妹と仲直りしたい 作:Shinsemia
「ゼミ? 夏休みなのに?」
「……ええ」
嘆息には、呆れが混じる怒りが滲んでいた。事の発端は一通のメールだったらしい。
遥が見せてくれたメールには、『夏季休暇ゼミ』の件名。本文に何が書いてあるかは、想像に難くない。
内容を読んでみると、以前休んでしまったときのゼミの補填とかで、一日参加しなければならないようだ。
「別に予定はないからいいけれど……」
リビングのソファに腰掛けながら、再び嘆息。濡羽色の髪が照明に照らされて艶やかに輝いた。
夏休みに水をさすような真似をされれば、誰だって愚痴の一つも言いたくなる。なんとも中途半端な時期にゼミを入れたものだけど、教授となれば常に忙しい中で、なんとか捻出した時間なのだろう。
「彼方は今日出かけるのよね?」
「うん」
そう。今日はちょうど、梓さんと出かける約束をした日だ。もっとも、誰と出かけるかは遥に伝えていなかった。別に隠すようなことではないけれど、この前スーパーで梓さんに会ったときの態度を考えると、言わないほうが賢明だと思ったからだった。
「午後から出かけるから、帰りは遅くなるかも」
「わかったわ。私もゼミの準備があるから、遅くなるかもしれない」
特に気にした様子はなく、遥は出かける準備をするため自室に戻っていった。
窓の外を見れば、日差しが少ない曇り空。最近は晴れてばかりだったから、なんだか新鮮な気分だ。ギラギラと照りつける日差しが和らいで、天気が悪いのに過ごしやすくなっている。もっとも、暑いことに変わりはないけれど。
僕も部屋に戻って準備でもしておこう。
……
……
外に出ると、むわっと湿った空気がまとわりついた。空は曇っていて、太陽の光は差し込まない。
鍵を閉めて、忘れ物がないか確認して、それが終わったらやっと出発。梓さんと待ち合わせした時間までまだ余裕はあるけれど、早く待つ分には問題ないだろう。
歩きながら、ぐっと背筋を伸ばす。午前中に遥が出て行ってからずっと読書をしていたせいか、夕方に近い今になって、肩や首がこってしまった。
徒歩にして五分前後。最寄りのバス停には、薄汚れた案内板と錆び始めたベンチが設置されている。けれど、この微妙な天気を察してなのか、待っている人は誰一人いなかった。
予定した時刻から数分ほど遅れてバスが到着した。ドアが開くと、車内の冷えた空気がどっと解放される。交通系ICカードをカードリーダーにかざし、人がほぼ乗っていない座席の中で、一番後ろの席の角に座った。
発進に伴い揺れ始めた車内は、不規則なリズムで体を揺らす。手元の液晶画面をちらりと見やると、梓さんからのメッセージ着信の通知が届いていた。
『今出たよ。彼方くんは?』
文章の後にかわいらしい絵文字が映る。僕が思っているよりも、彼女の方が早めに出たらしい。
『僕も今駅に向かってるよ。ごめんね、待たせるかも』
店の場所は僕の住むアパートよりも、梓さんの家の方が近いそうだ。このペースだと、彼女を待たせることになるだろう。
『全然問題ないよ~』
彼女の打つ文章は、初めて会ったときと印象が異なる。性格がぶれている、というほどではないけれど、最近は柔らかい言葉遣いが多いように感じた。
『今日は蒸し暑いね。湿気が多いと髪が乱れるから困っちゃう』
確かに今日は、割と湿気が多い。遥も梓さんと同じように髪が長いから、梅雨の時期はいつもストレスが溜まっているようだった。今は梅雨ではないけれど、たまにそれに近い日もある。梓さんも同じように悩んでいるあたり、女の子共通の敵なのだろう。
『彼方くんも髪乱れない?』
『そうだね。少し』
かく言う僕も、人並み程度には髪をセットするようになった。意識するようになったのは、大学生になってからだろうか。こんな話、遥以外としたことがない。まるで、昔からの付き合いのように話がしやすかった。
バスが緩慢に揺れる。
それが、ゆっくり揺れる揺籠の中のように心地よかった。
外を眺めていると、ピコン、と写真が送信された。
「ん……?」
写真に写っていたのは、浴衣姿の梓さんと同じゼミの人たち。
『この前の夏祭りの写真。ゼミの人が撮ったのを送ってくれたよ』
みんな楽しそうだ。大学生らしい、と言えばいいのか。子供のように無邪気な面と、大人のように落ち着いた面もある。
後ろの方に写っている梓さんはこの前見たように、口許だけ見えるように狐のお面をつけていた。
そこには静かな微笑が浮かんでいて、ミステリアスな大人の女性の魅力があった。
『私も写真撮ればよかったかな』
『そうだね。きっといい思い出になるだろうし』
自分で打ったメッセージのことながら、端末の写真のフォルダには何も入っていない。思えば、カメラ機能すら使ったことがなかった。
バスがときどき停車して、まばらに人が乗り降りしながら再び出発する。それを繰り返すうちに、駅までもうすぐのところまでやってきた。
『こっちは着いたよ。彼方くんは?』
『そろそろ着くよ』
一言メッセージを伝えてほどなく、駅のバス停に到着した。端末をタッチして歩道に降り立つと、ジメジメとした空気が再びまとわりついてきた。
駅の方に来たのは久しぶりだ。見渡せば、それなりに人が行き交っている。この近くに噴水の広場があって、そこが待ち合わせ場所。
人の合間を縫うように歩く。そこそこの人口密度だ。駅の中にある居酒屋やデパートに用があるのだろうか。スーツを着用したサラリーマンらしき人や、買い物袋を手下げた人。色々な人がいる。
ビルの立ち並ぶ駅周りは、初めてここに来た時に見た景色と変わっていない。最初は驚いたものだった。こんな景色は、生まれ育った街では見たことがなかったから。
生まれ育った街と、今住んでいる街。胸に残る郷愁は色褪せないけれど、慣れ始めたこの街も悪くないと思うようになった。
そんな、ちょっとだけ昔の記憶を思い返しながら歩いていると、トントン、と肩に小さな衝撃。
「彼方くん、こんばんは」
──絹糸のような金髪。
約束をしていた彼女の姿が視界に映り始めた。
片側の髪は耳にかかっていて、そこには鈍色に輝くおしゃれなピアス。そしてやっぱり、この前も感じた麝香が鼻をくすぐる。
上は薄手の白いブラウス。下は深みのあるネイビーのロングパンツに身を包んでいて、夏らしいストリングサンダルを履いている。スタイルのいい彼女だからこそ、似合っていた。
アーモンドアイに縁取られたアイシャドウが僕の目を捉える。メイクは派手ではないけれど、女性としての力強さと色気があって、周りの人たちも時々梓さんの方を振り返って見ているようだった。
「……こんばんは。今日は誘ってくれてありがとう」
「ううん。私の方こそありがとね」
にっと笑む彼女。整った顔立ちの彼女がそうすると、美しさと可愛らしさが相まって魅力的だった。
「早速だけど、もうお店に行こっ。実は予約してあるの」
彼女はそのまま、先導するように斜め少し前を歩き始めた。甘い残り香に誘われるように、僕もつられて歩き始めた。
……
……
久しぶりの駅前の通りを観光気分で歩く。梓さんはこの辺りによく来るらしく、おすすめの飲食店などを教えてくれた。
都会の道路。立ち並ぶ高層ビル。そして、ひっきりなしに出入りする人々。都会は土地を精一杯活用して、所狭しと建物を並べる。
隣を歩く梓さんは、そんな都会が似合う華やかな女性だ。彼女の横顔をちらりと覗くと、女の子らしい長いまつ毛とすっと通った鼻梁が映る。ときどき髪を耳にかける仕草が、耳たぶに光るピアスと綺麗な金髪を美しく引き立てていた。
じめっとした空気とぬるい風に乗って、梓さんからムスクが香る。今日も同じ香水をつけているようだ。その香りはまるで、蜘蛛の糸のようにゆっくりと絡みつく。
時間にして十分程度だろうか。広い道から、ゆっくりと幅狭の道になっていって、薄暗さが増していく。喧騒から徐々に離れていき、駅前と打って変わって、ぽつぽつと人を見かける程度になった。
「──ここだよ」
梓さんに案内された店は、お洒落なバーのような店。規模は全く大きくなく、個人経営なのだと道すがら話していた。店の前に立てかけてある黒猫の看板は特徴的で、その金色の瞳が路地裏へ誘う妖のようだった。
慣れた様子で中に入ると、カウンターでグラスを磨いている初老の男性が一礼した。梓さんは軽く手を振ると、そのまま奥のカウンター席へ進んだ。彼女はどうやら常連らしい。
席に座ると、マスターらしき人は奥へと下がっていった。バーのマスターらしき人は寡黙で、僕がアルバイトしているカフェのマスターと似た雰囲気を感じた。
「彼方くんは何飲む? ここはカクテルがおいしいよ」
カウンター席には、僕と梓さんの二人だけ。あとは小さなテーブルが三つあるくらいだけど、そこには誰も座っていない。
梓さんは「最初はカルーアにしようかなー」と呟く。コーヒーミルクに似た味わいで、僕も飲んだことがある。戻ってきたマスターに彼女が注文したのに続いて、僕はアメリカンレモネードを頼んだ。
マスターがカクテルを作る作業音と、ゆったりとした落ち着く音楽。そして、隣に座る梓さんの呼吸音さえも聞こえてきそうだった。ゼミの飲み会は、賑やかというか騒がしいお店でやるから、静かなところでお酒を飲むのは初めてかもしれない。
グラスが差し出される。赤と黄色の2層に分かれているカクテル。美しいその見た目を鑑賞していると、梓さんは同じく手に持っていたグラスを僕に軽く差し出した。
マドラーで軽く混ぜてから、ガラスとガラスを優しくタッチする。微かな音が鳴った。
「……」
ゆっくりと口をつける。舌に満ちるのはレモンのフレッシュな苦みや酸味。続いて芳醇な葡萄を彷彿とさせる赤ワインの渋味と甘味。そして、鼻を吹き抜けるアルコールの香り。
気の利いた感想なんて思い浮かばないけれど、ただ純粋に美味しいと感じた。
「やっぱり、マスターの作るカクテルはおいしいね」
カラカラとグラスの氷を揺らしながら、梓さんは言った。マスターは特に何も言わず、ただ一礼する。こういった店に入ったことはないけれど、その雰囲気が店に合っているような気がした。
「おいしいね」
「よかった。彼方くんの口に合ったみたいで……って、私が作ったわけじゃないけどね」
そう言っておどけながら、梓さんは軽く頬杖を突きながらクスクスと笑う。
「落ち着いた場所で、居心地がいいところだね」
「でしょ? 私もそこが気に入ってるんだ」
アンティーク調のカウンターテーブルに、夕方のようなオレンジの光が反射する。隣の彼女を見やると、彼女の瞳が暗闇に光る猫の瞳のように、一瞬輝いた気がした。
「彼方くんはお酒好き?」
「うん……好きだよ」
「それならよかった」
ゼミの飲み会みたいに周りが騒がしいところで飲むお酒と、こういうお店で飲むお酒はまるで別物だ。おいしいお酒と親しい人との会話を純粋に楽しむ。バーとはきっと、そういう場所なのだと思った。
「そういえばね、この前なんだけど──」
お酒が入れば、会話が盛り上がるのは必然。
彼女は、大学では見せない素顔を浮かべた。
前までは、梓さんとこうして話をすることはなかった。もちろん、ゼミの中で事務的な話をすることならあったけれど、私的な会話はしたこともなかった。
それが今は、こうして共にお酒を飲んで過ごしている。二年半過ごしてきた大学生活の中で、最も大きな変化は梓さんとの関係かもしれない。
マスターが出してくれた酒の肴をときどきつまみながら、静かに談笑をする。この不思議な時間は、新鮮なようでいて、落ち着いていて……。
楽しそうに話す彼女につられて、自分もいつもより饒舌になるのを感じていた。
……
……
飲み始めて、どれくらい時間が経っただろうか。
思った以上に彼女と梓さんと話すのが楽しくて。ポケットの中の携帯を確認するのも億劫になる程度には、酔いが回ってきた。
ふわふわした心地よい酩酊感に苛まれながら、マスターから次のカクテルを受け取る。先ほど彼女が頼んだテキーラサンセットと、僕が頼んだベルモントだ。立て続けに飲んでるからか、顔が熱くなってきた。隣の彼女もよく見ると、頬がうっすらと朱に染まっていた。
彼女は話の小休止とばかりにグラスを呷り、唇を湿らせた。
「やっぱり、静かなところで飲むお酒はおいしいね。ゼミの飲み会だと、ちょっと気疲れしちゃうから……」
グラスをゆらゆらと揺らす。カラカラと鳴る音は、火照った顔を冷ますように心地よい。
彼女もお酒が好きであることに変わりはないけど、やっぱり大人数でとなると人間関係の方に注意が向きがちになるのだろう。
周りとの距離感を大切にする彼女は、参加した方がいいけれど実際には落ち着いて楽しめない。そんなある種のジレンマを抱いている。
「梓さんは、独りになりたいときにここに来るの?」
何の気なしに彼女に尋ねると、ネイルが施された細い指を口許に当てる。
「そう……かな。でも、今日は別だよ?」
彼女は僕を、どこかからかうような笑みを向けながら、またカラカラと氷を鳴らした。しっとりとしたBGMが狭い空間に木霊している。
「この前も話したけど、いつもは周りの用事に合わせたり、気を遣ったりするから、ときどき独りになりたいの。そういうときに、ここに来てお酒を飲むことが多いよ」
「……そうなんだ。例えば家族とかで飲まないの?」
氷を鳴らす音が止んだ。
彼女の横顔には、アンティークランプのオレンジが彩られている。夕方に沈む夕日は少しずつ影を帯びていた。
先ほどのいたずらを孕んだ微笑は、いつの間にかぎこちなさに固まっていた。
「……家、は」
梓さんは急に言葉を詰まらせた。リップが塗られた唇を、一度ぎゅっと噤んだ彼女は、少しして再び口を開いた。
「……あのね」
グラスの縁を指でなぞりながら、上目づかいでこちらを見上げた。それは、いつもは見せない彼女の弱気な姿だった。
「……ちょっとだけ、話聞いてもらってもいい?」
躊躇いがちに動く形の良い唇。涼しい店内の室温が、寒くさえ感じられた。
逡巡したのち、彼女はゆっくりとため息をこぼした。
「私の家ってね……家族仲が悪いの」
からん、と氷が崩れ落ちた。
「血のつながった家族なのに、まるで赤の他人みたいに無関心で……。でも、世間体はやけに気にするから、表面上はいい暮らしをしてるように見せてる」
「……」
「そんな環境だから、私は……」
「……そうだったんだ」
話を遮るように、彼女はグイっとグラスを口に傾けた。
……そっか。
梓さんは、家にいたくないのか。
彼女が周りに合わせるような社交性を身に着けたのは、ひょっとしたら、その幼いころからの経験が原因なのかもしれない。
僕は一人ぼっちではなかった。母が亡くなって、色褪せてしまった世界であっても、僕には遥がいた。僕の声だけじゃなくて、遥の声がそこにはあった。
でも、彼女には……。
「急につまらない話しちゃってごめんね。せっかく楽しい時間なのに」
自嘲するような笑みを浮かべながら、彼女は目を伏せた。形の整った顔からは、いまいち感情が読み取れない。彼女はたぶん、こんな話を望んではいない。酔ったせいで、たまたま口が滑ったのだろう。
「……梓さんのことを知ることができて嬉しいよ」
「ふぅん……そう言ってくれるんだ」
乾いた笑みが、少し薄らいだ。脳にアルコールが回り、甘い痺れが身体を縛っているようだった。
彼女の事情の細かいところまでは分からない。ましてや、それをいたずらに訊こうとも思わない。家庭の問題なんて人それぞれだ。外野の人間がとやかく言うことじゃない。
だけど、彼女の諦観を孕んだ横顔を見ると胸がざわついてしまう。
梓さんと僕では、全く立場が異なる。家庭の事情や抱え込んでいる秘密も、何もかもが違う。彼女はきっと、アドバイスなんてものは望んでいない。
「……僕の話も、ちょっとだけ聞いてくれるかな」
それでも。
「僕……母親がいないんだ」
どうしても伝えたいことがあるから。
「昔、病気で亡くなったんだ」
「……そう、なんだ」
ポツリと、彼女は呟いた。
彼女の秘密に、少しでも寄り添えるようになりたい。似たもの同士の仲間意識なんかじゃないし、不幸自慢をしたいわけでもない。ただ、この話はしなくちゃいけないと、そう思っただけだった。
「父さんは仕事が多忙な人で、あまり家にいられなかったんだ。幼いころから、周りの顔色とかうかがうことも多くて……」
……そうだ。周りの顔色をうかがうどころか遥の前でさえも、僕は自分のことを操り人形のように縛っていた。
幸いにも僕は、大切な友達に恵まれてやっと目を覚ますことができた。ずっと縋りついていたかった微睡の夢の中で、母さんの言葉を盲信して生きていた僕を……。
身動きひとつ取れなかった鎖の螺旋を……。
そっと、丁寧に、優しく外してくれた人がいた。
「そんな僕だけど、少しだけ前向きになることができたんだ。もちろん、今でも色々と引きずってしまうこともあるけど……」
「……うん」
「だから、何か話すことで少しでも楽になれるなら……。僕なんかでよければ、なんでも話してほしい」
何よりも僕がそうだったから──。
「……」
乾いた喉を潤すために、カクテルを流し込む。より一層、酩酊感が強まった。
支離滅裂で、全く論理的でないことを話したかもしれない。なんの解決にもなっていなければ、余計なおせっかいになっていたかもしれない。
それでも、話さずにはいられなかった。
「……私ね。彼方くんのこと、ちょっとだけ誤解してたかも」
「……誤解?」
耳に髪をかきあげる仕草。彼女の甘い香りが、大人びた女性の色香をなびかせた。
「何も不自由なく暮らしてて、心に余裕があるから誰にでも優しいのかなって。……ちょっとだけ、そう思ったときがあったから。私のとんだ勘違いだね、ごめんね」
「あ、いや……」
「私って全然だめだね。すぐに人のことを、探るような目で見ちゃう」
彼女も酔いが回ってきたのか、その声音は決して作られたものではなく、彼女の本音だった。
「本当に不思議。どうして彼方くんの前だと、こんなに弱くなっちゃうのかな……」
言葉とは裏腹に、その相貌に浮かぶのは小さな笑みだった。クスクスとおかしそうに、けれどそれは、前向きな諦めのようでもあって。
「……ありがとう、彼方くん」
少しだけ吹っ切れたような顔。彼女のアーモンドアイは、いつもの輝きに戻っていた。
「……また一つ、秘密を共有しちゃったね」
彼女は口許を手で隠しながら、そう言って苦笑した。
きっとまだ、話していないことはたくさんあるのだと思う。積み重なった膨大な時間は、ときに大きな重力をともなって襲いかかってくるものだ。積み重ねた時間と同じくらい、ゆっくりと、時間をかけてほぐしていくしかない。時間が解決してくれる、というのは無責任かもしれないけれど。
叫びをあげようとしても、肺を潰されて悲鳴すらあげられない。今すぐに這い上がりたくても、苦しくて息ができない。その辛さが僕にも少しは分かるから。
今は、少しでも彼女の負担を肩代わりできることを願った。
あれからまた少しお酒を飲んで、名残り惜しくも店を出た。
本当はもっと飲みたかったけれど、出費が予想以上に大きくて……。
仕方ないから、心地よく夜風にあたりながら、散歩でもして帰ろう。
そんなことを考えながらマスターにお礼を告げて、店の扉を開けた直後。
直前の呑気な考えは吹き飛んでしまった。
「これは……大変だね」
家を出る前にちょっとだけ泣きそうだった空は、いつの間にか我慢しきれなかった子供のように癇癪を起こしていた。八つ当たりのように紙面を叩く雨音が、ただでさえ酔っている脳を揺らす。
覚束ない手元で携帯を操作して調べると、土砂降りの雨で交通機関は麻痺している。歩いて帰るにも、この雨の中を帰るのは難しそうだ。ゴロゴロと雷の音さえ、遠くから聞こえ始めた。
「……困っちゃったね」
呆然としていると、梓さんはそんな大事でもなさそうに呟いた。
どうやら、ここから家は本当に近いらしい。ひょっとしたら、走れるくらいの距離にあるのだろうか。
でも、僕のアパートまでは流石に帰れない。全身ずぶぬれになって、風邪をひく覚悟で帰る勇気はなかった。これは軒先でしばらく立ち往生かもしれない。
……どうやって帰ろうかな。
「……ねぇ、彼方くん」
上手く働かない脳で考え込んでいると、彼女は突然、何故か戸惑いがちに口を開いた。
「その、さ……。この雨だと、帰るのすごい大変じゃない?」
「それは……そうだね」
……どうしたんだろう?
彼女の声がときどき、降りしきる雨音に遮られて聞こえた。
紅く上気した頬。まつげもはっきりと見えるくらい、近い距離間。アルコールのせいなのか、いつになく珍しい様子の彼女。
「あのね……」
夜が深まる。太陽の光も、月の光も差し込まない。けれど、彼女の瞳だけは輝いて見えた。
「よかったら、なんだけど……」
ゆっくりと忍び寄る猫のように。
彼女は僕の耳元に手を添えながら、小声で囁いた。
「うちに寄っていかない……?」