Sapphire 〜ハリー・ポッターと宝石の少女〜 作:しらなぎ
語り終えたマルフォイはゆっくりと唇を舐めた。
背筋にずぞぞ〜……っと冷たいものが這いずるような悪寒を覚え、シャルルは思わず自分を抱き締めた。
重たい沈黙が降り積もり、暖炉だけがごうごう音を立てている。
何かが這い寄るような不安をシャルルは感じていた。ただおぞましいのとは違う、何かに気付きかけている嫌な予感で、シャルルの心臓は冷たく高鳴っていた。
「……ユ、ユニコーンは……」
自分の声が上擦っているのを自覚して、息を整えて口を開く。脳内を整理するような呟き声だった。
「ユニコーンは敬意を払うべき神聖な存在よ。穢れを癒し、命を癒し、その血はたとえ死の淵にいる命であっても回復させることが出来る……」
シャルルは手に力を込め、マルフォイが微かに体を揺らした。
「けれど純粋で神聖で穢れのない彼らを代償にした対価として、その存在は永遠に呪われる……生きながらの死……」
考えるほどに鼓動がますます大きくなっていく。
ユニコーンが傷付けられるようになったのはここ最近の話。それは、何者か衰弱した邪悪な存在がホグワーツに潜むようになったことを意味する。
いや、森にいる他の存在……例えば人狼やケンタウロスがユニコーンの血を覚えた可能性も……。でもそれなら森番やダンブルドアがすぐに処理出来るはず。ダンブルドアはもう半世紀以上もホグワーツにいるのだから。
ドクッ。ドクッ。
自分でも何をこんなに恐れているのか分からない。
思考を巡らせ、自分の漠然とした不安を理論化しようと深く深く感覚を研ぎ澄ませていく。
邪悪な存在がいつまでもユニコーンの血を啜って生き残れるはずがない。
そもそもなぜわざわざダンブルドアのいるホグワーツに?ユニコーンは神聖な森にしかいないけれど、探せば生息地はいくつかある。そこまで思考する脳がない?余裕が無い?元々ホグワーツに居た?それともホグワーツに来る理由があった?長く生きるつもりがない?短い間だけの手段?
何故かふと、3人組が脳裏をよぎった。
ポッターとウィーズリーとマグル生まれが探していた……。
「ニコラス・フラメル!」
シャルルはほぼ悲鳴のような金切り声を上げた。心臓が握り潰されそうなほど激しく収縮し、頭の先から血が凍っていく。
賢者の石?
まさか。そんな。いくらなんでも思考が飛躍しすぎてるわ。まさか。ありえない。
背筋がゾワゾワしてシャルルは歩き回った。
「スチュアート!どうしたんだ?」
落ち着いて考えなくちゃ。物事を多面的に見なければ正しい答えは見つけられない。
事実はユニコーンが殺されていること。最近になって襲撃を受けていること。森を守護するはずの森番がまだ対処出来ていないこと。人型をしていてローブで顔を覆い身を隠す知能があること。マルフォイの目からは血を啜っているように見えたこと。
「僕の声が聞こえていないのか?おい、スチュアート?」
可能性は。森にいた存在が死にかけてユニコーンの血の味を覚えた。ホグワーツの近くにいた何者かが衰弱して近くの森に逃げ込んで来た。ホグワーツに何らかの目的がある何者かが身を潜めている……。
「スチュアート!」
肩を強く掴まれてシャルルはビクリと震えた。顔には焦りと恐怖が滲んでいた。
「大丈夫か?君がそれほど動揺するとは思わなかった……」
困惑と後ろめたさの混じった表情で、今度はマルフォイが躊躇いがちにシャルルの手を包み込んだ。シャルルの手は微かに痙攣していた。
シャルルは目を伏せて息を落ち着けるように深呼吸した。
その姿は酷く儚げで、華奢な肩や手の中の指先があまりにも頼りなく見えて、マルフォイは何故か無性に……何かが掻き乱されるような感覚を覚えた。
その感覚を掴む前に彼女は弱々しく微笑んで、「もう平気よ」と言った。誰から見ても平気には見えなかったが、シャルルはマルフォイに挨拶をして自分の部屋に戻っていってしまった。
ポッター達に話を聞く必要があるわ……。
*
次の日、シャルルはポッター達の元に突撃した。金曜日は午前いっぱい魔法薬学の授業がある。ドキドキして気がそぞろになり、いつもより3回も多くお小言を貰ってしまった。
友人たちを先に行かせ待ち構え、教室から出てきたポッター達の腕を掴んでずかずか歩き出したシャルルに「一体なんだって言うんだ!」「ほら見たことか!本性を現した!物陰に連れて行って何をするつもりだって言うんだか!」「その手を離しなさい!貴方らしくないわよ!」とかごちゃごちゃ言う声が投げかけられたが、それを全部無視して近くの空き教室に3人をぶち込んだ。
鍵をかけて、さらに「コロポータス」と「鍵除け呪文」、さらにお父様から教えていただいた秘密の話をするための有用な呪文をいくつか掛けていく。
準備を整え振り返ると、3人が不安や怯えの滲む敵対的な表情をしていた。
「あら。ごめんなさい」
口から出た謝罪は彼らには随分軽く聞こえた。ウィーズリーが歯をむきだしにして怒鳴る。
「何のつもりだ?こっちは3人、君は1人、それに僕らには学年1の天才魔女がいる!やり込められるのは君だぞ!」
「まあ!」
天才魔女とやらが嬉しげな声を上げてウィーズリーの横顔を見た。シャルルは宥めるような笑顔を浮かべた。
「わたしは暴力にすぐ訴えない。それに今日はいくつか聞きたいことがあるだけ。ハリー・ポッター」
「ぼ、僕?」
シャルルと話すのはいつもウィーズリーだったので(話すと言うよりは一方的に怒鳴られるコミュニケーションだったが)、彼は不安そうな顔をした。
「昨日罰則で禁じられた森に行ったんでしょう?それで、ユニコーンの死体と、黒いフードの誰かを見つけたって聞いたわ」
「それが何だい?」固い声だった。「マルフォイがなんて言ってたか当てて見せようか?僕が死ななくて残念だとかなんとかだろ?」
「アー……」その通りだったので言葉を濁して話を先に進めることにした。
「それより、その何者かが血を飲んでいたって言うのは本当なの?神聖なユニコーンの血を……呪われてでも生きたい誰かがいたっていうのは?」
顔は相変わらず完璧に微笑んでいたが、ハリーにはその声に恐怖の色が混じっているように聞こえた。怪訝に思い顔をまじまじと見つめる。
何が言いたいんだろう。
彼女はスリザリンだし、禁じられた森にも行っていないんだから関係ないはずだ。
「どうなの?ポッター」
急かすように言われ、ハリーは頷いた。
「飲んでたよ。マルフォイの見た通りだ……。それで君は何故そんなことを聞きたいんだ?」
警戒心が高まって、突っかかるような口調で言った。ケンタウロスのことや、ヴォルデモートのことは言うつもりがなかった。スリザリンの奴らはヴォルデモートの復活を知ったら喜びの祝杯を上げるだろうから。
スチュアートは顔を顰めて呻き声を上げた。
「以前あなた達はニコラス・フラメルのことを調べていたよね?もう彼のこと見つかった?」
彼女は突然明るい声で世間話をするみたいに話を変えた。しかし、話は変わっていない。ハリーはロンとハーマイオニーとサッと視線を交わしあった。
上手く言えないが、危険な話の流れだ。
ロンが突き放した。
「もう見つかったよ。君の出しゃばりは必要ない」何故かハーマイオニーが顔をしかめた。
「そう、見つかったのね。何でニコラス・フラメルのことを調べていたの?」
ハグリッドが口を滑らせたからだけど、それを彼女に言う必要はない。彼女は何かを明らかに詮索しようとしている。不気味だった。
「どうだっていいだろ!それで、もういいかい?僕らは君と違ってスリザリンの奴らと話すほど暇じゃないんだ」
「もしかして──」
スチュアートの顔が大きく歪んだ。
「もしかして、ホグワーツに賢者の石があるの?」
ハリーは凍りついた。後ろでロンとハーマイオニーが息を飲む音が聞こえた。
スチュアートは諦めたように苦く笑った。
「あるのね……」
「な、なんで知ってるんだよ」
ウィーズリーが完全に恐怖に満ちた声を出した。まずいことになったぞ──そんな心の声がそのまま聞こえてくるかのようだ。
「わたしはあなた達を見て仮説を思いついただけだもの。あなた達こそ、よく見つけたわね」
3人は後退りして顔を見合わせている。シャルルは肩を竦めた。1年生でも分かったんだから、他の人も知っているだろう。
そして賢者の石が学校にあるなら、それを手引きしたのはどうせダンブルドアなのだから、後始末もあの老耄(おいぼれ)が付けるだろう。
賢者の石とかいうとんでもないものをホグワーツに持ってきて暴かれている時点でやはり気狂いだと確信はできるけれど、それなら先生方も把握しているはずだし、ハグリッドからユニコーンの話も聞いているはず。
急速にシャルルの気持ちが落ち着いてきた。
むしろ何をそんなに焦って怯えていたのかと恥ずかしさすら浮かんできた。感情に振り回されて思考力を失うなんて、貴族の子女として有るまじき失態だわ……。
「何をするつもりなんだ?」
毅然と言ったポッターをシャルルは鼻で笑いそうになった。
「何をって?闇の魔術師に対して何かしようなんて思わないわ。対処は大人がするでしょ」
その言葉は闇の魔術師と「敵対する立場」での無意識の発言であり、ポッターはなにか違和感を感じたが、その後の言葉で霧散してしまった。
「でもお父様に報告は必要よね。ああ、スネイプ教授にも一応言った方が」
「ダメだ!!」
いいのかしら、と言う前に怒鳴り声で遮られた。
3人が凄い形相をしていた。シャルルは困惑の表情を浮かべた。
しかし、彼らが問題児であること、学校の秘密の深部に迫っていること、スネイプ教授のポッター嫌いは並々ならないことなどを思い出し合点がいった。呆れ顔で「スネイプ教授に退学を決める権限なんてないと思うよ?でも分かったわ、教授方には黙っておくわ」と言った。
「え……いいの?」
「わたし達はありがたいけど、どうしてか聞いてもいい?」
マグル生まれがおずおずと尋ねる。
「どうしてって」シャルルの声には隠し切れない嘲りが乗っていた。「わたし達の気付く事実は、当然教授方も気付いてらっしゃるもの」
しかし3人の反応は曖昧だった。ウィーズリーはわかってないよな、とばかりに眉を上げ下げし、ポッターは困った顔をしている。
眉をひそめてさらに言い募った。
「だってそうじゃない?罰則の件から賢者の石がここにあることが部外者に漏れている事実も明らかだし、衰弱した何らかの邪悪な存在であることも、わたしでもわかるんだから、あとはあの役立たず…………いえ、ダンブルドア校長がどうにかすることでしょ?」
「役立たずだって?」
ウィーズリーが唸り声を上げた。
シャルルは苦笑いして「邪悪な存在をホグワーツに侵入させたことからも明らかじゃない。でも、少し口が悪かったかもしれないわね」と宥めたが、火に油を注いだだけだった。
「やっぱり君は腐れスリザリンだ」
「日和見主義の八方美人め!」
──こういう所がグリフィンドールの駄目なところなのよね。
猪突猛進、思い込んだら一直線の頑固で視野狭窄な英雄気取り……。
シャルルはにっこり笑った。
「今日は時間を割いてくれてありがとう。あなた達と話してみたかったから有意義な時間になったわ」
言い逃げして、後ろから追いかけて来る声を振り切るようにシャルルは去った。
教授方が対処するだろうし、対処すべきでありシャルルがこの件に手を出すつもりがないという意識は変わらない。
でもやっぱり、心の奥底で得体の知れない不安が蠢くのを止めることは出来なかった。
シャルルは、敢えて聞かなかったのだ。
「衰弱した邪悪な存在は誰?」と……。
「やっと終わったわ!毎日毎日課題、レポート、復習、勉強、クラブ、課題、レポート、勉強……。頭が変になるかと思った」
ダフネがバンザイして清々しい歓声を上げた。
数日間に渡る学期末試験がとうとう終了したのだ。
トレイシーがくすくす笑いながら、「クラッブとゴイルは既になってたわね」と言うものだから、シャルルも思わず吹き出した。
彼らはマルフォイに怒鳴られながら勉強させられていたけれど、30分も机に向かっていると白目を向いて痙攣し始めるのだ。よく教師役を務められたものだと彼を心底尊敬する。
ホグワーツに留年制度は無いはずだけれど、留年になってもおかしくない具合だった。
男子寮からセオドール・ノットが降りてきた。その手にはなんと教科書が抱えられている。ダフネが素っ頓狂な声を上げた。
「ちょっと、冗談でしょ、セオドール!たった今試験が終わったばかりじゃない」
──セオドール?
ノットが声を受けてこちらに歩み寄って来た。
「自己採点くらい誰だってするだろ」
「用紙も残ってないのに、なんの問題が出たかなんてもう覚えてないわ」
「お前の脳みそは案外ゴイル達と変わらないかもしれないな、グリーングラス」
「あなたって本当に無礼なひと!」
ダフネとノットは軽口を叩き合い、常に無表情の彼が、ほんの僅かに口の端を緩めているように見えた。
「君は試験の復習するだろ?」
内心の微かな動揺を完璧に押し隠してシャルルは頷く。「ええ、そうね……今すぐしようとは思わなかったけど」
「2人とも充分くらいの成績でしょ!?」
悲鳴のような声でトレイシーが唸った。
「たしかに思ってたより試験はずっと簡単だったよね」
「内容の問題じゃない。結果が全てだ」
ダフネとトレイシーは同時にため息をついた。彼女たちにとって試験は全く易しいものではなかった。
「そのうち机に齧りついてないと発狂するようになっちゃうんじゃないの?」
「わたし達はレイブンクロー生じゃないのよ?テスト終わりくらい勉強から開放されなきゃ」
「忘れたのか?スチュアートはレイブンクローだ」
シャルルは軽く笑って、なんてことの無いように言った。
「それにしても2人はいつの間にそんなに仲良くなったの?」
「ああ、図書室で勉強してると彼がよくいるの」
そしてシャルルにしか聞こえないように、耳元でダフネが囁いた。
「彼、エリアスと仲がいいのよ」
エリアス・ロジエール。7年生の監督生で、ダフネの想い人だ。そういえば1人を好むノットが、ロジエールと話しているのはよく見かけたかもしれない。
「僕はこれから図書室に行くけど、スチュアートは?」
「あら、お誘いしてくださるの?」
軽くからかうとノットは肩を竦めた。トレイシーがくすくす笑う。「ノットにそういうのはまだ早いんじゃない?」
「そういうのって?」
ダフネも面白がるような顔をしていた。
「女の子にスマートに接するってこと」
ノットがウンザリした顔で呟いた。「僕は忙しいんだ。それじゃ」
「待って。わたしも行くわ」
レイジーに教科書を取りに行かせると、トレイシーが不満げに頭を振った。
「気でも狂ってるの?今からパーティーをしようと思ってたのに」
「夜しましょうよ。わたし達の部屋で。実はわたしも今から予定があるの」
「ダフネまで!わたし、1人にされるの?」
トレイシーが拗ねた顔をするのでダフネとシャルルは顔を見合わせて笑った。ノットはどうでも良さそうに突っ立っていた。
レイジーが戻ってくると、一行は立ち上がった。シャルルとノットは図書室に、ダフネの予定は恐らくロジエールとのデートだろう。彼は今年で卒業してしまうからもう時間が無い。
「ミリセントと湖でおしゃべりでもするわ」とトレイシーも後ろをついてきた。ミリセント・ブルストロードはトレイシーとダフネと同室だった。
「彼女どんな子?」
問いかけると意外そうに目をまたたかせた。シャルルは純血以外には徹底的に興味がないのは周知の事実だった。
「可愛い子だよ。控えめだけど頼りになるし。あと彼女の飼ってる猫がすごく可愛いの!」
「アートルムね。黒毛に金色の瞳が凛々しくて、人懐っこい仔猫よ。慣れてくれたらだけどね」
「仔猫!わたしまだ会ったことがないわ。何回もあなたの部屋に行ってるのに」
「人見知りなのよ。それに気付いたら部屋からいなくなってるの。冒険家キャットみたいね」
アートルムが初めて部屋の外に出た時ブルストロードは激しく狼狽えて探し回ったらしいが、今じゃもうすっかり慣れて、あのミセス・ノリスとも友好的な関係を築いているらしい。
仔猫とはいえなかなか有能な社交技術を身につけているようだ。
女性陣が可愛らしい話題で盛り上がる後ろを、むっつりとノットが無言で歩いていた。顔はまったく隠すことなく鬱陶しさを浮かべている。
卒業する上級生とお茶をするというドラコ・マルフォイとパンジー・パーキンソンも一行に加わり、廊下は少し大所帯になった。
シャルルは彼らと会話する仲には戻ったが、未だ仲直りをした訳ではなく少し微妙な距離感だった。しかしパンジーとはお互いぶつかりあったあの夜以来、マルフォイとは罰則から帰ってきたあの夜以来、心の距離は縮まった気がしていた。
2階の階段でシャルルとノットは別れることになり、そこで少し立ち話をしていると、闇の魔術に対する防衛術……DADAの教室からクィレル・クィリナス教授が出てきた。
彼はいつもスリザリン生を見るとどもりが酷くなり、肩が強ばってガチガチになったが、今はまっすぐこちらに向かって来ている。
マルフォイは嘲りの表情を浮かべ、攻撃の準備をした。ノットはどうでも良さそうだったが止める気はないようで、一行の間には冷たいせせら笑いが漂っていた。
クィレルは澱みない足取りで近付いてきた。
「こんにちは、皆さん」
おや、とシャルルは思った。珍しくどもらずに彼は喋った。マルフォイも怪訝そうに眉を上げた。
クィレルはチラッとシャルルとノットの手の中の教科書を見て微笑んだ。緊張の欠けらも無い微笑みだ。
「試験が終わったばかりだと言うのに熱心なことだ。素晴らしい」
その言葉は何故か嘲りが混じって聞こえた。
クィレルの常とは違う雰囲気に自然と視線を交わし合い、ダフネ達が一歩下がる。クィレルはズイとそれを埋めるよう踏み出した。
異様な目でクィレルがマルフォイ……ノット……そしてシャルルの目を覗き込んだ。
「賢い蛇は権力を上手く扱い、甘い汁を啜る……」
クィレルの声は低く、辛うじて聞き取れるくらいの大きさだと言うのに、耳に直接声を吹き込まれているかのようにハッキリと聞こえた。ノットとマルフォイが体を固くしているのが見える。
「あなた方の父親の選択を、彼はお許しにならない」
ほとんど囁き声だった。あまりにも柔らかく穏やかな声にシャルルは背筋がゾッとした。
クィレルは「そ、それではみなさん、よ、良い週末を」と突然いつもの態度に戻り、猫背で逃げるように階段を降りて去って行った。
シャルルは困惑と恐怖を浮かべて彼の背中を見ていた。
「なんだったの?あいつ、なんて言ってたの?」パンジーが戸惑って声を上げた。
「聞こえなかったのか?」
「ええ。ボソボソ喋るんだもの。ドラコは聞こえた?」
「ああ……」
困惑を振り払い、嘲笑を浮かべて「権力がどうとか、甘い汁がどうとか生意気なことを言ってたよ。おおかた、もうすぐホグワーツから放任されるんで悔し紛れに言ったんだろう」彼はクィレルの様子をそこまで重要に捉えなかったのかもしれない。
しかしシャルルには完全になんらかを指して脅迫されたように感じた。ノットと目が合うと、彼は表情を消して目を逸らした。彼もシャルルと同じ印象を受けたようだった。
*
図書室に入ってきたシャルルとノットをマダム・ピンスが眉を跳ね上げて不信気に睨めつけた。その視線を煩わしく流し、2人は奥の方へ、人気のいない方へ進んだ。図書室はほぼ人がいなかった。レイブンクロー生ですらいない。
試験が終わったばかりの午後に好き好んで図書室に来る酔狂な生徒は実に少ない。
本棚の陰の2人掛けの席に腰掛けて教科書を開いた。シャルルもノットも無言だった。しばらく文字を眺めていたが全く頭の中に文字が入って来なかった。
ノットの羽根ペンを持つ手が少しも動いていないのを見て、シャルルは、ほぼ吐息を零すように囁いた。
「父親の選択を許さないって、何なの?」
ノットは黙りこくっていた。
彼に無視されたのかと思い、シャルルはまた教科書の文字に目を落とした。暫くしてノットが呟くような声で返事をした。
「ひとつだけ心当たりはある……」
彼の目を見つめる。ノットはかなり困惑していた。眉をひそめ、自分の考えを唾棄すべきもののように苦労して言葉を零した。
「心当たりはあるが、でも……ありえない」
「何がありえないの?」
「クィレルはハーフ・マグルだ」シャルルが黙っていると、ノットは続けた。「それに去年までマグル学の教授だったと聞く」
シャルルの知らない事実をノットは知っているらしい。
クィレルの言葉の意味がシャルルには分からなかった。反応の鈍い彼女にノットは探るような視線を向けた。
「君は……知らないのか?親から何も聞いていないのか?」
「あの脅迫も、あなたの言いたいこともわたしには分からない……」
自分が酷く無能に思えて指先を擦り合わせる。ノットはまた黙りこくった。
もどかしい無言が流れた。
「あの偽善者の老いぼれが……ホグワーツに採用するわけが無い。ありえない……」思慮深さと警戒心に満ちた響きだった。
「ねえ、わたしは何も知らないのよ!」
小声で叫ぶと、ノットが少しの間考えて、躊躇うように口を開いた。
「何も知らないのか?」彼は同じことを繰り返した。
苛立ちが浮かんで、少し強い口調で彼を睨んだ。「だから、何も知らない。そう言ってるじゃない」
「だが、ヨシュア・スチュアートは何人も庇って来ただろう。10年前に……」
「庇った?10年前?」
当惑の表情を浮かべ、ウィーズリーに言われたことを思い出し、怒りに顔を赤くした。
「お父様は死喰い人じゃないわ!お父様は例のあの人からの誘いを断った!」
ゆっくりとノットの無表情が変化した。軽蔑と自嘲の色が映っていた。ある可能性にシャルルの声は微かに震えた。
「ノットのお父様はまさか……?」
「噂だよ。死喰い人の可能性は否定された。君の父親もいた裁判で」
「…………」
シャルルは押し黙った。
脳裏を様々な考えがある高速で巡っていた。クィレルの脅迫、ウィーズリーの言葉、マルフォイ家やノット家とパーキンソン家の差異……。
「ルシウス・マルフォイも、そうなの?」
「彼は闇の帝王の腹心だと思われていたが、英雄が打ち砕いた夜以降、誰よりも早く表舞台で無罪を獲得したのは有名な話だろ。……本当に魔法界で育ったのか?」
酷薄な軽蔑の表情でノットはシャルルを見つめていた。
「だって……わたしは隔離されて育てられたもの」
唇を歪めて言い訳がましく言うと、ノットは瞳を伏せて何かを考えていた。
「それじゃ……何?クィレルは死喰い人だとでも?」
「ありえない……でも心当たりはそれしかない」
背筋に蛇が這うような気味の悪い不安感がシャルルをじわじわと苛んだ。クィレルが……そして、目の前のノットも……。
これを言うのを酷く躊躇しながらも、シャルルは言わずにいられなかった。ノットと友人でいたかった。
「あなたは闇の帝王の……信奉者なの?」
時間をかけてノットは答えた。
「彼の思想が間違っているとは思わない。純血は保たれ、マグルは排除されるべきだ」
「その思想はわたしも正しいと思ってる。でも彼は……無差別的だわ。お母様は彼に酷く怯えて……同時に憎しみを抱いてる」
吐き捨てるように言った。
「隠してるけど、分かるの。だからわたしは……闇の帝王を全部肯定することは出来ない。それに何より、彼等は純血を殺した!」
「下劣なマグルを庇う連中だ。君がウィーズリーに近付こうとするように」
頬が熱くなった。シャルルは激しくノットを睨んだ。しかし彼は余裕をもってその視線を受け流した。瞳をぎゅっとつむり、心を落ち着かせようとシャルルは努力した。
「わたしは全てを知っているわけじゃない。けれど、闇の帝王も死喰い人も、純血や魔法族のために戦ったようには思えない……」
シャルルは強く唇を噛んだ。
「彼らのせいで貴重な血筋がいくつも喪われた。非常に膨大な損失よ。わたしなら敵対しただけで……賛同しなかっただけで純血を殺すような真似はしない。わたしなら……わたしならその分マグルを殺したわ」
シャルルは声を震わし、瞳を潤ませていた。彼女の口から思ってもみなかった言葉が飛び出してノットは驚愕でシャルルを凝視した。
「君は……何を言ってるか分かっているのか?」酷く困惑した声だった。
「わたし……分からない。ただ、今の魔法族も、純血主義も……何かが歪んでいる気がして仕方なくて……」
指で目元を擦って顔を上げる。思っていたことを明かすのは初めてで恥ずかしかった。
「まだ答えを見つけたわけじゃないの。でも、闇の帝王は間違ってるって思う……だから、その……。わたしなりのやり方で何かを変えてみたいって……そう思う」
心臓から熱がせり上がって来て、顔が急速に熱を帯びた。ノットが目を丸くしているのを見て、シャルルは真っ赤になって俯いた。ノットは言葉を探したが、見つからずに口を開けたまま固まっていた。
「次の闇の帝王になるってことなのか?」
「ち、違うわ」小さく首を振り、慌てて言う。「そんなに大層なことを目指してるわけじゃ……。ただ、純血魔法族がお互い敵対し合わずに尊重出来るようになればって」
「そんなのは綺麗事だ」
「分かってる。でも理想は高い方がいいでしょ。理想論に過ぎなくても……」
「血を裏切る者を許せって?」
「マグルと関わるからいけないのよ。でももう魔法界はマグルやマグル生まれと関わらずに生きてはいけない。完全にマグルを断つか……マグルを消さないと。魔法族が手を取り合わないと、マグルの侵略は抑えられないわ」
ノットはいつかの言葉を思い出していた。
── わたし達は純血を率いる者で、その選択は何者にも尊重されるべきなのよ。
シャルル・スチュアートがいつか偉大なことを成すだろうと感じたことを、思い出していた。