12月24日 土曜日 晴れ
──怪盗団がメメントスに入ってから一時間が経過しようとしていた。
俺はルブランのカウンター席に座っていた。
店内に客はいない。クリスマスイブの夜に、わざわざ路地裏の喫茶店でコーヒーを飲もうという人間は少ないらしい。いや、普通は恋人とイルミネーションでも見ているか、家族とチキンでも食っているか、最悪コンビニでケーキを買うくらいはするのだろう。
世界を救いに行った高校生たちの帰りを、喫茶店で待っている日ではない。
「……」
カウンターの上には、飲みかけのコーヒーがある。惣治郎さんが淹れてくれたものだ。何も聞かず、ただ「飲むか」とだけ言って、俺の前に置いた。それから今は奥に引っ込んでいる。気を遣っているのか、単に片付けをしているだけなのかは分からない。
その気遣いが気まずく思うぐらいには落ち着いていた。勝てる戦いだから不安はない。むしろ余裕だと思う。なんか全員超覚醒ペルソナになってるし。……アイツ本当に一周目かぁ?
まぁ、だからこそ俺が考えるのはその先……どうやってそんな奴らに勝つ?
「……はぁ」
正直、丸喜先生と一緒に戦って怪盗団に勝てる確率は五分あるかってぐらいだ。戦闘中、俺が怪盗団の何人かを受け持っても、明智がいなくても、丸喜先生と戦うリソースが不足しているとは思えない。だから、なるだけ怪盗団全員との正面衝突は避けたい。
分断。
それかもしれない。幸いパレスは入り組んでいて、道中も長い。アイツらの弱点も知っているからそれ用の道具も使えばいい。パレス攻略中に、俺が餌となっておびき寄せて、各個撃破すればいける……わけないかぁ。
各個撃破。言葉にすれば簡単。けれど、あいつらはそういう場面を何度も潜ってきた連中だ。仲間が一人消えたくらいで、はいそうですかと散開するほど間抜けじゃないはずだ。それに聞くところ、獅童のパレスで認知の俺がやっていたらしい。さすがに二度目は通用しないだろうが。何やってんだ認知の俺。いやこの場合責めるのは獅童か。
結局、蓮が丸喜先生の作る世界を肯定してくれれば、事は丸く収まるのにな。戦闘すらしなくて済む。なんなら最初の夢へのいざないで、都合のいい世界にのめり込んでくれたらいいのに。ラヴェンツァが余計なお世話をしちゃうし。そのせいで主人公一人だけが世界の違和感に気づいちゃうしな………………。
「……………………いや」
それか? それは流石に悪魔的発想過ぎるか? でも戦闘しないに越したことはないよな?
俺はカップを手に取って、コーヒーを口に含む。苦い。けれど、その苦味が少しだけありがたかった。頭の中に浮かんだものを、無理やり飲み下すための罰みたいで。
そんなことを考えた瞬間。店の外がふっと暗くなった。同時に頭に痛みに似た違和感が走る。
「……来たか」
奥から、惣治郎さんが顔を出した。
「おい、今なんか変じゃなかったか?」
「外ですか」
「ああ。急に暗くなった気がしてな」
「……ちょっと外、見てきます」
惣治郎さんは渋い顔をしたが、止めはしなかった。左手で扉を押す。カラン、と鈴が鳴って、ルブランの外へ出た。
何かぬめりのある空気が、肌の上を這ったような気がした。
「……っ」
空が赤黒い。
まるで血を一滴ずつ垂らして水で引き延ばしたみたいな、濁った赤が空一面に広がっている。雲の輪郭は曖昧で、その奥で何か巨大なものが脈打っているように見えた。星は見えない。月もない。ただ、空そのものが重く低く垂れ下がって、街を押し潰そうとしていた。
現実とメメントスは融合を始めた。そして。
「……はは」
先生が全ての力を手に入れた。先生の目覚めかけていたペルソナが完全に覚醒した。
「惣治郎さん。ちょっと行ってきま──」
返事は待たなかった。扉の鈴がもう一度鳴る前に、俺はルブランの前の路地を走り出す。歪んでいく現実を横目に、この異常事態にすら気づかない大衆を抜けて、先生に会いに行く。場所が分からずとも、会えるはずだと確信している。なぜならヤルダバオトを倒せば、丸喜先生の世界への『曲解』が始まる。きっと会いたいと願えば、会えるはずだ。
戦いが終わるまで待っていてもよかったかもしれない。パレスで待っていてもいいかもしれないけど、再会するなら、今な気がした。
──力に覚醒した先生が最初に会う人物が俺であって欲しい。
呼吸を切らしながらも現れた俺に、先生は俺が生きていることに驚いた顔をして、それを見て祝福するはずだった。
「──す?」
──その走り出した一歩目が地面に沈むまでは。
地面を踏んだ感覚はなく、例えるなら階段を一歩踏み外した感覚。そしてバランスを崩して転ぶよりも先に、全身が地面の底へ落ちていった。
落ちている。
そう認識するまでに、少し時間がかかった。
地面に沈んだ、というより、現実の床板を踏み抜いたような感覚だった。足元が消えて、身体が傾いて、重心がどこかへ持っていかれる。
けれど、落下が終わらない。
「──っ、ぅお……!?」
情けない声が出た。声は出たが、空気を震わせた感覚がない。自分の喉から出たはずの声が、すぐ耳元で途切れて、どこにも届かずに消える。
周囲は赤黒い。さっき見上げた空と同じ色だ。血を水で薄めたような濁った赤が、視界の端で脈打っている。その中を、俺は落ちていた。耳の奥で、電車の音がする。線路を擦る金属音。車輪が軋む音。
その音は次第に遠くなり、やがて意識ごと薄れていくように、輪郭を失っていった。
***
いつの間にか意識はなくなっていた。それは数秒か、数分か。だが目覚めた時には落下の感覚はなく、地面に叩きつけられた痛みもない。
「……ッ」
目を開ける。すぐに体を起こして立ち上がる。最初に見えたのは、先ほど見えていたのと同じ赤黒い闇。
初めて訪れたここにも、もちろん見覚えがある。ここはメメントスの底。大衆の心の最下層。
誰かに支配されることを望んだ人間たちの願いが積み重なり固まって、牢獄の形を取った場所。見渡す限り、檻、檻、檻。鉄格子の向こうに、人影がある。けれど、誰も外へ出ようとしていない。
「──慈悲である」
その檻の群れの中心にいた、黄金の盃が囁く。
磨き上げられた黄金の肌には、羽根のような装飾と、血管のような溝と、歯車じみた円形の紋様が幾重にも絡みついている。宗教画の光背にも見えるし、巨大な機械の内臓にも見える。神聖さと人工物の気持ち悪さが、ひとつの器の中で無理やり混ぜ合わされていた。
「貴様は人の形をとりながら、その奥底に──眠れるものがある。まだ名を持たず、まだ目覚めぬ。されど、いずれ天をも侵さんとする昏き神格の萌芽」
眠れるもの。心当たりは、ありすぎるほどあった。あの触手だ。
「あってはならぬ瑕疵。秩序の織物に紛れ込んだ、ただ一筋の解れた糸である」
空間が、軋んだ。
檻が、タイルが、赤黒い闇そのものが、聖盃の意思に従って俺を中心に収束していく。逃げ場を塞ぐように。標本を一匹、ピンで留めようとするように。
「ゆえに──慈悲である」
その言葉の意味が、さっきまでとは正反対であることに、気づいた。
「秩序を脅かす種子は、芽吹く前に摘まねばならぬ。世界の安寧のために。万人の幸福のために。貴様という不確定を、ここで残らず無に帰す。それこそが、我が与えうる最大の慈悲なれば。安心せよ。痛みはない。記憶もない。貴様が在ったという事実すら、誰も覚えてはおらぬ。──それが、選ばれざる者の安らぎである」
目のない眼差しが、こっちを向いた気がした。威圧と、敵意。
周囲に怪盗団の姿はない。この聖杯に狙われ、大衆の忘却による存在抹消から逃れるため、今頃ベルベットルームに避難しているんだろう。
その間にコイツは俺を殺す気だ。そのために、ここへ引きずり込んだ。
つまりこの状況はラスボスとの一対一。
「抵抗は無意味だ」
「……」
「……気づかぬか。己が無力な駒なことに」
途端、体に違和感を覚える。いや、正確にはいつもの"軽さ"になっていないことに気づく。
メメントスにいるなら、本来なら服装が変わる。認知の世界で戦うための姿。仮面。武器。俺という人間の反逆の形。現実の服を脱ぎ捨てるように、こちら側のルールへ切り替わるはずだった。なのに、俺はルブランを飛び出した時の格好のままだった。
「……ペルソナ」
名を呼ぶが、意味のない言霊となって空気に溶ける。怪盗団としての力が失われていた。
当たり前だ。ペルソナなんてものは、認知の世界で己を貫くための力だ。反逆の意思。自分はこう在るのだと、世界に突きつける仮面。
けれど、その反逆者たちの存在そのものが、今は世界から否定されている。今は、大衆が怪盗団という存在など無いと認知している。
『怪盗団である乙守胡桃』が消えてる今、ペルソナなんて出せるはずがない。
「貴様は反逆者にあらず。民の記憶に刻まれし賊にもあらず。神に挑む資格を持たぬ、名もなき異物である」
その言葉と同時に、黄金の盃へエネルギーが収束していく。
「これは罰にあらず。憎悪にあらず」
黄金の光が強くなる。
「世界を守るための、慈悲である」
攻撃が、──来る。