愛する人を失った宇佐見蓮子は、自暴自棄な旅路の果て、巨大な校舎がそびえ立つ謎の世界へ、記憶を失った状態で流れついた。
 そこに住まう人妖たちとの出会いと別れを経て、蓮子は世界の謎を解くために校舎の屋上を目指す――
 夢枕獏先生の傑作『上弦の月を食べる獅子』の、東方版パロディ。

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上機嫌のクッキーを食べる蓮子

   秘の始り

 

 私は結界蒐集家だ。

 でも、そうは言っても、普通の人々には何のことかわからないだろう。世の中には様々な蒐集家がいるけれど、結界を集めることを生甲斐にしている人間など、そうはいないだろうから。

 結界とは何だろう?

 結界とは、あるものとあるものとの(あわい)を、意志を持って隔てるものだ。

 ものごとの境目と言ってもいいかもしれない。

 そこまでである物質であったり状態であったりは終わり、そこを超えるとまた別の物質であったり状態であったりが始まる。

 扉は、(ウチ)(ソト)の結界だ。

 川は、此岸と彼岸を隔絶する結界だ。

 世の中には、様々なモノやコトがあり、それぞれを結界が区別している。その結界によって、この世界は成り立っていると言ってもいい。

 たとえば、昔は山や川を隔てれば国が変わり、文化も常識も違っていたという。

 あるいは、私たちの皮膚こそもっとも重要な結界かもしれない。これがあればこそ、私たちの身体は外界とはっきり区別された、生物という実存になれるのだ。

 いやそれを言うならば、この私たちを構成する37兆6千億の細胞のそれぞれが、他の細胞との間に細胞壁という厳然たる結界を持っている。その細胞を形作る分子はどうだ。原子は。素粒子は。

 その夢想の中には、魂が凍りつくような畏怖と――そして美がある。

 結界とは、ひとつの完成された秩序だ。

 結界は、超統一物理学を応用した、恐ろしいまでの理詰めによって成り立っている科学なのだ。

 その、理によってこの世に生み出された境界に、信じられないほどの魅惑――アリュールを私は感じている。

 私が、初めて結界に魅せられたのは、いつだったろうか。

 たまたま見に行ったさびれたプラネタリウムで、私は、その時、そこに映された天の川を見たのだ。

「ではみなさんは、こんな風にはくちょう座が見えたり、さそり座が見えたりした、この夏祭りの日が、じつはいつかご存じですか」

 古い映画のもとになった、もっと古い物語の起こった時と場所が、星を見てわかるということを知った時、私の背に、おののきにも似た甘い戦慄が疾り抜けた。

 私はそこを出て、ふらふらと夜を待ち、そこで星空を見上げたのだ。

 格子――

 経緯線であった。

 空をくっきりと区切る結界が、私の立つ地表とつながっていた。私が存在している場所と時間が、数字となって頭の中に流れ込んできた。

 その情報が私を貫いたその瞬間、私は純粋な情報となった。

 その数瞬間、私は論理の結晶となり、ファンタジィの世界にいた。

 思えば、その時から、私は結界に魅かれるようになってしまったのだ。

 なんとか、この世の全ての結界を、わがプランク級の頭脳で味わうことはできないのだろうか。私は結界を暴きたかった。

 私は結界に飢えた一匹の獣だった。

 そうして、私は、結界蒐集家となったのだ。

 この世界には、いくらでも、暴くべき結界がある。

 例えば、墓地に行き、真夜中になるのを待って、

 ごとり、

 と、墓石を回してみればいいのだ。

 そうすれば、たちまち、桜の乱れ咲く異界が幻視できる。

 夢を見ている時でもいい。

 夢うつつの中で夢と(うつつ)の境界を越え、緑で満ちあふれた人工衛星の、結界の中を覗くのだ。

 ああ――

 けれど、私は、本当は、結界を暴く資格のない人間だ。

 かつて、私は、自分の最愛の女性(ひと)を、結界の向こうへ(うしな)ってしまったことがあるのだ。

 私の両手の向こうで、ふいにいやな音がして結界が閉じたのだ。腕に残っていた暖かな肉体の温度が、風に解けて消えていく感触を、私はまだ覚えている。

 どんどん遠ざかっていく彼女の身体や、彼女の青ざめた顔――開かれたままの眼。

 私は、結界を暴く資格のない人間だ。

 冗談で始めたサークル活動であった。

 それが、続けているうちに、つい本気になって神々の墓場へ踏み込んでしまったのである。

 彼女が、もし、帰りたいとひと言でも言ってくれたら――

 いや、結界を暴くことには、世界の均衡を崩す恐れがあることを私は忘れていたのだ。時空がねじれて、彼岸と此岸の境界があいまいになってしまうのだ。それを、私は失念していたのである。それで、私は、つい、危険な結界へ、彼女と一緒に行ってしまったのだ。なんということをわたしはしてしまったのか。

 そうして、私は、自分の心身を結界の淵へ追い込むようになったのだ。

 その日も、私は、ひとり暮らしのアパートを出て、夜の街にさまよい出た。

 暗い街角で、私はビルの階段を上がる。

 そのビルの中ほどにあるバーには、特殊な能力を持つ人々が集まり、体験談を語らったり、意見交換などをしているのだ。

 といっても、ほとんどはまがい物である。自分を特別に見せたい人間たちの、創作怪談朗読会のようなものだ。つまり、酒場の与太話そのものである。

 だが、ときどき、本当に不思議な体験をする人があらわれる。

 そういう人はたいてい、どこかの結界に近付いたのだ。それはたとえば奈良の三輪山であったり、某県の山村であったりする。

 この世界と異界とを隔てる結界――

 それを越えた先には、もしかしたら彼女がいるかもしれない。そう思いながら私は、ひたすら螺旋階段を上り続けていた。

 上を見ると、天井にぼうっと黒い穴が開き、螺旋はその中へと伸びていた。穴のむこうは漆黒の闇であった。水晶越しに宇宙の暗黒淵(やみわだ)を覗き込むような、おそろしく透明な闇だった。

 その暗黒の彼方から、わずかな風がさやさやと吹き降ろしていた。不思議な香りを含んだ風だった。

 私は上を見、そして下に目をやった。

 バー・オールドアダムの入っているビルの床が消えていた。

 私は、暗黒の中にいた。

 私の上と下に、果てしない無限の螺旋が続いているばかりであった。

 私は、気が遠くなった。

 怖いと言いたくても、すでに私は声を出せなくなっている。

 濃い闇が、私を包んでくる。

 私の意識が遠のいてゆく。

 目の奥で子午線と卯酉線がねじれてほどけ、私は純粋な情報の結晶体となり――

 私の意識は闇に落ちていた。

 私は、倶楽部活動の夢を見ていた。

 

 

 

   封の始り

 

 わたしという現象は、仮定された有機交流電燈の回路から外れた、ひとつの青い照明だわ。

 風景やみんなと離れて、せわしくせわしく歩み去りながら、いかにも確かなことは何も心に浮かばない、因果交流電燈から離れたひとつの青い照明。

 ――私のこと、愛してる?

 その答を捜して京都砂漠をさまようひとりの狂った倶楽部員なの。

 昨日のうちに遠くへいってしまった貴女よ、わたしは、そういう人間だったの。

 そういう人間だったわたしに、たとえ誠実さからであれ、別れを告げてきた貴女もいけないのよ。

 貴女のパートナーであるわたしは、人間だから、貴女が人ではないと言われても解らない。

 皮相の本能がその奥の愛情を覆い隠し、止める間もなく放ってしまった拒絶の言葉――

 ああ、わたしのけなげなパートナーよ。

 あなたはわたしの悲鳴に打たれて、(うつむ)いた。

 貴女の顔は青く色が失せ、目玉は今にもこぼれ落ちそうになっていたわね。

 ああ、わたしのけなげなパートナーよ。

 貴女の唇が何かを言おうとしていた。

「私の、ほんとうの名前は――」

 その名から取った姓を名乗っていたと、貴女は声にならない唇の動きで言っていた。

 でも、狭量な人間であるところのわたしのこわばった身体はゆるんでくれなかった。

 ああ、すぐには受け止められない。

 貴女が貴女であることに変わりはないとわかっていても、あのときはその距離を埋められなかった。

「私はあなたを、偽るつもりはなかったの。ああ、私はひどいことをしてしまったわね……」

 貴女が唇で言う。

 いいえ、いいえ、わたしのパートナーよ、ひどいことをしたのはわたし。貴女ではないの。

「私は、ひとりでゆくわ……」

 ああ、わたしのけなげなパートナーよ。

 貴女はついに、ひとりで去っていく覚悟を決めてしまったのね。

 ごめんなさい、わたしのけなげなパートナーよ。

 わたしは涙を流しながら、さらに激しく狂おしく、無声の慟哭を上げていたのよ。

 ああ――

 このようにして、わたしは、わたしの最愛のパートナーを、この世から失ったの。

 そうして、わたしは、孤独な放浪の中に身を投じていったわ。

 ――私のこと、愛してる?

 その問いの答を捜して旅を続けてゆく、わたしは、ひとりの狂った倶楽部員よ。

 あちらこちらのオカルトスポットを訪ねては、結界暴きを繰り返していく、ひとりの狂った倶楽部員よ。

 それは、わたしが、信州の、ある淋しい街を通りがかった時のことだったわ。

 町のはずれに、緑に覆われたサナトリウムの跡地があって、人が何百人も収容できそうな病棟があったの。見ると、なんと、そこの、扉が外れていたの。

 わたしの中にふいに好奇心の炎が燃えあがったわ。

 ――私のこと、愛してる?

 わたしは、そのサナトリウムの入り口に立って、念のため数度大声で呼ばわってみたけれど、誰も出てはこない。

 ついに、わたしは、その建物に近寄って、その壁に触れてしまった。

 古い建物だったわ。

 壁の漆喰ははがれ落ち、放置された備品はボロボロだったわ。天井の配線はゆるみ、だらしなく垂れ下がっていたの。

 でも、そのサナトリウムに入った時、ふいに、妙な、懐かしさを、わたしは覚えていたわ。

 さあ――

 と、その建物がわたしを呼んでいるみたい。

 この中に入ってきなさい――

 わたしは、ゆっくりと、病棟の中に入り、降り積った埃を踏んで、ある病室に入ったの。

 部屋のところどころに、古い落書きの跡や忘れられたノートが残っていたわ。

 この部屋の中に、どんな人がいたのか、それを眺めているとなんだかわかるような気がしたの。

 その部屋の中に立っていると、だんだんと眠くなってくるようで、わたしは、残っていたベッドの上に、いつか仰向けになっていたわ。わたしの身体は、ベッドの中に、ずんずんと沈んでいくようだったわ。

 そのまま、緑と、薬の香りのするベッドに呑み込まれ、わたしの身体は果てしなくさまよっているようだった。

 わたしは、そのままベッドの中に引きこまれ、どこまでも漂ってゆくような感覚を味わっていたわ。

 肉体が、あのひとが横たわっていたのと同じベッドに呑み込まれ、溶けてゆく融合感。

 わたしは、ベッドになり、サナトリウムになり、そして、そこをくぐって、果てしなく彼方に運ばれてゆくようだった。

 

 

 

   ステージの一

 

 私は、ゆっくりと目覚めつつある自分のことを感じていた。

 意識は、まだ完全に醒めてはいないけれど、どこからか、ざわめきが、わたしのところまで届いてきたわ。

 海のどよもしのようにも聴こえるけれど、それが、多くの人の声だということがわかった時から、意識が、私はわたしは、(わたし)ははっきりとしてきた。

 ふいに、(わたし)は目が覚めていた。

 最初に、(わたし)が見たのは、笠をかぶった月だった。でも、それが、月ではないのはすぐにわかった。

 それを見ても(わたし)がどこにいるのかがわからなかったし、それに、月にしては、やけに大きかったから。

 その光から目をそらすように立ちあがって、視線を眼の前に向けると、黒々と、ヒロシゲの描くような海が目の前に広がっていた。

 ゆっくりと、視線を海から転じて、(わたし)は後方を見た。

 その時、(わたし)は、大きく息をのんでいた。

 (わたし)の背後に、恐ろしく大きい校舎が、山のようにそびえていたから。

 まるで、ひとつの巨大な山脈みたいだった。強烈に大きい校舎だ。

 はじめ、(わたし)は、それがなんなのかすぐにはわからなかった。でも、見つめているうちにやっと、それがなんなのか(わたし)にはわかった。

 その校舎は、あまりにも巨大すぎて、ちょっと、そのスケールの見当がつかない。

 (わたし)は、その校舎そばのベンチに、倒れていたのだ。

 月かと見えたのは、校舎の上部についている時計台だった。

 (わたし)は、白い光を窓から漏らす校舎を見あげた。

 天にそびえる巨大な校舎だった。

 (わたし)は、大きく体を震わせていた。

 (わたし)の内部に、ふいに、狂おしいものがこみあげてきた。

 あの校舎に入らないと――

 それは、強い、激しい衝動だった。

 ――私のこと、愛してる?

 ――素敵だわ、私たちで伊弉諾物質を見つけ出しましょう!

 (わたし)の内部に、ふいに問いが生じていた。

 (わたし)は、問いだった。

 愛の意味、結界の答を目指して、ひたすら問い続ける問いだった。

 その時、(わたし)は、気づいた。

 (わたし)が、海と見ていたものは、海ではなかった。

 それは、人であった。

 何百、何千、何万――

 いえ、何億、何百億、何千億――数えきれないほどの人が、闇の中にひしめいている。

 (わたし)は、その歴史的物理学者級の頭脳で、理解した。

 最初、海と見えたそれは、巨大な校舎を囲んでいる、校舎よりさらにさらに大きなキャンパスだったのだ。

 さらに、よく眺めていると、時おり、キャンパスから、四つん這いになって、人が這い出てくるのである。

 そして、四つん這いになってキャンパスから出てきた人は、誰も、ただひたすら校舎に近づき、その校舎を上に登ろうとしているのである。

 しかし、見ている限りでは、まだ、誰も校舎の上にまでは到達できてはいないようであった。

 しかも――

 驚いたことに、キャンパスから四つん這いになって出入り口に登ってきた人たちを、途中で襲い、次々に打ち倒している女性が一人いたのだ。

 その女性は、キャンパスから這い出てきた人々に闘いを挑み、ほとんど能力も何もないその人たちを、あるいは箒で叩き、あるいは光弾で吹き飛ばしているのであった。すごい魔法の使い手であった。まるで、ひとりの人も校舎へ登らせまいとするように、女性は、キャンパスからやってくる人たちを倒してゆくのである。

 しかし、それでも、キャンパスから這い出てくる人すべてを、やっつけることなどできるものではない。かなりの数の人が、女性の星型弾や、レーザーをのがれ、校舎に入りこむ。

 (わたし)は、長い間、女性がキャンパスから這い出てきた人たちを倒すのを見ていた。

 と――

 その女性が、(わたし)に気がついた。

「外来人!?」

 女性が、大声で叫んだ。

 叫んで、(わたし)に向かって箒にまたがり駆けてきた。

 すごい速さであった。

 駆け寄ってくるなり、その女性は、いきなり(わたし)に喋りかけてきた。

「あんたは、こいつらとは違うみたいだな。どのあたりの階から降りてきたんだ?」

 (わたし)には、問いかけの意味がわからなかった。

(わたし)は――どこから来たのかしら」

 小柄な女性であった。いや、少女であった。煤けた黒いエプロンドレスととんがり帽子が、さらに幼げな印象を与えている。

 驚きを含んだ黒い瞳がいぶかし気に(わたし)を見つめていた。

「よくわからんな。たぶん落ちてきたときに頭でも打ったのかな。とりあえず、私の家に来るか」

 案内されるままに、(わたし)は少女に続いて一軒の小屋へ入った。用途のわからない雑多な品々が中を埋め尽くしていた。いくつもの薬品が混ざり合った異様な香気が漂い、まるで腐敗した臓器の中に呑まれたようであった。

 家主の少女ががらくたの中から引っぱり出してきた茸を一緒にかじり、うながされるままに床についた。

 

 

 

   ステージの二

 

 数日の日々を、(わたし)は、少女と共に過ごしていた。

 その日々の中、(わたし)が考え続けていたのは、(わたし)は誰なのか、(わたし)はどこから来たのかということであった。

 どこから来て、どこへゆくのか?

 ――私のこと、愛してる?

 (わたし)は、二本の足を持った問であった。

 (わたし)にわかっていたのは、その答を捜すための旅の途上に、今、自分はいるのだということだけであった。

 少女は、毎日、校舎の入口へ向かっていた。(わたし)が最初の時に見たように、校舎へ入ろうとする人々を倒しにゆくのだった。

 一日じゅう、へとへとになるまで倒し続け、茸を食べては気絶するように倒れこんでいた。

 捨て鉢な執着を感じる行動であった。

 いつからそうしているのか、(わたし)には想像もできなかったが、彼女の色あせた衣装と、その下の病的に白く細い身体を見るに、長の患いに苦しんでいるようであった。

 ある日、起き上がろうとした彼女は、激しくせき込んでうずくまった。

 抑えた口元からあふれる鉄色の血が、白黒の服に紅色を加えていた。

「あの、それは――」

「あんたが来る、ちょっと前からだ。もう、長くない――」

 

    だめでせう

    とまりませんな

    がぶがぶ湧いてゐるですからな

 

 淡々と言いながら、彼女は決まりきった動きのように校舎へと向かってゆく。

 (わたし)も、すぐに後を追った。

 少女は、キャンパスから校舎へと上がってゆく人々を倒し続けた。ときおり血を吐きながら、箒を振るい、光線を放っていた。

 その妄執ともいえる姿を見た時、(わたし)の中にふいに熱いものがこみあげた。

 (わたし)の胸に、言いようのない苦い痛みがあった。(わたし)には、彼女の魂を焦す暗い炎が、不思議なほど理解できたのである。

 (わたし)の心の中にも、白黒の少女と似た愛別離苦の炎が、青白くちろちろと(くすぶ)っているのだ。言葉にこそならなかったが、その炎の正体を、(わたし)の肉がおぼえているのだ。

「なあ、このたくさんの人妖が、庭からやってきて、どこへ行くのか知ってるか?」

 突然声をかけられて、(わたし)はびくりとした。少女が、擦り切れた眼で(わたし)を見ていた。

「さあ――」

「上へ行くんだ」

「上?」

「そうだ」

「なんのために?」

「この建物の極頂(いただき)に行くためだそうだ」

「それと彼女らを倒すこととどういう関係があるというの」

「人妖の誰かが極頂に立つと、この世界は滅びる。それに、私は――」

 少女の言葉は急にか細くなり、数度湿った音を立てて咳き込んだ。傍に寄ろうとした(わたし)を手で制し、顔を上げた。

 彼女の瞳が、彼女自身の血で濡れたように光っていた。

 明らかに何かに興奮している眼だった。

「わかった。あんたも外来人だったんだ」

少女は、ゆっくりと、噛みしめるようにいった。

「そうだな。あんたも人妖のうち――外来人なんだな。上からではなく庭からやってきたんだな!」

 たて続けに言った。

 (わたし)は呆然として、彼女の眼を見ていた。

 言葉のとぎれた中で、風の音だけが騒いでいた。

 あんたは庭から来た外来人なんだ――そう言った少女の言葉が、(わたし)の頭を叩きつけたのだ。それは、上から来たというよりも、(わたし)にとっては遥かに納得しやすかった。

 ――本当にそうなの?

 (わたし)は自問した。

 何かの答が私の喉もとにつかえていた。しかし、それが言葉にはならなかった。

 その答は――

 校舎を登っていくことなのだ。

 そう(わたし)に囁くものがあった。

「上へ行きたいんだな」

 思わずぞくりとするような声で、少女が囁いた。

「あんたの眼を見ればわかるよ。あんたは、最初会った時からずっと上へ行きたがっていた――」

 私の背に、すっと鳥肌がたっていた。

 少女の肉体が、ぶるぶると震えていた。

「なら私は、あんたを倒さなくちゃならない。もう私には、それしかないんだから――」

 青白い炎をたたえた目で(わたし)をねめあげた。

 (わたし)はあとずさった。

 ずいと少女が前に出る。

 (わたし)の全身を冷たい汗が濡らしていた。

 少女が、箒をふりかぶり、(わたし)に飛びかかってきた。

 (わたし)は、身をかわしながら、かろうじて箒の一撃を受けた。

 (わたし)は、仰向けに地の上に倒れていた。

 一撃で倒されなかったのが不思議なくらいだった。

 少女が、両手に箒を持って、私の傍に立った。少女の肩越しの夜空に、校舎の時計塔が見えていた。美しかった。恐怖とはもうひとつ別のところで、(わたし)は、祈るような憧れをもって、その偽りの月を見た。

 だが、そのまま、次の攻撃は来なかった。

 いつの間にか、少女は、そこにうずくまって動かなくなっていた。

 (わたし)がようやく身を起こして歩み寄ると、その少女は、すでに虫の息であった。少女の吐き出したと思しき血の海が、辺りの地面を赤黒く染めていた。

 (わたし)は、どうしていいのかわからずに、ただそこに突っ立って少女を眺めていた。少女は、眼を浅く開いて、(わたし)を見た。哀しい眼だった。

 少女は、うずくまったまま、腰から球状のものを取り出して、(わたし)に渡してよこした。

「も、もしかしたら、あんたこそ、この陰陽玉を持つのにふさわしいのかも……」

 少女は、細い声で言った。

「なに、この玉は?」

 赤と白に塗り分けられた、掌に収まるほどの玉であった。(わたし)は、その玉をしみじみと見つめながら言った。

 文字が書いてあった。

 そこには、このように書かれていた。

〝汝は何者であるのか?〟

 その文字を見た時、(わたし)の胸に、切ない苦しい灯が点った。

 ゆかなくちゃ――

 と、(わたし)は思った。

 あの校舎に登るのだ。

 その衝動が、狂おしく胸を打った。

「ふ、普通の魔法使いだったこの私は、問いと答えが同じこの問いに、ついに答えられなかった、ぜ――」

 少女はそうつぶやいて、(わたし)の手を握った。

「上へ――」

 少女は言った。

「上へ行って、この問いの答を、私のかわりに……」

「上? この校舎の上には、何があるの?」

 (わたし)は訊いた。

「え、栄光と、挫折が……」

 そこまで言って、ふいに、少女はくずおれた。

 少女はもう動かなかった。

「あら、あなたも、上にゆくの?」

 その時、足元で声がした。

 足元を見ると、暗闇のキャンパスから這い出てきた四つん這いの人々のひとりが、(わたし)の足元に座して、(わたし)を見あげているのである。

「誰?」

 思わず、(わたし)は、彼女に声をかけていた。

「私? 私の名前は……」

 少し口ごもりながら、その女性は考えるように首を傾けた。

「……私の名前は、レイテンシーよ」

 彼女は言った。




【再掲】
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