薄暗い、寝室での一幕。苦くて、甘くて、夢のような時間。
温もりが消えた気がして、意識が覚醒する。
部屋の灯りの眩しさに慣れて、一番に目に入ったのは金色のパンツとそのパンツを身に着け揺れるお尻だった。
あまりに魅力的だったので声も出さず、そのまま眺めていた。段々遠ざかっていくのが少々残念である。もっと近くで見ていたい。
「あら、起こしちゃったかしら」
僕の変態的視線(要は視姦のこと)に気付いたのか、彼女は立ち止まって振り返る。
「おはよう」
ワイシャツを着ている白鷺千聖が微笑みながらそう言った。大き目のワイシャツでも下着は隠れなかったみたいだ。金色のちょっと高級感のあるパンツがコンニチハしていた。
「……はよ」
「まだ寝惚けてるわね……。コーヒーでも入れるわ」
そう言って千聖さんはまた僕に背を向けて遠ざかっていく。といっても行き先はすぐ近くのキッチンなんだけど。またもお尻が揺れる。眼福。
千聖さんのいないベッドはなんだか広く感じる。それもそうだ、だってこのベッドはキングサイズなのだから。このベッドで僕と千聖さんはいつも二人で寝ている。
外からエンジン音と鳥の鳴き声、喧騒が聞こえる。ただこの家からは遠くの世界のように思えた。家の中は静かで、ポットがお湯を沸かせる音が聞こえるぐらいだった。
そもそもこの家では僕か千聖さん、どちらかが声を出さなければほぼ無音状態だ。せいぜい家電の駆動音みたいな環境音ぐらいだ。この家にテレビというモノは存在しない。当然ラジオもない。必要ないからだ。
「お待たせ」
千聖さんがマグカップを二つ持ってきた。どちらからも湯気が立っている。その内の片方を僕のほうに差し出す。
「はい、コーヒー」
「……のませてー」
もう意識自体は完全に覚醒していたが、悪ふざけでそう言ってみた。あわよくば飲ませてもらえればいいなと思った。赤ちゃんプレイは男の憧れだ。
「ふざけないの。それとも熱々のコーヒー、顔にかけてほしいのかしら」
おそろしいこと言い出した。そんなことしたら僕死んじゃう。
「やだなー……冗談ですよ」
「知ってるわよ」
千聖さんの声が冷たくて、肝が冷える。
「ほら、くだらないこと言ってないで、起きてこっちのテーブルで飲みましょう?」
僕は差し出されたマグカップを受け取って、一口飲む。身体はまだ完全には覚醒してないみたいで、少しだるい。のっそりとした動作でベッドから起きた。
ベッドのすぐ近くには折りたたみ式のミニテーブルがある。千聖さんはそこに自分のマグカップを置いて座って待っていた。
僕もゆっくりとテーブルに近づいて、そこにマグカップを置いて腰を下ろす。
「目は覚めた?」
「まだちょっと眠いです」
千聖さんの問いに僕は欠伸をしながら答えた。
昨日も遅くまで起きていた。それは千聖さんも一緒だというのに。何故彼女は眠そうにしてないのか。まあ、格好は隙だらけだが。こういうの、なんていうのか。裸ワイシャツ? パンツ履いてるけど。
「千聖さん、どうしてその格好してるですか?」
「昨日の夜のことは忘れちゃったのかしら?」
「いや忘れてないですよ」
具体的に言語化するとアレなので、熱い夜だった、とだけ言っておこう。あと最高だったとも。そんな夜のことを忘れやしない。多分一生。
「なんでちゃんと服着てないんですか、っていう意味で聞きました」
「そういうこと。でもそれこそ答えは明快よ」
「というと」
「どうせ脱がすでしょ?」
「………………」
それを言われると辛い。否定できない。かと言って素直に肯定もできない。肯定したらヤリ○ン野郎じゃん。
「まあ貴方が脱がさなくても自分から脱ぐのだけど」
脱ぐんかい。嬉しいけど大胆なことを言う。というか千聖さんもその気なんですね。
「嫌?」
微笑んで聞いてきた千聖さんを見て思う。この人僕の答えがわかってて聞いてるだろ。
「嬉しいです」
当然僕は即座に答える。
「素直でよろしい」
演技ではない、心底嬉しそうな、サドっ気が満たされたような笑みを浮かべる。ああ、いい笑顔。惚れ直しそう。
「つまり、どうせそういうことをするのだから脱がしやすい格好をしてる、ということでよろしいですか?」
「ええ」
「じゃあ、こういうことしても……」
と言いつつ、僕は千聖さんのお尻に手を伸ばし――
――パシッ!
「あ痛っ」
至高の感触にたどり着く前に僕の手は途中で叩き落とされる。他ならぬ彼女の手で。
「まだ、だめよ」
どうやらお預け、らしい。僕は犬か。
「『まだ』ってことは期待してもいいってことですよね」
「もう少し後でね」
「はーい……」
「よろしい」
いかにも触ってくださいという感じなのに触っちゃだめなのかあ……。でも触りたいと思いつつ結局千聖さんの言いつけを守る僕は間違いなく犬だ。
「時間はいっぱいあるのだし、ね」
「そうですね」
千聖さんの言う通りで、時間はたくさんある。他の誰にも邪魔されない。それこそ彼女が望むなら永遠に。
だからこうやってゆっくりするのもいい。ゆっくりして語り合う時間も大切だ。……いやでも触りたいよ、千聖さんのお尻。すぐにでも撫でまわしたい。
「がっつきすぎ」
そんな僕の視線に気づいたのか、その言葉を投げかけられた。呆れても千聖さんは綺麗だなぁ。
「……なんでわかったんですか」
「わかるわよ変態。わかりやすいぐらいよ」
「うぐぐ……」
ちょっと悔しい。わかってもらって嬉しくもあるけど。そんなに僕は獣みたいな目をしていたのだろうか。してから気づいたんでしょうね、はい。
「……私も貴方とするのは大好きだけど」
「え」
千聖さんのそんな囁き声が聞こえた。千聖さんの表情を見ればほんのり桜色に染まり恥じらっていた。
「かわいい……」
なんて思わず呟いていた。完全に無意識だった。
「…………馬鹿」
僕の呟きに対して千聖さんはジト目でそんな言葉を返してくれた。いやあ、千聖さん可愛い。とにかく可愛い。
「千聖さんが言うから」
そんなこと言われたら心の声が漏れてしまうのは仕方がないことだと思う。
「……でも、嬉しいでしょう?」
「嬉しいです」
もっと言ってほしいくらい。
「でもまあ、意外でした。千聖さんがそんなこと言っちゃうなんて」
なかなかそういう弱みになりそうなことは言わないと勝手に思っていた。
「……それは、わざとよ」
思っていたんだけど、千聖さんはそんなことを言い出した。
「え」
「ああすれば貴方が私のこともっと好きになると思ったからしたのよ」
僕は驚く。あれがわざとと。あれが? あの囁きが? あのほんのりとピンクに染まった顔が? さすが女優と褒めるべきなのか。
ああでも、千聖さんの態度は少し焦ってるようにも見える。ほんの少し、もしかしたら気のせいかもしれないぐらい。
「わざとよ。いいわね?」
千聖さんはそうやって念を押す。その声の圧が強くて、思わず後ろに引いてしまいたくなる。そして、自分の考えに自信がつく。やっぱりあれはわざとなんかじゃない、と。
「わかりました」
「……なに笑ってるのよ」
僕の顔を見た千聖さんが不機嫌そうに言う。
「特に理由はないですよ」
「嘘。口元がニヤついてるわよ」
そんなまさか。いや本当だ。自分でも気がついてないことを指摘された。
「……確認なんですけど。あの言葉、嘘ではないんですよね?」
「話を変えようとしないの」
「そんなつもりはないですよ?」
「なんで疑問系なのよ。それもう認めちゃってるようなものよ」
「……それでどうなんですか。嘘ではないんですよね?」
「はぁ……当たり前じゃない」
「ですよね」
ならいい。あの仕草がたとえ作られたものだとしても発言内容自体嘘じゃないなら十分だ。僕がニヤニヤしてたのは多分そのことがわかっていたからだと思う。
「ほんと、馬鹿ね」
僕の顔はニヤついている。今度は自覚してる。千聖さんは僕を見て呆れていた。
うるさいやい、男は基本的に馬鹿だよ。
「ねえ、旅行行きましょう?」
話を変えてきた。もしかしたらお預けさせたのはこの話をしたかったからかもしれない。なんて思った。
「旅行ですか? どこか行きたいところでもあるんですか?」
「そういうわけじゃないけど。貴方と二人で出かけることなんてなかったから」
「あぁ……」
千聖さんと二人で旅行なんてしたことない。ちょっとしたデートだってほとんどなかった。
千聖さんは女優でアイドルだから、男がいるなんてスキャンダルは大変よろしくない。いやまあ男いるけど、僕がそうなんだけど。それがバレてしまうのは非常に不味い。露見されるのだけはなんとしても避けたくて、今まではあまりしなかった。
「でも二人で行くと……」
必ず世間にバレるだろう。バレないわけがない。千聖さんは有名人なんだから。
「そうね。でも変装すれば見つからないわよ。髪を切るとか髪を染めるとか」
あっけらかんと千聖さんは言った。あんまりにも当然のように言うから、僕のほうが戸惑って躊躇ってしまう。
「……そこまでする必要あります? というかそこまでしてでも行きたいんですか?」
「行きたいわよ。貴方と二人で旅行するためならそこまでするつもりよ」
ストレートな物言い。ストレートな好意。だけどどこか自暴自棄にも似た危うさを感じられた。理由はわかってる。どこに行き着くかもわかってる。止めやしない。一緒に付き合うつもりだ。
「……旅行先、どこにしますか?」
そのことを伝わるように言葉を発した。
「そうね……」
彼女はふっと笑う。声のないその笑みで彼女の肩の力が抜けたような気がした。
「ゆっくり考えましょうか」
「ええ」
どこへ行こうか。山もいいし、海もいい。なんなら何もないところでもいい。千聖さんと一緒ならどこだって楽しそうだ。不安と期待が入り混じる。
「その前に、珈琲おかわりはいるかしら? 入れてきてあげるわ」
千聖さんが僕のコップを覗き込んで、空になっていることに気付いてそう言ってくれた。
「すみません、ください」
「じゃ、入れてくるわね」
「ありがとう」
「自分の分を入れてくるついでよ」
千聖さんがおかわりを入れに行く後姿を見ながら、次の燃えるゴミの日はいつだったか思い出そうとした。ベッドの近くにあるゴミ箱は酷い有様で、もうゴミが入りそうにないぐらいだ。いつだったか、週に2回はあったはずだが……。
いっぱいなゴミ箱の中を見る。ぐちゃぐちゃな雑誌が目に入った。ゲスな週刊誌。某アイドルの枕営業疑惑について書かれているものだ。くだらない。早く燃えてしまえと思う。
……やっぱり後ですぐに片付けよう、ぼんやりとそう思った。燃えるゴミの日かどうかなんて関係ない。このゴミが家の中にあるという事実が身体をむず痒くする。落ち着かない。
千聖さんが自分の分と僕の分の、2つのコップを持って戻ってきた。彼女は僕の分を差し出してくれた。僕はそれを受け取って、早速口をつける。……やっぱり苦い。人生最後の珈琲でも同じことを思うだろう。それが良さでもあるが。
「ねえ」
テーブル越し、真っ正面に座った千聖さんが短い言葉を発する。
「はい」
「最期までずっと離れないで、離さないで」
「言われなくてもそのつもりです」
僕がそうやって言い返すと千聖さんはテーブルの下から手を伸ばした。僕の太ももを軽く叩いて、手に触れる。合図に気付いて僕は千聖さんの手を握る。千聖さんの掌の温度が千聖さんの気持ちを伝えてくれて、お互いの心が一つになった気がした。それだけで幸せになれた。それだけで十分だった。もう最期でもよかった。
閉じられたままのカーテンが太陽の光を遮っていて相変わらず部屋は薄暗いままだった。