男は混乱していた。どうして自分が両の足で立ち、心臓が鼓動し、呼吸をし、思考しているのかがわからなかった。
あの時自分は終わった。いや、あいつに終わらされた。そのはずなのに。
人知を超えた、絶対的な力による闇の遊戯。命をかけた
こんな、生温い事は起きないのだ。そのはずだ。なのに――。
答えの出ない問答を無理やりにでも停止させ、改めて周囲を確認する。
霧。霧。霧。霧。
自分が一生を過ごす中でついぞ見ることがない現象と思っていたそれが、ここには満ち溢れている。
先の見えない不安。一寸先は闇。……それは男にとって障害にはならない。むしろ好ましく思えた。
男は闇が好きだった。自分が生まれる原因となり、この上なく心地よいもの、闇。そこへ人間を絶望させて落とすのが、何よりも好きだった。
闇を懐かしむと同時に、馴染んだ重さがないことにようやく気が付いた。手に持っていたとある古より伝わる
――いや、これこそが罰ゲームなのかもしれない。
己の最も得意とすることを奪われ、何も為せず、誰からも忘れられ、そうして消滅する。……なかなかの恐怖だ。
親の愛ではなく、ある一人の憎悪から生まれた人格である自分は、誕生して以降、現実に行動を起こせた時間がとても短かった。
あの愚かな男が顔に刻んだ、憎き自己満足。ここにはそれが無いため自由に動けているのかもしれないが、それでも自分という存在は余りにも不安定だ。なにせ自分を認識する他者がいないのだから。
周囲を探る。……霧で見えにくいが、確かに進める道があった。
「
この飽きるほど長い道を、ただ進むだけ。そうしてあの場所へと戻り、三つの神をこの手に揃え、今度こそ終わらせる。
……そう、それだけ、だったはずだ。
「およよよよよーーーーっ!?」
日の光――霧で分からないが恐らく――がほんの少し強まり、判別がなんとなくつくようになった視界。その中心で奇声を上げて逃げ惑う……着ぐるみ? がいた。青、白、黄、赤。こんな場所に似合わない、無駄に彩り豊かなクマだ。
「変なニオイがしたからって確認しに来るんじゃなかったクマー! クマは美味しくないクマクマよー! こんな完璧に人のカタチしてるシャドウに食べられたくないクマー! おーいおいおいおい……」
……勝手に泣き出した。なんだコレは。
「……
「シャ、シャシャシャシャドウが喋べべべクマー!?」
「…………あ゛ぁ? 日本語? ここは日本なのか?」
まだ微妙に混乱しているのか、自称クマが日本語で喋っているのを認識するのが遅かった。
「びゃわーっ!! また喋ったクマー!」
ぴぃぴぃ泣きながら柱の影へと隠れるクマ。……だが横幅がどう見ても足りていない。
「おい、オレの話を聞いて――」
追おうとした、その時。
「――ッ!?」
霧の中、視界の端から何かが襲いかかる。体を捻って直撃は避けたが、バランスを崩して床に転がる。かすった傷口からぱたり、と赤い体液が床に散る。
敵の正体を見る。それは、男が今まで見たことのない姿をした
「クソッ」
男は飛び抜けた身体能力は持っていない。非現実へと対抗するための手段はこの手にない。圧倒的な不利の中、囮になれそうな情けない声を出していたきぐるみは既に逃げたのか姿はなかった。
つまり、自分だけで対処しなくてはならない。
『オ、オォオ……サレ、イネェ……』
冥府から這い出てきたような禍々しさを振りまき、怪物は男へ牙を向き――。
――死した者があるべき場所へと還るだけ。なぜ抗う? なぜ生きようとする?
自分以外何もない世界。心へと直接流しているような問いかけが男に届く。
――こいつはおかしいことを聞く。イキモノが生きたいと思うのはおかしい事か?
無数の金の目が見ている。墓守は斯くあるべきと押し込めた者達が見ている。
――お前の命はお前のためのものではない。
――王なんざ関係ねえ。俺はただ全てを破壊するだけだ。闇こそが全て。悲鳴こそが喜び。
――おお、なんたる悪しき魂か!
騒つく金の目が、男を批難の目で見ている。それは違う、ダメなことだ、と決まり文句のような善性を塗りたくろうとする。
――……ごちゃごちゃ煩い声だ。何もしないならとっとと黙れ――!
影が下りる。金を隠す影。……闇とは似ているが違う。どこか懐かしい顔が、優しい声で語りかける。
――知りたくはないか? 『真実』を。どうしてここにいるのか。どうして力が無くなったのか。
――ここは太陽届かぬ霧の中。闇は白に塗りつぶされ、ホルスは何も見通す事はない。
――ならば開け、己に宿したウジャト眼を。
――彼の者の心に封じられた魔物よ、ここへ!
――汝の名は――
ふつふつと、心の奥から湧き上がる高揚。額には懐かしき熱。霧が視界を妨げることなく薄くなる。
戦いを告げる札を引く。
それは敵を滅ぼす剣。それは自身を守る盾。
男は、その名を叫んだ。
「――スライム!」
ぱぎん、とカードが砕けた。
青い光を纏い召喚されたのは不定形のゲル。ゲームでは弱者の象徴として用いられるもの。彼が愛用していたモンスターの一つ。
モンスターには、モンスターを。魔法を。罠を。
そして、敵対者には永遠にも思える苦しみを。
それは男にとってごく当然の事であり、なによりも馴染んだ事。自身の延長線上にある行為。
動かし方は理屈ではなく心で理解した。スライムがモンスターを飲み込み、息も、抵抗も、何もかもを無駄にする。丁寧に、荒々しく体力を削り取る。精神を擦り減らす。敵が動かなくなり、消え去るまで、それは続いた。
「これ、は――」
敵が消え、スライムもどこかへと消え。己が操ったそれ、その意味を理解する。噛み締める。
「ハッ、ククク――ハハハハハ!!」
ペルソナ。困難に立ち向かうための人格の鎧。
そう、人格。
ここにいるのはあの男が苦しみから逃れる為に生み出したもう一つの人格では無い。自分は確かに
――マリク・イシュタールの闇は名を無くし、ここに新たに生まれ変わった。
「
かつてあいつが使っていた偽名。あの飛行船の上で正体がバレたと同時に捨て去った名。
それを今度は俺が使うのも悪くはないな、と男は一人笑い……霧をかき分け歩み出した。