さんの行動には気をつけよう。シンジ君は十四歳だが私は二十歳、大人としてシンジ君の純潔は守らなければ。
「さーて、今日はパーッとやらなきゃね!」
「え、何をですか?」
「もちろん、新たなる同居人の歓迎会よ」
ウィンクをしながら言う葛城さんに苦笑を返した。祝勝会ではなく、同居人の歓迎会か。人類の敵を相手に勝ったというのにそれよりもそっちか。
しかし歓迎会をしてくれる分には嬉しいのでありがとうございます、と伝える。暫く景色を眺めていると、街中のコンビニに停まった。………だいぶ荒々しい停め方だ。何となく理解し始めているがさては葛城さん、ズボラだったり荒々しい人だな?
さっさとコンビニに入った葛城さんを追う。買い物カゴを取った葛城さんは惣菜やカップラーメンなどを次々と買い物カゴに放り投げていく。嫌な予感がヒシヒシとする。エヴァンゲリオンと対面する前と同じレベルの嫌な感じだ。
「シンジ君、貴方も選びなさいよ。好きなものなーんでも」
「え、あ、はい」
葛城さんの言い方からして、奢ってくれるのだろうか。とりあえず目についた缶コーヒーとカップラーメンを手に取ると葛城さんが持っているカゴを向けてきた。どうやら奢ってくれるらしい。
ありがとうございます、と伝えながら取った商品をカゴの中に入れた。せっかく奢ってくれるのだ。甘えるのが筋だろう。先程カゴに入れたものとはメーカーの違う缶コーヒーを三本と、煮卵をカゴの中に入れた。これ以上は特に必要ないのでてきとうに商品を見ながら葛城さんの後を着いて歩く。
「なぁに? これだけでいーの?」
「はい。あまりお腹空いてなくって……」
「貴方の歓迎会のご馳走なのよぉ?」
やっぱりか。これ以上は必要ない、と丁重に断ると葛城さんは拗ねたような表情をしながらレジへと向かった。その後を着いていくと先に会計を済ませた主婦らしき二人の女性の会話が聞こえた。
どうやら疎開をされるらしい。まぁそりゃそうだよな。こんないつ非常事態宣言が発令されるか、死ぬかもわからない場所にいるぐらいだったら別の土地に移り住んでそこで生活をした方がマシである。私のせい、とは言わないが昨夜の戦闘で地下の避難シェルターも揺れただろう。申し訳ない気になったがよく考えれば別に私は悪くないだろう。だってそもそも素人なのだ、私は。突然父親に呼び出されて向かったらよくわからない人造人間とか呼ばれるロボットに乗って人類の敵と戦えと言われた、夕方アニメの主人公も顔真っ青な展開に巻き込まれただけのただの少年。中身は成人女性だけど。それで何の被害もなしに初戦を終えろと言われても無理極まりないだろう。
だから、まぁ。私は悪くない。
「葛城さん、会計ありがとうございます」
「いいのよー」
結構な額のした商品が入った袋を店員さんから受け取り、車に乗り込む。そのまままっすぐ葛城さん宅に向かうのかと思ったら、車は街から離れた山を登り出した。
何故、と問いかけるも笑顔ではぐらかされてしまう。え、まさかやっぱり貴方は使えないパイロットだった、でもネルフの極秘情報を知ってしまったからここで始末させてもらうわ的な展開だったりするのか………? えっ絶対嫌なんだけど嘘嘘、私殺されるの?
人気のない林の中で葛城さんに銃を向けられる想像をしながら微かに震えていると、小さな展望台らしき場所で車は停まった。逢魔が時の前、空が燃えるような色に染まっている。そのあまりの美しさに車を降りて、柵に駆け寄った。
「うわぁ…………! すごい、すごいです葛城さんっ!」
「これだけじゃないわよ」
「え?」
「もうそろそろね……」
腕時計を確認する葛城さん。何が始まるのか、と見ていると殺風景だと思っていた街が動き出した。
サイレンが鳴り響き、まるで植物が発芽して土の中から顔を出すかのように地面から次々とビルが出て来て、あっという間にビル群が出来ていく。予想を遥かに超える光景に、絶句した。
「これが、使徒迎撃専用要塞都市。第三新東京市。私たちの街よ。…………そして、貴方が守った街」
「これが…………」
かつての世界の東京を彷彿とさせる高層ビル群に目を向ける。何だろう、実感が湧かない。この街を私が守ったのか。あの怪物、使徒から。そして、私がエヴァに乗って戦った街。
実感は湧かないが、きっとたくさんの人々がこの街に住んでいることはわかる。これだけのビル群なのだ。もちろん、最盛期と比べれば数は圧倒的に少ないかもしれない。だが、この街には何百人、何千人、何万人もの人間が住んでいる。
私の手でどこまで使徒を倒せるのかはわからない。今回はまぐれで勝てたのかもしれないし、物凄く痛かったから本当は戦いたくない。でも、この街を守らなければいけないと思うと、何故だか頑張れる気がした。
ーーーーーーーーーーーーーー
「シンジ君の荷物はもう届いてると思うわ。実は、あたしも先日この街に引っ越して来たばかりでね。さ、入って」
スイッチを押すことによってスライドする半自動ドア的な玄関。微笑みながら葛城さんに促され、会釈しながら足を踏み入れた。
「お邪魔します」
「………シンジ君? ここは、あ な た の、家なのよ?」
「え」
咎めるような口調に足が止まる。一考して、葛城さんの言わんとすることを察した。何だろう、少し恥ずかしいな。
微かに赤くなる頬を隠そうにも、両手は買い物袋で塞がってしまっているので気恥ずかしさに苛まれながらも葛城さんが望んでいるであろう言葉を口にした。
「あの…………た、ただいま、です」
「おかえりなさい」
満足そうな、どこか優しい笑みで葛城さんは言葉を返してくれた。そのまま靴を脱ごうとする葛城さんに、今度は私から声をかける。
「葛城さん」
「んー?」
「おかえりなさい」
先程、彼女が私に言った言葉だ。私の言葉に目を見開いた葛城さんは子供っぽい無邪気な笑みを見せた。
「ただいま、シンジ君」
「はい、葛城さん」
何だろう、気恥ずかしさを感じる反面、嬉しさもある。以前、成人女性だって頃。実家に帰省したのはいつだったろう。家に帰って来てただいま、と最後に言ったのはいつだったろう。こうしておかえり、ただいまと言ってくれる相手がいる場所に帰ったのは、いつだっただろうか。
専門学校を出てからだったから一人暮らしの期間は一年もないぐらいだったがそれまではずっと実家暮らしで一人暮らしなんてしたことがなかった。お盆などに帰省したくとも、全世界で流行っていた感染症のせいで地方にある実家に帰ることなんてできなかった。
存外、私は寂しがり屋だったのかもしれない。
感傷的な気分になりながらも中へと入っていった葛城さんを追おうと靴を脱いだ。廊下に上がって、そこでやっと気付いた。
あれ………? 何か廊下、汚くない?
「ちょーっち、散らかってるけど気にしないでねー」
自室へと向かったらしい葛城さんの声が聞こえた。引っ越して来たばかり、という言葉通り段ボールや荷物が置かれっぱなしの廊下を進んでリビングを覗いてーーー絶句した。
「………これが、ちょっち?」
一時間ほど前に街が地面から出て来たのを見た時とは別の絶句だ。部屋に置かれた大量のゴミ袋と、転がるビールの缶。食べたら食べっぱなしで洗ってない皿やプラスチックなどもテーブルの上に積まれている。こんな有様なのに、腐った臭いやカビのような臭いがしていないのは奇跡とでも言うべきなのだろうか………私も割とズボラでプラスチックのゴミなどは二週間ぐらい平気で溜めたりしてしまっていたけど流石に燃えるゴミは溜めても一週間までで洗い物だってしっかりやってたんだけどな………やはり葛城さんは見た目は美人だけど私生活に関してはダメ人間なのでは……………?
唯一、歩けるスペースに荷物を置いて一旦、私の荷物が置かれた廊下へと戻った。『掃除用』と書かれたダンボールを開けて、中から使い捨てビニール手袋百枚入りの箱を取り出す。何かに使えると思って叔父と叔母の元にいた時に買っておいたのだ。年末年始の大掃除で埃やカビが酷い場所の掃除に活用していたのだけれど、まさか引っ越して早々に使うことになるなんて。
「買ったもの、冷蔵庫に入れておいてくれるー?」
「はーい。すみませーん、ゴミ袋使いますねー?」
「いいわよー」
自室から飛んでくる葛城さんの了承の声を聞きながら、キッチンの方に置いてあったゴミ袋を何枚か取り出す。ここの地域のゴミの分別は知らないけれど、とりあえずまとめることが最優先だ。後で分別すればいい。
同じく向こうから持って来ていた真新しい雑巾を洗い場で濡らしてから手袋を嵌めた両手で、まず割り箸などの燃えるゴミを袋に入れていく。書類や請求書などの文字が書かれた紙は、ゴミを捨てて辛うじてできたスペースを雑巾で拭いてからそこに避難させる。明らかに汚れてたりチラシらしきものもあるけれど勝手に捨てるのは流石にできない。
テーブルを拭いた雑巾を見てみると、案の定焦げ茶色のような色になっていた。まぁ仕方がない。食事の際に飛んだ油や汚れ、塵などが溜まればこんな色になってしまう。
ある程度、燃えるゴミだけはまとめて嵌めていたビニール手袋も中に入れて口を結んだ。よし、多少はスペースができたな。
燃えるゴミが入っているらしきゴミ袋たちを一箇所に集めて、買い物袋を冷蔵庫前まで運んだ。冷蔵庫の扉を開けると、中には氷、つまみ、ビールばかり。と言うかそれ以外の食材や飲み物はほとんど入っていない。
リビングの有様からして当然の中身だ。きっと仕事が忙しいということもあるんだろうけど葛城さん、もしかして料理できない人間か………?
今後の生活の食事面が気になりつつも、買って来たもの。特に飲み物などを冷蔵庫に入れていく。
中にものを入れ終わって、ふともう一つの冷蔵庫が目に入った。あれ、何で冷蔵庫が二つも?
「葛城さーん、もう一つの冷蔵庫って何ですかー?」
「あー、そっちはいいのー。まだ寝てると思うからー」
「…………寝てる?」
寝てる、ってどういう意味だ?
チーン、という甲高い音が響く。テーブルの上には所狭しとコンビニで買って来たディナーが並べられている。悲しきかな、そのどれもが既製品だ。
電子レンジから温められたものを取り出してテーブルに置き、席に着くと葛城さんは早速缶ビールを開けた。
ゴクッゴクッゴクッという気持ちの良い音が響く。豪快だなぁ……そのペースで飲んで酔わないんだろうか、なんて思いながら私も買って来た缶コーヒーのプルタブを開けた。
「っぷはあああああ! くぁぁぁぁぁぁぁっ! やっぱ人生、これのために生きてるわぁー!」
まるでオッサンである、という感想は口に出さないし声にも出さない。リアクションした方が良い場合もあるが女性に対してはそう思っても言わない方がいいのだ。社会を渡っていくために大事なスキルである。特に男性がそう言うと周りの女性からの評価が下がる。わかってる人はいいけれどわかってない読者は気をつけようね。読者って誰だ。
缶コーヒーを持ち上げると、香りが鼻腔を通り抜けた。あ、この匂い好きだな。
「コーヒーなんて大人っぽいのねぇ。十四歳なんて、普通ジュースとか選ばない?」
「ジュースも好きですよ。ただそれ以上にコーヒーが好きなだけで」
これはシンジ君ではなく私の好きなもの。元々、母が好きで実家にコーヒーメーカーがあって淹れたてのコーヒーをいつも飲んでいたのだ。一人暮らしをするようになってからはコーヒーメーカーを置く場所なんてなかったからコーヒーポットを買って自分で淹れていた。朝、キッチンの窓を開けて冷えた空気を吸いながらポットをガスにかけて温める。保存容器の蓋を開けると、それだけで粉の香りがキッチンに広がる。沸騰したお湯を平らにした粉の中心に注ぐと湯気と共に粉の時とは少し違う香ばしい匂いが充満するのだ。それを肺いっぱいに吸うのが、毎朝の楽しみだった。
シンジ君の体になってからもあれが忘れられなくてお小遣いでコーヒーポットとサーバー、ペーパーフィルターなどの一式を買って自分で淹れたものを飲むようにしていた。一人で飲んでいたものをいずれ、叔父と叔母にも提供していたのだが。まぁ飲み分は少なくなるがまた作ればいいだけの話である。
本格的な粉も好きなのだが、コンビニによってそれぞれ種類が違うからそれを飲み比べるのも好きだったりする。この第三新東京市に来る前に持っていた粉は全部淹れて、叔父と叔母が飲めるよう冷蔵庫に入れておいた。こちらのコンビニにある粉を飲んでみたいからだ。また明日辺りに買いに行こうと思っている。しっかし、この缶コーヒー美味いな………酸味が結構効いてて、苦い中にどこか甘味もある。
含んだ一口を口の中で転がして味わっていると、ビールの缶を持ちながら半目で葛城さんが私を見ていた。
「何ですか、その顔」
「いぃんやぁ? 何か、本当に子供っぽくないなぁって思って」
「よく言われます………あの、その子供っぽいとか、大人っぽいってなんですか?」
「何って言われると…………」
言い淀む葛城さんに構わず言葉を続けた。
「小さい頃に、父に置いていかれたことだけ物凄く記憶に残ってました。何で置いていかれたのかわからなくて、ずっと泣いてた記憶です」
缶コーヒーを握りながら、記憶に残る幼い頃のシンジ君を思い浮かべる。
「それで、僕がいい子だったら置いていかれなかったのかなって思って。でもいい子になろうと思ってもいい子っていう定義、と言うか、どうすればいい子になれるのかわからなくて、そうやって考えてたらだんだん僕が悪い子に思えてきてしまったんです」
「それは、」
「今思うと全然違うんです。父にも父なりの理由があって僕を置いて行ったんでしょうけど、幼い僕にはわからなかったんです。理由も教えてくれなかったし………それで、自分のことを悪い子だと思ってしまっていらない子なんじゃないかって思い込んで。どんどん塞ぎがちになって行ったんです」
握った缶の飲み口部分を見つめる。見なくとも、葛城さんが悲しいようなそんな表情をしていることは手に取るようにわかった。だって、この人は優しい人だから。
「でも、それは違うってタツヤが教えてくれました」
「タツヤって?」
「小学生の時の友達です。いや、親友、かな。初めて僕から友達になりたいって思った奴なんです。あっという間に友達になって、塞ぎがちな僕を連れ出してくれた、太陽みたいな人。悪い子な僕は表に出ちゃいけない、周りと同じように、周りに溶け込めるようにしないといけないって思い込んでた僕に、そんなことしなくていいって教えてくれたんです。それから僕は僕を隠さなくなりました。皮肉を言って他人を傷つけて間接的に自分も傷つけるんじゃなくて、誰かを守れるような、タツヤみたいに他人を元気にできるような人間になろうって」
「そうなの………」
今も元気に向こうで学校に行っているであろう、彼の顔を思い浮かべる。私は前の世界の時から誰かに恋心を抱いたことがなかった。誰かを恋愛的に好きになる、性的な好意を抱くことができなかった。それはシンジ君の肉体に入ってからもそうだけれど、もしもそういった感情を抱くことができたのならば私は彼のことがそういう意味で好きになっていただろう。それぐらい、幼いのに魅力的な人間だ。事実、学校でもモテていたし。そういえば、先輩とか後輩、同級生に果てには男子にまで告白されていたのにタツヤは全部断ってたな。何でだろう?
ふと湧いた疑問に内心で首を傾げながらも儚げな哀れな少年の皮は被ったまま言葉を続ける。ラストスパートだ。
「そのくらいからです。周りの人が僕のことを大人っぽいって言うようになったのは。でも、大人の中には大人っぽすぎて気持ち悪いって陰口を言う人もいました。叔父さんの親戚の人とか。僕は、僕なのに。子供っぽいって、大人っぽいって、何なんですかね。大人だって子供みたいにはしゃいだりするのに。子供だって状況によっては大人よりも冷静な判断をする時だってあります。何を持ってして、子供なのか、大人なんでしょうか。………………ミサトさんも、僕のことを大人っぽすぎて気持ち悪いって、思いますか?」
問いかけながら、とどめに少し上目遣いで伺うように葛城さんを見上げると、葛城さんはクシャクシャに顔を歪めていた。今にも泣きそうな目だ。
「思わない、思わないわ………ごめんなさい、簡単に大人っぽいだなんて言って………シンジ君は、立派よ」
「ありがとうございます、葛城さん。あの、さっきミサトさんって呼んじゃったんですが、これからも名前で呼んでもいいですか…………?」
「もちろんよ! これから一緒に住む、家族なんですもの!」
そう言われ、笑顔を見せる。よし、落ちたな。
ミサトさんを利用しているようで申し訳ないけれど、正直ネルフはきな臭いのだ。ただの杞憂ならそれでいいのだが、エヴァを建造していたということは使徒との戦闘は早い段階から想定されていたはず。あんな秘密基地まで作っているのだから。にも関わらず、あんなギリギリでシンクロできる可能性のある子供を呼びつけるなんて準備が遅すぎる。まるで私、もといシンジ君を強制的にエヴァに乗せるためにあんな切迫した状況に呼び出したように思えてしまう。もちろん、これはただの私の予想だ。使徒の来襲は予想できないもので、シンクロテストのために僕を呼び寄せたらその当日に運悪く使徒が来てしまったのかもしれない。ただ、もしもこれが事実だったらあまりに不運過ぎないか、ネルフと私。この場合、ネルフだって私みたいなど素人に人類の命運を預けるとは思っていなかっただろうし。
ただ、もしも前者だったら? 何か私にしかできない理由などがあって、逃げ道を無くしてまでシンジ君にやらせたい理由があるのだとしたら、私の生活などは管理されるんじゃないだろうか。失踪しないように見張りとか何かをつけられたり。もしかするとミサトさんとの同居についてもただの演出で、シンジ君にミサトさんを信用させて心を開くためのものの可能性もある。ミサトさんがお目付役的な存在で、っていう。
ただ、まぁこの様子を見る限りミサトさんは私には悪いようにはしないだろう。そのために同情を誘ったのだけれど。
「すみません、せっかくの歓迎会なのにこんな話をしてしまって………ご飯、温め直しますね」
「大丈夫よ。寧ろ、話してくれてありがとう」
微笑むミサトさんに、私も笑みを返して冷えてしまった料理を電子レンジに入れ直した。
既製品ばかりな夕食を終え、あまりに理不尽なジャンケンを経て私はミサトさんの「風呂は命の洗濯よ」というお言葉に甘えて一番風呂をいただくことにした。まぁ、ジャンケンに関しては私がわざと負けたというのもあるのだけれど。
正直、引っ越してすぐなのにあんなに部屋を汚くする才能に溢れたミサトさんに掃除や料理当番を任せたくないというのが本音である。一応、私は一人暮らしである程度自炊はしてたから味は保証しないが作れるには作れるから。ミサトさんに一任してゲテモノを出されるくらいなら自分で作った方がマシだ。
それに、彼女は国際公務員。使徒やエヴァのこともあって激務だろう。対して私はパイロットだが学生だ。少しでも彼女の手伝いや楽にできるのなら私が頑張りたい。
病院で洗濯してもらった制服を脱いでカゴに投げ入れ、何故か既に電気が点いている風呂の扉に手をかける。洗濯機の上に干された下着が目に入るが、前の私もそんな感じだったから特に気にはしない。………いや、嘘だ。めっちゃ気にした。めちゃくちゃ下着のセンスいい。カップの大きさからしてフックが三本なのも納得だ。先程のタンクトップの上からでも見てわかったが、サイズだけじゃなくて形も良い。体型もそうだけどあれどうやって維持してんだろ。二十歳超えた辺りとかナイトブラとか気にしてないと垂れてき始めたり形が崩れやすいのに………
非常に気にはなるが、今の私はシンジ君。十四歳の少年だ。聞いたところでミサトさんからしたら何に利用するのかわからないだろうし普通にセクハラだ。いやでも女として尊敬するプロポーションだなぁ……………
溜め息を吐きながら、扉を開く。
ブルブルブルブルブルブルッ
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ‼︎‼︎?」
「クァッ!」
風呂場にいたペンギンを見送り、体を洗って風呂に浸かる。
物凄い悲鳴をあげてしまったが、普通一般家庭にペンギンなんているとは思わないだろう。それでなくともこの世界、ああいった生物をほとんど見ないのだから。風呂場からミサトさんに声をかけたところ、彼はペンペンという名前らしい。何故か鼻で笑われながら脱衣所を出て行かれた。恐らく、知能が高いんだろう。本当に何で笑われたんだ。
風呂の縁に頭を預けながら、右腕を持ち上げて匂いを嗅ぐ。ミサトさんの家のボディソープの香りの中に、L.C.Lの匂いが混じっていた。血のような、心地の良いものではない匂い。まるで羊水だった。エヴァって、どんな存在なのだろうか。見た目はロボットなのに名前は汎用人型決戦兵器、人造人間エヴァンゲリオン。人造人間、と言うことはあの装甲の中は人間と同じような造りなのだろうか。そういえばやけに手の形など、人間によく似ている。そう思うと、何だか怖いな。だってよくわからないものに乗っているのだから。
考えたって答えは出ない。出るのは、予想や予感など曖昧なものばかり。そういったことを考えるのは楽しいけれど、今日は疲れてしまった。昨日の件もあるし。
持ち上げた右腕や、体が目に入った。日焼けを知らない白くなめらかな肌。無駄毛はなく、産毛が微かに生えている。化粧水や乳液などを塗らなくてもハリがあってきめ細かい。………何か、下手な女性よりも綺麗な体してるよなぁ。そりゃそうか、中学生だもんな。いやでも記憶にある中学生はもうちょっと男の子してた気がする。中学校に上がったぐらいの時のタツヤは、既にすね毛とか生えてたし。きっとシンジ君は体質的なものなのだろう。顔立ちだって幼く、中性的だ。
私とは違う、傷のない体。なのにこれから、使徒と戦っていく。傷がつくかどうかはわからないけれど戦闘によってはできてしまうかもしれない。
私が、守らないと。
……………知らずに詰めていた息を大きく吐き出した。ミサトさんが言ってただろう。風呂は命の洗濯と。今はそういうモヤモヤとか考えず、ただ水に体を預けよう。洗われる衣服のように。
一口メモ
・タツヤのタイプは大人の人。本人は気付いていないが容姿も含めてシンジin主人公が好きだった。二人とも気付いていないのが重要ポイント。無意識片思いっていいよね
・コーヒーの件とミサトさんのプロポーションの件は書いてる人の私情が入りまくってる。本当にあの体型どうやって維持してるのミサトさん