そこには、薬の効果で子供になってしまった主人公が登場した。
若返りの薬さえあれば自分の研究は完成するだろう。
そう考えた老人は漫画に登場する薬「アポトーキス」を完成させることにした。
冬にしては蒸す部屋にこだまする水滴の音は水道から出た雫か額から出た汗なのか、そんなことを考える暇などない。
今目の前に完成したこの薬は、私を夢に一歩近づけるものになるだろう。
他の何を思うこともなく、薬を一気に飲み水で流しこんだ。
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私には、夢がある。
進めてきたウイルスの研究結果を見るにはあと10年ほど必要だ。
齢76の私には時間がない。
危険な研究だ。私が直接様子を見なければ暴走し、この世界を変えてしまうかもしれない。
もはやこれまで。重大な事件を起こす前に中断するしかないのか。
どうすればいいか頭を抱えていた時、孫が研究室に遊びに来た。
部屋に入るなり、孫は私を見つけ駆け寄り白衣の裾をつまんで口を開いた。
「じいじ、かなしい顔しててもいいことはないよ?」
孫の言葉にハッとした。
これは笑うことが苦手な孫に私がよく言っていた言葉だ。
「哀しい顔をしててもいいことはないよ。前を向きなさい。」
孫は生まれながらにして、両親がいなかった。
孤児院で過ごしているところを、息子夫婦が引き取ったのだ。
そんな境遇ゆえ、私には計り知れないほどの苦痛や辛酸を味わってきたのだろう。
それでも、この言葉をかけていると、自然と孫は穏やかな顔に変わるのだ。
まさか孫に諭される日が来ようとは。成長を妬むでもなく喜ぶでもなく複雑な感情を胸に抱いた。
すると孫は、最近学校で人気の漫画を教えてくれた。
高校生の名探偵が敵対する組織に薬を飲まされ、効果で小学生に戻ってしまうところから物語は始まる。
「奇抜な漫画だ…10年も若返らされるだなんて。」
10年。10年若返れば研究も…
「続き、続きはないのか?」
と子供のように続きをせがむ私がいた。
「ウチにくれば、全部そろってるよ!来て来て!」
久し振りに家に祖父が来るのがうれしいのか、孫は白衣をこれまでにないくらい引っ張ってくる。
「お義父さん、ご無沙汰しております…何か御用で?」
家に着くなり息子の嫁が出迎える。息子は当然顔も出すことはなかった。
私の研究を人殺しの研究と揶揄し、やめるように訴えてきた息子はもう私への情もないのだろう。
息子がいるであろうリビングを横に、孫に誘われるがまま2階の子供部屋へとたどり着いた。
天井まであるかのような本棚には私の知らない漫画が所狭しと連なっていた。
「じいじ、探してるのはこれ?」
私に一冊渡してきた。曰く、薬の効果や成分が書いてある巻のようだ。
よくもまあ、一発で巻数が分かるものだ。何度も読んで覚えているのだろう。
これがオタクといわれるものか。感心してしまった自分がいた。
そんなことより、内容だ。開くと、中間あたりに薬の効能が書かれていた。
「その薬は完成すると毒…」
隣で自慢げに説明してくる孫の声が聞こえないくらい、そのコマを読み漁った。
薬品名はアポトーキス…製造中、未完成な状態で投与すると稀に若返りの効果が生まれるようだ。
体内の古い細胞を破壊し、若い細胞を活性化させる。フィクションながら理にかなった効果だ。
成分も見当はつく。だてに何年も研究を続けてきてはいない。おそらく研究室に材料もあるだろう。
はやる気持ちに浮かされた私は、孫との貴重な時間を早々に切り上げ研究室に戻った。
準備室よりアポトーキスの元となる薬品を持ち出し調合を始めた。
翌日、ようやく完成した薬品をラットに与えた。
5匹のうち4匹が死に、1匹に若返りの効果が見られた。
まだだ、まだ未完成だ。
翌日、昨日の余り物で調合比を変えただけの薬品をラットに与えた。
5匹のうち1匹が死に、4匹に若返りの効果が見られた。
これだ。この調合比で純度を追求すれば。
純度の高い材料と、より完璧に近い調合比で1つの薬を完成させた。
未完成な状態で投与すると稀に若返りの効果が生まれる。
ならば完全に完成されたこの薬ならばきっと、確実に若返りの効果が見られるだろう。
幼くなってしまったラットたちにミルクをやり、ふっと笑う私がいた。
いつ以来だろう、こんなに心から嬉しさがあふれ出てくるのは。
そうして私は、アポトーキスを最後まで完成させた。
思えばここ数日この薬のために研究室にこもりきりだった。
お礼として、孫に電話でもしてやろうと思ったが、出ない。
留守番電話にメッセージを残すことにした。
「お前のおかげで、夢に近づく薬が完成した。これで漫画のように…」
携帯電話の充電が切れてしまった。
ずっと充電もしてなかったんだ。仕方がない。
冬にしては蒸す部屋にこだまする水滴の音は水道から出た雫か額から出た汗なのか、そんなことを考える暇などない。
今目の前に完成したこの薬は、私を夢に一歩近づけるものになるだろう。
他の何を思うこともなく、薬を一気に飲み水で流しこんだ。
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私は、目の前に広がっている光景を信じられずにいた。
地獄なんて言葉では言い表せないような、むごい惨状だ。
目を覚ますと、研究室で暴走したウイルスが街に広がり混乱の渦に巻き込んでしまっていた。
人々はウイルスから身を守るため外に出ることもできず、ひたすら終息を待つしかできなかった。
真偽の怪しい情報が飛び交い、疑心暗鬼になるばかりの人々。かつての平穏な暮らしはもうどこにもなかった。
いったいなぜ。適切な管理をすれば安全だったはずでは。
急いで研究室に足を運ぶと、ウイルスの媒介源と思しき5匹の幼いラットが自らの巣で何かを貪っていた。
恐る恐る目を凝らすと、人。いや、正確にはかつて人だったものを貪っていた。
今まで味わったことのない恐怖から声も出せず、急いで研究室を後にした。
自宅にもどるなり、まるで冬の海にいるかのような身の凍る思いに震えている私に後ろから幼い声がかけられた。
「じいじは、夢に近づく薬を完成させたんだって。」
夢…?この光景、この事態が夢だとでもいうのか?
やはり、人殺しと呼ばれても仕方がないことをしてしまった。
「じいじ、どうしちゃったの?」
幼いが故の問いに、どう答えていいかわからずにいた。
「きっと薬を飲んで死んじゃったんだよね。」
驚きのあまり振り返った私に向かって娘は言った。
「薬を"完成"させちゃったんだもん。私と違って。」