銀髪狐耳タートルネックにダッフルコート、おまけに眼鏡をかけている。
 尻尾は四本、身長183cm、人気インディーズバンドの一員、担当はベース。
 名前を宮舞天音と呼ぶ。

 眼が眩むほどに輝く星に、それでも必死に手を伸ばしていたのに、その恒星が向こうから近づいてきたら焼き尽くされるのは道理と呼ぶ。



推しをストーカーしてたら推しの方から近づいてきたので、それはちょっと訳が違うと身を引いてももう逃げられない話です。

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ストーカーしていたと思ったらストーカーされていたのは俺だった話

 

 

 

 最近視線を感じることがある。気のせいなのはわかっている。

 

 夜の11号棟、地下二階。大学でも比較的新しい校舎を歩いていると、妙な気配を感じた。

 他にも、図書棟で講義をサボっている時や、バイト終わりの誰もいない廊下を一人で歩いている時。

 外出して飲みに行った時や、家の中の風呂場でさえも。

 

 物も最近失くしていることが多い、些細なものだが。

 でも全て気のせいだろう。

 これは俺にやましい気持ちがあるから。

 結論から言うと、俺がストーカーだからだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 1.真溟館第3大講義室-最後列

 

 

 

 広い教室は段々状になっており、これまた巨大な黒板の前で若い教授が教鞭をとっている。

 熱心な教授の話を聞き流しつつ、数百人程度は入りそうな広い講義室の中の最後列で講義を受けていた。

 理由はもちろん、彼女を視界に留めながら講義を受けるという幸せを享受するためだ。

 単純な話だった、俺には推しがいて、その推しを後ろから見ていた。

 

 定期的に誰かの欠伸や、居眠り声が聞こえてくる午後の教室の中でも、彼女は凛と姿勢を正して板書を取っていた。

 長い銀髪をポニーテールにまとめ、その頭上には狐耳が生えていた。人で言うところの尾骶骨の位置からは四本の大きな尻尾が見える。

 

 弊学はこのような生徒でも快適に講義を受けられるように教室に工夫がなされている。尻尾がデカくて後ろから前が見えないようなことが無いように……等々。

 

 彼女も確か身長180cm近いが、それで教室前方にいても問題が無いようになっている。2m台以上に乗る巨人種や蛇人にもなるとそうはいかないが。

 黒のタートルネックを好んで着用しており、縁の薄い眼鏡の奥にはきらめくような碧眼が今日も輝いていることだろう。

 

 彼女の名前は宮舞天音(みやまいあまね)、所属サークルは軽音、学内屈指の有名人の一人だ。

 

 

 

 

 すらりとした長身に切り揃えられた前髪、凛とした目つきをしている。

 担当はベース、リードボーカル。彼女の所属しているバンドは急上昇中、近頃はメジャーデビューも待ったなしと噂されている。

 扱う曲はオルタナティブロックで、先日のライブも満員御礼だった。チケット完売につき入場も叶わなかった。

 メンバーも仲の良い幼馴染で構成されており、半ばアイドルのような扱い。

 そして絶世の美人だ。

 

 俺自身はなんてことはない、彼女と同じ空間にいられる喜びに震えつつ、ファンクラブに入ったりして推しているファンの一人だ。

 

 きっかけは単純な話だった。

 よくある文化祭のメインステージで歌う彼女を見て一目ぼれしたというだけの話。

 学祭のTwitterを見れば軽音サークルのアカウントにつながり、サークルのアカウントから彼女の所属するバンドのアカウントにつながり、そこから彼女個人のアカウントにつながった。

 最初は一方的にいいねを飛ばすだけだったが、今では中毒患者のようなもので。

 俺のアカウントは同じ大学ということはわかっても個人に特定されるような情報は載せていないし、彼女もそれなりの人気があるので、有象無象のファンの一人として認識されていることだろう。

 

 ライブには可能な限り通い詰めた。これはシンプルに自分の好きな曲のジャンルだったという話でもある。最終的にはTwitterの動向から昼食の時間帯や場所を割り出し、同じメニューを頼んでみるなど……

 

 講義も、彼女が取る可能性の高いものを選んで取っている。

 ただ一つ言い訳をするとすれば、俺は限りなく無害であろうとしていること。

 

 家まで押しかけたり、得体の知れないプレゼントを贈ったり等、そういった直接迷惑をかけることは一切しない。

 あくまでも近くにいるだけで、彼女の存在を視界の一遍に捉えられさえすればそれで充分だ。

 話しかけるなどもってのほか、ストーカーの存在など知られるべきではない。

 

 

 

 

 

 古い鐘のチャイムの音が鳴り、講義が終わる。

 彼女が席を立つのを見てから、ゆっくりとレジュメなんかを片付けて席を立つ。

 来週は小テストだと先生が言う、これが毎週の事だった。

 

 ぐっと背伸びをした、今日の講義はこれで終わりだ、残るは教授からのアルバイトが一件だけ。

 教室から大半の生徒が出たぐらいのタイミングで席を立つ。

 なるべく彼女の視界には入らないようにしている。あくまでも偶然を装う。

 ストーキングはしているが、あからさまに後ろは着けない。

 

 偶然同じ講義だったり、偶然昼食の時間と場所が被っていたりするだけだ。本音を言えば、写真など幾らでも撮りたいがぐっと堪えている。

 万が一それを誰かに咎められでもすれば、一番迷惑を被るのは彼女なのだ。

 

 

 

 

 

 

 ぎしぎしとなる木造の階段を下って、一階に降りて北に向かう。

 

 冷たい廊下はどこか湿っていて、水にぬれた靴の跡が点々としていた。彼女に夢中で気が付かなかったが、ドアを抜けて外に出ようとすると予報にない雨がぽつぽつと降り始めている。

 

 北の出口から、目と鼻の先の距離に目的の建物があった。

 今立っている扉から外を挟んで数メートル先、見た目は安っぽいプレハブ風であり、周辺は雑草だらけで手入れがされていない。さらによく見ると紫や黄色の薬草がまだらに生えているのは薬学部による無断栽培だ。

 

 建物は小さく、縦長だ。横に狭い。

 一階建ての平屋、というと聞こえがよすぎるだろう。中を覗いてみると腰より少し高い程度のテーブルのような物と、その上に何やら大型の機械が小さな音を立てている。

 それ以外にはベンチも何もなく、そもそもが人ひとりすれ違えるかどうかの幅しかなかった。

 

 名を卒煙支援ブースと呼んだ。

 

 小綺麗だが寂れた小屋だ。

 夏は蒸し暑く、冬は木枯らしが吹き荒ぶ、どうしようもない無常を感じさせる建物だった。

 

 講義棟の真横、学区内の最果ての喫煙所がここだ。

 天気は雨、喫煙所まで外を挟んで数メートル。傘はない。

 電気は消えていて、中に人がいる様子はなかった。

 もともとこの喫煙所は狭く、隙間風が吹き、ベンチも無ければ自販機もないのでたいへん不人気だった。時刻も微妙である。よっぽどの物好きか、人間強度を気にする偏屈でなければ存在を知ることもない。俺は後者だった。

 

 濡れてもいいかと心をよぎったが、一応まだ2月である。

 三寒四温であり、今は寒い。エアコンどころかヒーターすらない小屋で、煙草の為だけに濡鼠になるのは少し気が引けた。

 

 悩みどころであった。

 後少しもすればバイトの時間なので、仕事前にゆっくりとする時間があってもよかった。とはいえしかし、モラトリアムにかかるストレスですっかりニコチン中毒者になってしまった。

 

 うーんうーんと悩んでいると、後ろから声がかかった。

 

 「行かないんですか?」

 

 はい?と後ろを振り向いてみると、銀髪狐耳タートルネックにダッフルコート、おまけに眼鏡をかけた宮舞天音が傘を胸元で揺らしていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 2.卒煙支援ブース-室内

 

 

 

 かちりとライターに火をつけ、煙草の先に近づける。

 じりじりと音が鳴り、紙が赤く光る。

 息を吸い、空気の通り道にある火に酸素が供給されて一層強く光る。

 雨で少し湿っていたが、その分味がしっとりと強く感じられた。

 

 隣を見ると、同じように宮舞天音が煙草に火をつけていた。

 流行りの蛍光色のライターに、ピース。俺のよく吸う銘柄と同じだ。

 銀色の長い睫毛がぱちぱちと瞬いているのを覗いていると、じっと目が合ってしまった。

 

 「ライブ、よく来てくれていますよね」

 

 目線はそのままに宮舞天音が問いかけてくるので、心臓が嫌な跳ね方をした。

 まさか顔を覚えられているとは露にも思わなかった。

 

 「ファンなんですよ」

 

 本当になんでもないかのように返答したが、胸が高鳴る。

 声を交わすことはこれが初めてという訳ではない。ライブ後の物販などで一言二言交わすことはあった。だが、こうして二人きりになるなんて予想すらしていなかった。

 

 「いつもありがとうございます」

 

 鼓動がまた一段と激しくなる。

 推しとの遭遇だ、緊張もするだろう。

 

 なにか話しかけるべきだろうか、煙草の煤を落としながら考える。

 少しの間沈黙が場を支配したが、口火を切ったのは宮舞天音だった。

 

 「……雨、強くなりそうですね」

 

 「あー、そうですね」

 

 窓の外を見ると、雨脚が少し強くなっているのが分かる。

 壁の隙間から雨水が滲みており、少し肌寒い。

 

 「その、助かりました」

 

 なんとか口に出す。

 平静を装ったつもりだったが、声は少し裏返っていた

 

 宮舞天音はそんなこちらを見て、微笑みながら小さく首をかしげる。

 

 「……何がですか?」

 

 「傘です、濡れるところだったので」

 

 「ああ」

 

 彼女は納得したように頷くと、手に持っていた傘をくるりと回した。

 

 「困った時はお互い様ですよ」

 

 宮舞天音はにこりと微笑んだ。

 

 「大切なファンの方に、風邪をひいてほしくありませんから」

 

 余りにも眩しい笑顔だった。

 自分だけに向けられた微笑みに、思わず頬が熱くなる。

 

 雨音は先ほどよりもいっそう強くなっていた。

 雨粒が薄い屋根をたたく音が、一定のリズムを奏でている。

 

 湿った空気の中、彼女の香水だろうか、甘く落ち着いた香りが微かに漂っていた。

 煙草の匂いに混ざってなお分かるぐらいには近い。

 

 「でも、少し驚きでした」

 

 「え?」

 

 「こういうの、慣れてなさそうだったので」

 

 図星だった。

 そもそも女性と並んで歩くこと自体身内を除いて殆どない。

 ましてや推しと同じ傘に入るなど。

 

 「……まあ、はい」

 

 宮舞天音はどこか楽しそうに目を細める。 

 

 「相合傘、しちゃいましたね」

 

 さらりと自然に言われてしまう。

 一瞬思考が止まった、相合傘か。

 単語として認識した瞬間、耳まで熱くなるような、相反して底冷えするような恐ろしさを感じた。

 

 「いや、その、あれは……」

 

 「ふふ」

 

 知る限り珍しく、彼女が声を漏らして笑った。

 

 「冗談ですよ」

 

 そう言いながらも、少しだけこちらへ身体を寄せる。

 肩が触れるか触れないか。

 種族差も相まって不自然な距離で、まともに呼吸ができなくなった。

 

 「私、初めてですよ」

 

 「……何がですか」

 

 恐る恐る聞き返す。

 

 「男性の方との相合傘」

 

 しとしとと降る雨音の中。

 彼女は前を向いたまま、ぽつりとそう言った。

 

 冗談なのか、本気なのかわからない声色だった。

 

 「……意外ですね」

 

 やっとそれだけ返す。

 

 宮舞天音は、少しだけ考えるようにして視線を上げた。

 

 「そうですか?」

 

 「宮舞さんはその、……人気がありますし」

 

 「ふーん」

 

 興味深そうに返事をしながら、彼女はこちらを見る。

 宝石のような碧色の瞳がこちらを覗く。

 煙草の煙を反射しているせいか、少し澱んで見えたのは気のせいか。

 

 「じゃあ、貴方はどうなんですか?」

 

 「はい?」

 

 「相合傘、今まで一度もしたことなかったんですか?」

 

 「全然ですよ」

 

 即答だった。

 宮舞天音はまた小さく笑い、狐耳が嬉しそうにぴこ、と揺れた。

 

 「なんだか安心しました」

 

 「安心……?」 

 

 「はい」

 

 彼女はそう言うと、満足そうに微笑むだけだった。

 

 

 

 

 

 雨脚はさらに強くなっていた。

 薄いプレハブの屋根を叩く音が、喫煙ブース全体を細かく震わせている。

 外は灰色に煙っていて、人影もない。

 大学構内とは思えないほど静かだった。

 

 宮舞天音は傘を壁際に立てかけると、煙草をもう一度咥え直した。

 

 長い指先でライターを弾くと、かちり、と乾いた音が鳴る。

 オレンジ色の火が一瞬だけ彼女の横顔を照らした。

 

 伏せられた銀色の睫毛は雨に湿ったせいか僅かに束になっており、小さな影を白い頬へ落としていた。

 ライブハウスの照明越しでは分からなかった細かな質感まで、今では手を伸ばせば届きそうな距離で見えてしまいそうだった。

 

 慣れた手つきで煙を口へ運び、煙草の熱のせいか頬の辺りだけがほんのりと赤く染まっている。

 蛍光灯に照らされた姿は驚くほど白く幻想的で、アンティークの陶磁器の様な印象を受ける。

 

 いつもライブのステージで見る活動的な彼女とは違う、静的で、温度が低い仕草だった。

 じり、と煙草の先端が赤く灯り、彼女が息を吸うたびにその火が小さく明滅した。

 

 「……宮舞さんも煙草、吸うんですね」

 

 知らない情報だった。

 

 今まで喫煙所で彼女を見かけたことはなかった。

 SNSにも、それらしい気配は一切ない。

 酒の写真は時々上がるが、煙草だけは見たことがない。

 宮舞天音は細く煙を吐き出しながら、小さく頷いた。

 

 「最近吸い始めたんです」

 

 紫煙が銀髪の隙間をゆっくり漂っていく。

 宮舞天音がこちらをちらりと覗いてからぽつりと呟く。

 

 「その、人の……影響で」

 

 

 

 誰だ、と真っ先に思い悩んだ。

 

 彼女はもちろん、彼女のバンドメンバーも、友好関係の深い人物の誰も喫煙者ではなかったはずだ。少なくとも自分の知る範囲では。

 

 軽音サークルのメンバーか、交流のある他バンドか、よく写真に写る友人か、

 そこまで考えて、自身の思考のあまりの醜悪さに気づくが、止まることはなかった。

 

 彼氏、だったりするのだろうか。

 今まで意識して考えないようにしてきたことだ。

 

 当然のことだ、寧ろ居ないほうが不自然ではある。

 だがいつも彼女の近くをうろついている限りでは、誰か特定の男と親密そうにしている姿を見たことはない。……見えていなかっただけかもしれないが。

 

 息を吸い、受容体に脳を預ける感覚に浸る。

 宮舞天音との邂逅は本来なら喜ばしいことだが、気分は憂鬱だった。

 

 はっきりとファンだと認識されていたことが分かった以上、これまで通りの過ごし方とは行かないだろう。

 取ってしまった講義はともかく、休み時間や休日の身の振る舞い方を考える必要がある。

 

 万が一にでもストーキングを見咎められ、ライブにも出禁となるのが最悪だ。

 それももう手遅れなのかもしれないのだが……。

 

 どうして宮舞天音がただのファンに語り掛けてくるだろうか? 

 身に覚えのある理由は後ろ暗いものしか持ち合わせていなかった。

 

 自然と目をそらしてしまった自分とは反対に、宮舞天音の視線はこちらを覗いていた。

 ジーっと音を立てる換気扇に、二人の呼吸の音と、雨の音色が聞こえてくる。

 真横の、自分の少し頭上から、宮舞天音の視線が降り注いでいるのがはっきりと感じられた。

 

 煙草の先端がじり、と赤く灯る。

 狭い喫煙ブースの中では逃げ場がないように感じ、妙に落ち着かなかった。

 

 認識されていたという事実が、今さらじわじわと重くのしかかってくる。

 考えれば考えるほど胃が痛くなる。

 

 

 

 

 

 じっと観察されているような感覚を覚えていると、宮舞天音が口を開いた。

 

 「……同じ講義、でしたよね」

 

 「ほら、さっきの現代社会魔術倫理」

 

 「あー……はい」

 

 平静を装う。確信を持てていなかったが、彼女は本当に自分の事を知っているらしい。

 宮舞天音は煙を細く吐き出しながら、目線を外して続けた。

 

 「他にも色々、被っていますよね」

 

 どくり、と嫌な音が胸の奥で鳴る。

 

 「現代魔術理論とか、幻想生物学概論とか」

 

 つらつらと名前が挙がるたびに胃が縮む。

 その全てが全部、彼女を追って選んだ講義だった。

 

 偶然と、そう言い張れる範囲だと思っていたが。

 本人の口から並べられると急に、訳が変わってくるように思う。

 

 「まあ、学部同じですし」

 

 苦し紛れに返す。

 

 「そうですね」

 

 宮舞天音はあっさりと頷いた。

 

 否定も、深掘りもせずに、宮舞天音はただ佇んでいた。

 そのことが逆に落ち着かなかった、何かが起こるという直感だけが冴えていた。本能が今すぐ逃げろと叫んでいた。

 

 彼女の細い指先が煙草を灰皿へ軽く打ち付けると、白い灰が崩れ落ちる。

 彼女は意を決したように顔を上げた。

 

 「私って、バンドしてるじゃないですか」

 

 「はい」

 

 「最近、結構忙しくて」

 

 少し困ったように笑う。

 

 「講義、たまに出れなかったりするんですよね」

 

 知っている話だった。

 ライブ前後やレコーディング期間になると、彼女の出席率は目に見えて下がる。

 SNSの投稿時間やサークル棟の出入りから、なんとなく把握していた。

 

 「だから、その」

 

 宮舞天音は言葉を選ぶように視線を落とす。

 

 長い銀の睫毛が伏せられる。

 濡れた髪先が肩口に張り付いていた。

 

 「貴方さえよければ……なんですけど」

 

 「一緒に講義受けたりとか、しませんか?」

 

 

 

 

 

 

 

 「……はい?」

 

 間抜けな声だ

 

 予想していた最悪とは程遠い話だった。

 

 通報だのなんだのと、そういう話になるのだとばかり思っていた。

 当の宮舞天音はどこかぎこちなさそうにしている。

 

 「いえ、その、無理にという話ではないんです」

 

 少し早口になる。

 珍しく焦ったような声音だった。

 

 「ノートとか、課題とか、たまに分からなくなる時があって……」

 

 「いや、全然」

 

 口に出してすぐにしまったかもしれないと思ったが、考えるよりも先に反射的に答えてしまった。

 吐き出した言葉は飲み込めず、開いた口も止まらなかった。

 

 「力になれるなら」

 

 宮舞天音はぱっと顔を上げた。

 

 「……本当ですか?」

 

 その声音は本当に嬉しそうだった。

 

 「ありがとうございます、じゃあ!」

 

 彼女はコートのポケットからスマートフォンを取り出す。

 白いケースには見覚えがあった。

 彼女がSNSに上げていた鏡越しの写真に映っていたものと同じだ。

 

 「連絡先、交換しましょうか」

 

 震えそうになる手をどうにか抑えながらスマホを取り出す。

 QRコードを表示するだけなのに、指が思うように動かない。

 スマホをかざすと、読み取り音が鳴った。

 たったそれだけのことで、まるでとんでもないような、取り返しのつかないことをしたかのような錯覚に陥る。

 

 

 

 

 

 『宮舞天音』 

 

 と表示された名前を見て血の気が引く、くらくらと眩暈がした。

 

 「送りますね」

 

 その直後にキャッチーな通知音が鳴る。

 

 『よろしくお願いします』

 

 シンプルなメッセージの後に、狐のスタンプが送られてきた。

 スタンプを返すと『OK!』と表示されるが、全くそんなことは無かった。

 

 「……テスト範囲とか、そんなのであれば、いくらでも力になるので」

 

 「助かります」

 

 妙に喉が乾いていた。

 煙草を吸って深呼吸をしているのに、全く落ち着きがない。

 むしろニコチンのせいで余計に脈拍が速くなっている気がした。

 

 宮舞天音はそんなこちらをじっと見ている、表情が柔らかい。

 狐耳がぴくりと揺れた。

 

 外では雨音がさらに強くなっていて、本格的に降り始めていた。

 風に煽られた雨粒が薄い壁を叩き、冷たい空気が足元に入り込んでくる。

 

 ……時間を確認すると、バイトの時間までそこまで余裕もなく、それにこれ以上ここにいると本当に心臓が持たない気がしていた。

 

 「それじゃあ、俺はその、そろそろ時間なので……」

 

 煙草の火を押し潰し、鞄を手に取った。

 

 「……また連絡します」

 

 立ち去ろうとすると、宮舞天音は僅かに目を見開いた。

 

 「え、あ、ちょっと待ってください」

 

 焦ったような声音に、思わず足を止める。

 宮舞天音は何か言い淀むように視線を揺らした。

 

 「…………あの」

 

 「……貴方は、何か悩み事とか、あったりしませんか?」

 

 「悩み事、ですか」

 

 こくりと宮舞天音がうなずく。

 悩み事、悩み事か。強いて言うならば今この状況が一番の悩みではあるのだが。

 

 「何でもいいんです、私に力になれることがあれば」

 

 「……特にはない、ですけど」

 

 自身の頭上をみれば間違いなくクエスチョンマークが浮かんでいるだろう。それ程には彼女の問いかけは不可解だった。

 

 「何でもいいですよ」

 

 圧を感じた。この至近距離だと、より一層彼女との存在感を感じる。

 

 「……まあ金がないとか、チケットが取れない、とかですかね」

 

 半分冗談ではあるが、これは事実だった。

 一目見て好きになったあの日から可能な限りのすべてのライブに足を運んでいたが、最近は人気が爆発しチケット戦争が熾烈化、先月から今日に至るまではライブへ行くことができなかった。

 宮舞天音の表情を窺ってみると、納得は得られていないようだった。

 

 「……なにかトラブルに巻き込まれていたりとかは?」

 

 「ないですよ、そんなのは」

 

 平凡な人生である

 

 「ならよかったです。最近ライブに来てくれていなかったので」

 

 「少し心配になって」

 

 こちらとしては少しどころではない気まずさを感じていた。

 真っ当なファンではないという自覚があるというのに、こんな心配を受け取れる資格があるのだろうか

 

 「良ければこれ、受け取ってください」

 

 「絶対来てくださいね?」

 

 そう言って差し出されたチケットは、まだ印刷の匂いが残っていそうなほど新しい物だった。

 黒を基調としたデザインの中央に、彼女たちのバンドロゴが銀箔で押されている。

 

 「……これ、かなり良いチケットじゃ」

 

 「用意してもらいました」

 

 それがどれほど特別なものなのか想像もできない、普通目にすることもない、自分には余りにも縁のないアイテムだった。

 喉が急速に、からからと乾いていくのを感じた、うまく声が出せず、雨の湿気で咽そうになる。

 

 「いやでもこれ、貰っていいんですか?」

 

 「はい」

 

 即答だった。

 

 「いつも来てくれてますから、いいんです」

 

 「お世話になっていますから」

 

 理解不能という言葉で頭の中が埋め尽くされる。

 宮舞天音はそんな俺を静かに見下ろしていた。

 

 「来て、くれますよね?」

 

 念を押すような声音だった。

 断れるわけがなく、断る理由も存在しないように錯覚した。

 

 「…………行きます」

 

 「よかった」

 

 今度の笑みは今日のどの表情よりも柔らかかったが、その笑顔を見た瞬間に背筋に寒気が走ったような気がした。

 

 「じゃあ、また連絡しますね」

 

 宮舞天音はそう言って微笑み、傘を手に取る。

 

 「またしましょうか、相合傘」

 

 「……ほんの数メートルですよ」

 

 彼女は悪戯な眼をする。上機嫌なのか尻尾が揺れていた。

 卒煙支援ブースから校舎までほんの数メートル、だが雨が止む気配はまだ見えなかった。

 

 少しの距離を一緒に歩いた。横に並び立って歩くと彼女の長身がはっきり認識できる。

 

 「講義のこととか、色々、お願いしますね」

 

 「はい」

 

 返事をした声は、自分でも分かるくらい掠れていた。

 

 彼女は小さく会釈すると、そのまま雨の中へ歩き出す。

 長い尻尾がコートの裾から覗き、濡れたアスファルトの上をゆったりと揺れているのを見送った。

 

 アルバイト先の講義棟の地下へと歩く途中、ポケットの中のスマートフォンが小さく震えた。

 メッセージアプリの通知が赤く灯り、恐る恐る画面を開く。

 

 『これでいつでも連絡できますね』

 

 宮舞天音からだった。

 その一文の下には、笑顔の狐のスタンプ。

 そして続けて送られてきたメッセージを見る。

 

 『アルバイト、頑張ってください』

 

 元気が湧いてくると同時に、どうしたものかと陰鬱な悩みが尽きなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 3.中庭-柱の裏

 

 

 『次のコマ、同じでしたよね』

 

 『教室の前で待っています』

 

 とメッセージを打つと、宮舞天音は一度だけ画面を見直し、そのまま送信ボタンを押した。

 その様子を物陰から見ていた。

 

 いったい自分は何をしているのだろうか思う、本当に。

 

 昨日の空模様とは打って変わって、今日は見事なまでの快晴だった。

 雲一つない青空からは燦燦と日光が降り注ぎ、一足早く春の陽気を感じさせる。

 過ごしやすい天気だが自分の様な日陰者には堪え、柱の裏のベンチに身を任せていた。

 

 ……先日はつい「はい」と頷いてしまった、まるで普通の友人のような約束事をしてしまった。

 今のこの姿を見られたら、一体どう思われることだろうか。

 

 中庭のテラスは昼休みの学生達で散らばっていた。2月ももう終わりの時期だというのに人通りで溢れていた。

 芝生の広場にはいくつかのソファやビーチチェア、パラソル付きのテーブルが点々と配置されており、まるで一等地のレジャー施設のような装いをしている。

 弊学はどこかの魔界貴族も出資する伝統のある学び舎で、このような設備が充実していた。

 だが喫煙者の肩身は狭かった。

 

 行儀よく雑談する生徒達、その中でもひときわ目立つ集団の中に宮舞天音はいた。

 いつも通りの黒のタートルネックに橙色のカーディガンを羽織っている。

 周囲からの視線がちらちらと覗かれていたが、当人たちは一切気にしていないようだった。

 

 「じゃあ私、講義行ってくるね」

 

 「はい」

 

 「いってらー」

 

 快活な声とやる気のない声の返事が聞こえてくる。

 宮舞天音と話していたのは彼女と同じバンドメンバーの二人だった。

 赤茶色の髪を揺らしながら手を振っているのはギター担当の時津凛華、宮舞天音とは対照的に太陽のようによく笑う。

 ドラム担当の篠崎結月はストローを咥えたままぼんやりとスマホの画面を眺めていた。

 二人は午後一番の講義は入っていないらしく、中庭のテラスでのんびりとしている。

 

 柱の陰に名残惜しさを感じながら、講義棟へ向かい始める宮舞天音の後を追い始める。

 ……もう行くしかない、ここまでくれば逃げるほうが不自然だろう。

 立ち上がり、日陰からでるとまた眩暈がした、今日は本当に熱い日差しだ。

 

 

 

 

 

 

 彼女の後方を一定の距離を保ちながら歩く。

 最早癖になっており、自然に足がこの距離を選んでいた。

 

 待ち合わせをしていて、嫌でもこの後鉢合わせることになるというのに、自分から声をかける勇気は持ち合わせていなかった。

 推しと言葉を交わせるということは、恐れ多いという気持ちが半分と、純粋な喜びが半分だった。

 元々接触の少ない応援の仕方をしていた。連絡先の交換に舞い上がってしまったが、流される他に道を見出すこともできなかった。

 

 階段を上るといつもどおりの軋む音が鳴る、踊り場から差し込む日差しが彼女の銀髪を淡く透かしていた。

 なるべく平常心を保ちながら、少し遅れて階段を上る。

 時間が経って思ったことは、もうこんなことは辞めようという決心のはずだったが、長く続いた習慣を今更変えることはできなかった。

 

 階段を上り終えた先には少しもせずに教室にたどり着く。

 宮舞天音は教室の前で足を止めた。

 なんて声をかければよいか、と考える暇もなく、彼女はまっすぐにこちらを振り返る。

 

 碧眼と目があった。

 

逃げ場のない視線に捕まえられたようで、喉の奥がひくりと鳴る。

反射的に視線を逸らしそうになったがなんとか堪え、口を開く。

 

 「……お待たせしました」

 

 「全然、私も今来たところです」

 

 宮舞天音は気にした様子もなく、ふっと小さく目を細めた

 柔らかい、落ち着いた声だった。

 人生において、このやり取りをする日が来るとは露にも思えず、今現在も幻覚を見ているのではないかと思う。

 しかし隣から聞こえてくる宮舞天音の声は、普段ステージで聞くものよりも、昨日会話した時よりも、ずっと近くてやけに生々しかった。

 

 彼女は教室の中へ視線を向け、自然な仕草で促す。

 

 「じゃあ、とりあえず座りましょうか」

 

 「はい」

 

 講義室にはすでに大半の学生が集まっていた。ざわめきはあるのに不思議と空気は落ち着いている。席もある程度、毎回のように定位置ができるもので、宮舞天音のいつもの席も当然のように空いていた。

 

 彼女に案内されるまま、後方の窓際に近い席へ並んで座る。背中側には壁際の空気、横には少し冷えた窓の気配があり安心感を感じる。

 

 

 「後ろの方、いつも貴方が座っているあたりにしましょうか」

 

 そう言いながら彼女は椅子を引いた。

 

 「あまり前の方だと、目立ってしまうかもしれませんから」

 

 「……そうですね」

 

 うなずきながら、こちらも鞄を脇に置く。彼女の言葉には妙な気遣いがあった。

 彼女が自分の教科書を取り出すしばらくの間、彼女の手元の動きばかりを見ていた。紙が擦れる音、ペンケースの小さなファスナー音、彼女の整然とした所作はライブの上で見せる姿とは違って見えた。

 

 やがて、宮舞天音がふいに口を開いた。

 

 「……なんだか不思議ですね」

 

 「え?」

 

 思わず聞き返す。彼女は教科書を整えながら、少しだけ視線を落とした。

 

 「ライブハウス以外で会うの、です」

 

 短く相槌を打ちながら、胸の内で言葉の真意を探す。

 だが彼女は特に深い意味もなさそうに続けた。

 

 「大学だと、ファンの人とちゃんと話す機会ってあんまりないので。なんだかまだ実感が湧かなくて」

 

 その言葉にほんの少しだけ安心した。

 少なくとも今の自分は、ファンとして認識されている。それ以上でも、それ以下でもない。いや、そうであってほしい、と願っているのだが。

 余計なことを考えずに済む、暫くはその呼び名の中にひとまず身を置いていられるだろう。

 

 「……そう、ですよね。大学内で会える機会って、あまりないですし」

 

 ぎこちなく返すと、彼女は小さく頷いた。

 

 「それに」

 

 そこで一度言葉を切り、宮舞天音は鞄の中からノートを取り出しながら、こちらをちらりと見た。

 

 

 「ちょっと安心しました」

 

 「安心、ですか?」

 

 「はい」

 

 彼女は小さく頷いた。

 

 「ちゃんと実在したんだなって」

 

 「……はい?」

 

 意味が分からず聞き返す。顔に出ていたせいか、宮舞天音はくすっと小さく笑った。

 

 「ライブだと、照明もありますし」

 

 教科書を開きながら、何でもないことのように続ける。

 

 「後ろの方って結構暗くて、顔ちゃんと見えないんですよね」

 

 「こうして近くで会うと、ああ、本当にいたんだなって思えて」

 

 

 唯の一般論だ。それだけのはずなのに、言葉の端々に妙な温度が混じっている気がした。いや、気のせいだ。考えすぎだと、自分に言い聞かせる。そう結論づけようとしたその瞬間に、講義開始を告げるチャイムが鳴った。

 その音に背中を押されるように、二人とも自然と前を向く

 けれど、さっきまでの会話の余韻はそう簡単には消えそうにはなかった。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 講義が始まってから三十分ほどが経過した頃だった、教授がリモコンを手に取ると、術式の展開図や理論式で埋め尽くされていたスライドが切り替わり、白い画面いっぱいに演習問題が映し出された。

 

「それでは、ここから演習です。他の生徒と相談しながらでも構いませんので、二十分ほど取ります。各自解いてみてください」

 

 教授がそう告げると、厳かだった講義室の空気が少しだけ緩む。

 椅子を引く音やノートを見返す音が重なる、友人同士で履修している学生たちは早々に顔を寄せ合っている。前列では既に問題の解法について話し始めている声が聞こえていた。

 

 そんな中、プリントを手に取った宮舞天音が少しだけ身を寄せてくる。

 

 「これ、解けそうですか?」

 

 問いかけられて、配布された演習プリントに視線を落とす、並んでいる文字列を追っただけで思わずしかめ面になる。

 教授は何かにつけて、これは基本的だ、基礎的な内容だと口にする。けれど自分には到底そうは思えなかった。少なくとも今この場で胸を張って解ける自信はひとかけらもない。

 

 「正直なところ、かなり怪しいです」

 

 苦虫を嚙み潰したような顔で答える、宮舞天音は「そうですか」と小さく頷いた。その様子はがっかりしたというより、むしろ安心したようにも見えた。

 名目上は講義に出れない宮舞天音をサポートするための時間だったはずだが、元来真面目な生徒ではない自分はその役目をきちんと果たせている自信が全くない。

 講義中は専ら、宮舞天音の後姿を眺めるか、そうでない日はSNSで彼女の動向を検索するだけの日々に落ち着いていた。

 

 宮舞天音は机の上にプリントを広げると、静かにペンを取り上げた。

 

 「……一回、やってみましょうか」

 

 宮舞天音は薄く微笑むと、ペンを手に取り問題に取り組む。

 彼女はごく自然に姿勢を正す。背筋を伸ばし、視線を文字列に落としたその横顔は、先ほどまで会話していたときの柔らかさとは少し違っていて真剣だった。

 

 昨日まで、遠く離れた席に座っていた彼女が数メートルもない真横に座っていることに現実味がなく、彼女に倣い、姿勢を伸ばして問題に取り組んでみるも全く集中が続かない。

 ノートを見返しながら頭を捻ってみると、解けないこともない、といったところだった。数行進めてはノートと資料を見返し術式の解読を進める。

 

 耳の意識だけを彼女のほうへ向けると、宮舞天音は淀みなく解き進めているようだった。ペン先が紙を滑る音が一定のリズムで静かに続いている。迷いなく進むその手つきに、やはり自分とは出来が違うのだと妙に納得してしまう。

 

 手が止まったところでちらりと彼女の方を見てみると、再び碧眼と目が合う。

 

 彼女はこちらの動揺を気にした様子もなく、ペンをそっと置くと、にこりと笑った。

 

 「どこまで分かりますか?」

 

 どこまでも柔らかな声だった。

 問いかけそのものは何気ないのに、なぜか妙に距離を縮められた気がして、返事をするまでのわずかな沈黙がやけに長く感じられた。

 

 「ええと、最後の式変形までは、なんとか」

 

 「なるほど」

 

 宮舞天音はこちらの答案を眺めしばらく黙って眺めていたが、やがて彼女のノートをこちらへ向けた。

 

 「ここですね」

 

 細い指先が赤字で示された公式を指さす。

 

 「詰まっているのはこの変換の部分ですよね」

 

 「あー。多分それです」

 

 「なら、一緒に見てみましょうか」

 

 そう言って、宮舞天音は当然のように身を乗り出した。近づいたことで、髪の先がわずかに肩へ触れそうになる。その気配で思考が一拍遅れる。

 

 「この条件式を先に整理して、そこから代入すると……」

 

 彼女は丁寧に順序を追って説明してくれる。声は落ち着いていて、聞いているだけで問題の形が少しずつほどけていくようだった。自分では見落としていた箇所も、彼女が指摘すると不思議なくらいすんなり理解できた。

 そのまま二人でプリントに目を落とし、問題の続きへと取りかかる。さっきまでの緊張が少しだけ和らいで、同じ紙面を覗き込んでいるという事実だけが、静かに胸を満たしていた。

 

 演習プリントに向き合う宮舞天音の横顔を見ていると、先ほどまでの会話が不意に遠のいていくようだった。

 問題文を追う目は真剣で、手元の動きには無駄がない。ペンを持つ指先にまで、迷いの少なさが滲んでいる。さっきまでの柔らかな受け答えからは想像しづらいほど、彼女は几帳面で、そして実直だった。

 

 ……その様子を眺めながら、こちらは内心でため息をつく。

 

 あまりにも当たり前のことのようでいて、こうして隣で見ると、改めて実感してしまう。ステージの上で見せる華やかさや、画面越しに知っていた印象だけでは掴みきれない、もっと地に足のついた性質。こうして同じ講義を受けていること自体、彼女にとってはごく自然なことなのだろう。

 

 では自分はどうなのかと、ふとそんな考えが頭をよぎった。

 

 そもそも、彼女と一緒に講義を受ける必要は本当にあったのだろうか。少なくとも自分には、最初から最後までその答えが曖昧だった。サポートのつもりだったのに、実際には役に立っている実感がほとんどない。むしろ、隣に座っているだけで落ち着かなくなっている分、足を引っ張っていると言われても反論できない。

 

 そんなことを考えているうちに、宮舞天音がペンを置いた。

 

 「……できました」

 

 その一言に顔を上げる。

 

 彼女はさらりとプリントを裏返し、書き込んだノートをこちらへ少しだけ向けた。そこには、こちらがまだ半分も埋められていない問題の解答が、すっきりと整理された形で並んでいた。式の展開も、条件整理も、結論までの流れも、まるで最初からそこに答えが印刷されていたかのように整っている。

 

 「……全部、合ってるんじゃないですか? これ」

 

 思わず呟くと、宮舞天音は小さく首を傾げた。

 

 「たぶん、大丈夫だと思います。講義で触れた範囲を、そのまま少し整理しただけなので」

 

 少し整理しただけ、と言うには、あまりにも綺麗なノートだった。

 

 「……すごいですね」

 

 素直にそう言うと、彼女はほんのわずかに目を伏せたあと、控えめに笑った。

 

 「ちょっと張り切ったので」

 

 「張り切った、ですか」

 

 「はい。ちょっとだけですよ」

 

 そう言って笑う表情は、どこか照れたようでいて、それでもどこか誇らしげだった。たいしたことではないと自分に言い聞かせているような、あるいは、褒められるほどではないと慎ましく受け流そうとしているような、そんな温度だった

 

 その笑みに、こちらは逆に言葉を失う。

 

 彼女は視線を少しだけ外し、机の上でノートを揃えながら続けた。

 

 「……苦手だとおっしゃっていたので」

 

 「え?」

 

 「だから、少しでも分かりやすいほうがいいかなと思って。貴方に見てもらうときに、すぐ追えるようにしてみました」

 

 淡々とした説明だった。けれどこちらはその内容を理解できずにいた。

 

 少なくとも、はっきりと言葉にした覚えはなかった。いや、そもそも、彼女に自分の不得手なことを詳しく話したことなど、ただの一度でもあっただろうか。頭の中を探っても曖昧な断片しか出てこない。いつそんな話をしただろうか。どこで、どういう流れで、そんな情報が彼女のもとに届いたのか。

 

 その困惑がそのまま顔に出ていたらしい。

 宮舞天音は、こちらの様子を見て、少しだけ首を傾げた。

 

 「……違いましたか?」

 

 「い、いえ、違うというか……」

 

 口を紡ぎ、言い淀む。

 

 自分の方こそ何を言えばいいのか分からない。苦手だと伝えた覚えがないのに、彼女はそれを前提にノートを仕上げたと言う。十分に胸のあたりがざわついていた。

 

 そのとき、宮舞天音は「あ」と小さく声を漏らした。

 

 「ほら、これです」

 

 そう言って、机の下からスマートフォンを取り出す。

 

 彼女の細い指が画面を起こし、こちらに向けたそこには見慣れたSNSの画面が写っていた、ブックマーク欄の中に他でもない自分のアカウントのツイートが表示されている。

 

 ……視界に入った瞬間、見るべきではなかったと後悔した。

 

 そのアカウントは間違いなく自分のものだった。ただ問題なのはそのアカウントの持ち主は、自分自身につながる情報を一つも投稿していない自負があったということだった。

 確かに講義に関する投稿をすることはある。日常のちょっとした投稿もする。だがそれもかなり濁している。

 ……彼女のブックマーク欄にはそんな俺のツイートがびっしりと並んでいた。

 

 宮舞天音は、そんなこちらの様子に気づいているのかいないのか、首をかしげたまま小さく眉を寄せる。

 

 「……? このアカウントは、貴方のものですよね?」

 

 問いかけはあくまで静かで淡々としていて、ただの事実を述べているようだった。だからこそ逃げ場がなかった。

 

 「それはそう、ですけど……」

 

 ようやく絞り出した声は情けないほど弱々しかった。

 認めるしかない。画面の中のアカウント名も、アイコンも、投稿内容も、間違いなく自分のものだった。だが、だからといって彼女がそれを当たり前のようにブックマークしている理由が全く分からなかった。

 

 宮舞天音は、こちらの反応を見てようやく何かを察したのか、わずかに目を見開いた。

 

 「……あ」

 

 その短い声のあと、まるで親に怒られることを怖がる幼子のように視線を逸らす。

 

 「もしかして、あまり見られたくないもの、でしたか」

 

 「い、いえ、そういうわけでは」

 

 否定はしたものの、言葉が続かない。続けようとしても、喉の奥が妙に乾いていて、うまく音にならなかった。

 

 宮舞天音はそれをひどく気にした様子で、どこか申し訳なさそうに小さく笑った。

 

 「前に、授業が少し難しいって投稿されていたので。念のため、ブックマークしておいたんです」

 

 「……念のため?」

 

 「はい。どこが苦手なのか分かったほうが、説明しやすいかなと思って」

 

 彼女はそう言いながら画面をこちらに向けたままにしていたので、ブックマーク欄に並ぶ自分のツイートを改めて眺める羽目になった。

 

 講義に関するもの、食堂のメニューへの文句、深夜に投稿した他愛のない独り言。どれもこれもが一つ一つは取るに足らない内容だったが、知らないうちに彼女の手元に積みあがっていたということになる。

 

 何か言わなければと思っていると、宮舞天音の持つスマートフォンの画面上部に、細い通知バーが滑り込んできた。

 

  結月 ─ てかとなり座れた?笑

 

 メッセージアプリのアイコン。

 送信者の名前と、文面の頭だけが表示される。

 

 一瞬のうちに宮舞天音の指が素早く画面を叩き、通知が消える。

 何も言い出せない沈黙があった。

 

 宮舞天音はスマートフォンをゆっくりと伏せる。

 それから、何事もなかったような顔でこちらを見た。

 

 「……見ました?」

 

 「いや」

 

 反射的に否定する。

 

 宮舞天音はこちらを見ずに、小さく笑った。

 

 「ならいいです」

 

 …………結月。おそらく先ほどまで一緒にいた二人の内の片方、篠崎結月だろう。

 一緒に講義を受けることまで既に話していたのだろうか。

 

 胃がきりきりと音を立てていた、これ以上深く考えたくもなかった。

 願いが通じたのか、教授がマイクを手に取る。

 

 「はい、そこまでで解説を始めます」

 

 宮舞天音の答案に間違いはなく、やがて鐘がなりつつがなく講義は終わった。

 

 

 

 

 椅子を引く音や鞄を持つ音、がやがやと談笑する生徒の声にあふれ、教室の空気が一気に解れる。

 窓の外では午後の日差しが傾き始めており、教室を出る生徒たちの背を逆光が差していた。

 

「今日の講義はこれで終わり、ですよね?」

 

 隣から声がかかる。宮舞天音はノートを閉じながら、こちらへ顔を向けていた。

 

「何か予定はありますか?」

 

 特にはない。

 普段ならここで宮舞天音を後ろから見送り、サークル棟へ向かう背中が廊下の角に消えるのを見届けてから、図書館へ向かう。時間を潰して、人通りの落ち着いた頃合いに帰る。それだけの夕方だ。

 

「よければ今から、お茶でも……どうですか?」

 

 宮舞天音は鞄の持ち手を握り直しながら、わずかに首を傾けた。

 問いかけの声はいつも通り落ち着いていたが、その目が少しだけ期待しているような色をしていた。

 

 宮舞天音に問いただしたいことがあった。

 

 なぜ俺の講義のスケジュールを知っているのか

 なぜアカウントを特定できたのか……大量のブックマークも

 なぜ昨日、あの喫煙所に現れたのか

 

 聞きたいことは山ほどあったが、だがそれを並べれば並べるほど、問い返せる程の立場にない自分自身のことを思い返し、言葉を出せなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 4.喫茶猫時雨

 

 二人で教室を出る。

 廊下は講義終わりの学生で混んでいて、その流れに乗って歩いた。宮舞天音は人の間を自然な歩幅で進んでいく。その隣を並んで歩きながら、何から聞けばいいか悩んでいた。

 

 階段を下りると、日差しが差し込む渡り廊下に出た。

 午後の光は柔らかく、床に伸びた窓枠の影が細長く揺れていた。外では今日は強い風が吹いているらしく、中庭の木の梢が緩やかに揺れている。

 

 人の流れが薄くなり、二人の足音だけが廊下に響くようになると、隣を歩く宮舞天音の存在がより鮮明になった。背が高いせいか、歩幅が広いせいか、こちらが少し早足になってようやく並べる程度の歩調だった。彼女は特に気にした様子もなく、前を向いたまま歩いている。

 

 「こちらです」

 

 宮舞天音が廊下を曲がる。

 その先には、学内でも比較的人目につかない小さな建物があった。

 もともとは研究棟の附属施設として建てられたもので、何処かの企業が実験設備のついでに併設したとも、あるいは単に余った区画を転用したとも噂されている。

 外壁は年季が入っていて、看板も小さく、わざわざ探しに来なければ気づかない場所にあった。

 

 「少しだけお待ちいただけますか」

 

 「どうかしましたか」

 

 「……不埒者がいます」

 

 宮舞天音はふと立ち止まり、ポケットから携帯を取り出す。

 画面を開くその横顔はわずかに引き締まっていた。眉根がほんの少し寄り、視線が細くなる。怒っているわけではない、何かを確かめているような、あるいは測っているような表情だった。長い指が画面を滑り、数回操作する。その間、唇はかすかに結ばれたままだった。

 電話をかけているようだった。操作を終えると、ふぅとため息をつく。

 

 直後、後方の席から着信音が聞こえてくる。

 

 宮舞天音が振り返ると、そこにはつい先程の見覚えのある姿があった。

 篠崎結月と、時津凛華、昼に中庭で見た宮舞天音と同じバンドのメンバーの内の二人だ。

 

 「──あちゃ、見つかっちゃったか」

 

 「だから言ったじゃないですか、絶対ばれるって」

 

 篠崎結月は悪びれた様子もなく肩をすくめ、時津凛華は眉を八の字にしながらも口元に笑みを浮かべていた。

 

 宮舞天音はにこりと微笑みを浮かべたまま口を開かず、じっと二人を見る。

 

 しばらくの沈黙に堪え切れず、時津凛華が「えーっと」と口を開く。

 

 「いつから気付いてましたか」

 

 「最初からです。ついてきていたのに、気づかなかったと思いました?」

 

 「……思ってた」

 

 「正直ですね」

 

 宮舞天音は短く笑うと、視線だけをこちらへ向けた。

 

 「せっかくなので、一緒にどうですか」

 

 勘弁したかったが、こちらから断れる雰囲気でもなかった。

 

 

 

 

 

 

 引き戸を開けると、温かな空気が流れ出てくる。

 豆を挽く低い音と、珈琲の匂いが混ざり合っている。

 店内は狭く、窓際にテーブルがいくつか並ぶだけだった。昼の混雑はとうに過ぎていて静かだったが、意外にも数名の客が席についていた。

 

 カウンターの奥では、猫耳のアンドロイドの店員が一人、音もなく立っていた。

 動作に無駄がなく、表情も声も均一で、ただ仕事だけがそこにあるような佇まいだった。人間の店員のように愛想を作ることもなく、それでいて不快でもなく。この店の空気に馴染んでいた。

 

 

 店員に窓側のテーブルに案内されると、宮舞天音が隣に並び、向かいに時津凛華と篠崎結月が座った。宮舞天音はカーディガンを脱いで椅子の背にかけ、鞄を机の下にしまう。メニューを手に取る仕草は静かで、ページをめくる指先にも無駄がない。ここへ来るのは初めてではないのだろう、慣れた落ち着きがあった。

 その様子を横目に見ながら、どこかまだ状況についていけていなかった。

 

 「……この人が、例のファンの人?」

 

 注文が終わると、篠崎結月が口を開いた。声に特別な含みはなかったが、視線はこちらと宮舞天音の間を静かに往復している。

 

 「うん。いつもライブ来てくれてる」

 

 宮舞天音がさらりと答える。

 

 「応援ありがとね」

 

 篠崎結月はぱっと笑った。続けて「ごめんね、最近ほんとチケット取れないでしょ」と気軽な調子で言う。

 

 「いや、こちらこそ……」

 

 ぎこちないながらも返事を返した。それよりも隣に座っている宮舞天音の反応を窺えないことが気がかりだった。

 

 「……貴方、どこかで会ったことがありませんでしたか」

 

 不意に時津凛華が口を開いた。

 

 「凛華」

 

 宮舞天音が静かに名前を呼ぶ。

 

 「う、すみません。でもなんか、見覚えがあって」

 

 「ライブ、来てくれていますから」

 

 「あ、そっか。そうだよね」

 

 時津凛華はあっさりと頷いたが、その目はまだどこか納得しきっていなかった。何かを手繰り寄せようとするような、宙を泳ぐような目つきで、しばらく黙ったまま考えている。

 思い出されては困る、と直感的に感じたが、どうする手段も持ち合わせていなかった。

 

 「すみません、変なこと聞いてしまって」

 

 「全然、とんでもないです」

 

 「なんか引っかかる感じがして……まあ、いっか」

 

 結論が出ないまま、時津凛華はそう呟いてメニューを眺め始めた。

 

 「そんなことより、天音ちゃん。今日ほんとに一緒に講義受けたの?」

 

 篠崎結月が頬杖をつきながら問いかける。

 

 「本当ですよ」

 

 「へえ。珍しいね、そういうの」

 

 「そうですか?」

 

 宮舞天音は何でもないように答えるが、篠崎結月の目は値踏みするかの如くそのままこちらを向いていた。特に何も言わなかったが、その沈黙が居心地悪く感じた。

 

 飲み物が運ばれてくる。

 アンドロイドの店員がトレーを傾け、カップをテーブルに置いていく。その間もひとことも喋らず、表情ひとつ動かさない。人間ならば愛想のひとつも作る場面だろうが、それがないせいで全く静かだった。

 

 「ま、天音ちゃんが仲良くしてるなら、こっちも仲良くしないとね」

 

 時津凛華がにこっと笑う。

 

 「そういうことです」

 

 宮舞天音は静かに笑った。

 

 そこからしばらくは、他愛のない話が続いた。

 近々のライブのスケジュール、会場の規模が前回よりさらに大きくなるという話、篠崎結月が今学期すでにいくつも講義を切り捨てているという話。時津凛華が「さすがにまずいです」と突っ込み、篠崎結月が「なんとかなる」と涼しい顔で返す。宮舞天音はそのやり取りを聞きながら、時折小さく相槌を打っていた。

 自分もほとんど相槌を打つだけだった。

 

 「ねえ、君ってどのくらい前からのファンなの?」

 

 飲み物に口をつけたところで、篠崎結月から声がかかる。特に深い意図のなさそうな、純粋な好奇心の声だった。

 

 「……一年半、ぐらいですかね」

 

 「へえ、結構前じゃん」

 

 「文化祭がきっかけで」

 

 「ああ、あのときか」

 

 篠崎結月は合点がいったようにストローを咥え直した。時津凛華がうんうんと頷く。

 

 「あのライブ、本当に評判よかったですよね」

 

 「あの日の天音ちゃん、バチバチに可愛かったからなー」

 

 「そうだっけ」

 

 宮舞天音は少し意外そうな顔をした。どうやら自分ではそこまで意識していなかったらしい。

 

 「……君、ステージ全部来てくれてるんだっけ」

 

 篠崎結月がこちらへ視線を戻す。

 

 「できる限りは」

 

 「できる限り、ね」

 

 結月はそれだけ言って、ストローでカップの中をゆっくりとかき回した。その目がまたこちらと宮舞天音の間をゆっくりと往復する。

 

 「てことは、チケット取れないときは結構つらかったんじゃない?」

 

 「……まあ」

 

 「それで天音ちゃんがこないだチケット渡してたんだ」

 

 驚きの発言に横に座る宮舞天音を見る。

 

 宮舞天音は表情を変えなかったが、ただほんの一瞬だけ、視線が左右に揺れた。口元へカップを運ぶ手が一瞬止まる程度の、ほとんど誰も気づかない小さな間だった。

 

 だが篠崎結月はそれを見ていた。

 口元にゆっくりと笑みが広がる。 

 

 「ちょっと結月」

 

 時津凛華が小声で咎める。

 

 「あれ、やっぱり?そうなんじゃないかとは思ってたけど」

 

 篠崎結月は悪びれる様子もなく続ける。

 

 「ねえ、もらった?」

 

 「……はい」

 

 「でしょ」

 

 篠崎結月は意地悪な笑みを浮かべ、宮舞天音へ目を向けた。

 

 「天音ちゃんさあ、あのチケットってそんな気軽に渡すものだっけ?」

 

 「気軽ではないですよ」

 

 宮舞天音は涼しい顔で返す。

 

 「じゃあなんで」

 

 「来てほしかったので」

 

一切迷わない答え方だった。

 篠崎結月は「ふうん」と言って、また視線をこちらへ戻した。既に全て分かった上で黙っているような、そういう目だった。

 

 「……よかったね」

 

 結月は最終的にそれだけ言って、カップに口をつけた。

 

 時津凛華はその隣で、どこかばつの悪そうな顔をしていた。

 

 しばらくの間、誰も口を開かなかった。

 カップを置く音、風で窓が微かに鳴る音。店内の静けさがテーブルの上に戻ってくる。

 

 「……貴方は」

 

 沈黙を破ったのは時津凛華だった。

 にこにこしているが、目は笑っていない。

 

 「天音ちゃんの、どこが好きなんですか?」

 

 思わず咽た。

 

 「だ、大丈夫ですか?」

 

 「大丈夫です。……好きというか、ファンではありますけど」

 

 「私も気になります」

 

 宮舞天音を窺うと、彼女はカップを両手で包んだまま、こちらへ視線を向けていた。助け舟を出す気はないらしかった。

 

 「聞かせてくれませんか?」

 

 逃げ場はないみたいだ。

 

 「……声、ですかね」

 

 「声?」

 

 時津凛華が首をかしげる。

 

 「珍しいね。だいたいウチのファンの子って、姫ちゃんの歌が大好きなのに」

 

 姫ちゃん、というのはメインボーカルのことだろう。姫凪・リンドヴルム・ラスターシャ。

 ファンの入り口になることが多いと聞いたことがある。学内で顔を見ることはほとんどない。

 

 「宮舞さんの声は、聞いていて特別……聞き心地がいいというか」

 

 「へ、へぇ……」

 

 時津凛華の頬がじわりと赤くなった。

 

 「顔真っ赤じゃん」

 

 篠崎結月が時津凛華の頬をつついた。

 

 「つつかないでください」

 

 「照れてる照れてる」

 

 「照れてないです」

 

 「絶対照れてる。ね、天音ちゃん」

 

 篠崎結月が今度は宮舞天音へ水を向ける。

 

 「天音ちゃんはこの人のどこが気に入ったの?」

 

 「そうですね……」

 

 宮舞天音は少しの間、言葉を選ぶように視線を落とした。

 銀色の睫毛が伏せられて、また上がる。

 

 「いじらしいところ……とか」

 

 コホン、と小さく咳払いをする。

 

 「まあ、私の大切なファンの一人なので」

 

 「ファンサですよ、ファンサ」

 

 そう言って、宮舞天音はカップに口をつけた。

 その横顔は涼しかったが、彼女の耳の先もほんのわずか赤かった。気のせいかもしれなかった。

 

 篠崎結月はしばらくこちらと宮舞天音を交互に眺めていたが、やがてふうと息をついて背もたれに体を預けた。

 

 「……ま、いっか」

 

 「何がですか」

 

 「なんでも」

 

 結月はそれだけ言って、残っていた飲み物を一気に飲み干した。

 

 時津凛華はまだ少し頬が赤いまま、こちらをじっと見ていた。何かを言いかけて、やめる。また口を開きかけて、また閉じる。

 

 「……天音ちゃん」

 

 やがて、ゆっくりと口を開いた。

 

 「二人は本当に、推しとファンの関係、なんですか?」

 

 宮舞天音は短く頷いた。

 

 「はい、今のところは」

 

 時津凛華はそれを聞いてから、こちらへ目を向けた。

 応援しているのか、牽制しているのか、その目からはどちらとも読み取れなかった。

 

 「……貴方も、天音ちゃんのこと、よろしくお願いしますね」

 

 「はい」

 

 「本当に、よろしくお願いします」

 

 繰り出された言葉に、先ほどとは少し違う重さがあった。

 答える前に、篠崎結月が「はいはい凛ちゃん」と時津凛華の肩を軽く叩く。

 

 「そろそろ行かないと講義始まるよ」

 

 「あ、そうでした」

 

 時津凛華はさっと立ち上がり、鞄を手に取った。それから、もう一度だけこちらを見る。

 

 「すみません、色々と」

 

 「全然です」

 

 「……また」

 

 時津凛華は短くそれだけ言うと、篠崎結月に背中を押されるようにして出ていった。

 その際「これ持ってくね」と篠崎結月がテーブルの伝票をさっと手に取り、返事を待たずに二人の足音が遠ざかっていく。

 

 残ったのは宮舞天音とこちらの二人だった。

 さっきまでの四人分の気配が一気に抜けて、急に席が広くなった気がした。

 

 「すみません、突然こんなことになってしまって」

 

 「いえ、その、こちらとしては……」

 

 言葉が続かなかった。こちらとしては、何なのか。楽しかったとも言い切れず、困ったとも言い切れない、そういう時間だった。

 

 

 

 

 

 宮舞天音に問い質すタイミングを見計らっていたが、四人の場ではどうしても切り出すことはできなかった。

 なぜ講義のスケジュールを知っていたのか。アカウントをどこで特定したのか。昨日の喫煙所は偶然だったのか。聞きたいことはまだ全部、喉の奥に仕舞ったままだった。

 

 「今日はもうお開きにしましょうか」

 

 宮舞天音は静かに立ち上がり、上着を手に取った。

 

 アンドロイドの静かなお辞儀に見送られながら外に出ると、空はまだ青かった。

 昼間の強い風は収まっていて、空気だけが冷たく澄んでいた。ただ光の角度がわずかに傾いていて、建物の影が午前中よりずっと長く伸びている。西の空の端だけが、ほんのりと色づき始めていた。

 

 並んで歩き出してから、口を開いた。

 

 「一つ、聞いていいですか」

 

 「どうぞ」

 

 宮舞天音は前を向いたまま、短く返す。

 

 「なぜ俺のことを、そんなに知っているんですか」

 

 少しの沈黙があった、長くはなかったが密度のある間だった。

 

 「……同じ講義を取っている学生ですから」

 

 「それだけじゃ、ないですよね」

 

 宮舞天音は少しだけ足を緩めた。

 

 「気になりますか」

 

 「……当然」

 

 そう返すと、彼女は少しの間黙ったまま前を向いていた。

 やがて、ゆっくりと口を開く。

 

 「貴方と同じ理由ですよ」

 

 宮舞天音は前を向いたまま、静かに微笑んだ。

 

 「……同じ、理由?」

 

 「はい」

 

 言葉が夕風の中に溶けていく。問い返す言葉を探しているうちに、宮舞天音が足を止めた。

 

 道が緩やかに分かれる場所だった。

 

 「また明日、講義一緒に受けましょうね」

 

 振り返った宮舞天音の背後に、色づき始めた西の空があった。

 まだ青の残る空の中で、銀髪が斜めになった光を受けて昏く煌々と輝いて見えた。碧眼がまっすぐにこちらを見ている。その目に捕まえられると、とても断ることなどできなかった。

 

 「……はい、また明日」

 

 「はい、約束ですよ」

 

 宮舞天音は小さく微笑んだ。

 それから踵を返し、歩き出す。長い尻尾がカーディガンの裾から覗き、斜めの光の中をゆったりと揺れていた。

 西の空の色がじわじわと濃くなっていて、地面に伸びた影の端がゆっくりと滲んでいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 5.講義室

 

 

 「お昼、どうしますか」

 

 2講の終わり、ノートをまとめていると宮舞天音がそんな風に口を開いた。

 約束通り、同じように二人並んで講義を受けた。気のせいかもしれないが、昨日よりも他の生徒の視線を感じたように思う。

 

 「もしよろしければ、一緒にどうですか?」

 

 いつもなら、今日のこの時間なら彼女は学食へ向かう。そして期間限定メニューを頼む。それを知っているのは今まで何度も後ろをつけていたからだ。

 そして今日も同じだろうと思っていた。「いいですよ」と軽い返事をする。

 

 宮舞天音に連れられて、横を並んで歩く。

 一日たてば、未だに慣れはしないものの会話程度は普通にできた。つい先ほどの講義の話などを交わしながら、足取り軽やかに進んでいく。

 

 ……のだが、途中でふと気づいた。学食は東側だ。彼女の足は、明らかに反対へ向かっている。訊ねる間もなく、西の校門前に辿り着いた。

 

 「……学食じゃないんですか」

 

 「今日はちょっと、外に出たくて」

 

 宮舞天音はそれだけ言うと、にこやかに微笑んだ。

 

 「昨日は、その」

 

 少し言いにくそうに、彼女は視線を横へ流す。

 

 「急に四人になってしまったので」

 

 「……ああ」

 

 昨日のカフェのことだ。篠崎結月の値踏みするような視線と、時津凛華の質問攻めを思い出す。あれはあれで得るものの多い時間だったが、心臓には悪かった。

 

 「今日は邪魔が入らないところで、ゆっくり食事がしたいんです。……二人で」

 

 二人で、のところだけ、少し声が小さくなった。

 ここまで一緒に歩いておいて、断る理由が見当たらなかった。というより、そんな言い方をされて断れる人間がいるなら見てみたいところだ。

 

 校門を出ると、大学前の喧騒はすぐに薄れた。

 昼の商店街を一本外れた路地は静かで、古い家々の軒先に午後の白い光が落ちている。二月の風はまだ冷たかったが、日向を選んで歩けば苦にならない程度だった。隣を歩く彼女の尻尾が、時折こちらの腕を掠めそうになる。種族差のある歩幅を、今日は彼女がさりげなく合わせてくれていることに、今日になって初めて気がつく。

 

 大学から少し歩いた先に、その店はあった。

 「お気に入りの店なんです」と彼女の言う店は、古い町家を改装したイタリアンで、外観からはほとんど店とは分からなかった。オレンジ色の煉瓦には蔓が巻かれ、格子戸の脇に小さな看板が出ている。彼女たちが時折利用することから存在は知っていたが、利用したことはなかった。

 

 ……正確に言えば、一度だけ、この格子戸の前を素通りしたことがある。中に入っていく彼女たちの背中を見届けて、そのまま帰った。あの日は路地の入り口までが、自分に許された距離だった。

 

 宮舞天音は慣れた手つきで扉を引く。

 からり、と乾いた音を立てて格子戸が開いた。中に入ると、古い梁の残る天井は低く、照明は控えめで暖かかった。白い壁に木製のテーブルが並んでいて、昼時にしては静かで、奥の席から小さな話し声が聞こえる程度だった。挽き立ての珈琲とオリーブオイルの匂いが、乾いた木の香りに混ざっている。

 

 「いらっしゃいませ。……宮舞様、お久しぶりです」

 

 初老の店主が厨房から顔を出し、深く頭を下げた。常連に向けるというより、もっと丁寧な、大切な家の客に向ける類の礼だった。

 

 「二人です。窓際、空いていますか」

 

 「ご用意しております」

 

 彼女は当たり前のようにそれを受け取り、背筋の伸びた綺麗な会釈を返した。その一礼だけで、この店の空気と彼女の空気が、地続きであるのだと理解した。

 ……敷居をまたいだ瞬間、自分の履き潰したスニーカーの爪先が急に目についた。

 

 

 

 

 

 窓際の二人席に案内される。外は中庭になっていて、冬の枯れた植え込みの向こうに、隣の瓦屋根が見える。低い日差しが瓦の稜線をなぞり、窓際のテーブルにまで淡く届いていた。

 

 「美味しいし、落ち着いていていいお店なんですよ」

 

 コートを脱ぎながら宮舞天音が言う。

 メニューを手渡されたが、値段を確認して少し目が泳いだ。学食と比べると桁が違ったように見えた。だがここで動揺するのも格好がつかないと思い、なんでもないふりをしてメニューを眺めた。

 

 向かいに座る宮舞天音はメニューを静かに眺めている。

 長い指先がページを繰る。眼鏡の奥の碧眼が文字の上を静かに滑った。窓からの光が銀髪の輪郭を細く縁取っている。

 

 「何にするか、決まりましたか」

 

 こちらへ視線が向く。

 メニューを眺めながら、宮舞天音が何を頼むか先に聞いてから、同じものにしよう、と考えていた。知らない店では彼女と同じものを頼む。長い習慣だった。

 

 「おすすめはなんですか?」

 

 「私の好きなメニューなら、ありますが」

 

 「……知りたいです。宮舞さんの、好きなもの」

 

 口に出してから、我ながら大胆なことを言ったと思った。だが事実だった。彼女の好物なら大抵把握しているつもりだが、この店の、というのは知らない情報だ。

 宮舞天音は一瞬だけ目を丸くして、それから少し照れたように視線をメニューへ逃がした。

 

 「……海老と菜の花のクリームが、おすすめです」

 

 「同じものにします」

 

 「……」

 

 注文を取りに来た店員に、彼女は同じものを二つ、と告げた。

 そのとき、彼女の口元がほんのわずかに、何か言いたげに動いた気がした。狐耳が一度だけ所在なさげに揺れる。だが結局何も言わず、メニューを静かに閉じただけだった。

 

 前菜のサラダが運ばれてくる。

 色の違う葉や根菜が小さく整えられていて、オレンジ色のドレッシングがかけられていた。

 

 「貴方は、いつも学食ですよね」

 

 フォークを手に取りながら、宮舞天音が言った。

 

 「……まあ、そうですね」

 

 「こういうお店は、あまり来ないですか」

 

 「正直、あまり」

 

 「そうですか」

 

 宮舞天音は小さく頷いた。否定も、からかいもしない。ただ確認したような顔をした。

 

 「一人だと、なかなか来づらいですよね」

 

 彼女はそう言いながら、サラダを口へ運んだ。

 

 その所作には何の力みもなかった。

 カトラリーは迷いなく外側から。皿の上で音を一つも立てない手つき。背筋は講義室で見るのと同じ角度で伸びていて、料理を口へ運ぶ間、肘は一度もテーブルにつかない。皿を下げに来た店員への「ありがとうございます」さえ、呼吸のように自然だった。

 生まれたときから、これが当たり前の世界で育った所作だ。

 

 「こういうお店、緊張しますか」

 

 視線に気づいたのか、彼女が小さく首を傾げた。

 

 「……少し」

 

 「ふふ。私は逆です。ファミレスとか、ああいうお店の方が緊張します」

 

 「緊張する要素、ありますか?」

 

 「呼び出しボタンを押す勇気が、なかなか出なくて」

 

 真顔で言うので、思わず笑ってしまった。彼女も釣られて笑う。

 和やかな話のはずだった。だが笑いながら、胸の底が静かに冷えていくのが分かった。同じ大学の、同じ講義室に座っていても、立っているステージがまるで違うことが、言葉や仕草の端々から伝わっていた。彼女の当たり前と自分の当たり前では、どこまで遡っても交わらないのではないか。

 

 自分もフォークを手に取る。

 野菜の歯応えと、柑橘の香りがするドレッシングが思ったより軽やかで、少しだけ肩の力が抜けた。

 

 パスタが運ばれてくる。白いプレートの上に、薄いクリームソースで和えたパスタが、こんもりと盛られていた。上に海老が二尾と、鮮やかな緑の菜の花が添えられている。湯気に乗って、海の甘い匂いがした。

 

 向かいにも同じ皿が置かれた。

 宮舞天音はそれを見て、こちらをちらりと見た。それから自分の皿を見て、もう一度こちらの皿を見た。

 

 「美味しそうですね」

 

 「……同じですよ、お互い」

 

 「そうですね」

 

 彼女はどこか、ほんの少しだけ残念そうに笑った。

 どうかしたのか、と訊く前に、彼女はフォークを手に取っていた。

 

 一口食べると、クリームに海老の甘みがよく出ていた。菜の花のほんの少しの苦みが、後から来る。

 美味いと素直に思った。

 

 「どうですか」

 

 宮舞天音が聞いてくる。心なしか、前のめりだった。

 

 「……美味しいです」

 

 「よかった」

 

 それだけ言って、彼女も同じパスタを口へ運んだ。

 その後、しばらく二人とも黙って食べた。沈黙が、不思議と気まずくなかった。店内の静かな空気と、フォークの音と、外の冬の光がそれを埋めていた。

 ふと視線を感じて顔を上げると、宮舞天音がこちらの皿をじっと見ていた。

 

 正確には、皿の上の海老を。

 

 「……食べます?」

 

 「え」

 

 「いや、ずっと見ていたので」

 

 「違うんです」

 

 彼女は珍しく慌てたように首を振った。狐耳がぱたぱたと忙しない。

 

 「その……別のものを頼めばよかったなと、思っただけです」

 

 「気分じゃありませんでしたか」

 

 「違います。大好物です。そうじゃなくて」

 

 宮舞天音はフォークを置き、しばらく言い淀んでから、観念したように白状した。

 

 「別のものを頼んでいれば、その……一口ください、とか。一口どうぞ、とか。……そういうのが、できたのになと」

 

 「……」

 

 言い終えると、彼女はうつむいて、パスタをくるくると必要以上に丁寧に巻き始めた。頬のあたりが、暖房のせいではない色に染まっている。

 

 こちらはこちらで、返事の代わりに水を飲んだ。飲まなければ、顔の温度をどうにもできなかった。

 

 「……同じものでも、できるんじゃないですか。それ」

 

 気づけば、そんなことを口走っていた。

 それはちょっとした叛逆心だった。余りにも遠い存在だった宮舞天音が、手を伸ばせば届いてしまいそうで、まるで手を差し伸べられているかのように思ってしまった。

 

 宮舞天音の顔が、ぱっと上がる。

 

 「いいんですか」

 

 即答だった。そして彼女は自分の皿から海老を一尾、器用にフォークへ載せると、テーブル越しにすっと差し出してきた。

 

 「はい」

 

 譲る気配は微塵もなかった。碧眼が期待に満ちてこちらを見ている。四本の尻尾が、椅子の後ろで機嫌よく揺れているのが見えた。

 店内を素早く見回す。奥の客はこちらに背を向けている。店員はカウンターの中だ。誰も見ていない。誰も見ていないが、問題はそこではない気がした。

 

 覚悟を決めて、口を開ける。

 海老は、自分の皿のものと寸分違わぬ味がした。当たり前だ。それなのに、心臓の音は先ほどまでの倍になっていた。

 

 「……どうですか」

 

 「同じ味です」

 

 「ふふ」

 

 宮舞天音は、今日一番の満足そうな表情で笑った。

 それから、期待のこもった目のまま、少しだけ首を傾げてみせる。

 

 「私にも、くれますか」

 

 最早後退はできなかった。

 震えそうになる手でフォークに海老を載せ、差し出す。彼女は少し身を乗り出して、ぱくりとそれを口に収めた。咀嚼して、飲み込んで、それから花が咲くように笑う。

 

 「……美味しいです。今日一番」

 

 「同じ味でしょう」

 

 「味の問題じゃないんです」

 

 幸福な場面のはずだった。実際、頬は情けないほど熱い。

 それなのに胸の奥では、小さな軋みが鳴り続けていた。この店も、この一皿も、この人の向かいの席も、どれ一つとして自分の身の丈に合っている気がしなかった。

 

 

 

 半分ほど食べ進めた頃に、宮舞天音が口を開いた。

 

 「貴方って」

 

 「好き嫌い、ありますか」

 

 思い悩むも、あまり思い浮かばない。正月に食べたおせちが気に食わなかったぐらいだが、ここで求められるのはそのような答えではないだろう。

 

 「……そんなにはないですけど」

 

 「じゃあ、苦手なものは」

 

 「ふき……ぐらいですかね」

 

 「ふき、ですか」

 

 宮舞天音は小さく繰り返した。メモでもするように、一度目を落とした。

 

 「覚えておきます」

 

 宮舞天音の好物については、自分はあまり知ってはいなかった。学内では割とどのようなメニューでもバランスよく食べる。甘いものが好きといった程度だった。

 

 「貴方のことを、もう少し知りたいと思っています」

 

 デザートを待つ間に、宮舞天音が静かに言った。

 窓の外の光は、来たときより少しだけ角度を変えていた。

 

 「……なぜですか」

 

 「なんとなく、だと怒りますか」

 

 「怒りませんよ、ただ」

 

 「ただ?」

 

 「……分からないので」

 

 何が分からないのか、うまく言葉にできなかった。

 あなたが何を考えているのか。なぜここまで興味を持つのか。どこまで知っていて、どこから知らないのか。

 宮舞天音はしばらくこちらを見てから、ゆっくりと口を開いた。

 

 「分からないことは、一つずつ聞けばいいじゃないですか」

 

 「……聞いていいんですか」

 

 「もちろん」

 

 「じゃあ」

 

 少しの間、言葉を選んだ。

 

 「なぜ、学食じゃなくて、ここに誘ったんですか」

 

 宮舞天音は少し考えるような間を置いた。

 

 「学食だと、あまりゆっくりできないので」

 

 「……混んでいますから?」

 

 「それもありますけど」

 

 彼女は窓の外に目をやった。

 枯れた中庭の向こうに、白い空が広がっている。

 

 「昨日みたいに、誰かが割り込んでくるのも困りますし」

 

 「それに、私の好きな場所を、貴方にも知ってほしかったので」

 

 返す言葉を探しているうちに、デザートが運ばれてきた。

 小さなパンナコッタに、柑橘のソースがかかっていた。

 宮舞天音は当然のようにスプーンを手に取った。

 こちらも、それに倣った。

 

  パンナコッタはスプーンを入れると柔らかく震えて、口に運ぶと柑橘のソースの酸味が先に立ち、あとからミルクの甘さがゆっくり追いついてきた。美味しい、と素直に思う。

 

 「気に入りましたか」

 

 スプーンを止めて、天音がこちらを見ていた。デザートの感想を訊いているようで、その目はもう少し広いことを訊いている気がした。この店を、という意味だ。私の好きな場所を、と彼女はさっき言った。

 

 「……はい。緊張はしましたけど」

 

 「ふふ。最初だけですよ、それは」

 

 「最初だけ、ですか」

 

 「二回目からは、初めて来たお店ではなくなりますから」

 

 彼女はそう言って、パンナコッタの最後の一匙を口に運んだ。

 皿の上のものがなくなると、店内の静けさが少しだけ濃くなった気がした。昼時を過ぎたのか、奥の席の話し声はいつの間にか消えていて、厨房から水音がかすかに届いてくるだけになっている。

 

 「……そろそろ、出ましょうか。午後の講義もありますし」

 

 天音が壁の古い時計へ目をやって言った。名残惜しさを隠さない声だった。頷いて、伝票へ手を伸ばす。

 会計を済ませようとすると、宮舞天音がすっと先に手を出した。

 

 「いいですよ、今日は私が」

 

 「いや、でも」

 

 「またの機会に」

 

 それだけ言って、宮舞天音は財布を仕舞った。またの機会、という言葉が自然に出てきたことに驚いた。彼女の中では既に次があることになっているらしかった。

 

 格子戸を開けて外に出ると、二月の風が火照った顔に心地よかった。

 

 

 

 

 帰り道、彼女は来たときと同じように、さりげなく歩幅を合わせてくれた。

 午後の光の中、煉瓦と格子戸の路地を背にして歩く彼女は、それだけで一枚の絵になった。この街並みにも、あの店にも、店主の一礼にも、彼女は最初から嵌っている。嵌っていないのは、隣を歩く自分の方だった。

 

 気づけば、半歩だけ遅れて歩いていた。

 ストーカーだった頃の距離が数十メートルなら、今は半歩。縮んだ距離を誇るべきなのだろう。だがその半歩は、追いついた半歩ではなく、引いた半歩だった。

 

 彼女はそのたびに歩調を緩め、何食わぬ顔で隣へ戻ってくる。詰められた分だけ、また足が半歩遅れる。彼女がそれに気づいているのかどうかは、分からなかった。

 またの機会、と彼女は言った。次は別のものを頼もう、とも笑う。

 

 その「次」の席に座っている自分の姿を、なぜかうまく思い描けなかった。

 

 

 

 

 

 

 6.図書棟-地下二階

 

 

 帰宅の時刻を少しずらして、図書棟へ向かった。

 昨日のランチのことが、まだ頭の中をうろうろとしていた。穏やかな時間だった。穏やかすぎて、逆に落ち着かなかった。少し頭を冷やす必要があった。

 

 図書棟の地下二階、閲覧室の端の席を選んだ。

 二月という時期のせいか、人の出入りは少なかった。この棟は地下三階から地上十三階まである広大な建物で、どこのフロアに行っても同じ空間にいる人数は数えるほどしかいない。それが今日は都合よかった。

 

 暖房が効いていて、外の冷気とは別の世界のように静かだった。ページをめくる音、鉛筆の音、遠くの空調の唸り。それ以外はほとんど何も聞こえない。

 窓のない閲覧室では、天気も時刻も分からなくなる。書架の谷間に机が並び、点々と灯る手元のライトの数だけ、人がいることが分かる。今日は三つか、四つ。どの灯りも遠く、互いに干渉しない距離で黙っていた。

 

 席に着いて、コートを椅子の背にかけた。

 鞄から筆記用具を出し、レジュメを日付順に揃え、教科書の該当ページに指を挟む。試験は来週。範囲は七章まで。そんなことを確かめながら、机の上に一通りを並べていく。準備というのはありがたいもので、手を動かしている間は、頭の方が黙っていてくれた。

 

 楽しかったことはまず認めるしかなかった。

 彼女の好きな店で、彼女の好きなメニューを食べて、益体もない話をして笑った。頬の熱も、浮ついた足取りも、帰ってからも消えなかった妙な高揚も、その全てが本物だった。一年半、数十メートルの距離から眺めるだけだった人間からすれば、あれは夢と呼んで差し支えのない時間だったはずだ。

 

 楽しさと軋みが、同じ一日の中に、分かち難く編み込まれていた。

 どちらかだけなら話は簡単だった。楽しいだけなら浮かれていればいいし、苦しいだけなら離れればいい。厄介なのは、あの店の窓際の席が、身の丈に合わないと軋みを立てながらもそれでも居心地がよかったことだ。分不相応だと分かっている椅子から、立ち上がりたくないと思ってしまったことだ。

 

 天板の木目を意味もなく目でなぞる。誰かが彫った小さな落書きが、ニスの下に沈んでいた。

 遠くの席で椅子を引く音がして、また静かになる。頭を冷やす、というのは思ったより難しい作業だった。冷やすべきものから意識を逸らそうとする、その動き自体が結局そちらを向いていた。

 

 ノートを広げ、ペンを手に取る。だが書き始めようとした瞬間に、視界の端で何かが動いた。

 顔を上げるつもりはなかった。それでも目が動いてしまったのは、嫌でも引き寄せられてしまう何かが、そこにあったからかもしれない。天性の引力とでも呼ぶべきものが、宮舞天音という人間には備わっている。

 

 斜め前方、数列離れた席に、宮舞天音がいた。

 

 

 

 

 

 いつもの黒のタートルネックに、今日は薄い色のカーディガンを羽織っている。ポニーテールにまとめた銀髪の毛先が、俯いた拍子に肩口へ流れた。ノートか何かに視線を落としていて、こちらには気づいていないように見えた。

 

 見入ってしまったと気づくまでに数秒かかった。

 気づいた瞬間に視線を手元へ引き戻す。ペン先がノートの上で止まったまま、動かなかった。

 

 連絡先を交換する以前は、この距離でも何も感じなかった。名前を呼ばれ、笑顔を向けられた今となっては、同じことをしていたとしてもどこか意味合いが変わってきている気がしてしまい、ペンを走らせ文字を書くことに集中しようとした。

 

 レジュメをひっくり返していると、スマートフォンが振動する。画面を見ると宮舞天音からのメッセージだった。心臓に悪い。

 

 『今、何していますか?』

 

 今しがた見ていたことと、このメッセージのタイミングが重なって、一瞬だけ、見られていたのかと思った。

 

 だが彼女の方を覗いてみると、前を向いたまま手元を見ていた。スマートフォンを操作している様子はあったが、こちらを見てはいない。

 返信しようかどうか、一拍迷ってから、打ち込んだ。

 

 『試験勉強中です』

 

 送信した直後に、すぐ返信が来る。

 

 『自然術史ですか? 来週の』

 

 彼女も同じ講義を取っている。来週の試験のことは当然知っているだろう。

 

 『はい』

 

 と打ちかけたところで、耳元に声がかかった。

 

 「ご一緒してもいいですか」

 

 顔を上げると、宮舞天音が立っていた。

 荷物を両手に抱え、こちらをまっすぐに見ている。碧眼がすぐ近くにあった。

 スマートフォンの画面には、『はい』の文字が入力途中のまま止まっていた。

 

 「……どうぞ」

 

 気づけばそう答えていた、断る言葉が今日も出てこなかった。

 

 

 

 

 宮舞天音は隣の席に荷物を置くと、コートを椅子の背にかけた。カーディガンの袖をわずかに直してから、静かに腰を下ろす。一連の動作に余計な音がなかった。

 

 「邪魔をするつもりはないので」

 

 小声で、それだけ言った。

 図書館の中だからという理由もあるだろうが、それにしても声が低かった。やけに耳に近い声だった。

 

 言葉通り、彼女は本当に静かだった。

 ノートを開き、レジュメを揃え、ペンケースの位置を直す。一通りの支度が済むと、あとはもうページをめくる音と、ペン先の走る音だけになった。

 

 つられてこちらもペンを動かす。

 ……動かそうとした。だが式は三行目で止まり、視線は気づけば真横の宮舞天音へ滑っていた。

 

 彼女のノートは、遠目にも整然としていた。

 定規を当てたようにまっすぐな行。三色に使い分けられたインク。重要語の下に引かれた線は、力の入り具合まで均一だった。

 

  バンドの活動でろくに出席できていないはずの講義のノートが、皆勤の筈のこちらのものより厚い。誰かに借りて、写して、自分の言葉で補い直しているのだろう。才能のある人間が、努力まで人並み以上にする。世の中の不平等というものが、白い紙の上に見やすくまとまっていた。

 対して手元のノートは、我ながら雲泥の差だった。

 

 三十分程静かに勉強できていたが、手が完全に止まった。

 例題の途中で、前提になる式が思い出せない。レジュメを遡っていると、机の上に影が差した。

 

 「ここ、ですか」

 

 囁き声とともに、白い指先がこちらのノートの一点を指した。

 いつの間にか、彼女は椅子ごと近づいていた。距離の詰め方に音というものがない。

 

 「先週の、この定義を使うんです。……少し、失礼しますね」

 

 断りの言葉と同時には、もうこちらのノートの余白にペンが走っていた。

 整った、少し丸みのある文字が、自分の走り書きの隣に並ぶ。同じページの上に置かれると、その差は残酷なほどだった。彼女の書いた三行は印刷物のようで、自分の十行は暗号文のようだった。

 

 「……分かりました。ありがとうございます」

 

 「いえ」

 

 彼女は満足そうに小さく頷いて、椅子を元へ戻した。

 ……戻した位置は、来たときよりも拳一つ分、こちらに近かった。指摘するのも妙な気がして、黙っていた。

 

 余白に残された丸い文字を、しばらく見下ろした。

 自分のノートの上に、彼女の痕跡がある。それだけのことが妙に落ち着かなくて、そのページだけ紙の目方が変わったような気さえした。

 

 ペンを持ち直し、目の前の式に集中しようとする。

 ……無意識に、椅子をわずかに引いていたらしい。木の脚が床を擦って、小さな音を立てた。彼女が顔を上げる。

 

 「……寒いですか?」

 

 「……いえ」

 

 「そうですか」

 

 彼女は短く答えて、手元へ戻った。

 それから少しして、机の中央に置かれていた彼女の水筒が、音もなくこちら側へ数センチ寄った。意味があるのかないのか分からない移動だった。ただ、引いた分だけ何かが静かに詰めてくるような、ここ数日で覚えのある感覚だけが確かにあった。

 また静かな時間が始まる、さっきまでと同じ沈黙なのに、少しだけ密度が高い気がした。

 

 

 

 

 「少し休憩しませんか」

 

 しばらくして、宮舞天音が言った。

 

 「そうですね」

 

 ペンを置くと、宮舞天音は水筒を取り出した。

 蓋を静かに開けて、一口飲む。それから、こちらへ目を向けた。

 

 「貴方って、将来どうするつもりですか」

 

 唐突な問いだった。

 

 「……どうするとは」

 

 「卒業してから。なんでもいいんですけど、考えていることがあれば」

 

 なんでもいい、と言われると余計に答えに詰まる。

 就職。大学院。それ以外の何か。そういう選択肢があることは当然知っていたが、どれも自分のこととして考えたことが、あまりなかった。

 

 「……まだ、特には」

 

 「そうですか」

 

 「あまり考えていなくて」

 

 宮舞天音は否定も肯定もしなかった。

 ただ、小さく頷いた。

 

 「あなたは」

 

 「私は音楽を続けるつもりで。バンドで」

 

 「……メジャーデビューが近いという話を聞きましたけど」

 

 「そうなんです、たぶん来年中には」

 

 決まっていることを話すような、落ち着いた声だった。不安も、過剰な自信も、どちらも混じっていない。ただ、そうなるだろうと思っている、という声だった。

 

 頷きながら、ふと余計な計算をしてしまう。

 メジャーデビューを控えた人間の一日と、自分の一日。同じ二十四時間の値段が同じはずがない。

 その値のつく時間が、今この瞬間も閲覧室の隅で自分のような人間に費やされている。ノートの余白の三行にも、机を寄ってきた水筒の数センチにも、本当なら別の正しい使い道があるのではないだろうかと。

 

 「怖くないですか」

 

 「怖い、というのは」

 

 「これだけ人気になって、さらに大きくなっていくことが」

 

 宮舞天音は少し考えた。

 

 「怖いこともありますよ」

 

 「そうなんですか」

 

 「でも、やりたいことがあるので。それをやるだけです」

 

 

 やりたいことがある。

 その一言が、思ったより重く胸に落ちてきた。

 自分には、その感覚が今のところない。

 

 やりたくないことは分かる。なりたくないものは分かる。だが何かに向かって進んでいるという実感が、学生生活を通じて一度も持てたことがなかった。

 

 それを今まであまり意識しなかったのは、比べる対象が近くにいなかったからかもしれない。

 

 「貴方は」

 

 宮舞天音がこちらを見た。

 

 「何か、好きなことはありますか」

 

 「……特には」

 

 「ないですか」

 

 「強いて言えば、音楽は聴きますけど」

 

 「どんな曲を、聴くんですか」

 

 少し迷って、結局正直に答えることにした。嘘をついたところで、どうせこの人には調べがつく。

 

 「……あなたたちの曲です。ほとんど」

 

 「文化祭で聴いてから、似た曲を辿って、他のバンドも聴くようにはなりましたけど。入り口も、真ん中も、あなたたちなので」

 

 宮舞天音は一度目を見開き、それから、ゆっくりと目を細めた。

 嬉しさと、それ以外の何かが半々に混ざったような、判断のつかない表情だった。

 

 「……それは、光栄です」

 

 「でも、好きなことと、それで生きていくことは別なので」

 

 思ったより率直に言葉が出た。

 

 「それに」

 

 言うつもりのなかった続きまで、口をついて出た。

 

 「俺の『好き』は、多分ぜんぶ借り物なんです。聴く曲も、取っている講義も、昼飯のメニューまで。……あなたみたいに、自分の中から出てきたものが、一つもないので」

 

 「……」

 

 「それが、どういうことなのか、最近少し考えています」

 

 言ってしまってから、本当に後悔した。

 こんなことを彼女に話すつもりではなかった。だが言葉が出てきてしまった。

 

 宮舞天音はしばらく沈黙していた。

 閲覧室の空調が、低く唸っていた。

 

 「……焦らなくても、いいと思います」

 

 やがて、静かに口を開いた。

 

 「曲を作るときも、最初の一音が決まるまでが、一番長いんです。何日も、一つも音を鳴らせないまま終わる日もあります」

 

 「でも、その沈黙は無駄ではないと思っています。鳴らしたい音を、探している時間なので」

 

 「貴方の今も、私にはそれと同じに見えます」

 

 「……慰めですか」

 

 「違います」

 

 即座に返ってきた。

 

 「私は音楽のことでしか、物を考えられないだけです」

 

 筋が通っているようで、少し煙に巻かれているような気もした。

 だがそれ以上、反論する気にはなれなかった。

 

 「……ありがとうございます」

 

 「お世辞ではないですよ」

 

 宮舞天音は水筒の蓋を閉めながら、もう一度だけこちらを見た。

 

 「続けましょうか」

 

 「はい」

 

 二人でノートに向き直った。

 静かな時間が戻ってくる。

 さっきと同じ時間のはずなのに、どこかが変わっていた。変わったのが自分なのか、空気なのか、あるいは二人の間にある何かなのか、うまく言葉にできなかった。

 

 ただ一つ、はっきりと分かったことがあった。

 自分と彼女の間には、才能や学力や容姿以外にも、もっと根本的な差がある。

 

 何かに向かっている人間と、そうでない人間の差だ。

 それに今更気づいたことが、なぜか昨日のランチよりも、ずっと重く残った。

 

 

 

 

 

 

 

 閉館を告げる館内放送で、顔を上げた。

 窓のない地下では気づかなかったが、地上に出ると、空はもう藍色に沈みかけていた。街灯が点き始めた構内を、帰り支度の学生がまばらに歩いている。

 

 「私、この後サークル棟に寄るので」

 

 宮舞天音は鞄を持ち直し、東の方角を示した。

 

 「また明日、会いましょう」

 

 「……はい」

 

 彼女は小さく会釈をして、歩き出す。

 夕闇の中を遠ざかっていくその背中には、行き先があった。今日この後の練習。来月のライブ。来年のデビュー。一歩ごとに、どこかへ近づいていく歩き方だった。

 

 自分はといえば、ここから帰るだけだ。

 同じ歩くという動作一つにとっても、その意味がまるで違うことが実感できた。

 

 角を曲がって姿が見えなくなるまで見送って、踵を返す。この見送る癖だけは、どうやっても抜けそうになかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 7.卒煙支援ブース

 

 

 ……かちりとライターに火をつける。

 じりじりと紙が赤く光る。

 

 ストーカーは辞めた。

 

 

 普段ならスタバでフラペチーノでも飲んでいる宮舞天音を追ってコールドブリューを注文している頃合いだが、踵を返してこうして敷地内の端の端の喫煙所に来ていた。

 理由は単純ではない、一つ確かなことは近付き過ぎということだ。

 

 本当に久しぶりに彼女を追うことを止めていた。今頃は何をしているのだろうか。

 ファンとして遠くから見ている分には何も問題はなかった。だが連絡先を交換し、隣の席で講義を受け、名前を呼ばれ、笑顔を向けられる。大したことだ、それが途轍もなく重たかった。

 

 こういう距離感でいてはいけない、と頭の中の冷静な部分が告げていた。

 自分がしてきたことを棚に上げて言うことではないが、これ以上踏み込んでいくことは正しくないように感じた。

 あの日から既に三日が経過していた、……心の中に燻ぶる罪悪感と、消えない過去がずっと付きまとっていた。

 

 嬉しかったのは紛れもない事実だ。

 推しと普通に話せる。隣に座って笑いかけられる日が来るとは思っていなかった。

 だが自分は真っ当なファンではない、だからこそ余計に苦しかった。

 

 俺は彼女の知らないところで、彼女の生活の隅々まで追いかけ続けてきた人間だ。

 彼女から連絡の通知が来るたびに、その事実が喉の小骨のように引っかかっていた。

 

 宮舞天音の口から出てくる言葉の端々には、同様に気になるものがあった。

 講義のスケジュール、SNSのアカウント、座っている場所。俺が宮舞天音のことを知っているように、彼女も当然のように俺のことを知っていた。

 

 どの程度かは分からないが、少なくとも一方的に見ているだけの関係ではなかった。

 

 それに気づいて、ようやく決めたことだ。

 普通の関係になりたい。一人のファンとして、一人の知人として、まっとうな距離感を作り直したい。そのためには先ず自分がやってきたことを完全に断ち切る必要があった。

 

 今日は同じ講義のない日だった。図書館で時間をつぶして、帰宅時間をいつもよりずらした。宮舞天音と意図して鉢合わせないようにだ。

 

 たったそれだけのことで、今日は酷く疲れていた。

 

 

 

 

 

 煙を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。

 卒煙支援ブースの中は相変わらず狭く、隙間風が足元から忍び込んでくる。換気扇の低い音だけが、この空間を満たしていた。

 

 あの日、ここで宮舞天音と相合傘をした記憶が、今こうして一人で立っていると妙に遠く感じられる。たった数日前のことのはずなのに、随分と長い時間が経ったような錯覚があった。

 

 昨日までの三日間が、頭の中で繰り返される。

 

 最初の講義の日、隣の席に座って、彼女が解いた演習問題を見せてもらった。次の日は昼休みに誘われて、他愛のない話をした。三日目は、図書館で並んで勉強をした。

 

 どの記憶も、不思議なくらい穏やかだった。

 ファンとして遠くから見ていたころには、想像すらしなかった種類の時間だった。彼女の声が思っていたよりずっと近くで聞こえること。笑った時に目尻がわずかに下がること。考え込むときに癖でペンの後ろを唇に当てること。そういう、画面越しや遠目には分からなかった細部が、今では当たり前のように認識していた。

 

 それに恐怖を感じた。

 

 怖い、という言葉が正確かどうかは分からない。だが近い感覚ではあった。

 知れば知るほど、自分がしてきたことの重大さを思い知らされる。彼女の隣にいる資格などあるはずがない。それなのに、誘われるたびに頷いてしまう自分がどうかしていると思った。

 

 灰皿に煙草の灰を落としながら、もう一度自分に言い聞かせる。

 

 今日からは、距離を置く。

 彼女の生活圏から、できる限り自分の気配を消す。SNSも見ない。スケジュールも合わせない。偶然を装うことなど勿論しない。

 

 それはこれまでとは正反対の行動だった。

 追いかけることに慣れた身体には、追いかけないということの方がよほど難しかった。何もしていないのに、落ち着かないそわそわとした感覚がずっと続いている。スマートフォンを確認したい衝動を、何度も煙でごまかした。

 

 ポケットの中で、何度か振動があった。

 見なくても、誰からかは分かる気がした。

 

 確認しないと決めていた。

 決めていたはずなのに、指先がポケットの中で携帯の輪郭をなぞってしまう。

 

 馬鹿げている、と思う。

 たった三日前まで、彼女の動向を逐一追いかけて生きていた人間が、今さら距離を置くなどと殊勝なことを考えている。正に滑稽だった。だがこれ以外にどうすればいいのか、自分には分からなかった。

 

 煙草の先が短くなっていく。

 窓のない狭い空間で、時間の感覚だけが緩やかに薄れていった。

 

 もう一本、火をつけようか迷っていたところで、外で物音がした。

 砂利を踏む、規則正しい足音が聞こえる。

 

 反射的に身構えた。この時間、この喫煙所に近づいてくる人間は普段はいない。

 足音は迷いなく近づいており、止める間もなく、まさか、と思う間もなく引き戸に手がかかる音がした。

 

 

 

 

 「……こんにちは」

 

 大きな影が、喫煙所の室内を差していた。

 入り口に立っていたのは宮舞天音だった。

 黒のタートルネックに、紺のロングコート。今日は少し改まった格好をしている。逆光を背負っているせいで表情までは読めず、ただ輪郭だけが、狭い出入り口いっぱいに立っていた。銀髪が外光を細く透かし、その足元から伸びた影が、こちらの爪先まで届いている。

 

 

 「……どうして」

 

 「散歩していたら、見えたので」

 

 直感的に嘘だと悟った。

 この喫煙所は校舎の裏手の、積極的に探さなければ辿り着けないような場所にある。散歩の経路には入らない。第一、雑草と無断栽培の薬草をかき分けてまで通る散歩道がこの世のどこにあるというのか。

 

 だが問い詰める前に、宮舞天音はこちらの正面に立った。

 手を伸ばせば届く距離に宮舞天音は立っていた。必然的に首を上げて見上げる形になる。煙草の火は既に自分で磨り潰したばかりだった。

 

 「……私の事、避けましたよね」

 

 「いえ、そういうわけでは」

 

 「嘘つき」

 

 宮舞天音はか細く、短い声でそれだけを言った。

 声に怒気が感じられないことが、かえって恐ろしかった。荒らげてくれた方がまだ受け止めようがあった。彼女はただ、曇り空の澱んだ空気をそのまま身にまとって、静かにこちらを見下ろしている。

 

 「今日、いつものスタバに行こうとしたんです」

 

 「貴方がついてこないので、変だなと思って」

 

 コートのポケットから手を取り出して、静かに続けた。

 心臓がどくどくと嫌な音を立てている。

 

 「ついてくる、というのは」

 

 「貴方、いつも私の後ろにいますよね」

 

 淡々とした響きに、喉の奥が引き攣る。

 逃れようのない過去が、重みと鋭さを持って胸の奥深くへ突き刺さる。

 

 「気づいて……いたんですか」

 

 「最初からです。気づかなかったと思いました?」

 

 宮舞天音は短く息をついた。呆れとも、諦めともつかない息だった。

 

 「今日もいるだろうと思っていました。でも、いなかった」

 

 「……すみません」

 

 反射的に謝っていた。

 謝る理由が正確には分からないまま、口が勝手に動いていた。

 

 宮舞天音はそんなこちらをじっと見ていた。

 いつもの涼しい表情の奥に、何か別の感情が混じっているような気がした。

 

 「謝ってほしいわけではないんです」

 

 静かな声だった。

 

 「ただ、知りたいんです。なぜ急に消えたのか」

 

 「……消えたわけでは」

 

 「消えましたよ」

 

 被せるように言われた。

 

 「SNSも、更新が止まっていました。連絡の通知も見ていないみたいでした。いつも感じていた貴方の存在が、今日はどこにもなかった。分かっていて聞いています」

 

 淡々とした口調だったが、その言葉の量に圧倒された。

 ここ三日、隣から自分がどれだけ動向を見られていたかが、嫌でも伝わってきた。

 

 「……何か、私が悪いことをしたのでしょうか」

 

 不意に、声のトーンが変わった。

 

 問い詰める色から、少しだけ不安げな色へ。張り詰めていた糸が、そこだけ細くなったような変化だった。

 

 「私が、何か貴方に失礼なことを言ってしまったとか」

 

 「いえ、そんなことは」

 

 「なら、なぜ」

 

 答えられなかった。

 ストーカーをやめようと決めたから、と正直に言えるはずもない。だが何も言わなければ、この沈黙がそのまま彼女を傷つけてしまう気がした。

 目の前の碧眼は、責める色よりも、答えを待つ色の方が濃くなっている。

 

 「……俺は、その」

 

 言葉を選びながら、ゆっくりと口を開く。

 

 「あなたとこうして話せるようになったのは、嬉しかったです。それは本当です」

 

 宮舞天音の表情がわずかに動いた。

 

 「でも」

 

 「でも?」

 

 「自分が、ちゃんとしたファンじゃないという自覚があって」

 

 声が掠れた。

 自覚、という言葉の中身を、彼女がどこまで知っているのかは分からない。分からないまま、ぎりぎりの縁を歩くように言葉を継いだ。

 

 「だから、距離を置こうと思いました。あなたに、ふさわしい人間でいたくて」

 

 嘘ではなかった。これは一つの本心ではあった。

 

 宮舞天音はしばらく黙っていた。

 雨の気配が近いのか、換気扇の向こうで風の音が湿り始めていた。彼女は何かを測るように、こちらの目をじっと見ている。

 

 「……それだけ、ですか」

 

 やがて、静かに聞いてきた。

 

 「それだけ、というのは」

 

 「私に嫌気が差したとか、面倒になったとか、そういうことではなく」

 

 「違います」

 

 即答だった。

 今日初めて、迷いなく言葉が出た。

 

 宮舞天音は小さく息をついた。

 安堵したような、あるいは別の感情を押し殺したような、複雑な音だった。張り詰めていた肩が、ほんのわずかに下がる。

 

 「……よかった」

 

 「……」

 

 「私、てっきり嫌われたのかと思っていました」

 

 ぽつりと漏れた声には、これまで聞いたことのない柔らかさがあった。

 いつもの余裕のある笑みではなく、もっと素の感情に近いものが滲んでいる気がした。

 

 「嫌うはずがないです」

 

 気づけば、そう口にしていた。

 

 宮舞天音は少しの間、こちらを見つめた。

 それから、ふっと表情を緩める。いつもの微笑みに戻りながらも、目の奥にはまだ何か別のものが残っていた。

 

 「ふさわしい人間でいたい、というのは」

 

 彼女はゆっくりと続けた。

 

 「貴方が決めることではないですよ」

 

 「……」

 

 「私が決めます」

 

 言い切る声には、有無を言わせない響きがあった。

 さっきまでの不安げな色は、もうどこにもなかった。

 

 「私が、貴方と一緒にいたいと思っている。それだけで十分です」

 

 「……それは」

 

 「だから」

 

 宮舞天音はこちらへ一歩近づいた。

 狭いブースの中、距離がまた縮まる。

 

 「勝手にいなくならないでください」

 

 その言葉には、懇願のような、命令のような、両方の響きがあった。

 

 声が出るまでに、少し時間がかかった。

 

 頭の中では、もっと穏当な返事を探していたはずだった。曖昧に頷いて、その場をやり過ごす方法はいくらでもあったはずだ。

 

 だが喉から出てきたのは、もっと硬く、もっと尖った言葉だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「……お断りします」

 

 震えた声だった。

 自分でもそうと分かるくらい、語尾がわずかに揺れていた。

 

 狭いブースの空気が、一瞬で、冷たいものに変わる。

 

 「……は?」

 

 宮舞天音の声は、これまで聞いたどの声とも違っていた。

 心の底から底冷えするような声色だった。困惑の色が滲んでいるのに、それでいて温度が氷点下まで一気に下がったような、奇妙な響きだった。

 

 碧眼がこちらを見つめている。

 断られるなどという可能性は最初から想定していなかった、という顔だった。理解できないものを見るような、それでいて祈りすがるような目をしていた。

 

 「今、なんと」

 

 「お断りします、と言いました」

 

 もう一度、はっきりと言った。

 今度は震えなかった。だが代わりに、心臓が痛いくらいに早鐘を打っていた。

 

 宮舞天音は黙ったまま、しばらくこちらを見続けていた。

 換気扇の唸りだけが、二人の間を埋めていた。

 

 「……理由を、聞いてもいいですか」

 

 ようやく口を開いた声は、先ほどよりも幾分か落ち着いていた。だが、その下にまだ何か硬いものが残っているのが分かった。

 

 理由なら、いくらでもあった。

 むしろ、ありすぎて、どれから話せばいいのか分からなかった。

 

 「……あなたは、有名人です」

 

 ゆっくりと、言葉を選びながら口を開く。

 

 「ファンと、こんな風に近い距離でいることが、もし知られたら」

 

 「知られたら?」

 

 「あなたの評判に、傷がつきます」

 

 宮舞天音はわずかに眉をひそめた。

 

 「私の心配を、しているということですか」

 

 「それもあります」

 

 「それも?」

 

 「……それだけじゃないです」

 

 息を整える。

 言わなければならないことが、もう一つあった。これが本題だった。

 

 「あなたが、なぜそこまで俺に構うのか、正直まったく理解できません」

 

 はっきりと言った。

 言ってしまってから、自分の声の硬さに少し驚いた。

 

 「最初は、ファンとして覚えていてくれているだけだと思っていました。でも、講義のスケジュールを知っていたり、SNSのアカウントを特定していたり……今日だって、そうです。スタバについてこなかったからといって、わざわざここまで来た。普通、そこまでしますか」

 

 宮舞天音は何も言わなかった。

 その沈黙が、肯定にも否定にも見えた。

 

 「分からないんです、あなたの考えていることが」

 

 声が少しだけ荒くなった。

 

 「それが、怖いんです」

 

 怖い、という言葉を口にした瞬間、自分でもその意味を測りかねた。

 彼女が怖いのか、彼女の行動の理由が怖いのか、それとも、自分がそれに惹かれていることが怖いのか。境界線はもう曖昧で、ぐちゃぐちゃだった。

 

 「だから、距離を置きたいんです。これ以上、近づくべきじゃない」

 

 言い切ると、息が切れていた。

 曖昧だった自分の感情を、曖昧なまま、思うがままに口に出した。

 狭いブースの中の空気が、やけに重く感じられた。

 

 

 お互いにしばらく、何も言わなかった。

だがそれは、納得して黙っているようには見えなかった。何かを組み立て直しているような、次の言葉を選んでいるような沈黙だった。

 

 「……評判の話は」

 

 宮舞天音はゆっくりと口を開いた。

 

 「貴方が決めることではないと、さっきも言ったはずです」

 

 「でも」

 

 「私の評判が傷つくかどうかは、私が判断します」

 

 声には、わずかに苛立ちの色が滲んでいた。

 それは、これまで見たことのない種類の苛立ちだった。

 

 「それに」

 

 彼女は一歩、こちらへ踏み出した。

 壁際まで追い詰められる距離になる。

 

 「貴方が私の考えを理解できないと言うなら、私だって貴方のことを全部理解しているわけではないですよ」

 

 「……それは」

 

 「お互い様じゃないですか」

 

 碧眼が、まっすぐにこちらを見据えていた。

 逃げ場のない視線だった。

 

 「相手のことを理解したいと考える、そのために歩み寄るのは普通の事だと思いませんか」

 

 さらに半歩、距離を詰められる。

 

 「分からないから離れる、というのは、おかしいと思いませんか」

 

 「……おかしいかもしれません。でも」

 

 言葉に詰まる。

 頭の中では、もっと別の理由があった。だがそれを言葉にすることはできず、結局は同じ言葉を繰り返すしかなかった。

 

 「俺は、距離を置きたいんです」

 

 宮舞天音の表情が、わずかに揺れた。

 

 「……なぜですか」

 

 「……」

 

 「本当の理由を、言ってください」

 

 声が低くなる。

 懇願ではなく、もっと切実な、何かを確かめるような響きだった。

 

 「私の何が、貴方をそんなに不安にさせるんですか」

 

 答えられなかった。

 本当の理由は自分でもわからなかった。

 

 沈黙が続いた。

 換気扇の音だけが、やけに大きく響いていた。

 

 「……言えない、ということですか」

 

 宮舞天音は静かに呟いた。

 責めるような声ではなかった。ただ、確認するような声だった。

 

 「言えないなら、それでいいです」

 

 「……」

 

 「でも、覚えておいてください」

 

 彼女はわずかに目を細めた。

 

 「私は、簡単には諦めません」

 

 その言葉には、先ほどまでの懇願や苛立ちとは違う、もっと深いところから出てきたような響きがあった。

 冗談には聞こえなかった。

 

 「……それは、どういう」

 

 「そのままの意味です」

 

 そうやって短く言うと、少しだけ後ろに下がった。

 距離が、わずかに戻る。

 

 しばらくの沈黙のあと、彼女は小さく息をついた。

 ようやく出てきた声は、驚くほど平坦だった。

 

 「今日のところは、引きます」

 

 あっさりとした答えに、逆に戸惑った。

 もっと反論されると思っていた。もっと食い下がられると思っていた。だが宮舞天音は、それ以上何も言わずに、ただ静かにこちらを見ているだけだった。

 

 「貴方の言うことは、よく分かりました」

 

 その声には、もう懇願も命令もなかった。

 代わりにあったのは、何か別の、もっと静かに固まっていく決意のようなものだった。

 

 「では」

 

 彼女はコートの裾を整えると、引き戸へ手をかけた。

 振り返らずに、それだけ言う。

 

 「失礼します」

 

 引き戸が開き、外の冷たい空気が流れ込んできた。

 宮舞天音の背中が見えなくなるまで、声をかけることができなかった。

 

 一人になったブースの中で、ようやく息を吐く。

 言うべきことは言った、はずだった。

 それなのに、胸の中に残ったのは安堵ではなく、もっと重くて、形のはっきりしない不安だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 8.翌日

 

 

 いつもの講義室に向かう。

 扉を開けると、いつもなら既に最前列で姿勢を正している宮舞天音の姿が見当たらなかった。

 

 昨日のやり取りを思えば、来ないことの方が自然なのかもしれない。そう自分に言い聞かせながら、結局はいつもの最後列に腰を下ろした。

 

 講義開始のチャイムまでには、まだ少し時間があった。

 ノートを広げて、昨日のことをぼんやりと反芻する。お断りします、と口にした瞬間の自分の声。冷たくなった彼女の視線。失礼します、と言って出ていった背中。

 

 ……あれで、終わったのだろうか。

 

 そんな訳がない、と考えていると、教室の扉が開く音がした。

 顔を上げると、宮舞天音が入ってくるところだった。

 

 いつもより少し遅い。

 普段なら、開始の十分以上前には席に着いている人だった。

 

 彼女は教室を一瞥すると、まっすぐにこちらへ向かって歩いてきた。

 周りの学生たちの視線が一瞬だけ向けられたのが分かったが、宮舞天音は気にした様子もなく、隣の空席に腰を下ろした。

 

 「……」

 

 言葉が出てこなかった。

 昨日のことがあって、なぜ当たり前のように隣に座るのか、その判断の基準がまったく読めなかった。

 

 宮舞天音は鞄から教科書を取り出しながら、ちらりとこちらを見た。

 

 「何か?」

 

 「いえ、その……」

 

 「座っては駄目でしたか」

 

 「駄目、というか」

 

 言葉に詰まる。

 駄目だと言うべきなのは分かっていた。だが昨日あれだけはっきりと拒絶を口にしたばかりで、もう一度同じことを繰り返す気力が、今はまだ湧いてこなかった。

 

 宮舞天音はそんなこちらの様子を見て、小さく目を細めた。

 

 「不公平だと思っていたんですよ」

 

 「……何がですか」

 

 「私はいつも、貴方の姿を見ることができないのに」

 

 さらりと、それだけ言った。

 

 意味を測りかねていると、彼女は静かに続けた。

 

 「貴方は、私の知らないところで、ずっと私を見ていましたよね」

 

 心臓が激しく軋んで、苦しいぐらいだった。

 

 「だから、これくらいは。お互い様だと思っています」

 

 その言い方には、どこか論理めいた響きがあった。

 筋が通っているようで、根本的なところがどこかずれている。だが反論する言葉を、すぐには見つけられなかった。

 

 宮舞天音は教科書のページを開きながら、もう一言だけ付け加えた。

 

 「それに、座る席を貴方が決められる理由は、特にないと思いますが」

 

 「……それは、そうですけど」

 

 「では、いいですね」

 

 有無を言わせない口調で、それで会話は終わった。

 

 ちょうどそのタイミングで講義開始のチャイムが鳴る。

 教授が教壇に立ち、スライドが切り替わる。隣からは、ペンが紙を滑る音が聞こえてくる。

 いつもと同じ音のはずなのに、今日はその音の一つひとつが、やけに鮮明に耳に残った。

 

 昨日、あれだけはっきりと距離を置きたいと言ったはずだった。

 それなのに今、彼女はいつもと変わらない様子で隣に座っている。拒絶されたことなど、まるで意に介していないかのように。

 

 不公平、という言葉が、頭の中で何度も繰り返された。

 彼女がこれまでどれだけ自分のことを見てきたのか、その量を考えるたびに、薄ら寒いものが背筋を伝った。

 

 講義が終わるまでの間、宮舞天音は何事もなかったかのように、いつも通り講義に集中していた。

 時折こちらに視線を寄越すこともあったが、それ以上踏み込んでくることはなかった。ただ「隣にいる」という事実だけを、静かに積み重ねているようだった。

 

 鐘が鳴り、講義が終わる。

 宮舞天音は鞄をまとめながら、こちらを一瞥した。

 

 「また、明日」

 

 返事を待たずに、彼女は席を立った。

 長い尻尾がコートの裾から覗き、廊下の人混みの中へ消えていく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 メッセージアプリの通知音で目が覚めた。

 枕元のスマートフォンを手に取ると、暗い部屋の中で画面だけが眩しいくらいに光っていた。

 

 時刻は朝の七時前。普段ならまだ眠っている時間だった。カーテンの隙間から差す光はまだ弱く、部屋の空気は冷え切っている。

 

 『おはようございます』

 

 宮舞天音からだった。

 続けて、狐のスタンプ。両手を上げて朝日を浴びている、暢気な絵柄だった。

 

 しばらく画面を見つめたまま、布団の中で動けずにいた。

 

 返信するべきか、しないべきか。昨日のやり取りを思えば、無視するのが筋のはずだった。だが既読をつけることすら、何か意味を持ってしまう気がして、結局はそのまま画面を閉じた。

 

 

 

 大学に向かう支度をしている間に、また通知が鳴った。

 

 『今日もいい天気ですね』

 

 窓の外は、彼女の言う通りの快晴だった。

 返信はしなかった。既読もつけなかった。画面の上半分の表示だけを見て、また伏せる。

 

 プレビューで読む、という中途半端な抜け道を覚えてしまっていた。読んでいないことにしたまま、読んでいる。我ながら姑息だったが、これが今現在で最も楽な選択肢だった。

 

 電車に乗っている間にも、もう一件届いた。

 

 『今、私も電車にいます』

 

 吊り革を握る手に、力がこもった。

 どこの、とは書いていないが、彼女の使う路線は知っている。この時間なら、この電車に乗っていてもおかしくない。……そこまで即座に計算できてしまう自分の頭に、うんざりした。

 

 顔を上げて、車内をさりげなく見回す。朝の車両は混んでいて、コートの背中と後頭部ばかりが視界を埋めていた。銀色は、見当たらない。

 

 偶然なのか、それとも知っていて送ってきているのか、判断がつかなかった。

 画面を見ないようにしながら、車窓の外をぼんやりと眺めた。ガラスに薄く映る自分の顔が、ひどく寝不足の顔をしていた。

 

 午前の講義は、内容がほとんど頭に入らなかった。

 教授の声よりも、鞄の中のスマートフォンの方に意識が向いていた。振動は、講義中に二度あった。二度とも、確かめなかった。確かめなかったことを、九十分間ずっと考えていた。

 

 

 

 

 

 昼休み、学食でうどんを啜っていると、また着信音が鳴った。

 

 『うどん、好きなんですか』

 

 箸を持つ手が止まる。

 偶然にしてはタイミングが良すぎるので、顔を上げ、周囲を見回した。

 昼時の学食は満席に近い。トレーを運ぶ列、席を探す集団、笑い声。数百人の中に、あの銀髪があれば一瞬で分かるはずだった。人混みでも隠しようのない長身と、狐耳。……見当たらなかった。二階の吹き抜けを見上げても、窓際を端から辿っても、いない。

 

 ただの偶然だ、と自分に言い聞かせる。昼休みの時間に、昼食について聞くこと自体は、それほど不自然なことではないはずだった。

 だが、うどん、という具体名が喉に引っかかっていた。今日は何を食べていますか、ではなく。うどん、好きなんですか、と来た。言い逃れることが無茶なように思う。

 

 ……かつての自分を、思い出さずにはいられなかった。

 彼女の昼食の時間と場所を投稿から割り出して、同じメニューを頼んでいた頃の自分を。あの頃の自分がもし彼女にメッセージを送れたとしても、決してメッセージは送らないだろうが。

 

 既読をつけずに画面を閉じる。

 うどんの味は、既によく分からなくなっていた。すだちの酸味だけが舌の上を刺激して存在感を示している。

 

 食べ終えて席を立つと、すぐにまた振動があった。

 振り返って学食の中を見渡したが、宮舞天音らしき姿はどこにもなかった。

 

 いない。それなのに、いないことが安心につながらなかった。姿が見えないことと、見られていないことが、彼女に関しては同じ意味にならないと、もう知ってしまっていた。

 

 

 

 

 

 午後は図書棟の隅で時間を潰した。

 共通の講義がない日で、それだけが救いだった。それでも廊下を歩くたびに、曲がり角の先を気にする癖がついていた。たった一日で身についた、情けない癖だった。

 

 振動は、途切れなかった。二時間おきだった間隔が、夕方に近づくにつれて狭まっていくのが、確かめなくても分かった。ポケットの中の振動の回数だけで、彼女の感情がじわりじわりと伝わってくる。

 

 夕方、バイト先に向かう途中で電話が鳴った。

 メッセージではなく、着信だった。

 

 画面に表示された名前を見て、足が止まる。着信音が、静かな廊下に妙に大きく響いた。通りには人気がなく、自分の影だけが長く伸びた道の真ん中で、手の中の板だけが鳴り続けている。

 

 出るべきか迷っているうちに、コール音は途切れた。

 ほっとしたのも束の間、すぐにまた同じ画面が光る。

 

 二回目のコールも、無視した。マナーモードに変更した。

 

 三回目、四回目。律儀に同じ間隔で、着信が繰り返される。感情的な連打ではなかった。むしろ規則正しさが恐ろしかった。鳴らして、待って、切れて、また鳴らす。メトロノームのような正確さで、諦めるという選択肢だけが省かれていた。

 

 五回目で、ようやく止まった。

 

 しばらく道端で立ち尽くしたまま、スマートフォンの画面を見つめていた。

 不在着信の通知が、画面いっぱいに並んでいる。同じ名前が、同じ字面で、五つ。

 

 その下に、メッセージが一件届いていた。

 

 『電話、出てもらえませんか』

 

 そっけない一文だった。

 怒っているのか、落胆しているのか、悲しんでいるのか、文字だけでは読み取れない。だがその短さが、かえって重く感じられた。今日一日の、天気だの昼食だのという言葉の飾りが、この一件だけ全部剥がれていた。

 

 返信せずに、また画面を閉じた。

 バイト先へ向かう足取りが、いつもより重かった。仕事中も、ロッカーに仕舞ったスマートフォンのことを、何度も考えた。今も鳴っているだろうか。鳴っていないなら、それはそれで、なぜ鳴っていないのか。

 

 ……気づけば、彼女の動向を推し量っている。無視をしている側のはずなのに、頭の中は一日中、彼女で占められていた。それこそが彼女の目的なのだとしたら、この勝負はとうに決まっていた。

 

 夜、帰宅してから、改めて通知の一覧を確認した。

 数えるつもりはなかったが、ざっと見ただけでも、この一日だけで五十件近いメッセージが届いていた。

 朝の挨拶。天気の話。昼食の話。今何をしているか。講義の感想。バイトは何時までか。夕飯は食べたか。

 電気もつけないまま、ベッドの縁に腰掛けて、それを上から順に読んだ。

 

 一つひとつは、何でもない言葉だった。

 既読をつけない読み方は、もうすっかり手に馴染んでいた。

 

 友人同士のやり取りであれば、何の違和感もないような内容ばかりだ。絵文字の使い方も、スタンプの選び方も、いつも通りに柔らかい。怒りの言葉も、責める言葉も、昨日の話を蒸し返す言葉も、一つもなかった。

 

 だが、その量と頻度が、明らかに普通ではなかった。

 既読をつけていないのに、まるで会話が成立しているかのように、彼女のメッセージだけが一方的に積み重なっていく。返事を期待していないのか、それとも、返事をされないことすら織り込み済みなのか。

 

 画面をスクロールしていくと、一番下に、先ほどの電話の件に続けてもう一件、新しいメッセージが届いていた。

 

 『明日も、待っていますね』

 

 送信時刻は、つい数分前だった。

 

 画面を閉じると、真っ暗になった画面に、自分の顔が映る。

 布団に入ってからも、しばらく寝付けなかった。

 目を閉じると、彼女からのメッセージが瞼の裏に並んだ。どれも柔らかく、どれも優しく、どれも、こちらの返事を必要としていた。

 

 既読をつけなかったことに、安堵すべきなのか、後悔するべきなのか、それとも別の意味で不安に思うべきなのか。

 自分でもよく分からないまま、スマートフォンを枕元に置いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 9.通学路

 

 翌朝、講義棟へ向かう途中に足を止めた。

 

 理由はうまく言葉にできなかった。

 何かが引っかかった、という程度のことだった。風の向きが変わったとか、誰かの足音が重なって聞こえたとか、そういう、具体的な理由があったわけではない。ただ、首の後ろのあたりに、薄い圧のようなものを感じた。

 

 振り返ってみても、廊下には数人の学生が行き交っているだけで、こちらを見ている者は誰もいなかった。皆それぞれの行き先へ向かっているだけで、誰一人として視線の合うものはいなかった。視界の端で何かが動いた気がして、注視してみるも誰もいない。曲がり角の向こうに誰かが立っていたような気配を感じて、少し戻ってみても実際にはそこには何もなかった。

 

 教室の扉を開けて中に入ると、感覚が少し薄れた。

 屋内の、人の多い場所に入ったからだろうか。それとも単に気が散っただけだろうか。

 宮舞天音と同じ講義ではないから、というのは考え過ぎだと思いたかった。

 

 一瞬だけ歩いて来た廊下を振り返った。

 廊下の外、構内の通路が見える。行き交う学生。木の梢が風に揺れている。階段の手前に銀色の何かが見えたような気がして目を凝らしたが、それが何だったのか確認できなかった。

 

 教室の空気が思ったより冷たかった。

 二月の朝としては普通の寒さのはずだった。それでも、首の後ろから背中にかけて、じわりと冷えが残っている。汗をかいているわけでもないのに、体の芯だけが微かに湿っているような、嫌な感覚だった。

 

 あの頃、自分は常に死角を選んでいた。

 視界の端、柱の裏、人の流れの中。彼女の動線を先読みして、こちらからは見えるが相手からは見えない位置に立つ。気配を消す。足音を周囲の騒音に紛らわせる。それを何ヶ月も続けていた。

 

 見つからないように動くということが、どういうことか、嫌というほど知っていた。

 だがその頃は、見られている側の感覚を知らなかった。厳密には理解していなかったということになるのだが。

 

 宮舞天音の後をつけていた時、気づかれていると意識したことはなかった。完全に隠れられていると思っていたわけではないが、少なくとも確信されてはいないだろうと高をくくっていた。

 しかし彼女の言動から判断するに、ずっと前から知られていたのだろう。

 

 見られている側には何かが伝わる。根拠のない、証拠もない、それでも消えない感覚として。

 

 もし、同じやり方で見られているとしたら。

 その可能性に思い至った瞬間、背筋に感覚が走った。

 ひやりとした、というより、何かが腑に落ちた、という感覚に近かった。

 

 夜の校舎で、図書棟で、暗い夜道で、自宅で、至る所で感じていた視線を思い出す。

 呼吸の気配。人がいなくなった後に残る、誰かがそこにいたような空気。

 

 その感覚が始まったのは、いつからだっただろうか、と思った。

 思い返せば随分前からあった気がした。

 

 ただその頃は、自分にやましい気持ちがあるからだ、と片付けていた。

 やましいことをしている人間は、見られていると感じやすい。それは自分でも分かっていた。だから、感覚を感じるたびに、その説明で上書きしてきた。

 

 だが今も、同じ感覚がある。

 やましいことをやめようとしている、今この時でも。

 

 誰もいない、ということと、誰もいなかった、ということは厳密には違う。

 自分が一番よく知っている話だった。

 

 

 

 

 

 昼休みが終わり、午後の講義に入ろうとしていた。

 

 約束の講義には向かわなかった。

 啖呵を切った手前、『待っています』と告げられた講義に向かう気は起きなかった。

 

 人の流れと逆方向に歩いて、図書棟へ向かう。

 地下への階段を下りると一層空気が冷たく感じた。外の湿った冬の空気とは違う、乾いた紙と埃の混じった匂い。地下特有の静けさが階段を下りるたびに濃くなっていった。

 地下3階の閲覧室は、予想通り人が少なかった。

 通常の試験は既に終わっているため、わざわざここまで来る学生はほとんどいない。奥の席に数人いる程度で席はほぼ空いていたので、壁を背にして、入り口が視界に入る位置に座った。

 無意識に見られる側の選択になっていた。先日のように鉢合わせにはなりたくなかった。

 

 教科書を広げて、講義の復習を始める。

 ページをめくる音が、静かな地下に小さく響く。

 空調の唸りが一定のリズムで続いているのみで、それ以外には何の音も聞こえなかった

 ページをめくっていくと途中で手が止まる。自分の字ではない宮舞天音の可愛らしい丸文字が目に入った。

 

 それは一緒に講義を受けた日のノートだった。余白に書き込みが入っている。整然とした細い文字で、自分が取りこぼしていた板書の補足や、式の途中経過が丁寧に添えられていた。

 

 見比べると自分のノートとの差が嫌になるほどはっきりしていた。走り書きで半分しか追えていない自分の文字と、どこにも迷いのない彼女の文字が同じページの上に並んでいると、思わずため息が出る。

 

 

 開いたまま机に置いておく気になれず、ノートを閉じた時、ポケットの中でスマートフォンが震えた。

 

 『今、どこにいますか?』

 

 『会いたいです』

 

 『見ていますよね』

 

 『返事をしていただけませんか』

 

 喉の奥がひくひくと引き攣った。思わず電源ボタンを長押しする。

 携帯は静かになったが、胸の鼓動がいつものようにどくどくと鳴り始めていた。

 

 空調の駆動音が嫌に頭に響き、この場所にいることが急に堪えられなくなっていた。

 荷物をまとめて、席を立つ。

 

 地上に出ると、外の空気が冷たかった。

 地下の乾いた静けさとは打って変わって、廊下には講義の合間の学生が行き交っていた。その流れに混じりながら、どこへ行くか決めかねていた。

 

 図書館を出たのは、落ち着かなかったからだ。

 落ち着かない理由は分かっている。分かっているが、だからといってどこへ行けば落ち着くのかも、よく分からなかった。

 

 人の流れを避けるように、裏手の渡り廊下へ向かった。

 この通路は古い棟と新しい棟を繋ぐためだけに存在していて、普段から人通りが少ない。授業の合間に使う学生もほとんどおらず、気が向いたときに一人でいるには都合のいい場所だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 渡り廊下に入ると、一気に外の騒音が遠のいた。

 コンクリートの壁に、細長い窓が等間隔に並んでいる。外は中庭で、冬の枯れた芝生が広がっていた。午後の光が低い角度から差し込んで、廊下の床に窓枠の影を規則正しく落としていた。

 

 ゆっくりと歩きながら、頭の中を整理しようとした。

 

 宮舞天音のことを考えていた。

 

 自分にとって宮舞天音は推しである。この感情について深く考えることは今まであまりなかったが、どこまでも追いかけたくなる程に夢中になっていることは確かだった。

 その適切な距離がどこにあるのか、今も以前も自分で測ることができなかった。

 

 宮舞天音にとっての自分がなんであるかは、考えてもわからないことだった。

 宮舞天音に求められて、それを避けている自分のことも整理がつかなかった。

 

 本来ならば喜ぶべきであるのだろうか、夢のような話であることは理解しているつもりだった。だがそれ以上の得体の知れなさに逃避を選んでいた。

 

 先日の、昼食を共にした時の会話を思い出す。

 

 『分からないことは、一つずつ聞けばいいじゃないですか』

 

 ……と、彼女は言った。会話を交わせば、宮舞天音のことを理解することもできるのかもしれない。

 しかしそれと同時に、自身と宮舞天音の間にある埋めることのできない差についても十分理解しているつもりだった。

 

 ファンの身から知って取れるように、彼女のバンドは今が一番勢いに乗っていて、今が一番大事な時期だった。

 そんな彼女の時間が自分のような存在に使われることに耐えられなかった。

 自分には何もなかった。信念も、本心も、何一つとして優れている点が思い浮かばない。

 アイデンティティでさえも彼女に依拠していた。宮舞天音を追う自分という存在になることで自分自身を成り立たせていた。

  

 

 廊下の中ほどまで来たところで、ふと足を止めた。

 

 窓ガラスに、自分の姿が薄く映り込んでいた。

 外の光が強いせいで、映り込みははっきりとしていた。鏡のように映る自分の輪郭、その後ろに続く廊下の奥。

 

 目が、そこで止まった。

 

 映り込みの中、廊下の奥の方に、また何か、銀色のきらめきが見えた気がした。

 一瞬のことだった。窓ガラスに反射する像は歪んでいて、正確な形は分からない。銀色の、細長い何か。

 

 振り返るも誰もいなかった。

 

 廊下の奥まで、視線を走らせた。

 出入り口の扉は閉まっている。柱の陰にも、壁際にも、人の姿はなかった。窓の外の中庭も、人けがなかった。

 

 だが今度は、気のせいだと思えなかった。

 窓ガラスに映った像は、確かに見た。一瞬だったが、銀色のものが廊下の奥にあったのは確かだった。それが何だったのか、今となっては確認できないだけで。

 

 しばらく、その場で動けなかった。

 廊下の窓から差し込む光だけが、規則正しく床に影を落としていた。その影が、風もないのにわずかに揺れているように見えた。気のせいだった。今度は本当に気のせいだったと思う。だがそう分かっていても、目が影の動きを追い続けた。

 

 視線を感じていた。

 

 ずっと前から、ずっと感じていたものだ。見られている、覗かれているとはっきりと理解できるような感覚。

 

 背筋を冷たいものが伝った。

 恐怖とは少し違った。もっと静かな、根元から崩れていくような感覚だった。

 最早この感覚に耐えることはできず、振り切るように走り出した。

 

 考えるより先に、足が出ていた。振り返ったら、また何かが見える気がした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 走った。

 どこへ向かうかは考えていなかった。ただ、視線の届かない場所へ。それだけを目指して、渡り廊下を抜け、旧棟の脇をすり抜けた。

 

 旧棟の裏、資材置き場の脇を抜ける細い通路に入る。

 学生はまず使わない道だった。両側を古い壁に挟まれ、日もろくに差さない。ここを通る人間がいるとすれば、近道を知り尽くした業者か、人目を避けたい人間くらいのものだ。

 

 ようやく足を緩める。肺が痛い。壁に手をつき、荒い呼吸を整える。

 視線は、もう感じなかった。

 撒いた、という言葉が頭に浮かんで、すぐに打ち消した。撒くも何も、誰かに追われていたという証拠はどこにもない。銀色の何かも、揺れる影も、全部気のせいで済む範囲の話だ。走り出したこと自体が、過剰な反応だったのかもしれない。

 

 呼吸が落ち着いてくると、今度は自分の滑稽さが染みてきた。

 誰もいない通路で、一人で息を切らしている。何から逃げてきたのかも、自分で説明できないままに。

 

 とにかく、ここを抜けよう。

 通路の先は確か、講義棟の裏口に繋がっている。そこまで出れば人目もある。人目があれば、少なくともこの感覚からは──

 

 顔を上げて、足が止まった。

 

 通路の出口、逆光の中に、人影が立っていた。

 長身のシルエット。頭の上で揺れる二つの耳。逆光の縁で、銀色の髪が細く光っている。

 

 走って、経路を選んで、撒いたはずだった。

 その先に、彼女は立っていた。追いかけてきたのではない。息一つ乱れていない。最初からそこにいて、ただ待っていたという佇まいだった。

 

 俺がどこへ逃げるか、彼女は走り出す前から知っていたのだ。

 かつての俺が、彼女の動線を先回りして待ち構えていたのと、寸分違わず同じやり方で

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「こんにちは」

 

 立っていたのは、宮舞天音だった。

 

 すれ違う人もいない静かな通路で、彼女だけがそこに立っていた。

 表情は変わらず涼やかで、何事もなかったかのような微笑みを浮かべている。

 

 「……どうして、ここに」

 

 思わず声が出た。

 この通路は、普段彼女が使う動線からは大きく外れている。偶然などありえない場所だった。

 

 宮舞天音は小さく首をかしげた。

 

 「偶然ですよ」

 

 「偶然」

 

 「偶々、私の行こうとする先に、貴方が居るだけです」

 

 あまりにも自然に、あまりにも淀みなく、彼女はそう言った。

 

 その言い方に、覚えがあった。

 

 かつて自分が、彼女の後をつけながら、心の中で何度も繰り返してきた言い訳だ。

 偶然同じ講義だった。偶然同じ時間に同じ食堂にいた。偶然、同じ場所を歩いていた。

 

 その言葉が、今は彼女の口から出てきている。

 

 「と、私が言うと思いましたか?」

 

 「貴方に会いに来たんです」

 

 宮舞天音はそう言うと、にこりと微笑んだ。

 その笑顔の奥に、これまで見たことのない種類の光が宿っているような気がした。

 

 偶然のはずがない、と分かっていた。

 彼女がここに来るための偶然など、最初から存在しない。

 

 だが、それを指摘する気力は、もう残っていなかった。

 

 距離を置こうとして、断ったはずだった。

 それなのに今、彼女は前よりも近い場所に立っている。

 

 まるで、立場が入れ替わってしまったかのようだった。

 

 

 

 

 

 

 

 10.通路

 

 

 「……聞きたいことが、あります」

 

 声を絞り出すまでに、随分と時間がかかった。

 宮舞天音は逆光の中で、静かに頷く。

 

 「どうぞ」

 

 「あの視線は……俺がずっと感じていた視線は、あなただったんですか」

 

 夜の校舎。図書棟。バイト終わりの廊下。さっきの渡り廊下。

 数え上げようとして、多すぎてやめた。

 

 「はい」

 

 あっさりとした返答だった。

 

 「……全部?」

 

 「全部かどうかは分かりません。私が見ていなかった時間の分までは、保証できませんから」

 

 冗談めかした言い方だったが、目は少しも笑っていなかった。

 

 「いつから、ですか」

 

 「数ヶ月前から、でしょうか。最初は、時々。最近は……毎日」

 

 毎日、という言葉が、狭い通路の壁に反響した気がした。

 

 「どうして」

 

 「どうして、とは」

 

 「どうして、隠れて見ていたんですか。あなたなら、いつでも声をかけられたはずです」

 

 実際、彼女は声をかけてきた。喫煙所で、教室で、当たり前のように隣へ来た。隠れて見る必要など、彼女には最初からなかったはずだ。

 

 宮舞天音は少しの間、視線を落とした。

 傾いた日が、伏せられた銀色の睫毛の影を頬に落としている。

 

 「貴方の、真似です」

 

 「……真似?」

 

 「貴方がしてくれていたことの、真似です」

 

 理解が追いつかなかった。

 彼女は構わず続けた。囁くような、大切な打ち明け話をするような声だった。

 

 「気づいたとき、最初は不思議だったんです。どうして声をかけてくれないんだろうって。ファンなら、話しかけてくれればいいのに」

 

 「でも、見ているうちに分かりました。貴方は、私の邪魔にならないように、私が困らないように、わざわざ見えない場所を選んでいたんですよね」

 

 「写真も撮らない。家にも来ない。プレゼントも贈らない。万が一にも、私に迷惑がかからないように」

 

 図星だった。

 限りなく無害であろうとしている──自分に言い聞かせてきた言い訳を、彼女は一言一句、正確に読み取っていた。ただし、言い訳としてではなく。

 

 「それって、その……愛じゃないですか」

 

 愛、という単語が、静かな通路にぽとりと落ちた。

 

 「何も求めない。気づかれることすら求めない。ただ元気でいてくれればいいって、遠くから祈っているだけ。……私、そんなふうに想われたのは初めてでした」

 

 「だから、私もそうしたかったんです」

 

 「同じやり方で、お返しがしたかった」

 

 「貴方が私にしてくれたことを、そっくりそのまま。……不器用なのは、自覚しています。でも私、これ以外に貴方へ伝わる言葉を、知らなかったので」

 

 言い終えて、宮舞天音はわずかに目を伏せた。

 四本の尻尾が、落ち着きなく揺れている。頬が、夕日のせいだけではない色に染まっていた。

 拙い手作りの贈り物を差し出す子供のような顔で、彼女はそこに立っていた。

 

 「……違う」

 

 喉から出た声は、掠れていた。

 

 「違いません」

 

 「違います。あれは、愛なんかじゃない。……ただの、犯罪です」

 

 「俺は、あなたの生活を勝手に覗いて、勝手に追い回して、勝手に満足していただけだ。祈っていたなんて、そんな綺麗なものじゃない」

 

 言いながら、気づいていた。

 彼女の行為を否定しようとする言葉が、一言残らず、放った先から自分自身に突き刺さって返ってくることに。

 

 宮舞天音は、悲しそうに──それでいて、どこか嬉しそうに首を振った。

 

 「なら、私のしたことも犯罪ですね」

 

 「私は貴方の後をつけて、アカウントを特定して、時間割を調べ上げて……貴方の持ち物も、借りています」

 

 「貴方が自分を許せないと言うなら、私のことも許さないでください」

 

 「貴方が自分を犯罪者だと言うなら、私も同罪です」

 

 「だから」

 

 彼女は一歩、距離を詰めた。

 

 「私たちは、同じなんですよ」

 

 同じ。

 その二文字が、これほど恐ろしく響いたことはなかった。

 

 彼女を肯定すれば、自分のしてきたことを肯定することになる。

 自分を断罪すれば、目の前で頬を染めているこの人を、断罪することになる。

 どちらの道も、選べなかった。

 

 「……同じじゃ、ない」

 

 「どこがですか」

 

 「あなたには価値がある。大勢に必要とされていて、これから先も必要とされていく人だ。俺とあなたじゃ、釣り合いが──」

 

 「関係ありません」

 

 初めて、声が強くなった。

 

 「価値があるから許される、ないから許されない。そういう話を、私はしていないんです」

 

 「私はただ、貴方と同じ場所に立ちたいだけです」

 

 「貴方が暗がりに立つなら、私も同じ暗がりに立ちます。それの、何がいけないんですか」

 

 答えられなかった。

 碧眼がまっすぐにこちらを射抜いている。日はもう沈みかけていて、通路の影は足元でひとつに溶け始めていた。

 

 「……教えてください」

 

 彼女の声が、ふいに細くなった。

 

 「私のやり方は、間違っていましたか」

 

 「貴方は、あの日々を──私を見ていてくれた日々を、間違いだったと思っているんですか」

 

 それは、一番聞かれたくない質問だった。

 

 間違いだったと言えば、文化祭のあの日からの一年半を、彼女を追うことでかろうじて自分を成り立たせてきた、その全てを否定することになる。

 間違いではなかったと言えば、彼女の視線を、この先もずっと受け入れると宣言することになる。

 

 喉が、からからに渇いていた。

 言葉は、どちらも出てこなかった。

 

 代わりに、足が動いた。

 

 「……すみません」

 

 彼女の横を、すり抜けた。

 肩が触れそうな距離だった。彼女は、止めなかった。手を伸ばせば届いたはずなのに、その手は最後まで伸びてこなかった。

 

 振り返らずに走った。

 背中に視線を感じた。今度こそ気のせいではないと、知ってしまった視線を。

 

 それは最後まで、追いかけてはこなかった。

 

 

 

 

 家に辿り着いたのは、日がとっぷりと暮れてからだった。

 どの道を通って帰ったのか、まるで覚えていない。電気もつけないまま、玄関に座り込んだ。

 

 あの通路で、彼女は確かに嬉しそうだった。長いあいだ隠してきた宝物を、ようやく見せられたというような顔をしていた。

 俺はその宝物から、逃げ出してきた。

 

 ポケットの中で、スマートフォンが震えた。

 

 『また明日、待っていますね』

 

 既読はつけられなかった。

 つけなかった、というほうが正確かもしれない。

 

 画面が暗転して、間抜けな男の顔だけが映る。

 

 愛じゃないですか、と彼女は言った。

 私たちは同じなんですよ、と彼女は言った。

 

 もし、そうだとするなら。

 俺があの人に向けてきた一年半が、本当に彼女の言う通りのものだったのだとするなら。

 

 俺は今日、生まれて初めて正面から愛されて──そして、そこから逃げたということになる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 11.十三号棟-地下二階

 

 

 

 翌日、午前の講義には出た。 

 

 彼女と共通の講義は、午後からだ。午前中なら鉢合わせる心配はない。教授の声は右の耳から左の耳へ抜けていき、九十分かけてノートに残ったのは日付だけだったが、それでも出席したのは、単位まで捨ててしまえば本当に何も残らない気がしたからだった。 

 

 問題は午後だった。 『待っています』と告げられた講義に、行くつもりはなかった。かといって帰宅もできない。夕方からは講義棟の地下で、教授のアルバイトが入っている。

 ……つまり、それまでの数時間を、彼女に見つからずにやり過ごす必要があった。

 

 誰もいない場所を探して、当てもなく構内を彷徨った。

 

 歩いているうちに、また視線を感じ始めた。

 

 昨日までなら、気のせいだと片付けていた種類の感覚だ。だが今は、その正体に心当たりがある。……宮舞天音か。

 既読をつけていないメッセージへの返事を、直接受け取りに来たのかもしれない。足取りは自然と早くなったが、逃げ切れるとも思っていなかった。彼女から逃げ切れた試しがない。

 

 だが、歩くうちに違和感が膨らんでいった。

 

 何かが、違う。

 

 彼女の視線なら、嫌というほど知っている。この数日で骨身に染みた。あれはもっと静かで、深くて、こちらの輪郭をなぞるような──湯に浸かっているのに似た、奇妙な温度のある感覚だ。認めたくはないが、慣れてしまえば不快ですらなかった。

 

 今、背中にあるものは温度が違った。

 硬くて、乾いていて、こちらを測っているような。包む視線ではなく、突きつける視線だった。

 

 それに、隠し方が拙い。

 彼女の気配は、意識を尖らせてようやく「いるかもしれない」と感じ取れる程度のものだ。これは違う。曲がり角の向こうで足音が半端に止まり、窓ガラスの端を影が掠める。素人の尾行だった。……素人の尾行を見分けられる自分も、大概だが。

 

 振り返って確かめる勇気はなく、かといって撒ける気もしなかった。

 

 行き着いたのは十三号棟の地下だった。

 比較的新しい校舎で、地下二階にはワーキングスペースと呼ばれる自習用の区画がある。白い長机と揃いの椅子が整然と並び、壁際には使われた形跡のないホワイトボード。空調の低い音だけが響いていて、人の気配は全くなかった。

 

 昼のこの時間、ここまで降りてくる学生はまずいない。

 階段を降りる間も、気配は一定の距離を保ってついてきていた。途中から、隠す気すらなくなったようにも感じられた。

 

 鞄を下ろし、手近な椅子に腰を下ろそうとしたところで、背後から声がかかった。

 

 

 「──こんなところに、何の用があるんですか?」

 

 振り返った。

 廊下の入り口に、時津凛華が立っていた。

 

 赤茶色の髪が蛍光灯の光を受けて揺れている。

 いつもの明るい表情ではなく、どこか値踏みするような目でこちらを見ていた。

 

 「……サークルの練習は」

 

 「夜からです」

 

 一歩、二歩と歩いてくる。

 靴音が、無人のフロアにやけに大きく反響した。

 

 「まあ私を誘い込んだってところですか、歓迎ですよ、私としてもお話がしたかったので」

 

 「そんなつもりは」

 

 「冗談ですよ」

 

 時津凛華は笑った。目は笑っていなかった。

 

 「でも、人に聞かせるような話でもありませんからね」

 

 彼女は手近な長机の縁に、ひょいと浅く腰を預けた。

 一見すると気安い仕草だった。だがその実、こちらと階段の間、唯一の出口を塞ぐ位置取りだった。偶然ではないだろう。

 

 「地下二階まで尾行されて、気づかないふりで案内してくれるんですから。貴方、慣れてますよね、そういうの」

 

 「……気づいていたなら、上で声をかけてくれても」

 

 「嫌ですよ。人前でする話じゃないですし」

 

 時津凛華は机の縁を指先でとん、とんと叩いた。

 ギタリストらしい、皮の硬くなった指先だった。一定のリズムを刻むその音だけが、しばらく二人の間を埋めた。

 

 「……ずっと、引っかかってたんです」

 

 「カフェで会ったとき、言いましたよね。どこかで会ったことある気がするって」

 

 「はい」

 

 「あれから、ずーっと考えてたんです。授業中も、練習中も。おかげでこの数日、コードを三回も間違えました。」

 

 軽口の体裁を取ってはいたが、声の芯は硬いままだった。

 

 「最初はライブかなって思ったんです。よく来てくれてる人だし。でも違う。ライブで見る顔なら『お客さん』の顔で覚えてます。私が引っかかってたのは、そうじゃなくて」

 

 指のリズムが、止まった。

 

 「学祭のあと。天音ちゃんと二人でファミレスに行った帰り道。……向かいのバス停に、ずっと立ってた人」

 

 「去年の秋。サークル棟の前の自販機。天音ちゃんが機材を運んでる間、缶コーヒーを二本買って、一本も飲まなかった人」

 

 「先月。学食で、天音ちゃんの三つ後ろに並んで、天音ちゃんと同じ限定メニューを頼んだ人」

 

 一つ挙げるたびに、時津凛華は指を折った。

 こちらは声も出せなかった。挙げられた場面のどれにも、覚えがあった。全部、完璧に隠れられていたと思っていた場面だった。

 

 「私、こう見えて目はいいんですよ。ステージの上から、客席の一人ひとりの顔が見えるくらいには」

 

 「点と点だったんです、ずっと。ばらばらの、ただの偶然かもしれない点。でも先週、貴方の顔を近くで見て──昨日の夜、全部つながっちゃいました」

 

 時津凛華は机から腰を上げた。

 まっすぐに、こちらを見る。

 

 「思い出しました」

 

 「貴方は、その……」

 

 一度言葉を切る。言い慣れない単語を、口の中で確かめるような間があった。

 

 「天音ちゃんのストーカーを、していませんでしたか」

 

 空調の音が、急に大きく聞こえた。

 

 言い逃れの言葉なら、探せばいくらでも出てきただろう。同じ学部だから、講義が被っているから、ただのファンだから。この一年半、自分自身に言い聞かせてきた言い訳の在庫は豊富だった。

 

 だが、目の前の彼女はもう、点を線にしてしまっている。

 そして何より、まぎれもない事実だった。

 

 「……はい」

 

 はい、と答えるしかなかった。

 

 時津凛華は、しばらく黙ってこちらを見ていた。

 驚いた様子はなかった。ただ、ふっと肩から力が抜けたのが分かった。最後の確認が終わった、という顔をしていた。

 

 「そう、ですか」

 

 「……正直、ちょっとだけほっとしました。私の思い過ごしじゃなかったんだって」

 

 「私としては、気にしすぎだと思いたかったのですがね」

 

 ため息とともに吐き出された声には、怒りよりも落胆の色が濃かった。

 

 「言い訳とか、しないんですね」

 

 「……できる立場じゃないので」

 

 「そこは評価します。往生際だけは」

 

 時津凛華は腕を組んだ。組んだ腕の指先が、二の腕に食い込んでいる。平静な声とは裏腹に、その手は微かに震えていた。

 

 怖いのだ、と遅れて気づいた。

 彼女は今、素性の知れないストーカーと、人気のない地下で二人きりでいる。それを承知の上で、逃げ道を塞ぐ位置に立って、追及している。震える手を隠しながら。

 

 「……一つ、聞いてもいいですか」

 

 「どうぞ」

 

 「天音ちゃんに、何かしましたか。触ったり、脅したり、家に行ったり」

 

 「していません。……信じてもらえないでしょうが、一度も」

 

 「信じますよ、一応」

 

 あっさりと返ってきて、面食らった。

 

 「そういうのがあったなら、天音ちゃんの様子でわかりますから。あの子、隠し事は上手いけど、我慢は下手なので」

 

 「じゃあ、もう一つ」 

 

 時津凛華は、そこで少しだけ声を低くした。

 

 「天音ちゃんは、このこと──貴方が何をしていたか、知っているんですか」 

 

 一瞬、答えに詰まった。 

 

 知っている。最初から、全部。それどころか彼女は、同じことをこちらに返してさえいる。昨日の渡り廊下で、頬を染めながら、愛じゃないですか、とまで言った。……だが、それをどう説明する? 誰が信じる? 

 

 話していません、と言えば、この場は丸く収まる。分かっていた。分かっていたが、口が動かなかった。それは彼女が昨日、拙い贈り物のように差し出してきたものを、こちらの都合で無かったことにする嘘だった。

 

 「……知って、います」 

 

 正直に、答えた。 

 時津凛華の眉が、ぴくりと動いた。

 

 「……は?」

 

 「彼女は、知っています。多分、最初から全部」 

 

 口にした瞬間、自分でも分かった。

 これは、世界で一番信用されない台詞だ。 

 

 時津凛華は、しばらく無表情でこちらを見ていた。値踏みするような目が、探るような目に変わり、それから、深い深いため息に変わった。

 

 「……あのですね」 

 

 声から、それまで辛うじて保たれていた丁寧さが、一段剥がれた。

 

 「それ、ストーカーの常套句だって、知っていますか。『彼女は分かってくれている』『本当は受け入れてくれている』──ニュースで捕まった犯人が言うやつと、一言一句同じですよ」

 

 「……」

 

 「大体、知っていたら、あの子が貴方の隣であんなに楽しそうに笑っていられるはずがないでしょう」 

 

 反論の材料なら、あるにはあった。

 向こうから交換を求められた連絡先。手渡されたチケット。ブックマーク欄を埋め尽くしていた、自分の投稿。そして昨日の、あの告白。だが、どれ一つとして口にできなかった。

 証拠として並べれば並べるほど、ストーカーの妄想の目録にしか聞こえない。そして何より、それらは天音の秘密だった。彼女が一年かけて隠してきたものを、彼女のいない場所で、自分の弁護のために切り売りする権利はなかった。

 

 「……反論、しないんですね」

 

 「信じてもらえるとは、思えないので」

 

 「言い分も聞かず話を進めるのは、趣味じゃないのですが」 

 

 時津凛華は腕を組み直した。それから、視線を落とし、少しだけ声を柔らかくした。

 

 「最近の天音ちゃん、変なんです。ここ一年くらい、ずっと」

 

 「やたら機嫌がいいんですよ。鼻歌なんて歌う子じゃなかったのに、スタジオで歌ってて。曲もどんどん書くようになって。……こそこそスマホばっかり見て、煙草なんて吸い始めて」

 

 「凛ちゃんは知らなくていいです、って笑うんです。あの子が私に隠し事するの、初めてだったんですよ」

 

 「だから心配で、ようやく貴方に行き着いたっていうわけです……その隠し事の正体が貴方なんだとしたら、余計に、放ってはおけません」」

 

 顔を上げた時津凛華の目には、もう迷いがなかった。

 

 

 「……本当にそうだったならば、私の要求は一つです」

 

 「天音ちゃんが真実を知る前に、二度とあの子の前に姿を現さないでください」

 

 静かな、それでいて一切の譲歩を感じさせない声だった。

 

 「今の天音ちゃんが貴方に懐いているのは、見ていればわかります。……だから、余計に駄目なんです。仲良くなればなるほど、いつか全部知ったときの傷が、深くなる」

 

 「今なら、まだ間に合います。貴方が黙って消えれば、あの子は寂しがるでしょうが、それで終わりです。信じていた人の正体を知って泣くよりは、ずっとましです」

 

 「それと──万が一、億が一、貴方の言う通りだったとしても」

 

 時津凛華は、一拍置いて、はっきりと言った。

 

 「それなら、尚更です。ストーカーだと知っていて、その隣で笑っていられるんだとしたら、あの子は今、正常な判断ができていません。何かに夢中になって、目が曇っているだけです」

 

 「……どちらに転んでも、貴方が離れるべき理由にしかなりませんよ」

 

 「貴方がしていたことは、れっきとした犯罪行為です。世に出れば、あの子にも、バンドにも傷がつきます。……私は、あの子が泣くところを見たくないんです。ステージの上でも、下でも」

 

 彼女の提示した二つの世界──彼女が知らない世界と、知っている世界。前提がどちらであっても、結論は寸分違わず同じ場所に落ちる。

 

 知らないなら、知る前に消えるべきだ。知っているなら、その歪んだ天秤ごと、遠ざかるべきだ。

 

 目が曇っている、という言葉は、ここ数日、自分自身が薄々抱えてきた恐れと、同じ形をしていた。彼女の向けてくる好意は、こちらの犯した歪みが映り込んだだけのものではないのか、という恐れと。

 

 むしろずっと誰かに、こう言ってほしかったのかもしれない。宮舞天音本人が決して言ってくれなかった言葉を、彼女の一番近くにいる人間が、震える手を隠しながら代わりに言ってくれている。

 

 これで終わりにできる。

 距離を置きたいと、自分の口ではうまく言い切れなかったことを、外側からの力で終わらせてもらえる。

 

 ……息を吸った。

 

 「分かりました、もう近づき──」

 

 「凛ちゃん? 何してるんですか?」

 

 言葉は、最後まで続かなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 階段の方から、声がした。

 振り向かなくても分かった。それでも足音は迷いなく近づいてきて、視界の端に銀色が入り込んでくる。

 

 宮舞天音が、そこに立っていた。

 

 時津凛華の顔から、すっと血の気が引いた。

 

 「あ、天音ちゃん、これは……」

 

 「駄目ですよ、そんな意地悪をしては」

 

 宮舞天音はゆったりとした足取りでこちらへ歩いてくると、当然のように隣に並んだ。

 そして、時津凛華に向かって微笑んだまま、言った。

 

 「この人は、私の恋人になったんです」

 

 「は?」

 

 時津凛華の声が裏返った。

 声にこそ出さなかったが、こちらも全く同じ気持ちだった。

 

 「う、嘘です。そんなわけ……」

 

 「嘘ではないですよ」

 

 「だ、だって天音ちゃん、知らないんです。この人は──」

 

 「知っていますよ」

 

 遮る声は、静かだった。

 

 「この人が何をしていたか。いつから、どこで、どんなふうに私を見ていたか。……全部、最初から知っています」

 

 時津凛華が、固まった。

 その視線が、天音とこちらの間を二往復する。

 

 数分前、ストーカーの常套句だと一蹴された台詞が、本人の口から寸分違わず追認されたのだ。信じられないものを見る目のまま、彼女はゆっくりと首を振った。

 

 「……それなら、尚更です」

 

 絞り出すような声だった。

 

 「そうだと知っていて、その隣で笑っているんだとしたら──貴方は今、正常な判断ができていません。何かに夢中になって、盲目的になっているだけです」

 

 「……昔から、そうじゃないですか。天音ちゃんは一つのことに嵌ると、周りが見えなくなる。ベースを始めた年だって、指の皮が剥けても弾き続けて、私たちが取り上げるまで止まらなかった」

 

 「今の貴方は、あのときと同じ目をしてます。夢中になってるだけです。それは恋とかじゃなくて、ただの、熱です。冷めたときに、隣にいるのがこの人だったら、取り返しがつかないんですよ」

 

 「どうだったとしても、この人が離れるべき理由にしかなりません。天音ちゃんのためを思うならって、この人だって──」

 

 「凛華」

 

 天音が、名前だけを呼んだ。

 咎める声ではなかった。ただ、続きを一度預かる声だった。

 

 「私の目が、曇っていると思いますか」

 

 「……思います。今の天音ちゃんは、冷静じゃないです」

 

 「では、どうすれば冷静だと信じてもらえますか」

 

 時津凛華は言葉に詰まった。視線が泳ぎ、机の縁を掴んだ指に力がこもる。追い詰められた末に、彼女は半ば自棄になったように言い放った。

 

 「し、証拠……証拠を出してください。恋人だっていうなら、真実の愛だっていうのなら!」

 

 「証拠って?」

 

 宮舞天音は小さく首をかしげた。

 

 「……キ、キスとか?」

 

 「いいですよ、分かりました」

 

 「は?」

 

 今度の「は?」は、時津凛華と自分の、ほぼ二重奏だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 制止する間もなかった。

 宮舞天音がこちらへ向き直る。長い指が頬に添えられ、上向かされる。眼鏡の奥の碧眼が近づいてきて、視界が銀色でいっぱいになった。

 

 唇に、柔らかい熱が触れた。

 

 慌てた素振りは、どこにもなかった。売り言葉に買い言葉の勢いですらなかった。ゆっくりと、丁寧に、一秒ずつ確かめるような口づけだった。一瞬だったのか数秒だったのか、時間の感覚が完全に飛んでいた。微かに、香水の甘い匂いが残っていた。

 

 宮舞天音はゆっくりと顔を離すと、濡れた唇を薄く弧の形にした。

 

 「……ご馳走様です」

 

 それから、立ち尽くす時津凛華へ向き直る。頬にはうっすらと朱が差していたが、声だけは、どこまでも凪いでいた。

 

 「私は、頭の一番冷えたところで、この人を選んでいます。夢中なのは、その通りですけど」

 

 「なっ……は、破廉恥な……」

 

 時津凛華は顔を真っ赤にして後ずさった。

 用意していたはずの反論は、どこかへ蒸発してしまったらしい。口を開き、閉じ、もう一度開いて、結局出てきたのは白旗だった。

 

 「い、いいでしょう、認めます、認めますよ。二言はないです」

 

 そして、きっとこちらを睨む。

 

 「紛らわしいんですよ! 恋人ならもっと堂々としていてください」

 

 言うだけ言って、時津凛華は逃げるように階段を駆け上がっていった。

 乱れた足音が遠ざかり、やがて聞こえなくなる。

 

 ……膝から力が抜けて、椅子に崩れ落ちた。

 心臓がうるさい。唇にはまだ、熱の残滓のようなものが残っている気がした。

 

 「すみません、でもああでもしないと、凛ちゃんは納得しないでしょうから」

 

 宮舞天音は悪びれる様子もなく、隣の椅子を引いて腰を下ろした。 

 

 「貴方もいけませんよ? ああいう、誤解されるようなことをしては」

 

 「誤解も何も」

 

 声を絞り出す。

 

 「……全部、事実です。俺があなたのストーカーだったのは、本当のことです」

 

 「知っています」

 

 宮舞天音は、さらりとそう返した。

 天気の話でもするような声だった。

 

 「……恋人、というのは」

 

 「はい、恋人です、嫌なんですか?」

 

 答えられなかった。

 嫌なはずがない。だが頷いていいはずもない。二つの気持ちが喉元でぶつかって、どちらも音にならなかった。

 

 宮舞天音はそんなこちらをしばらく眺めてから、小さく息を吐いた。

 

 「さて」

 

 姿勢を正し、まっすぐにこちらを見る。

 

 「流石にここまで露骨だと、貴方も気付いたと思うのですが」

 

 「私たちって、似た者同士なんですよ」

 

 「お互いに惹かれあって、互いのことを知りたくて堪らない」

 

 「私の考えていることがわからない、と言っていましたね」

 

 「これも、同じなんですよ?」

 

 碧眼が、逃げ場なくこちらを捉えていた。

 

 「私も、あなたのことが好きなんです」

 

 「一目惚れ、ではありませんが」

 

 息の仕方を忘れた。

 冗談だと言われるのを待った。ふふ、冗談ですよ、という声を。

 だがその時はいつまで経っても来なかった。

 

 「……私って、不安だったんです」

 

 代わりに聞こえてきたのは、これまで聞いたことのないほど静かな声だった。

 

 「バンドのみんなは、みんな凄い人で」

 

 「姫ちゃんは何時でも何処でも中心にいて、私を引っ張ってくれた」

 

 「結月は、ちょっとだらしないところはあるけど。私たちの中で一番賢くて、分からないことを教えてくれた」

 

 「凛ちゃんは、後輩なのに誰よりもしっかり者で、どんな些細なことでも気にかけてくれる優しい子なんです」

 

 「薙ちゃんは一番楽器が上手で、本当は姫ちゃんと同じぐらい歌も上手だし……」

 

 指を折るように、一人ずつ名前を挙げていく。

 その横顔には、ステージの上の凛とした表情も、いつもの余裕のある微笑みもなかった。

 

 「じゃあ、私の取り柄って何だろうって思ってたんです」

 

 「演奏が上手なわけでもない、頭がいいわけでもない、気が利くわけでも、特別な何かがあるわけでもない、ただ後ろをついて歩くだけで」

 

 「私は、ここにいていいのかなって、思ってたんです」

 

 学内屈指の有名人。メジャーデビュー目前のバンドのベーシスト。誰もが振り返る絶世の美人。

 そのどれとも重ならない言葉が、彼女の口から次々と零れていく。

 

 「でも、違ったんです」

 

 宮舞天音は顔を上げた。

 

 「それを教えてくれたのは、貴方でした」

 

 「貴方が私を見つけてくれた日から、私は自分の足で、前を向いて歩けるようになれました」

 

 「何時だって励ましてくれた、いつも応援してくれた」

 

 「毎日、毎秒、私だけを見てくれた」

 

 「私は、貴方に救われたんです」

 

 沈黙が落ちた。

 空調の音だけが、二人の間を埋めていた。

 

 毎日、毎秒、私だけを見てくれた。

 それは糾弾されるべき行いのはずだった。れっきとした犯罪行為だと、ほんの数分前に断じられたばかりの。

 それを彼女は、救いだったと言う。

 

 「……俺は」

 

 声が掠れた。

 

 「あなたが思っているような、いいものじゃないです」

 

 「知っています」

 

 即答だった。

 

 「全部、知った上で言っています」

 

 宮舞天音は立ち上がると、コートの裾を整えた。

 

 「返事は、今じゃなくていいです」

 

 「私はずっと待っていましたから。少しくらい、平気です」

 

 そう言って、微笑む。

 いつもの完璧な微笑みに戻る寸前、その口元がわずかに震えていたのを、見なかったことには、見過ごすことはできなかった。

 

 彼女が、階段へ向かおうと踵を返す。

 

 このまま行かせてしまえば、楽だった。

 持ち帰って、一人で抱え込んで、既読もつけずに逃げ回る。この数日繰り返してきた、いつものやり方だ。

 

 だから、気づけば自分の意志で、体を動かしていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「……待ってください」

 

 宮舞天音の足が、止まる。

 

 「俺から、聞きたいことがあります」

 

 自分の声とは思えないほど、はっきりと出た。

 心臓は破裂しそうにうるさかったが、目だけは逸らさなかった。逃げてばかりだった人間の、初めて自分から踏み出した半歩だった。

 

 宮舞天音は目を瞬かせた。

 それから、ゆっくりと戻ってきて、椅子に座り直す。狐耳がぴんと立っていて、心なしか嬉しそうだった。質問される、ということ自体を喜んでいるように見えた。

 

 「どうぞ」

 

 「いつから、気づいていたんですか。俺のこと」

 

 「最初から、と言いたいところですが」

 

 宮舞天音は少し考えるように視線を上げた。

 

 「文化祭の、三ヶ月後くらいだったと思います。ライブのとき、いつも見てくれている人がいるなって」

 

 「照明の当たらない、後ろの方の柱の横。最前列の目の前、目を凝らさないと見えない、うんと後ろの時も。でも毎回、必ずそこにいるんです。手を振って、声を出して。ただずっと、私を見ている」

 

 「最初は少し、不思議でした」

 

 彼女は机の上で、指先を軽く組んだ。

 

 「なんで私なんかを、って思ってました」

 

 「でも、嬉しかったです。貴方の見る目は、その、なんというか」

 

 「……私までドキドキするぐらい、気持ちがこもっていましたから」

 

 思わず、目が合わせられなくなる。

 それでも彼女の碧眼は、真っ直ぐにじっとこちらを見つめていた。

 

 「……アカウントは、どうやって」

 

 「学祭の実況を遡ったんです。私たちの出番の時間帯に、一番熱心に投稿していた人を探して」

 

 「あとは、いいねの速さですね。私が投稿すると、貴方は大体三分以内にいいねを押すので」

 

 「学食の期間限定メニューの文句とか、講義の愚痴とか、照らし合わせていくと全部一致しました」

 

 「私も、調べるのは得意なんですよ」

 

 こともなげに言うが、それは自分がやってきたことと寸分違わぬ手口だった。

 似た者同士、という昨日の言葉が、嫌な精度で裏付けられていく。

 

 「……煙草は」

 

 「言ったじゃないですか」

 

 宮舞天音は鞄からピースの箱を取り出し、軽く掲げてみせた。

 

 「人の、影響だって」

 

 「銘柄も、ずっと前から知っていました。あの喫煙所のゴミ箱、空き箱がいつも同じでしたから」

 

 「同じ味が、してみたかったんです」

 

 あの雨の日、隣で見た蛍光色のライターとピースの箱。

 自分とまったく同じ銘柄だと気づいたとき、運命めいたものを感じて浮かれた自分を、遡って殴りたくなった。運命ではなかった。もっと具体的で、もっと重たい何かだった。

 

 「それと」

 

 宮舞天音は鞄の中を探ると、何かを取り出してこちらへ差し出した。

 

 見覚えのあるシャーペンだった。

 二ヶ月ほど前に失くした、なんの変哲もない量産品。

 

 「……そろそろ、お返ししますね」

 

 「ごめんなさい。どうしても、貴方のものが一つ、欲しくて」

 

 受け取ったシャーペンは、彼女の体温でほんのりと温かかった。

 背筋を冷たいものが伝う。それなのに、その温度を不快だと思えない自分が、確かにいた。

 最近物を失くすことが多い、と思っていた。視線を感じることがある、と思っていた。

 全部、気のせいではなかった。

 

 「……他には」

 

 「今持っているのは……シャーペンだけです」

 

 「そうじゃなくて。……いや、それも聞けて良かったですけど」

 

 息を深く吸い込み、吐き出した。

 

 「初めて話したあの日。悩み事はないかって、聞いてきましたよね。あれは」

 

 「ああ」

 

 宮舞天音は少し目を伏せた。

 

 「貴方、あの少し前から様子が変だったので。投稿も減っていましたし、ライブにも来なくなっていましたし」

 

 「何かトラブルに巻き込まれているんじゃないかって、心配だったんです」

 

 「チケットが取れなかっただけです」

 

 「今なら分かります。でも、あのときは気が気じゃなくて」

 

 「貴方はいつも私を支えてくれるのに、私は貴方に何もできていないのが、ずっと嫌だったんです」

 

 支えた覚えなど何一つない。

 だが彼女の中では、そういうことになっているらしかった。認識の歪みを訂正するべきなのだろうが、その歪みに自分も救われている以上、強く言える立場でもなかった。

 

 一度、大きく息を整えた。それから、ずっと言わなければならなかったことを、ようやく口にした。

 

 「……すみませんでした」

 

 頭を下げた。

 

 「あなたの言う通り、俺はあなたをずっと追い回していました。講義も、昼食も、ライブも、全部です。どんな理由をつけても、やっていいことじゃなかった」

 

 「知られていないと思って、好き勝手に見ていました。……気持ち悪かったと思います」

 

 沈黙があった。

 顔を上げられないでいると、頭上から静かな声が降ってきた。

 

 「謝罪は、受け取ります」

 

 「でも、気持ち悪いと思ったことは一度もないですよ」

 

 「それに──」

 

 声に、少しだけ悪戯な色が混ざった。

 

 「私のしてきたことと、おあいこですから」

 

 顔を上げると、宮舞天音が笑っていた。

 ファンサービスの微笑みではない、目尻の下がった、素の笑い方だった。

 

 「これからは、隠れて見るのは無しにしませんか。お互いに」

 

 「見たいときは、隣で見ればいいんです。特等席を用意しますから」

 

 「……善処します」

 

 「あと、宮舞さん、というのもそろそろ」

 

 「え」

 

 「天音、でいいですよ」

 

 碧眼が、期待するようにこちらを覗き込んでくる。

 断れる雰囲気ではなかった。いや、正確には、断りたくなかった。

 

 「……天音、さん」

 

 狐耳がぴこぴこと忙しなく動き、四本の尻尾が機嫌よく揺れた。

 感情が、これ以上ないほど分かりやすかった。

 

 「はい」

 

 返事の声は、春みたいに柔らかかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 12.教室前

 

 

 

 朝の講義棟は、まだ冬の名残の冷たさを溜め込んでいた。

 

 夜のあいだに冷え切った石造りの壁は、廊下の窓から差し込む白い光をもってしても温まりきらず、行き交う学生たちは皆コートの襟に首を埋めるようにして歩いている。

 

 一限から講義を入れている人間は多くないから、足音もまばらで、天井の高い廊下にはそのひとつひとつがやけに響いた。欠伸を噛み殺し、寝癖を手で押さえつけながら階段を上る。いつもの教室へ続く角を曲がったところで、足が止まった。

 

 教室の前に、宮舞天音が立っていた。それ自体は、もう見慣れた光景のはずだった。ここ最近の彼女はいつも先に来ていて、廊下の窓際に立ち、こちらが角を曲がるのとほとんど同時に顔を上げる。狐の耳は足音で人を聞き分けるらしく、彼女がこちらの到着を外したことは一度もない。

 

だから今朝も、視線が合うところまでは予定調和だった。

 

 

 

 何かが違う。まず服だった。

 見慣れた黒のタートルネックではなく、柔らかな生成り色のニットに、細身のロングスカート。いつも通り背中まで下ろされた銀髪は、しかし今日は毛先がゆるやかに巻かれていて、窓から差す朝の光を受けるたびに波打つ面が淡く色を変えた。

 眼鏡はいつも通りだが、その奥の目元がどこか柔らかく、唇にはほんのりと色が乗っている。

 

 廊下を歩く学生たちが露骨に振り返っていく。すれ違った男子の二人連れが、通り過ぎてから小声で何か言い交わしているのが聞こえた。

 

 当の本人はそれらに気づいた様子もなく、こちらを見つけると、ぱっと表情を明るくして小さく手を振った。

 

 「おはようございます」

 

 「……おはようございます」

 

 返事が一拍遅れた。目のやり場に困って、視線が髪と顔と、ニットの襟元の間を意味もなく行き来する。何かを言いかけて、続く言葉が見つからずに口を閉じた。目に見て取れるどれを口にしても、その先に「似合っています」まで続けなければ会話として着地しないだろう。そしてその一言が自分の口から出るところを想像できなかった。

 結局、なんでもないです、と誤魔化すことになる。彼女は小さく首を傾げ、それからふと思い出したように口を開いた。

 

 「そうだ。一限、休講になりましたよ。教授が急用だそうです。さっき掲示が出ました」

 

 スマートフォンを確かめると、確かに教務課からの通知が届いていた。送信時刻は三十分も前で、今の今まで気づいていなかった。通知に気づかないほど寝ぼけて歩いてきた自分と、休講の教室の前でわざわざ待っていた彼女。その組み合わせに違和感を覚えるより先に、彼女が一歩、距離を詰めてきた。柔らかな香りが強くなる。

 

 「なので、今日はこのまま、出かけませんか」

 

 「それは、その」

 

 「はい、デートです」

 

  ……にべもない。

 

 「駅の向こうに、大きな水族館があるんです。平日の午前中なら空いていますし、午後まで、私も貴方も、講義はありませんよね」

 

 水族館、と提案の中身が出てくるまでの淀みのなさは、あらかじめ用意されていた台詞のそれだった。

 

 「……ちなみに、休講のこと、いつ知ったんですか」

 

 「さっきです」

 

 「本当に?」

 

 「…………昨日の夜、です」

 

 観念するのが早かった。狐耳が、嘘の下手さをそのまま物語るように、ぱたりと伏せられる。結月が教授の助手の方と知り合いで、と彼女は白状した。昨夜のうちに休講を知り、今朝のこの装いで教室の前に立ち、掲示を「さっき」見たばかりの顔で誘いをかけた、ということになる。

 

 それで、と続きを促すと、彼女は視線を斜め下へ逃がして、準備というか、と口ごもり、頬のあたりを朝の冷気のせいではない色に染めて、消え入りそうな声で言った。

 

 「……せっかくなので」

 

 それ以上は言わなかったし、こちらも聞かなかった。

 

 

 

 

 

 

 大学から水族館までは、電車で二十分だった。

 

 平日の午前の下り車内は空いていて、二人並んで座ることができた。座ってしまえば種族差はいくらか縮まって、彼女の肩がすぐ隣に来る。ドアの上の路線図と、窓の外を流れていく街並みを交互に眺めながら、彼女は時折、鼻歌ともつかない小さな音を漏らしていた。聞いたことのない旋律だった。

 

 既存のどの曲とも違う。新曲だろうか、と思ったが、口ずさんでいる本人の横顔があまりに機嫌よさそうだったので、指摘して止めてしまうのが惜しく、黙って聞いていた。

 

 旋律は窓の外の景色に合わせるように上がったり下がったりして、踏切を通過する警報音と一瞬だけ重なり、彼女は自分でそれに気づいて小さく笑った。

 

 

 

 入場ゲートをくぐると、通路は一息に青い薄闇へ変わった。

 外の白い冬の光から数歩で切り替わるものだから、目が慣れるまでの数秒間、世界の輪郭が溶ける。慣れた先に現れたのは、壁一面、というより壁そのものが水になったような、巨大な水槽だった。

 

 揺らめく水面の光が天井まで届いて、通路全体がゆっくりと呼吸するように明滅している。小魚の群れが銀色の帯になって旋回し、帯は伸びては縮み、大型の魚が突っ込むたびに一瞬だけ千切れて、また一つに戻った。エイが悠然と滑空していき、その影が床を、こちらの爪先を、ゆっくりと横切っていく。隣で、わ、と小さな声が上がった。

 

 水槽の青い光の中で、天音の姿は一段と現実味を失って見えた。

 下ろされた銀髪が肩から背へ流れ、水中を貫く光の柱が揺れるたび、その一筋一筋が淡く発光する。白い肌は青に透けて、輪郭だけが仄かに光っていた。巻かれた毛先が水の揺らぎと同じ周期で揺れるものだから、彼女自身が水槽の中に立っているようにすら見える。

 

 ガラスの向こうの魚群より、隣に立つ人間の方がよほど幻想的だと思ったが、口には出さなかった。代わりに、魚が好きなのか、と当たり障りのないことを訊いた。

 

 「水族館が好きなんです。暗いので」

 

 「暗いので?」

 

 「誰も、ここでは他人のことなんて見ないでしょう」

 

 彼女は水槽を見上げたまま、続けた。

 

 「暗いところだと、みんな水槽しか見ないんです。だから、ゆっくりできて」

 

 彼女らしい理屈だった。言われて館内を見回してみれば、確かに、まばらな客は誰一人振り返っていない。皆の顔が一様に青く照らされて、一様に水の方を向いている。

 

 ステージの上ではあれほど注がれていた視線が、この青い闇の中では綺麗に剥がれ落ちて、水に流されていく。彼女の肩から力が抜けているのが、隣にいるだけで分かった。呼吸が深く、ゆっくりになっている。ステージの上の彼女でも、講義室の彼女でもない、誰にも見られていない時の宮舞天音が、そこに立っていた。……一人だけ、見ている人間がいる。彼女はそれに気づいたように、ふとこちらを向いて、少し笑った。

 

 「まあ、貴方は暗くても私を見ていますけど」

 

 「……見てないです」

 

 「今、見ていましたよ」

 

 反論できなかった。

 

 

 

 

 

 

 順路は、進むにつれて少しずつ深海へ潜っていく造りになっていた。照明が絞られ、通路の青が藍に、藍が墨色に近づいていく。

 

 発光する小魚の群れが暗闇に星座のような模様を描き、砂地の水槽ではチンアナゴが揃って同じ方向へ首を伸ばし、その隣の低温の水槽では、馴染みのない異界の蟹が岩のようにじっと動かずにいた。

 彼女は一つ一つの水槽の前で律儀に足を止める人だった。魚を眺め、それから必ず解説板まできちんと読む。読み終えると、時々こちらに要約をくれた。

 

 「この蟹、脱皮に丸一日かかるそうです」

 

 「へえ」

 

 「一日、無防備なんですって」

 

 「……大変ですね」

 

 他愛のない、中身のない会話だった。中身のない会話というものが、こんなに続けやすく、こんなに楽しい相手だとは思っていなかった。

 かつて数十メートル後ろから見ていた頃、彼女と交わす会話を想像したことは何度もあったが、想像の中の会話はいつも音楽の話か、もっと気の利いた何かだった。脱皮の話をする日が来るとは、あの頃の自分は想像もしていなかった。

 

 クラゲの展示室は、館内でも一番暗かった。壁も床も黒く塗り込められて、円柱形の水槽だけが点々と光り、その中をミズクラゲが明滅しながら漂っている。

 傘が開いては閉じ、閉じては開き、そのたびに水槽の光の色が白から青へ、青から菫色へと移ろった。光っているのは水槽と、水槽に照らされた互いの顔だけで、他の客の姿はほとんどなかった。

 二人で並んで、一番大きな水槽の前に立つ。

 

 「……綺麗ですね」

 

 「そうですね」

 

 クラゲには脳がないらしい、というどうでもいい知識を披露しようかどうか、水槽を眺めながら真剣に迷っていた、そのときだった。袖を、軽く引かれた。

 

 見ると、天音の指が袖口を摘まんでいた。

 

 「……暗いので」

 

 「はい」

 

 「はぐれると、いけませんから」

 

 誰がどう見てもはぐれようのない距離だったし、そもそもこの暗さでもこちらを見失わない目と耳を持っている人だったが、指摘はしなかった。指摘しないでいるうちに、袖を摘まんでいた指が、ためらいがちに、するりと下りてきた。手の甲に、指先が触れる。そこで、止まった。

 

 伺いを立てるような間だった。振り払うことも、気づかないふりで手を引くことも、できる位置で止まっている。彼女らしくもない、遠慮の形をした指先だった。

 

 この手を取ることが何を意味するのか、暗がりの中で、数秒だけ考えた。考えて、──手のひらを、上に向けた。

 

 細く長い指が、確かめるようにゆっくりと、一本ずつ絡んでくる。彼女の手は、少しだけ冷たかった。指先はひやりとしているのに、絡んだ手のひらの中心だけがじんわりと温度を持っていて、その温度差が、これは現実だという証拠のように思えた。

 

 「……手、あったかいですね」

 

 彼女が、水槽を見たまま言った。声が、ほんの少しだけ上ずっていた。

 

 「そうですか」

 

 「羨ましいです。私、指先だけ、いつも冷たいので」

 

 それきり、どちらも何も言わなかった。何か言えば、この手が今どういう意味で繋がれているのか、答えを出さなければいけなくなる気がした。答えの出ないまま、繋いだ手の中でだけ、体温の貸し借りが静かに続いていた。

 

 青い光の中を、クラゲが音もなく昇っていく。傘が開いて、閉じて、また開く。同じものを、同じ場所から、同じ速さで流れる時間の中で、二人で見ている。ただそれだけのことが、どうしようもなく満ち足りていて、この部屋の順路が一生終わらなければいいとさえ思った。

 

 繋いだ手は、クラゲの部屋を出ても、解かれなかった。

 

 

 

 

 

 ペンギンのコーナーは打って変わって明るかった。

 屋内プールの水面がきらきらと光を散らし、ペンギンたちが水中を弾丸のように行き交っては、陸に上がった途端によちよちと歩き、時折立ち止まって翼を広げている。

 

 ちょうど、餌やりの時間の様だった。バケツを提げた飼育係が岩場に現れると、群れがいっせいにそわそわし始める。

 

 飼育員が名前を呼ぶ。すると一羽だけが、群れの中から弾かれたように飛び出して、よちよちと全力で駆け寄った。魚を一匹もらって、満足げに戻っていく。

 

 また一羽。呼ばれた個体だけが、確かに応えて出てくる。個体識別の管理か何かだろうが、傍から見れば、名前を呼ばれた者だけが特別に招かれているようだった。

 

 「……賢いですね。自分の名前が、分かるんだ」

 

 柵に手を掛けて、惚れ惚れするように言った。繋いだままの手が、柵の上で二人分重なっている

 

 「呼ばれ慣れているんでしょうね。毎日、ああやって」

 

 「毎日、名前で」

 

 彼女は復唱して、駆け寄る三羽目をじっと目で追った。四本の尻尾が、ゆっくりと揺れている。

 

 「……いいなあ」

 

 ぽつり、と落ちた声だった。独り言のつもりだったらしく、こちらの視線に気づくと、彼女はわずかに慌てて付け足した。

 

 「ペンギン、可愛いですね」

 

 「……そうですね」

 

 その意味を測りかねたまま、頷いた。餌やりが終わり、群れが水へ戻っていく。名残を惜しむ客たちが、ぱらぱらと次の展示へ流れ始めた。

 

「じゃあ、俺たちも次に──」

 

 歩き出そうとして、繋いだ手が、ぴんと張った。

 振り返ると、柵の前から一歩も動いていなかった。

 こちらを、じっと見ている。怒っているのでも、拗ねているのでもない。ただ、まっすぐに。眼鏡の奥の碧眼が、瞬きも惜しむようにこちらへ注がれていた。

 

 「……宮舞さん?」

 

 「聞こえません」

 

 「聞こえてるじゃないですか」

 

 「聞こえません」

 

 聞こえていないはずがなかった。狐の耳は囁き声すら拾う上に、なにしろ、手が繋がっている。声どころか脈拍まで届いていそうな距離で、彼女は答えだけを返しながら、一歩も動かない。視線も、逸らさない。周りの客が引いていき、ペンギンのプールの前には、張った手で繋がれた二人だけが残された。

 

 ……ああ、そういうことか。

 名前を呼ばれた者だけが、招かれる。彼女は今、餌を待つ群れの中の一羽のように、呼ばれるのを待っている。呼ばれるまで、動かないと決めている。

 

 理解した瞬間、館内の喧騒が急に遠のいた。ペンギンの鳴き声も、水音も、全部が一枚膜の向こうへ下がって、張った手の先で待っている人だけが近い。

 

 「……天音、さん」

 

 彼女が、動いた。

 弾かれたような一歩だった。繋いだ手の張りが緩んで、距離が一息に縮まる。下ろした銀髪がふわりと遅れて揺れ、狐耳は真上を向き、尻尾は四本とも、隠す気もなく大きく揺れていた。……さっき魚をもらいに駆け寄った一羽と、動きの原理がまるで同じだった。

 

 「はい、なんでしょう」

 

 澄ました声で言うが、顔の方がまるで澄ましきれていなかった。

 

 「……次、行きますよ」

 

 「はい」

 

 打って変わって、素直だった。素直なまま、隣に並んで、それから小さく付け足す。

 

 「もう一回、呼んでもらえますか」

 

 「もう呼びません」

 

 「けちです」

 

 言い合いながら歩き出したが、頬の熱はなかなか引かなかった。たった三文字が、口の中にまだ残っている。名前というのは、呼ばれた側だけでなく、呼んだ側の口にも残るものらしかった

 

 

 

 

 

 

 順路の後半、大水槽を横から見上げるベンチに二人で並んでいた。

 

 繋いだ手を離さないまま腰を下ろし、回遊する魚の群れをぼんやりと目で追っていた。青い光が斜めに落ちて、その横顔を照らしている。まばたきのたびに銀色の睫毛が光を掬い、口元にはまだ、さっきの言い合いの名残のような笑みが浮かんでいた。あまりにも柔らかい横顔だった。気づけば、空いている方の手が、ポケットのスマートフォンに伸びていた。

 

 「……写真、撮ってもいいですか」

 

 それはずっと堪えてきた一言だった。ライブ会場で、学食で、渡り廊下で、シャッターを切りたい衝動を何百回と飲み込んできた。万が一咎められれば一番迷惑を被るのは彼女だと、自分に言い聞かせて封じてきた一言だ。それがこんなに簡単に、こんなに自然に口から出る日が来るとは。

 

 彼女は目を丸くして、それから、ゆっくりと、花が開くように笑った。

 

 「初めてですね。貴方からお願いしてくれるの」

 

 「駄目なら、いいんです」

 

 「駄目なわけないじゃないですか」

 

 一度手を解いて立ち上がり、青い大水槽を背にして、少しだけ首を傾げてみせた。ライブのポスターで見るような完成されたポーズではなく、どこか照れの混じった、こちらだけに向けられた立ち姿だった。いくらでも、どうぞ、と言われて、シャッターを切る。静かな館内に、電子音が小さく響いた。

 

 画面を確かめると、青い光の中の彼女は、記憶の中のどのステージ写真よりも、SNSに上がるどの宣材写真よりも、よく笑っていた。一年半、画像フォルダに一枚も持てなかった人の写真が、いま初めて自分の手の中にある。

 

 「私も」

 

 撮り終わるのを待っていたように、スマートフォンを取り出した。

 

 「一緒に、いいですか」

 

 訊く声と、肩を抱き寄せられるのが、ほとんど同時だった。断る間などなかった。画面の中に二人の顔が並ぶ。彼女が少し屈む形になり、頬が触れそうな距離で、シャッター音が鳴った。

 

 「送りますね」

 

 声の直後に通知が来る。画面の中の自分は、見たことがないくらい間の抜けた顔をしていた。その隣で屈んで写る彼女は、悔しいくらいに完璧だった。

 

 二人で写った写真というものを、生まれて初めて手に入れた。これをなんと呼べばいいのかは、やはり分からないままだった。 

 

 

 

 

 

 午後の講義に間に合う電車で、大学へ戻った。

 

 行きと同じ並びで座り、行きと同じ肩の距離で揺られる。彼女はもう鼻歌を漏らさなかった。代わりに、送られてきたばかりの二人の写真を、スマートフォンの画面の中で何度も拡大しては眺めていた。見ないふりをするのに、割合の労力を要した。

 

 駅から大学までの道も、手は繋がれたままだった。だが校門が近づくにつれ、同じ方向へ歩く学生の姿が増えていく。どちらが言い出すでもなく、繋いだ手から少しずつ力が抜けて、指の絡みがほどけて、校門をくぐる頃には、指先だけが引っかかるように残っていた。離してしまえばいいのに、その最後の一点だけが、どちらの意地なのか、離れなかった。

 

 中庭の手前、通路が二手に分かれる場所で、足が止まった。

 

 「私、次は北棟なので」

 

 「……俺は、こっちです」

 

 反対方向だった。それは分かっていたことで、それでいても惜しむ気持ちが雪解けの洪水のように押し寄せていた。

 二人して、引っかかったままの指先を見下ろす。往来の学生が、時折こちらへ視線を寄越していく。離すべきだった。離す理由なら、人目でも、講義の時間でも、いくらでもあった。

 

 先に動いたのは、彼女だった。指先が、一本、また一本と、確かめるようにゆっくりほどけていく。急げば一瞬で済むものを、彼女はわざわざ時間をかけた。最後に人差し指の先だけが触れて、それも、離れた。

 

 手のひらに、体温の残りだけが置いていかれる。

 

 「……また、後で」

 

 「はい。また後で」

 

 また明日、ではないのが、せめてもの救いだった。彼女は向こう側へ数歩歩いて、一度だけ振り返り、小さく手を振った。彼女の顔が遠目にも分かるくらいに綻んで、それから人波の向こうへ消えた。

 

 

 その夜、ベッドに寝転がってメッセージアプリを開いた。一番上に天音の名前があり、トークの最後には今日の写真が表示されている。青い光の中の、二人の顔。親指でそれを拡大して、縮小して、また拡大して、それから入力欄をタップした。

 

 思えば、自分から彼女にメッセージを送ったことは、未だに一度もなかった。来る通知に怯え、既読を付けず、電源を切り、返事をするときすら彼女の言葉に短く応じるだけだった時が今では懐かしく、五十件の通知を、電気もつけない部屋で上から順に数えた夜もあった。深呼吸を一つして、一番素直な二行を打ち込んだ。

 

 『今日はありがとうございました』

 

 『楽しかったです』

 

 送信ボタンを押す。指が微かに震えていたのは、目を閉じて見なかったことにした。

 

 間を空けずに既読が付いた。

 直後、通知がたて続けに鳴る。

 

 『!!』

 

 『初めてですね、貴方から送ってくれるの』

 

 『嬉しいです。すごく』

 

 『私もです。楽しかったです。帰ってからもずっと、今日のこと』

 

 最後の一件は、そこで途切れていた。打ちかけのまま送信してしまったらしい。続きを待ったが、今度は「入力中」の表示が出ては消え、出ては消えた。三度目に消えて、そのまま何も来なくなる。あの完璧なノートを書く人が、文面を書き損じているのだろうか。

 

どうしたのかと打とうとした、その矢先に画面が切り替わり、着信の表示が全面に広がった。

 

 反射的に思い出したのは、いつかの夕暮れの住宅街だった。鳴り続ける着信音を道端で立ち尽くして聞き、何度も無視してようやく止んだあの日の画面だ。

 あれと寸分違わぬ表示が、いま手の中で光っている。

 

 「……もしもし」

 

 『出てくれた』

 

 開口一番、それだった。スピーカー越しの声は、思ったよりずっと近くで聞こえた。

 

 『ごめんなさい、夜遅くに。その、メッセージが、貴方から来たので……嬉しくて。返そうとしたんですけど、文字にすると全部足りない気がして、もどかしくなってしまって』

 

 途切れた一件と、三度出て消えた入力中の表示の理由が、それで分かった。

 

 『ふふ』

 

 電波の向こうで、笑う気配がした。

 

 『今日、楽しかったですか』

 

 「送った通りです」

 

 『文字じゃなくて、声で聞きたいんです』

 

 少しの沈黙。天井を見上げて、観念した。

 

 「……楽しかったです。とても」

 

 『私もです』

 

 『すごく、すごく楽しかったです。……あと』

 

 「あと?」

 

 『名前。呼んでくれたの、嬉しかったです』

 

 一幕がよみがえって、耳が熱くなった。

 

 「……あれは、あなたが動かなくなるから」

 

 『はい。呼んでくれるまで動かないつもりでした』

 

 悪びれる気配は、電波越しにも微塵もなかった。

 それからしばらく、中身のない話をした。クラゲの寿命の話の続き。チンアナゴのどれが誰に似ているかの話。時計を見て、日付が変わりかけていることに二人同時に気づいて、どちらからともなく笑った。

 

 『……そろそろ、寝ないとですね』

 

 「そうですね」

 

 『はい。……あの』

 

 「はい」

 

 『………………なんでもない、です』

 

 沈黙が、電波の向こうで小さく続いた。切る気配はない。何かを言いかけて、飲み込んで、それでも切れない沈黙だった。

 ……この沈黙の形に、覚えがあった。

 

 昼間、順路の真ん中で足を止めて、振り返らずに待っていた、あの背中と同じ形をしている。言ってしまえば済むのに、言えない。催促してしまえば台無しになると、本人が一番よく分かっている。だから、待っている。

 

 電話越しでは、狐耳がどちらを向いているかは見えない。見えないが、おそらくこちらを向いているのだろう。

 息を一つ吸った。昼間ほどは、震えなかった。

 

 「おやすみなさい。天音さん」

 

 息を、小さく呑む音が聞こえた。

 

 『…………はい』

 

 たっぷり三拍分の沈黙の後に返ってきた声は、至上の喜びを表しているかの如く、等身大の感情が載せられていた。

 

 『おやすみなさい。また明日』

 

 「また明日」

 

 通話が切れた。

 

 スマートフォンを持ったまま、しばらく天井を見ていた。耳の奥に、まだ彼女の言葉が残っている。文字で読むのと声で聞くのとでは、同じ言葉でもまるで重さが違った。文字じゃなくて声で、と言った彼女の気持ちが、少しだけ分かってしまった。

 

 枕元にスマートフォンを置く。通知の音が、いつの間にか怖くなくなっていた。着信の画面すら、もう怖くなかった。むしろ次の音を待っている自分に気づいて、天井に向かって一つ、息を吐いた。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 13.自宅

 

 目覚ましより先に、目が覚めた。

 

 カーテンの隙間から差す光はまだ薄く、部屋の空気は冷たい。枕元のスマートフォンを引き寄せると、時刻は朝の六時半で、通知が一件、既に届いていた。

 

 『おはようございます。準備はできていますか?』

 

 律儀な連絡だった。布団の中で少し笑って、おはようございます、と返す。

 既読は三秒でついて、続けざまに吹き出しが並んだ。『眠れましたか』『私は少しだけ緊張しています』『あと、今日は何色の服で来ますか』──最後の一件の意図は分からなかったが、黒です、と正直に答えると、『分かりました』とだけ返ってきて、狐が敬礼しているスタンプが押された。

 

 あなたでも緊張するんですか、と打つと、少し間があってから返事が来た。

 

 『します。貴方が見ているので』

 

 二千人の前で歌う人間の緊張の理由が、その中の一人であっていいはずがない。

 

 ないのだが、彼女に関しては、冗談と本気の区別をつける努力をこちらが放棄しつつあった。

 

 机の上には、チケットが置いてある。黒を基調とした地に、バンドのロゴが銀箔で押された一枚。

 あの雨の日、卒煙支援ブースで手渡されたものだ。券面の座席番号は、最前ブロックの上手寄り。一般販売なら開始三分で消えた席で、抽選に勝ち続けた人間か、よほどの伝手のある人間しか座れない場所だった。

 

 この一ヶ月、何度も手に取っては眺めてきたせいで、銀箔の縁が指の脂で僅かに曇っている。今日で、この紙は半券になる。そのことが、少しだけ惜しかった。

 

 

 

 

 

 

 会場の最寄り駅に着いたのは、開場の二時間も前だった。

 

 指定席なのだから並ぶ必要はない。頭では分かっていたが、身体の方が勝手に早く家を出た。一年半、整理番号の若さと場所取りに人生を懸けてきた身体だった。習慣というのは、チケットの種類が変わったくらいでは抜けないらしい。

 

 駅から会場までの道は、同じ方向へ歩く人の流れで既に色づいていた。バンドのタオルを首に掛けた集団、遠征らしい大きな鞄、開演前から興奮で早口になっている二人連れ。歩道橋の上から見下ろすと、会場の外壁に巨大なフラッグが下がっているのが見えた。五人の影を意匠化したロゴが、二月の終わりの白い空の下で風を孕んでいる。

 

 物販の列は建物の裏まで折り返していた。並ぶつもりはなかったのに、列の最後尾を目で探してしまってから、自分に苦笑する。買わなくていいと言われていた。欲しいものがあれば、本人に言えばいいと。

 ……本人に言えば、おそらく箱ごと届く。それはそれで困るので、列の最後尾に並んだ。

 

 

 席に着くと、ステージは思っていたより近かった。

 最前ブロックの上手寄り。目の前に組まれた照明のトラスと、暗幕の奥で仄かに光る機材のランプ。スタッフがステージ上を行き交うたび、床を這うケーブルが影ごと揺れる。開演前特有の、期待で飽和した空気が客席全体を満たしていた。

 

 ポケットの中で、スマートフォンが震えた。

 

 『席、着きましたか』

 

 着きました、と返す。

 

 『見えています』

 

 思わず暗幕の方を見た。当然、何も見えない。だが袖のどこかから、この二千の頭の中から、彼女は正確にこちらを見つけているのだろう。今朝の服の色の質問の意味が、ようやく分かった。

 

 『今日は一日、私のことだけ考えていてください』

 

 言われるまでもなかった。返信を打つ前に、客電が落ちた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 暗闇が、歓声で満ちる。

 

 SEの重低音が床から立ち上がり、暗幕の向こうで人影が五つ、定位置へ入るのが分かった。ドラムカウントが四つ、同時に世界が爆ぜた。

 

 一曲目のイントロで、二千人がひとつの生き物みたいに揺れた。

  音は耳で聴くものではなかった。胸骨で受けるものだった。姫凪・リンドヴルム・ラスターシャの歌声が会場の全てを突き抜け、時津凛華の奏でる音色が空間を切り裂き、篠崎結月のドラムが床ごと心臓を掴んで揺さぶってくる。神薙燕のアルペジオが花火のように駆け上がり、照明が音に合わせて白く明滅するたび、汗と髪と振り上げられた無数の腕が、静止画のように焼き付いては消えた。

 

 そのすべての一番底で、宮舞天音のベースが鳴っていた。

 派手ではない。最初は聴き分けられないほど、音の奥にいる。だが一度意識してしまえば、もう目線を外せなかった。うねり、支え、時に先回りして曲の背骨を通す。誰よりも冷静で、誰よりも熱い低音だった。ステージ上手、定位置に立つ彼女は、銀髪を照明に透かしながら、ほとんど動かない。動かないまま、会場全体を底から揺らしている。

 

 ──ただ後ろをついて歩くだけ、と彼女は言った。

 

 冗談ではなかった。この音のどこが「ただ」なものか。二千人の足元を支えている音の、どこが。

 曲間、彼女の視線がふっと客席へ落ちる。上手寄り、最前ブロック。目が合った、と思う間もなく、次の曲のイントロが彼女の指から始まった。今のは気のせいではない。気のせいではないと、身体の方が先に確信していた。

 

 中盤、ステージが一度暗くなり、マイクが天音に回された。

 普段ほとんど喋らない彼女がマイクの前に立つ、それだけで客席が沸く。彼女はマイクスタンドに軽く手を添え、少しの間、黙っていた。二千人が、その沈黙ごと彼女を見ている。

 

 「今日は……私の大切な人が、来てくれています」

 

 歓声と、口笛と、拍手が客席を満たした。眩むほどの長い間だったが、彼女はそれが静まるのを待って、一言だけ続けた。

 

 「その人に届くように、歌います」

 

 照明が、すべて落ちた。

 

 完全な暗闇の中、ベースの音だけが、ぽつりと鳴り始める。低く、ゆっくりと、心拍のような四つの音。聞き覚えがあった。どこで──思い出すより先に、鳥肌が立った。電車の中だ。水族館へ向かう車内で、彼女が窓の外を見ながら漏らしていた、あの名前のない鼻歌。あの旋律が今、二千人の会場の暗闇で、輪郭を持って鳴っている。

 

 青みがかった白い光だった。暗闇に浮かんだ彼女は、銀の髪の一筋一筋まで光を纏って、深い水の底に立っているように見えた。あの日の水槽の青が、そのままステージに移されたようだった。

 その歌はまるで、海の底にさえも届く光の様だった。低いところから会場を満たしていき、気づけば彼女を見上げている。二千人が、声も上げずに聴いていた。手拍子も、コールもない。ただ全員が、同じ時の中で息を止めていた。

 

 碧色の瞳が、暗闇の中でまっすぐに──こちらを見た。

 二千人の中で、確かに目が合っていた。スポットの逆光の中、彼女の視線だけが、糸のように一直線にこちらへ届いている。歌詞のひとつひとつが、マイクとスピーカーという何万ワットの機材を経由して、それでも耳打ちのように近く聞こえた。

 

 一目惚れした文化祭の日のことを、思い出していた。あの日、名前も知らないステージの上の人の声に、勝手に射抜かれた。今日の声は、あの日と同じ声で、あの日とはまるで違う歌だった。あの日の歌は誰のものでもなかった。今日の歌は、宛先を持っている。二千人の会場で、宛先はたった一人だった。

 視界が滲んでいることに、曲の終わりまで気づかなかった。

 

 最後の音が消え、一拍の完全な静寂のあと、会場が割れた。地鳴りのような歓声の中、彼女は深く一礼した。

 

 それから顔を上げ──ほんの一瞬、こちらへ向けてだけ、小さく笑った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 終演後のロビーは、興奮の坩堝だった。

 

 規制退場のアナウンスが繰り返され、ブロックごとに吐き出されてくる人波が、出口へ向かってゆっくりと流れていく。誰もが上気した顔で、口々に今日のセットリストの話をしていた。断片だけが波音のように耳を掠めていく。人波には乗らず、ロビーの壁際に退いた。

 

 ……ライブの後のことを、何も話していなかった。

 今朝のやり取りも、開演前のやり取りも、話題はすべて開演までのことで、終わった後にどうするのかは、どちらの口からも出ていない。このまま流れに合流して、帰ってしまうべきなのだろうか。それとも、連絡を待つべきなのか。

 こちらから送るのは──やめておいた方がいい気がした。終演直後のバンドが忙しくないはずがない。撤収、ミーティング、関係者への挨拶。あれだけのステージをやり切った直後の人の時間に、感想ひとつで割り込むのは気が引けた。彼女なら片手間に返してきそうだが、片手間に返させること自体が、なんだか申し訳なかった。

 

 だが結局のところ、結論はすでに出ていた。

 ロビーの隅のフラワースタンドをぼんやりと眺める。そうして立っているうちに、人波は驚くほど早く引いていった。

 物販の列が短くなり、フラワースタンドの前で写真を撮っていた集団が消え、床に落ちたフライヤーだけが人の数の名残になっていく。あれほど飽和していたロビーが、空白を取り戻していく。

 時計の表示だけが映る携帯の画面と、疎らな人の眺めを交互に覗いていた。

 

 それで、目に入った。

 

 ロビーの隅、飲料の自販機と柱に挟まれた窪みのような一角に、人がひとり、うずくまっていた。

 

 女性だった。床に直接しゃがみ込み、膝を抱えるようにして頭を伏せている。

 傍らにはトートバッグが力なく倒れて、口から今日の物販らしい筒状のポスターが半分覗いていた。首には、バンドのタオル。

 

 最初は、連れを待っているだけかと思った。あるいは、スマートフォンでも見ているのか。だが、見ているうちに分かってきた。姿勢が、まったく動かない。俯いた角度も、膝を抱えた腕も、置物のように固まったままだ。休んでいる人間の弛緩ではなく、動けない人間の静止だった。

 

 そして、誰も気づいていなかった。

 

 当然だった。あの場所は、ロビーの動線からは死角になる。人の流れからも、出口を捌くスタッフの視界からも外れた窪みだ。スタッフは全員、出口の誘導に張り付いている。こちら側にいるのは見渡す限り、壁際の自分だけだった。足は、すぐには動かなかった。

 

 声をかけて、ただ休んでいるだけだったら。不審者だと思われたら。女性に、こんな人気のない隅で、見知らぬ男が。頭の中の言い訳は次から次へと湧いてきた。スタッフを呼びに行く、という穏当な選択肢もあった。現にもう既に、出口の人だかりの方へ数歩歩いた。歩いて、振り返った。スタッフのいる出口までは遠く、その間に、彼女の頭がさらに深く沈むのが見えた。

 

 ……一息だけついて、足を動かした。

 隣を歩くのにふさわしい人間でありたい、と思ったことを、思い出していた。誰に許されるためでもなく、そうあろうと決めたはずだった。ここで一番楽な選択肢を選んで、数分を人任せにする人間が、あの人の隣に立てるのか。

 

 戻った。近づいて、少し離れた位置で足を止め、口を開いた。

 

 「……あの」

 

 声が、掠れて出なかった。人と話す準備のできていない喉だった。咳払いをひとつして、もう一度。

 

 「あの、すみません。……大丈夫ですか」

 

 女性の肩が、びくりと跳ねた。

 

 のろのろと持ち上がった顔は、蛍光灯の下でも分かるほど白かった。額に前髪が汗で貼りつき、唇に色がない。それでも彼女は、反射のように答えた。

 

 「……だ、大丈夫です。すみません」

 

 「そう、ですか」

 

 「はい。ちょっと、休んでるだけなので……」

 

 大丈夫です、と言われてしまえば、それ以上踏み込む言葉の持ち合わせがなかった。そうですか、では、と立ち去りかける──その途中で、彼女が立ち上がろうとした。こちらに気を遣ったのだろう、床に手をついて腰を浮かせ、そして、大きく傾いだ。

 

 「っ、」

 

 手が、勝手に出た。掴んでいいのか分からず、行き場をなくした両腕の中で彼女はなんとか転倒だけは免れた。ずるずると、体を掴まれたまま元のしゃがんだ姿勢に戻る。荒くなった呼吸が、静かなロビーにやけに大きく聞こえた。

 

 「……大丈夫じゃない、と思います」

 

 我ながら、間の抜けた言い方だった。だが他に言い方を知らなかった。

 

 「立たなくていいので。そのまま、座っていてください」

 

 「……すみません……」

 

 「謝らなくても」

 

 それきり、困ったことになった 突っ立ったままでは威圧するようで、かといって移動すると今にも倒れそうだった。結局、少しの時間をかけて体を横に倒した。深呼吸をさせて、何とか落ち着いたように見えると、飲み物と思い至ったのはたっぷり十秒も黙り込んでからだった。

 

 鞄の中に、開栓していないペットボトルの茶があった。開演前に自販機で買って、そのまま忘れていたものだ。緊張で、喉を通らなかったのだった。

 

 「……これ、未開封なので。よかったら」

 

 「え……いえ、そんな、悪いです」

 

 「俺は、飲まなかったので。ぬるいですけど」

 

 彼女は少し迷ってから、両手で受け取った。キャップを捻る手に力が入らないようだったので、開けます、と断って開けて渡し直した。彼女は小さく一口飲み、間を置いて、もう一口飲んだ。白かった唇に、わずかに色が戻る。

 

 「……ありがとう、ございます」

 

 「いえ」

 

 また、沈黙になった。

 自販機の駆動音と、遠い出口のアナウンスだけが聞こえる。気の利いた言葉のひとつも出てこない自分に呆れながら、それでも立ち去るわけにもいかず、倒れたトートバッグだけ、そっと起こして彼女の脇に寄せた。筒状のポスターを差し込み直す。スタッフを呼びに行こうとすると、彼女がそれを目で追って、少しだけ、泣きそうな顔で笑った。

 

 「……すみません。一人で来てるので、ちょっと、心細くて」

 

 「……」

 

 「もう少しだけ、ここにいてもらっても、いいですか」

 

 「はい。……急いでないので」

 

 彼女はほっとしたように息を吐いた。それから、膝を抱えた腕を少しほどいて、ためらいがちに続けた。

 

 「あの……変なお願いなんですけど。手、握ってもらっても、いいですか」

 

 「…………え」

 

 「目の前がちかちかして、自分がどこにいるか分からなくなりそうで。……何かに、掴まっていたくて」

 

 固まった。見ず知らずの女性の手を握る。その絵面が頭をよぎり、続いて、まったく別の銀髪の人の顔がよぎり、頭の中が短く渋滞した。

 

 だが目の前の彼女は、壁に爪を立てるようにして、現実に掴まろうとしている。病人だ。病人の、命綱の代わりだ。それ以上でも以下でもない。

 

 ほんの少しの逡巡ののち、手を差し出した。

 

 「……どうぞ」

 

 驚くほど冷たい手だった。指先が、氷のように冷えている。彼女はその手で、遠慮がちに、けれど確かな力でこちらの手を握った。溺れる人が浮輪を掴むのと同じ握り方だった。他意の入り込む余地など、どこにもなかった。

 

 「……あったかい」

 

 「……そうですか」

 

 「すみません、ほんとに……もう少しだけ」

 

 それから彼女は、握った手はそのままに、ぽつり、ぽつりと話した。今日のライブが、どれだけ最高だったか。一曲目から全力で跳んで、全力で歌って、アンコールまで一秒も休まなかったこと。楽しすぎて、限界なんてとっくに越えていたのに気づかなかったこと。

 

 「……出し切っちゃいました。百二十パーセントくらい」

 

 「……見事な燃え尽き方だと思います」

 

 「ふふ。悔いはないです」

 

 力なく、それでも心底幸せそうに、彼女は笑った。その気持ちだけは、痛いほど分かった。今日のあのステージは、そういうステージだった。

 五分ほどして、彼女の呼吸が落ち着いてきた頃、ようやく出口の誘導が一段落したらしいスタッフが一人、ロビーを横切った。声をかけると、こちらの指す先を見て表情を切り替え、早足で窪みへ向かってくる。

 

 「お客様、大丈夫ですか。立ちくらみですか?──救護室が近くにあります。看護師もおりますので、少し横になっていきましょう」

 

 「あ……でも、もう、だいぶ」

 

 「念のためです。お一人ですよね? お帰りの途中で倒れられる方が心配ですので」

 

 スタッフの登場と入れ替わるように、握られていた手が、そっと離れた。彼女はゆっくりと、今度は傾がずに立ち上がり、それから、こちらへ向き直って深く頭を下げた。

 

 「本当に、ありがとうございました。……あの、お茶代」

 

 「いいです。自販機のなので」

 

 「……ありがとうございました。ほんとに」

 

 もう一度頭を下げて、彼女はスタッフに付き添われ、ロビーの奥へ歩いていった。その背中に、お大事に、と声をかけた。かけてから、もっと何か言いようがあっただろうと思ったが、他の言葉は最後まで出てこなかった。

 

 窪みの前には、自分ひとりが残された。

 

 急に、どっと疲れが出た。壁にもたれ、息を吐く。助けた、と呼べるほどのことは何もしていない。ぬるい茶を一本渡して、隣でしゃがんで、手を貸して、スタッフを呼んだだけだ。それだけのことに、この消耗だった。

 

 顔を上げると、ロビーはもう、がらんとしていた。清掃のスタッフが床を掃き始め、物販の列は畳まれ、祭りの後の空気だけが残っている。壁の時計を見上げて初めて、時間の経過に気づいた。

 

 ポケットからスマートフォンを取り出したのは、そのときだった。

 

 『搬入口側の通用口へ。スタッフの方に名前を伝えてください』

 

 『着きましたか』

 

 着信が数件

 

 『どこにいますか』

 

 『返事をください』

 

 最後の一件は、三分前だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 『向かいます』とだけ連絡を送り、もどかしい気持ちで案内を待ち、走った通用口の先、楽屋裏の廊下は、表の熱気が嘘のように静まり返っていた。空調の音と、遠くで機材を運ぶ台車の音。その廊下の真ん中に、ステージ衣装のままの天音が、腕を組んで立っていた。

 

 汗で額に貼りついた前髪、照明の熱の名残で上気した頬。駆け寄って、遅れたことを詫びようとして

 

 ──やめた。空気が、凍っていた。

 

 「……二十三分」

 

 「……え?」

 

 「メッセージを送ってから、貴方がここへ来るまでの時間です」

 

 声は、恐ろしいほど平坦だった。

 

 「女の人の隣にしゃがんで、飲み物を渡して……手まで、握っていましたよね。ずっと」

 

 どうやって知ったのか、と思うより先に喉が詰まった。

 

 「あれは、その、具合を悪くした人で……人混みにあてられたみたいで、放っておけなくて。一人で来ていて、動けなくなっていたので」

 

 「スタッフの人に引き継ぐまで付き添っていました。名前も知りません。メッセージに気づかなかったのは、本当にすみません」

 

 「そうですか」

 

 平坦なままの相槌だった。信じたのか信じていないのか、読み取れない。

 

 「……メッセージ、送りました」

 

 「すみません、ポケットの中で──」

 

 「既読が、つきませんでした」

 

 彼女は目を伏せた。

 

 「……あの時と、同じですね」

 

 既読をつけず、電源を切り、人気のない校舎の地下へ隠れていた、あの数日間のことだ。心臓を、冷たい手で掴まれた気がした。

 

 「あなたは……私だけを見ていてくれていたんじゃなかったんですか」

 

  一歩、一歩と距離を詰められる。背中が、コンクリートの壁についた。

 

 「嘘つき」

 

 「違──」

 

 「嘘つき、嘘つき、嘘つき」

 

 まずい、と思った。今日という日に、よりによってこの手で古傷を、自分の不注意でまた開かせた。何を言えば伝わるのか。言葉を探して、探して、見つからなくて──気づけば、手が先に動いていた。

 

 「誤解だ」

 

 彼女の両肩を掴んでいた。初めて自分から触れた彼女の身体は、驚くほど細かった。

 瞳孔が、ゆっくりと丸みを取り戻していく。

 

 「逃げたんじゃない。俺はもう、あなたから逃げません」

 

 「……え、あの」

 

 「それに」

 

  言うなら、今しかなかった。この一ヶ月、喉の奥で温め続けて、渡り廊下でも、地下のワーキングスペースでも、水族館の青い闇の中でも、渡しそびれてきた言葉だった。息を吸う。

 

 「俺が今日、あの会場で見ていたのは、最初から最後まで、あなただけです」

 

 「今日だけじゃない。文化祭のあの日から、ずっとです。」

 

 息を吸う。

 

 「……好きです」

 

 「……ふぇ」

 

 「ずっと前から。多分、あなたが思っているよりずっと、重たい意味で」

 

 言い切って、顔を上げた。

 

 

 目の前の彼女は──耳の先まで、真っ赤になっていた。

 

 瞳孔は真球のように丸く、狐耳はぴんと立ち上がり、尻尾は四本ともぶわりと膨らんだまま硬直している。凍っていたはずの空気は、もうどこにも残っていなかった。

 

 「ま、待ってください。あの、ストップです」

 

  彼女は視線を左右に振りながら、両手を胸の前でぱたぱたと振った。

 

 「じょ、冗談だったんです。今の、ぜんぶ」

 

 「……冗談?」

 

 「見ていました。最初から、全部。あの方を助けて、介抱していたのも、手を繋いであげていたのも。……立派だと思いました。本当に、誇らしいくらいでした」

 

 早口だった。ステージの上ではあれほど声を張らない人が、廊下に響く声量になっている。

 

 「ただ、その……待たされたのが、少しだけ悔しくて。だから少しだけ意地悪をして、困った顔を見たら、すぐ種明かしをするつもりで。……そうしたら貴方が、思ったより真剣な顔をするから、引っ込みがつかなくなって、それで、その」

 

 弁明はそこで燃料切れを起こして、彼女は両手で顔を覆った。指の間から覗く耳の先まで、赤い。

 

 「……そうしたら、す、好きって。聞いてないです、そんなの。心の準備が、まだ」

 

 肩を掴んだままの自分の手と、顔を覆って湯気を上げそうになっている彼女とを、交互に見た。どっと力が抜けて、壁に背中を預ける。人生でいちばんの覚悟を、悪戯の返り討ちに使ったらしかった。

 

 「……人が悪すぎませんか」

 

 「ごめんなさい。ごめんなさい……」

 

 顔を覆ったまま、彼女はしばらく黙っていた。廊下に、空調の音だけが戻ってくる。

 やがて、指の間から、碧眼が半分だけ覗いた。

 

 「……でも、本当に?」

 

  問いに主語はなかった。なくても、分かった。

 

  頷いた。

 

  彼女は両手をゆっくりと下ろした。真っ赤な顔のまま、まっすぐにこちらを見る。

 

 「……もう一回」

 

 「え」

 

 「もう一回、言ってください」

 

 「……好きです」

 

 「もう一回」

 

 「好きです」

 

 「……私だけ?」

 

 「あなただけです」

 

 碧色の目に、今度こそ本物の涙が盛り上がって、堰を切ったように零れ落ちた。

 天音が、倒れ込むように抱きついてきた。長身の彼女を受け止めきれず、二人して壁にぶつかる。四本の尻尾がふわりと広がって、こちらの身体に巻き付いてきた。柔らかくて、温かくて、まだステージの熱を残していた。

 

 「私もです」

 

 肩口に顔を埋めたまま、くぐもった声が言う。

 

 「私も、好きです。貴方が思っているより、ずっとずっと重たい意味で」

 

 「……知ってます」

 

 「ふふ」

 

 濡れた笑い声がして、彼女が顔を上げた。泣き腫らした目のまま、これ以上ないほど幸せそうに笑っている。距離が、ゆっくりと縮まる。

 

 今度のキスは、証拠のためのものではなかった。

 

 

 

 

 「──うわ」

 

 廊下の角から、間の抜けた声がした。着替え終えた篠崎結月が、ドリンク片手に固まっていた。

 

 「……ごゆっくり〜」

 

 にやにやと笑いながら、来た道を引き返していく。天音の顔が、耳の先まで一瞬で赤くなった。

 

 「ゆ、結月……!」

 

 「恋人なら堂々としていろと、言われたのでは」

 

 「そ、それとこれとは話が別です」

 

 天音は慌てて身体を離すと、指先で目元を拭った。それから、廊下の奥──篠崎結月の消えた方角と、その先の楽屋を、少しだけ恨めしそうに見た。

 

 「……今日はこの後、打ち上げなんです。バンドだけの」

 

 「はい」

 

 「本当は」

 

 彼女はこちらへ向き直った。目元はまだ赤いのに、その奥の光は、ステージの上と同じ温度に戻っていた。

 

 「今すぐ、このまま連れて帰りたいくらいなんですけど。今日は、我慢します。今日のライブは、みんなで作ったものなので。……けじめ、です」

 

 「行ってきてください。今日の、その──」

 

 言葉を探した。圧巻だった、では足りない。綺麗だった、でも足りない。結局、一番単純なものしか残らなかった。

 

 「……一生、忘れないと思います。今日のあなたを」

 

 天音は目を瞬かせ、それから、堪えるように唇を結んだ。もう一度泣くのを、意志の力で止めた顔だった。

 

 「……ずるいです、そういうの。打ち上げに行きたくなくなるじゃないですか」

 

 「行ってください」

 

 「行きます。行きますけど」

 

 彼女は一歩、距離を詰めた。至近距離から、碧眼がまっすぐに見下ろしてくる。

 

 「先に、言わせてください。今日は一緒にいられませんが──とにかく、愛しています」

 

 好き、より一段深いところの言葉を、彼女は迷いなく置いた。

 

 「あの曲も、あなたのために書きました。これから書く曲も、多分、全部そうなります。私の一番いいところは、ぜんぶ、あなたが見つけてくれたものなので」

 

 「……」

 

 「返事は、いいです。さっき、貰いましたから」

 

 彼女は身を屈め、額に一度だけ、触れるようなキスを落として、離れた。

 

 「気をつけて帰ってください。家に着いたら、連絡すること。……また連絡がつかなかったら、どこにでも迎えに行きますからね」

 

 「打ち上げはどうするんですか」

 

 「抜けます」

 

 即答だった。冗談の顔をしていなかった。今日の悪戯を思えば、この人が予告を実行に移さない保証はどこにもなかった。

 

 「……着いたら、すぐ連絡します」

 

 「よろしい」

 

 彼女は満足そうに笑って、踵を返した。廊下の照明の下、四本の尻尾がこれ以上ないほど上機嫌に揺れながら、楽屋の方へ遠ざかっていく。角を曲がる寸前、一度だけ振り返って、小さく手を振った。振り返す。もう迷わなかった。

 

 通用口を出ると、夜風が火照った顔に冷たかった。

 人の引いた会場前で、フラッグだけが夜空の下で静かに揺れている。耳鳴りの奥では、まだあの歌が鳴っていた。宛先のある歌が。

 

 駅へ歩き出してすぐ、ポケットの中が震えた。

 

 『愛しています』

 

 打ち上げの席からだろうに、仕事が早い。立ち止まり、夜空の下で、少しだけ考えて、打ち込んだ。

 

 『俺もです』

 

 送信して、歩き出す。三秒後についた既読の向こうで、彼女がどんな顔をしているか、見なくても分かる気がした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 終章.卒煙支援ブース

 

 

 三月も半ばを過ぎたが、外は朝から雨だった。

 

 薄いプレハブの屋根を雨粒が叩き、一定のリズムを奏でている。壁の隙間からは相変わらず冷たかったり生ぬるかったりする空気が忍び込んでくるが、隣に人がいるだけで、この小屋は随分とましな場所になった。

 

 煙草を咥え、ポケットを探る。……ない。上着を替えたときに、ライターを移し忘れたらしい。

 

 「すみません、天音さん。ライター借りても──」

 

 言い終わる前に、隣で、かちり、と音がした。

 

 天音は自分の煙草に先に火をつけると、ライターをポケットへ仕舞ってしまった。

 

 「……天音さん?」

 

 「貸しません」

 

 「え」

 

 「その代わり」

 

 ……彼女は咥えた煙草の先を、こちらへ少しだけ傾けてみせた。

 

 じり、と赤く灯る火種と、その向こうの碧眼が、期待の色を隠しもせずにこちらを見ている。

 

 「……こちらから、どうぞ」

 

 意味を理解するまでに、二秒かかった。理解した瞬間、耳まで熱くなった。

 

 「……ライターで、いいんですが」

 

 「駄目です。こういうのは、こうするものなので」

 

 どこかで聞いた理屈だった。いつかの一件以来、彼女の中では「こういうもの」の辞書が着々と厚くなっている。譲る気配は、今日も微塵もなかった。

 

 観念して、煙草を咥えたまま、顔を寄せる。

 先端と先端が触れる。息を吸うと、彼女の火がこちらの紙へ移って、じり、と小さな音を立てた。距離にすれば、煙草二本分。それだけの近さで、雨音の向こうに彼女の睫毛の瞬きまで見えた。吸い込んだ最初の一服は、いつもと同じ味のはずなのに、この世で一番心臓に悪い味がした。

 

 「……ご馳走様です」

 

 離れ際に、彼女が満足そうに言った。あの日の地下二階と同じ台詞を。

 

 「……その台詞、癖になってませんか」

 

 「なっています、だってその通りですから」

 

 悪びれもしなかった。四本の尻尾が、狭いブースの中で機嫌よく揺れている。

 

 二本の煙草から、二筋の煙が昇っていく。銘柄はどちらも、ピース。換気扇がジー、と唸り、雨音と、二人分の呼吸の音が混ざった。

 

 特別な話は、何もなかった。

 

 来週の試験の話。打ち上げで結月がやらかした話。凛ちゃんが恋愛に興味津々な話、姫ちゃんが連休で深淵渉りをした話。薙ちゃんが本当に何もしていないという話。次のライブの話。メジャーデビューの話。ふきの入った学食の新メニューが出たが絶対に頼まない、という話。

 

 なんでもない話を、なんでもない顔で、隣に並んでする。一年半前の自分に教えたら、卒倒するだろう。だが相応の時間はすでに経過していた。

 

 「……そういえば」

 

 改まった口調で、天音がふと口を開いた。

 

 「貴方って、女性のきょうだいはいらっしゃいますか?」

 

 「……妹が、いますけど」

 

 「妹さん」

 

 彼女は短く復唱した。それきり黙って、息を一つ吐く。

 狐耳が、ぴこ、ぴこ、と小刻みに動いていた。何かを処理している耳だった。

 

 「……高校生ですか」

 

 「今度、大学です」

 

 「仲は」

 

 「普通です。……あの、この質問はなんですか」

 

 「いえ」

 

 天音は窓の外へ目をやった。やってから、耐えきれなくなったように白状した。

 

 「先週、貴方が駅前で女の子と歩いているのを見たので」

 

 「……見たので?」

 

 「調べようかどうか、一晩悩みました」

 

 「でも、この前決めたんです。気になることは、調べる前に、まず本人に聞くって」

 

 言い切ってから、彼女は少しだけ胸を張った。当人としては、大変な自制と進歩の報告であるらしい。実際、二人にとっては大変な自制と進歩なのだった。

 

 「……偉いです」

 

 「ふふ。もっと褒めてくれていいですよ」

 

 「妹です。進学の準備で、買い物に付き合わされてました」

 

 「はい。……安心しました」

 

 彼女は素直にそう言って、それから、少し声を落とした。

 

 「妹さんには、その、いつか。……ご挨拶とか、できたら、と」

 

 語尾は雨音に紛れて消えたが、耳だけは正直にこちらを向いていた。聞こえなかったふりをして、煙を吐いた。頬が熱いのは、煙草のせいということにした。

 

 雨脚が、少し強くなった。

 屋根を叩く音が細かくなり、窓の外が白く煙る。彼女は短くなった煙草の火の始末を付けると、鞄の中を探り始めた。

 

 「……あの。渡したいものが、あるんです」

 

 取り出されたのは、小さな包みだった。

 手のひらに載るほどの、簡素な白い紙の包み。受け取ると、思ったより硬く、軽い音がした。

 

 「開けても」

 

 「どうぞ」

 

 包みを解く。

 中から出てきたのは、鍵だった。銀色の、なんの変哲もない鍵が一本。……いや、変哲はあった。キーホルダーとして、小さなペンギンがぶら下がっている。水族館の土産物屋で見た覚えのある、あのペンギンだった。

 

 「……これは」

 

 「合鍵です。私の部屋の」

 

 さらりと言っていい種類のものではなかった。

 

 「ちょ、っと待ってください。早くないですか」

 

 「遅いくらいです」

 

 即答だった。

 

 「私はもう、貴方の家の鍵の隠し場所も、間取りも、ベッドの位置も知っていますし」

 

 「知ってるんですか?」

 

 「……たとえばの話です」

 

 目が泳いでいた。たとえばの話ではなさそうだった。追及するべきか一瞬迷い、やめた。この期に及んで、彼女のそういう部分に驚いてみせるのは、もはや白々しいというものだった。

 

 「これからバンドが忙しくなると、会えない日が増えます。ツアーも、レコーディングも。……だから」

 

 彼女は、手の中の鍵を見つめたまま続けた。

 

 「私がいない日でも、貴方が私の部屋にいてくれたら、嬉しいなと。帰る場所に貴方がいると思えば、どこへでも行けるので」

 

 「……都合よく使われませんか、俺」

 

 「使います。堂々と」

 

 開き直りが清々しかった。

 

 「水をあげてほしい観葉植物もありますし、機材の湿度管理もありますし。……あと」

 

 「あと?」

 

 「貴方の匂いが部屋に残っていると、よく眠れるので」

 

 「……」

 

 「引かないでください。お互い様でしょう」

 

 お互い様、という言葉に、もはや反論の余地はなかった。講義の時間割から互いの匂いまで知り尽くした者同士の、普通なのだった。世間の普通と多少ずれていようが、二人の間で釣り合っているなら、それでいい。最近は、そう思えるようになっていた。

 

 鍵を握り込む。ペンギンが、指の間で小さく揺れた。

 

「……ありがとうございます。大事にします」

 

 

 

 

 

 

 

 

 「……雨、強くなりそうですね」

 

 「そうですね」

 

彼女は窓の外に目をやってから、ちらりとこちらを窺う。

 

 「傘、あります?」

 

 「今日は、あります」

 

 鞄から折り畳み傘を取り出してみせると、彼女は目を丸くして、それから嬉しそうに笑った。

 

 「じゃあ、しましょうか」

 

 「相合傘」

 

 

 「……ほんの数メートルですよ」

 

 いつか彼女に言われた台詞を、そっくりそのまま返される日が来るとは思わなかった。

 天音は悪戯な目をして、機嫌よく尻尾を揺らしている。

 

 傘を開き、狭い出入り口を二人でくぐった。

 一本の傘に、種族差のある二人分は収まりきらない。彼女が半分濡れないように傾ければこちらの肩が濡れ、こちらが傾け返せば彼女の尻尾が濡れる。数メートルの距離を、譲り合いながらゆっくりと歩いた。あの日と同じ雨の中を、あの日とは反対の傘の下で。

 

 最近、視線を感じることがある。

 気のせいではないことを、もう知っている。

 講義中も、図書棟でも、バイト終わりの廊下でも、飲みに出た店の中でも。

 ふと顔を上げれば、碧色の瞳がこちらを見ている。目が合うと、彼女は誤魔化しもせずに、ただ嬉しそうに笑う。

 物も、もう失くさなくなった。

 ……代わりに、時々増えていることがあるのだが、それはまた別の話だ。ポケットの中の鍵も、その一つに数えていいのかもしれない。

 

 結論から言うと、俺たちは互いにストーカーだった。

 

 今はただの、恋人同士という話だ。




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