章タイトルは、『ただ、カイを』
羽根は休んだ
例えば、こんな今がある。
信じられる人がたくさんいて、その人たちも、みんな信じてくれている。
大好きな人が努力を認めてくれる。謙遜すればそんなことはないと言ってくれるし、助言を求めれば的確に励ましてくれる。
思い描いた理想が現実になる。夢が減って、幸せが増える。そんな今になればいい。
でも。
すぐに諦めの二文字が浮かんで、その度に思ってしまう。
そんな都合のいい結果。やはり、私なんかには似合わない。
*
「あれ? 佐枝ち……茶柱先生! どうしたんすか?」
真夏の太陽を上身で浴びながら、池が言った。
レンタルだが妙に着心地のいい水着を履く彼の姿は、今いる場所によくマッチしている。
ここは娯楽施設の一つであるプールデッキ。無人島でのサバイバルで溜まった鬱憤を晴らすには持ってこいで、身体を休める者が多かった試験翌日と比べ随分と賑わっている。
池もいつメンと一緒に、ビッグウェーブさながら水の流れに乗っていたところだった。そこに現れたのが、この開放的な環境に一際そぐわない教師だった。
「えらくはしゃいでいるじゃないか。無人島では出し惜しみでもしていたのか?」
「そ、そんなことないですってぇ。回復が速いんすよ俺」
「まあいい。あのときは珍しく、お前の知恵が活躍していたようだしな」
褒め言葉として受け取ればいいか悩みかねない発言だが、当の本人は上機嫌だ。
「えぇっ、先生に褒められたあ!? 茶柱先生が言うと、なんか逆に嬉しい、けど……嵐の前触れってやつか?」
「天気予報ではしばらく晴れだぞ。事実を言っただけで舞い上がることでもないだろう」
「いやいや、それ言うんだったら俺だって! 俺だってだいぶ身体張ったんだぜ! 浅川にこき使われたときなんてよ」
横から粗末な自己PRを刺して来た須藤は、はっきり言って特記すべき功績はない。
しかし彼の言うことももっともで、誰もがやっていたことを誰よりも高いレベルで熟した体力は、無視できない長所だった。
「お前の場合は、これまで起こしてきた問題行動でチャラだな」
「ゲェッ! クソ、コイツに負けた気分だぜ……」
「てもさ、先生にしては優しくね? 今までのお前マージで酷かったじゃん。チャラなんてもんじゃなかったと思うけどなあ」
須藤を気遣ったのか、ただ本当に疑問に思っただけなのか、山内までそんなことを言いに来た。
未だ三馬鹿という印象から抜け出せない三人だが、明らかに当初から善い方向に変化している。何より客観的にわかりやすいのが、彼らが素直になってきているということだ。
気の利いた言葉を掛けてやると、思いの外喜んだり笑ったりする。あの須藤ですら例外ではなく、今みたいに自分も褒めてもらおうと張り合うこともしばしば。
「中間テストより前からそれくらい真面目なら、0ポイント生活も避けられたんだがな」
「中間、テスト……ぐああ! やめてくれ先生、あの地獄の日々が蘇るぅ……!」
「二度と、もう二度とあんな目には遭いたくねぇ!」
嘆息が漏れる。だがそれは、決して重いものではない。
クラスきっての問題児に「スパルタ授業」と言わしめ、しかもこうして成果が表れているのだから、浅川たちが一体どんな指導をしているのか気になるところだ。
友人にも恵まれたようで、すくすくと育つ三人を見てどこか懐かしい気持ちになってしまう。
律儀に約束を守っているうちに、茶柱の中でわずかに邪魔なものが過るようになった。
野心とは無関係な、彼らを視界に映そうとする自分が。
その名前を、茶柱は知らない。あるいは、忘れてしまった。だから腹立たしさというか、胃痛にも似た不快感だけがはっきりしている。
「あ! んで先生は結局なんでここに? 泳ぎに来たわけじゃなさそうだし」
「あぁ、そうだったな。実のところ、人探しだ。ここにいると聞いてな」
目的を思い出し、彼女は少年たちに背を向けた。彼らも気に留めずに、再び喧騒へと帰るようだ。
プールサイドを素通りし、足を止めた前には整然と並ぶパラソルたち。
そこで優雅に寝転がるうちの一人を、茶柱は見下ろした。
*
喧噪をBGMにするのも、悪くない。
まるで他人の落ち着きのなさや愚鈍さを、受け容れる寛恕が自分に具わったように思えて、一つ高見に上った気分になる。
うっすらと、閉じていた目を開く。そこに映るのは、パラソルの内側だけ。しかも全体が暗く、光のほとんどが遮断されている。処理する情報が少ないと、こんなにも心が安らぐとは。
仰向けの身体を起こし、傍らに佇む小机を敷くグラスを手に取る。レパートリーの豊富なトロピカルジュース、フレーバーは勿論不知火だ。同じ柑橘系だが、みかんとは違う。熊本県民として、そこは譲れない。
ストローでゆっくりすする。甘味と酸味が程よく混ざり合って、口の中で圧巻の調和を奏でている。小さな幸福を吟味するように、丁寧に喉へ流し込んだ。
いい気分だ。もう一度チェアに身体を寝かせて瞳を閉じる。直に肌に触れる背もたれがにわかにひんやりして、またいい気分。
今度はどうしてか、人の声とは違う轟音が聞こえ始めた。生気がない分、誤魔化しきれない騒々しさがある。段々と大きくなるに従って、気付く人々のどよめきが場を覆い始めた。
これは、プロペラ? ヘリでも近づいているのだろうか。どうやらこの船に降り立ったらしい。しかしだ、そんなの知ったことではない。この極楽に嫉妬して水を差してきたようにも感じられて、半ばムキになって無視を決め込む。
するとどうだろう! なんてことはない。あっという間に静寂だ。周囲が抵抗してくるならそれでいい、自分の意思で安寧を創造、いや想像すれば事足りる。あとは出来上がったシフォン精神に身を委ねれば、さっきに引けを取らない安らぎの復活だ。
今ある環境を堪能することを一瞬でも忘れた愚かな連中も、今に元の無秩序を思い出すに違いない。その心地良さに抵抗しようとする変人は、この場に一人もいないだろう。
ほら見たことか。思い通りに動く状況に、人知れず口角が上がる。満足しすぎて喉が渇いたから、まだ温くなっていないジュースをもう一口含む。さっきより多めに飲んでもバチは当たらないだろう。
何度目かわからない脱力をし、息が抜け出る。
そうしてまた、意識がぼんやりとし始めたのがわかる。夢のような一時をはっきりと感じ取れなくなってしまうことだけが玉に瑕だが、それで夢のような空間で夢を見るVIP待遇を受けられるのであれば安いものだ。
さあ、バカンスの極致が抱擁を待っている。迎え入れるように意識を溶け込ませてやろう。常夏の熱気にではなく、穏やかにそよぐ涼風に。
ああ、その調子……よし、そのまま、そのまま……いいぞ、あともう少し……。
……おやすみなさい
「何をしている? 堀北」
冷たい声がかかった。まるで水みたいに。
何ということ! 折角絶好のバカンスに身も心もたどり着けそうだったと言うのに。
私は一切姿勢を崩さずに、憎き担任教師に応じた。
「先生こそ、なんてことをしてくれるんですか。私がこの海で一番声をかけてはいけない相手だと、見てわかりませんか?」
「え……」
真っ当な怒りをぶつけると、まさかそんな言われ方をされるとは思わなかったとでも言いたげな戸惑いが聞こえた。
表情はうかがい知れない。だって、目を開けていないから。何なら微動だにしていない。
「すまん。お前がどう考えていたのかはわからんが、一度確認させてくれ。私からのメールは、見てくれたか?」
「はい。11時にプールデッキに来るようにと。ペナルティをちらつかせられるのも面倒なので、大人しく従いましたが」
「……大人しく従った結果が、その格好か」
「私が問題行動をしていると?」
「いや……ただ、随分と満喫しているなと思ってな。さ、サングラスも水着も、なかなかイケてるぞ」
微妙に言い淀んでいる気がする。私は鼻にかかっているブリッジを整え、水着の食い込みを直した。
「生憎だが、お前をここへ呼んだのはリゾートを満喫させるためではない。ヘリの音は聞こえたな?」
「私の快適な休息を阻むノイズなら、みんな迷惑がっていましたね」
「誰が乗っているか、気にならないか?」
「気になりません。話はそれだけですか? ご覧の通り、私は今手が離せないんです」
「手どころか全身が開放的に見えるぞ。――お前が日頃会いたいと切に願っている男が訪れた。これを聞いてものんびりしていられるか?」
レンズで隠された瞳が揺れる。兄さんが、ここに……?
いつもと違いもったいぶった問答をしなかったのは、埒が明かないと思ってのことだろう。ずっとこうであってほしいものだ。
しかし、私は幼子のように寝返りを打った。
「何も問題ありません。私はこれから、夢を見るんです」
「な……ゆ、夢? 何を言っているのかさっぱりだ」
「思い出の中でじっとしていたいだけです」
「お前は思い出にはならないさ。まだな」
だいぶ予想に反した流れのようで、彼女は口ごもっている。やるせなさにため息まで零した。
「バカンスに耽る性格には、あまり見えなかったんだがな」
「頗る楽しんでますし、サマーバケーション満喫中です。先生もたまには羽根を伸ばしてみては? ここのジュースの味は、私が保証します」
「……気が向いたら試す」
以前の私なら、兄さんの名前を聞いた瞬間即座に着替え始めていただろう。その場ですっぽんぽんになっていたまである。
そうならない理由は二つある。第一に、私たちの交流のハードルは既にそこまで高くないからだ。
兄さんが快く思っているかはわからない。それでも、電話すれば世間話くらいはしてくれるし、食事の誘いも断られることはない。……偶には兄さんから誘ってくれてもいいのに、とは思うけど。
だからどちらかと言うと、二度あるかもわからないバカンスのほうが、優先度したくなるのは当然のことだ。
そしてもう一つの理由は、あまりいいものではない。
「仕方がない……不本意であるが、いつものやり方でいかせてもらうぞ」
「不本意なのは今回だけですか? それとも、いつも不本意なのに同じやり方を?」
「要請に従わなければ、素行の悪さで減点だ」
白い目を向けられた。痛くも痒くもない、鋭い視線もこのサングラスでシャットアウトだ。
だが、残念ながら減点までは遮れないし、プールの水でもジュースでも流せない。
私は重い腰をついに上げようとして――再び倒れた。
「おい、まさかこれでも動かないつもりか」
「いえ、その……」
至って余裕な態度でサングラスを外し、水着に引っ掛ける。長いこと守られていた裸眼は、僅かに差し込む光にすら悶えた。
こんなときでも落ち着いていられるのは、ひとえにバカンスの効力だろう。
「脚が踏ん張ることを、忘れてしまったみたいで」
私は再度上身を起こし、両手を広げて訴える。赤子のようなポーズは、甘んじて受け入れた。
「おぶって、もらえないでしょうか」
「……堀北が、堀北がおかしくなってしまった」
前言撤回。さすがにちょっぴり恥ずかしかった。
とりあえず着替えを、と打診したが却下された。ヘリを降りた兄さんたちを見失えば、この広大な船内で邂逅することは非常に困難らしい。おまけに、担がれた状態で衣服の着脱は骨が折れるとのこと。
すれ違う生徒たちの懐疑と好奇の視線が、幾度となく襲いかかる。私はどこ吹く風で不知火を吸うだけだ。
「人の厚意をいいことに、呑気なものだ」
「先生も飲みますか?」
「私が喜んで頷くとでも?」
「間接キスが嫌なら先生の分も買いましたのに」
「そういう問題で言っているんじゃない」
ありがたいことに、クルーズ船では全てのコンテンツが無料で享受できる。所有ポイントのない私たちDクラスは、存分に利用する分だけ得が大きい。
改めてストローを咥えようとしたところで、残りが僅かであることに気付く。やはりもう一杯買っておくんだった。
悲しみから逃げるように、私は話を切り替えた。
「それで、どうして彼がいるのでしょうか」
「ひでえ言い草だな。そのナリで心配かけさせといてよ」
先生の隣にくっつく須藤君――彼曰く、くっついているのは私にらしい。鬱陶しいものだ――に、私は見向きもしない。というかできない。首が回らなくて。
「お目付け役の一人くらいは必要だろう」
「それを言うならせめて、私が彼のお目付け役では?」
「ほう、やれるのか?」
「検討するにも後ろ向きですね。遺憾だと言っているんです」
「何かあったときにすぐ駆け寄れる身体能力をこいつは持っている。適任だ」
「他所でやってくれねえか? その話」
自分のいる場で自分への印象を語られて気まずくならない人はいない。頭をポリポリとかく須藤君には、雀の涙ほどの同情を向けておく。
パラソルという安息の地を引っ張り出されてから、絶えず強い日差しが照り付けている。日焼け止めを塗っておくべきだったかもしれない。
「暑くて汗かいちゃいそうです」
「おぶってくれている相手にそれを言うのか」
「私には学校を訴える切り札があります。あのとき先生を突っぱねてもよかったんですよ?」
「……変に逞しくなったな」
今はまだ、訴えても後々面倒だと思っているから実行していない。しかし、先生や学校側から無茶な要請を受けた暁には、この手札を切ることも想定している。
「結局、見つかってねえのか? 堀北を攫ったヤツ」
「追及はほぼ不可能、というのが率直な意見だ。堀北の居場所やトリックを看破した浅川でも捕らえられなかったのだからな」
あれからちょうど一か月。人間の適応力とは恐ろしいもので、身体を拘束された上に飲まず食わずだった衝撃的な体験は、記憶の中で風化しつつある。
奇しくも例の事件を知る三人が集い、懐かしい話が飛び出した。正体に繋がる手がかりを全く残さなかった犯人には、透明すぎて実感のない恐怖よりも感嘆が勝る。
「……まさか」
「どうかしたか?」
「いえ、何でも」
ふと、重要なことに思い至る。
思えば、綾小路君たちを遠くに感じることが増え始めたのは、あのときからだったような気がする。自信の喪失とは異なり、落胆や諦観も混ざってきて。
障壁や逆境に対して飄々としているはずの二人が、今も引きずる変容を抱えている。だとすると、ある疑念が生まれる。
あの事件は、本当にもう終わったの……?
「――十分に休息を取ってくれ。船内に案内しよう」
別の声が耳に届いてハッとする。どうやらヘリにたどり着いたようだ。真島先生が代表して出迎えているところが見える。他の教師も揃っており、随分と盛大な出迎えに感じるが、それほどこの学校における生徒会が特別な存在であるということだ。
あるいは、今期の生徒会が特別、なのかもしれないが。
「会長! ご、ご無沙汰してますっ!」
一目散に駆け込んだ須藤君の挨拶は、強風にも負けない声量だった。
こちらに気づいた兄さんは、意味深に私を一瞥したあと、柔軟に応えてみせた。
「須藤か。調子はどうだ?」
「おおおかげ様っす! 全部会長の教えの、たま、たまん、あー、た……たまのおっす」
「賜物、だ」
彼の言い間違いが意図せずウィットに富んだジョークのようになり、兄さんは珍しく相好を崩した。玉の緒は人の縁やそれに対する感謝を表す言葉。須藤君の気持ちを託すのに、当たらずとも遠からずな表現だ。
絶妙な会話に、兄さんの後ろに付いている少女も噴き出した。
「っ……、ほ、本当に、須藤君は面白い後輩ですね」
「書記、先輩……面目ねぇ」
「その様子だと、更生は順調のようですね。安心しました」
これも七月の事件がきっかけで起きた変化だ。もっとも、Cクラスと審議で争った方になる。
浅川君の提案で、須藤君は慈善活動に興じることになった。軌道に乗るまでは他の勉強会メンバーも付き添っていたが、習慣化した今は生徒会の雑用を手伝いながら、密かにコミュニケーションを取っているらしい。
「お前の噂は三年生の間でも回っている。悪い方も、善い方もな」
「げっ、そうだったのか」
「ですが、このままいけば後者だけになる日も近いでしょう。桐山君も評価していましたよ」
「うぇ⁉ あの桐山先輩が⁉」
「その反応を知ればあいつにキレられるぞ。もっとも、橘の言っていることは間違っていない。これからも精進することだ」
「おお……! 任せてくれよ。俺の力が役に立つんなら、何でもやってやるぜ!」
「敬語」
「あ」
「ふふ、期待していますよ」
裏のない師弟関係はありふれているように見えて、恐らくこの学校では滅多に見れない光景だ。聞けば、バスケに夢を持つ須藤君の相談に、兄さん自ら乗ってくれることもあるのだと言う。
身体の使い方を熟知している兄さんなら指導役として不足はないし、学年関係なく欺瞞や悪意が行き交う環境にもかかわらず後進育成に余念がないのは、何とも兄さんらしかった。
「あ……会長、あちらが妹さんですよね?」
書記の先輩の言葉で、兄さんは再び私と目が合った。
担任の背中の上で、気ままに不知火をチュルチュルする私と。
「た、大変リラックスしているようで」
「……」
兄さんは微動だにしない。しかし私にはわかった、あれは表情が固まっている。最初に一度目を逸らしたのも、相手が私だと信じていいものか測りかねたからだろう。
珍しい反応が見れて、少し嬉しい。
私は腰元に差してあった神器を抜き、装備する。気まずかったのではなく、日差しと強風で本当に目を開けているのが辛かった。
水分を求めてストローを咥えるが、残念なことに空。バカンスは一旦締めくくりのようだ。
「こんにちは、兄さん」
「……特産品が好きなのは相変わらずだな、鈴音」
グラスの淵に飾られた果実を掴み、むしゃむしゃと頬張る。
――んん、最高ね。
堀北鈴音がおかしい?こんなもんでしょ(すっとぼけ)
本章も彼女の視点です。正味今後の章も堀北視点が一番適していると思うのですが、できるだけ章ごとに切り替えたいという個人的なこだわりがあるので、どうするかは未定ですね。
ちなみに、主軸以外はほとんどライブ感で掛け合いを描いているので、須藤&生徒会のやり取りもこの話を書き始めるまでは微塵も考えていませんでした。
ドラマCDという位置づけだった小噺でしたが、今作では普通に重要な役割を担っています。気長に楽しんでもらえればと思います。
番外編時系列投票ver2
-
一章後、二章前
-
二章後、夏休み前
-
夏休み中、無人島前
-
船上試験後、4.5巻前
-
4.5巻後、夏休み中
-
夏休み後