比企谷は、二人から別々にご指名を受けていた。
しかも同じ日にである。
ルート分岐してもいいと思うんです。
比企谷八幡は、憂鬱な思いで階段を降りていた。ゆっくりゆっくりとである。
昨日のことだ。
「せ~んぱいっ!」
八幡の肩を後ろからちょんと叩くのは、一色いろはだった。
「明日、お時間ありますか~?」
可愛い後輩からこんなこと言われたら期待してしまうし、意識してしまう。だから八幡は即返事をした。
「予定あるわ。ごめん。じゃっ」
「いやいやいや、こんなチャーミングな子から「明日、お時間ありますか~?」って言われたら、時間無くても有ることにしますよね、普通」
「可愛い後輩だからこそだろ。明日は忙しいから時間もろくに取ってあげられない。可愛い後輩のためにはたっぷりと時間を使ってあげたいからな。だから断る」
「えっ、そうなんですか? 嬉しい! じゃーないですよーもう。何が忙しいんですか、先輩に忙しい日なんてありません」
「失礼なこと言うね。明日は平塚先生に用事を頼まれてるのよ」
「なら良いじゃないですか。私もプロムの準備があるので、お互い終わったら合流ということで。それじゃ、よろしくで~すっ!」
「あっ、おい、まだ…………俺、返事する権利ないのね」
強引なところもまた良い。そんなことを思いながら、八幡は帰路に向かった。彼は残念ながら調教済みだったのだ。
翌日、授業はめでたく終わり、愛しの放課後となった。しかし、八幡は机から動かない。この後に待ち受ける平塚先生のお願い事、そしてそれが終わってか、ら、の、いろは。どちらも好きなのは間違いない。けれど、せっかく放課後まで温存していたこの内なる(貧弱な)パワーがこれから根こそぎ持っていかれると思うと、足が言う事を聞いてくれないらしかった。
「……二人ともパワータイプだからな」
「なになに、なんのタイプ?」
明るい声で話しかけてきたのは、由比ヶ浜結衣だった。
「おっ、バランスタイプ」
「バランスタイプ?」
「由比ヶ浜は、普通って事だよ」
「えー、なんかそれマイナスな要素に聞こえるんだけど」
「そんなことはない。どんな能力も平均以上だからどんな場面でも生き残ることができる。一人勝ちは出来ないかもしれないが、大敗することもない。現実では最強だぞ。俺からすればバランスタイプが1番羨ましいと思える」
「そ、そうかな」
今日彼女とも約束していたら、必ず「先生→由比ヶ浜→一色」としていたなと考える。インターバルを置くことでなんとか今日を乗り切ろうという作戦である。まあそんなわけにもいくまい。
八幡は諦め、席を立った。
「じゃあな」
「また明日ね、ヒッキー」
やっぱバランスタイプ良いわー、なんて思いながら八幡は廊下に出た。
比企谷八幡は、憂鬱な思いで階段を降りていた。ゆっくりゆっくりとである。
一筋縄ではいかない彼女たちをこれから相手にするのだから、その心構えは相当なものであり、むしろ楽チンなどと期待するのが間違いだろう。だから、沈んだ気持ちなのはある意味で正しいのだ。
そんな気持ちで職員室の扉を開けると、平塚先生が目の前に立っていらっしゃった。
「遅いから迎えに行こうと思っていたところだ。さあこれを持て。行こうか」
両手で大量の書類は運びながら連れてこられたのは国語科の資料室。国語教師たちが使える専用部屋だった。
「書類は机の真ん中に置いてくれ。他の先生はもう来ないからな。広く使おう」
「ところで今日はなにやるんすか?」
「キミにお願いしたいのは、これさ」
先生がおもむろに出したのはハンコだった。
八幡が書類にハンコを押し続けて、1時間以上が経過した。
「インクが無くなったと思ったら、無いのは俺の握力でした」
「私も自分の名前が筆記体になってきたところだ。どれ、休憩といこうか」
先生は冷蔵庫からマックスコーヒーを取り出すと、比企谷に差し出して、自分はタバコを吸い始めた。
「ども」
「このサインとハンコの嵐が私の今週の山場だったから正直助かるよ。比企谷は文句を言わないから良い」
「俺だって言いますよ、文句のひとつやふたつなら」
「キミが文句を言う時は、それに対して行動をしてやると決めた時だろう? そこが良いのさ。やらないと言う選択肢がない。どうにかして実行へ持っていくのは、社会人になった時に大いに役立つ」
「やけに買ってくれてますけど、褒めても俺からは何も出ませんよ」
「これだけで十分さ……今日のところはな」
「あれ、何か聞き捨てならないことを仰いませんでした? 俺だってね、予定のひとつやふたつやみっつくらいあるんですからね、一応」
「愛しい愛しい先生よりも大事な予定って一体なんなのか聞きたいなー比企谷くぅん」
「えっと、それは、あれですよ、奉仕部の活動?とかですかね」
「奉仕部の顧問は誰だと思ってるのかなー? 優先順位は私が上さ」
「ぶっちゃけ、頼みやすいだけなんすよね、なんせ俺ですから」
「よーく分かってるじゃないか。無理と言わない。だから頼みやすい。それははっきり言わせてもらうと正解だ。だがー、私はそれだけじゃ頼みはしない。嫌いな生徒と二人っきりで作業などしないさ」
そう言って、平塚先生は、彼の飲みかけのマックスコーヒーを手に取り、一口ごくりと飲んだ。
比企谷の頬が突如赤くなる。
「女性の好意は有り難く受け取っておけよ」
「男が女性にしてほしい事ランキングTOP10に入ってそうな行為をさらりとできるのに、なんで先生モテないんすかね」
「私の性に合ってないんだよ。ずっとしていられるか、こんなこと。……だからこそキミには、とくべつだ♪」
比企谷はみっともなくも口を開きっぱなしだった。
「……もらいましょうか?」
「マセガキが」
平塚先生のチョップが比企谷の頭に当たった。
「さあー休憩終了。もう半分も過ぎてる。頑張るぞ」
それから時計の長針が半周する頃には、すべての書類にサインとハンコが付いていた。
「いや本当に助かったよ。今度ラーメンでも食いに行こう。おごるぞ」
「良いっすね、ぜひ。じゃっ、俺行きます」
「ああっ、また明日な」
比企谷は、名残惜しそうな感じをまったく見せずに資料室を後にした。
平塚先生は、ひとり後片付けをしながらもう一本タバコを吸うことにした。
「ふぅー。……期待してもいいのかねー」
そんなことを呟きながら、最後の一服に興じていた。
比企谷は、手と腕の痺れを感じながらも、一色に指定された生徒会室へと向かっていた。
これが終われば、また平穏が戻ってくると信じながら、生徒会室の扉を開けた。
「お疲れさまです!」
入るとすぐに元気な声が八幡に投げかけられた。
「はい、おつかれさん」
「あれ―元気ないですねー。もしかして、ホントにお疲れだったりします?」
「平塚先生の用事で楽だったことはあまり無いからな」
「それはかわいそうですね~。私が癒やして差し上げましょうか!」
「とっとと用事を済ましてくれるのが一番癒やされるので、そこんとこよろしくね」
「せんぱい、今日なんだか冷たいですーっ。もう用事言いませんから」
「えっ、俺帰れないパターン?」
「返さないパターンです!」
「やだー(照)」
「うわ、きも、なに勘違いしちゃってるんですかわたし用意周到な方なので今日は全然準備できてないので急にそういう事言われても無理ですごめんなさい」
「いつもどおりだなー」
「……ですねー」
一色は、コの字になっている長机をひとりで贅沢に使っていた。
「はい、先輩こっち来てください」
広々とした空間に隣同士で座る。
「他の生徒いないのか」
「はい、比企谷先輩を呼んでますと教えたらみんな帰っちゃって」
「え、まじ?」
「嘘です」
「ほっ」
「ほっとしないでくださいねー、呼んだ理由はネガティブな理由なんで安心するのはまだ早いですよ」
「どういうこと?」
「プロムを開くにあたってどうせやるならみーんなに来て欲しいじゃないですか。でもプロムって聞くとなんだかオシャレで華やかなイメージだから敷居が高いと思われてしまうんです。となれば、せんぱいのように陰キャな人たちは来てくれない気がするんですよ」
「なるほどな。そう言う意味なら俺を呼んだのは的確だな」
「ですよねー」
「よし、名前変えろ」
「えー」
「プロムの名前そのものがなんか洒落すぎてるんだ」
「じゃあ案どうぞ」
「卒業パーティー」
「うーわっ、ふつー」
「普通で何が悪い、普通最強」
「特別感がないのはダメです。今までにない事をしようとしてますので」
名前の変更は諦め、二人の話し合いは広告や宣伝の仕方の話へと移り、しばらく続いた。
「こんなところですかね」
「カーストが低いやつらでもこれなら行ってみようかなと思えるくらいにはなったな」
二人はホワイトボードを見ながらご満悦なようだった。
「せんぱいの貴重なお時間をいただきありがとうございました」
「礼はいらないから、雪ノ下をよろしくな」
「……雪ノ下先輩なら大丈夫ですよ。どちらかと言えば、私が助けられている方ですから」
「でも無理するだろ、あいつ」
「ですねー」
「なっ。頼むわ」
さてと言って立ち上がる比企谷に、一色は彼の袖を引っ張りそれを阻止した。
「雪ノ下先輩のことは分かりました。というか、最初からそのつもりです。なので、お礼をさせてください」
「お礼のためにやったわけじゃないから」
「じゃあなんで来てくれたんですか?」
「可愛い後輩のためとしか言いようがない」
「ならその後輩のお礼はちゃんと受け取ってください」
今度は袖を強く引っ張られ、比企谷は観念した。
「はいはい、分かりました。して、なんですか、そのお礼とは」
「うち来ません?」
「ぐはっ!」
後輩からノーモーションのストレートパンチをくらってしまい、比企谷はその場で崩れ落ちた。
「なぜ、一色の家にお呼ばれするんだ」
「せんぱいって女の子に免疫ないと思うんで、女子の部屋に入れば少しは経験値アップ?的なやつですっ!」
「否定できない」
「私の部屋でケーキと紅茶をお供に、学校の愚痴から始まって一緒にゲームやって負けたら罰として暴露話をしてその後マッサージし合うとか! そしてたまーにうちのお母さんの気配が有るか無いかを探るゲームもあります!」
「なんだよそれ、めちゃくちゃ楽しそうね!」
「はいー! 楽しいですよー。今はプロムの準備で忙しいのでプロムが終わったらお願いしますね」
「よろしくな」
軽く返事をした比企谷の顔に一色の顔が近づく。
「ほんとに、約束、ですよ」
「お、おう」
比企谷は、プレッシャーのようなものを感じ取るもだがしかし、異性の急接近に際し顔を紅潮させてしまうあたり、一色の提案は正しいようだった。
「本日はありがとうございました、せーんぱいっ♪」
彼が生徒会室を出てしばらくしてから雪ノ下雪乃が戻ってきた。
「一色さん、まだ頑張ってたのね」
「はい、プロムの出席率を伸ばすための案を考えてたんですよ」
「……うん。よく考えられてると思うわ。一色さんひとりで考えたのかしら?」
「そうです! と言いたいところですけど、実は助っ人を呼びまして一緒に考えてもらいました」
「そう。視野の広い人なのね、きっと。私も頑張らなくちゃ」
感心した雪ノ下は、席に座るとノートパソコンを立ち上げた。
すると、パソコンの画面が勝手に閉じられた。
「帰りますよ雪ノ下先輩!」
「えっ。私まだ今日のノルマが……」
「それは今日やらないと大事になるものですか?」
「そうではないけれど」
「明日に出来ることは明日に回しましょう。さっ、帰りますよー」
「ちょっと、一色さん。……もう分かったわ。今日は切り上げて帰りましょうか」
「はーい! じゃあ一緒に帰りましょー!」
「ふふふっ」
二人で手早く片付けを済ませ、雪ノ下には先に玄関へと向かってもらい、一色は生徒会室の鍵を職員室へ返しに行くことにした。扉を閉めようとしたところ、彼の書いたホワイトボードが目に留まる。一色は何かを噛み締めながらひとり微笑んだ後、鍵をゆっくりとかけた。
ふたつ目のお礼も出来ますようにと願いながら。