Sapphire 〜ハリー・ポッターと宝石の少女〜 作:しらなぎ
憧れの魔法界で、イルは透明人間になった。
初めて不可思議な力のことを知ったのは7歳の時だ。両親は宝石商を営んでいた。両親が見せてくれるキラキラした石がイルは大好きだった。でも、パパもママも触らせてくれなくて、つまらないと思ったイルは、道端の石を拾って「これがあのキラキラになったらいいのに」と思った。次の瞬間、味気ない灰色の小石は、紫色のキラキラになっていた。
イルの力を知った両親は驚愕し、狂喜乱舞した。イルのことを抱っこしてくれるパパ、涙目で喜んでくれるママを見て、イルもすごく嬉しくなったのを覚えている。しばらくしたら紫色のキラキラはただの石に戻ってしまったけれど、大切な宝物としてイルはずっと大切に持っている。
それから今まではあまり会っていなかった祖母や祖父と会うことが増えた。ママの両親は冷たくて素っ気なかったけれど、イルにだけは優しかった。膝に小さなイルを乗せて、不思議な力と世界のことを教え、不思議なことを見せてくれた。
魔法界。魔法の力。ママともパパとも違う特別な力。
両親にも祖父母にも愛されて育ったイルは、常に賞賛に取り囲まれていた。パパに連れていかれるパーティーでは周りの大人はパパも、娘であるイルも笑顔でにこやかに褒めたたえ、友達たちは裕福で美しく教養もあって優秀なイルをいつも優先した。
イルは小さな世界でクイーンだった。
男の子に微笑めば恥ずかしがってイルに好かれようと必死になり、女の子たちはイルの友達でいようと必死だった。
ホグワーツからの手紙が届いた時、ついにずっと憧れていた、祖父母が生きてこれから自分が生きることになる魔法界で過ごせるんだと、胸に花が咲いたような気分になった。
ワクワクして、楽しい毎日がこれから始まるんだと、心を弾ませていたのに。
*
入寮してスリザリンに組み分けされたイルに、同寮生は優しかった。先輩も、同学年のアクリントンやフォスターもイルの美しさの前に、出来るだけ紳士的に振る舞おうとしたし、トレイシーは人懐っこくてすぐ友達になった。パークスやアンダーソンはさっそくイルの取り巻きになりたがっているように感じた。
彼女は隣に座ったイルをチラッと検分するように見て、ニッコリと笑った。
「トレイシー・ディヴィスよ。よろしく」
「イルよ。よろしくお願いするわ」
「ええ。トレイシーでいいわ」
簡単な挨拶だけで、彼女は満足そうに頷いて手を差し出してきた。その手を軽く握って、イルとトレイシーの隣にパークスとアンダーソンが座った。
トレイシーは彼女たちからの挨拶を頷くだけに留めて、イルだけに話しかけて来た。イルはそれに答えながら時折、パークスとアンダーソンに話を振ると、彼女たちは緊張と喜びを浮かべて一生懸命に言葉を選んで返事をした。イルとトレイシーの顔色を伺うような態度。入学して一瞬で、そこには明確にカーストが敷かれていた。
その上位にイルがいる。
前の世界……マグルの世界と同じように、今まで通りの人間関係が築けたことにイルは安堵していた。
それがおかしくなったのは3日目からだった。イルの立場はたった数日で崩れた。
シャルル・スチュアート、パンジー・パーキンソン、ドラコ・マルフォイ、セオドール・ノット。この4人はすぐさまスリザリンの頂点に立った。全ての学年を含めても彼らは上位者だった。
でもイルは誰かにおもねったことがない。おもねる必要があるとも思えなかった。
最初は好意的だったスチュアートが、イルの出自を聞いた途端、態度が硬質になった。パーキンソンが耳障りな甲高い声で「穢れた血と生まれ損ないの娘なのよ!」と叫んだ。
スチュアートの氷のような冷たい軽蔑の瞳と、パーキンソンのおぞましいものを見る嫌悪の視線がイルに突き刺さって、気丈に言い返したけれど、その夜は不安で胸がざわめいていた。
穢れた血?
生まれ損ない?
何を指してるのかイルには分からなかったけれど、酷い侮辱を受けたということはわかった。
ジクジクした怒りとチクチク身体を這い回る不安がイルの胸中を支配していた。
「あなた、スリザリンを敵に回したいの?」
嘲笑を浮かべて吐き捨てられたスチュアートの言葉がずっと気になっている。
次の日、イルはその言葉の真意が分かった。
寝室の分かれたディヴィスと談話室で待ち合わせして談笑していると、ターニャ・レイジーを引き連れたパーキンソンがトレイシーに言った。
「ねえ、あなた純血だったわよね?」
「パ……パーキンソン!ええ、わたしはディヴィス家よ」
「そうよね。じゃあなんでその子と話してるわけ?あなたも血を裏切る者なの?」
「ち、血を裏切る?そんなまさか!」
トレイシーは絶句し、顔面を蒼白にして慌てて叫んだ。イルは血が引くような思いがした。トレイシーの叫び声に生徒の視線が集まっている。
「じゃあ知らないのかしら?その子、穢れた血と生まれ損ないの娘よ!そんな子と話してるとあなたまで穢れるわ」
「えっ……」
トレイシーが目を剥いてイルの顔を凝視した。談話室が静まり返って、痛いほどイルに視線が刺さった。
口を開けて、閉じて、唇を舐めて、トレイシーが慎重に声を出した。
「ねえ、パーキンソンの言ってること……ほんとなの?」
「……どういう意味?」
「だから、本当に……穢れた血と生まれ損ないの……」
「その言葉の意味が分からないのよ。穢れた血って何?生まれ損ないって何なの?それを知らないと答えようがないわ」
トレイシーがひゅっと息を飲んだ。いきなり談話室に喧騒が戻ってきた。自分を取り巻く空気が一気に冷え込んでいく。
「嘘、まさか……最悪!」
勢いよく立ち上がって、トレイシーが肩や腕を必死に払った。さっきまで隣に座って仲良く話していたのに、今の彼女の目は昨日のスチュアートやパーキンソンのような色を浮かべていた。
そしてトレイシーが吐き捨てた。「なんでスリザリンにそんなのがいるのよ?」
トレイシーはパーキンソンに「わたし知らなかったのよ、彼女がそんな、忌まわしい生まれだなんて……」と言い訳するようにへりくだった。
パーキンソンはフッと笑った。
「そうよね。じゃなきゃ、視界に入れるのだって嫌なはずよ。しかも彼女、わたしとシャルルに楯突いたのよ?身の程知らずにも程があるわ」
彼女は言いたいだけ言ってさっさと去って行った。取り残されたイルから潮が引くように人が離れ、あからさまなひそひそ声が充満し始めた。
「まさかスクイブの……」「スリザリン史上最も穢れた……」「なんでこの寮に……」
謂れのない中傷に目の奥がカッと熱くなる。
イルは怒鳴った。
「一体何なの!?パーキンソンといい、スチュアートといい……!トレイシー!わたし達は友達になったじゃない!」
名指しされたトレイシーは大きく顔を歪めた。
「やめてよ。わたしは由緒正しいディヴィス家の子女なのよ?あなたみたいな人と間違っても友達なわけないじゃない」
「ディヴィス家だったら何?それがそんなに偉いとでも?」
「はぁ?当たり前じゃない。純血は尊ばれるべきなの」
即座に返ってきた返答に、イルは一瞬言葉を失った。周囲の人間はみな、嫌悪、侮蔑、嘲笑……負の感情を浮かべている。
トレイシーを鋭く睨み返し、イルは寝室に踵を返した。これ以上あの空間に耐えられそうもなかった。
ドアを勢いよく閉めると、俯いて唇を噛み締めた。拳を握りしめすぎて腕がぶるぶると震えた。
「うるさい……」
苛立ちの籠った眠そうな声がして、イルはハッと顔を上げた。奥のベッドから瞼を擦りながらスチュアートがよたよたと出てきた。
スチュアートはチラッと一瞬イルを見ると何も無かったかのように視線を逸らして着替え始めた。
激情のまま、つい彼女に詰め寄る。
「なんでわたしがこんな扱いをされなきゃならないの?」
スチュアートは視線すら向けることなく、イルの怒鳴り声を無視した。虚を突かれ、胸の奥から怒りが噴火しそうになる。
「スチュアート!あんたに言ってるの!魔法界を知らないことがそんなにいけない!?」
教科書を持ったスチュアートはまっすぐイルの方に歩いてきた。イルは彼女を睨んだ。スチュアートはそのままイルの横を通り過ぎて寝室を出て行った。
まるで透明人間みたいに……。
「は……、はは……」
呆然として、口から力無い笑い声が漏れる。怒りが頂点に達すると、人間は笑ってしまうことを初めて知った。
イルはズルズルと座り込んだ。
「うっ……なんなのよ……!」
悔しくて悔しくて、前髪を掴みながら嗚咽を零す。目から色んな感情がぐちゃぐちゃになって、処理しきれなくなった雫が流れ出した。
何が起きたかわからなかったけれど、これだけは分かった。
イルはホグワーツ生活の第一歩を、致命的に失敗したのだ。
スリザリンで完璧に浮いてしまったイルの学校生活は最悪だった。理由もなく嫌われ、笑い者にされるのが当たり前になった。血筋以外になんの取り柄もない人間に笑い者にされるたび、腹がねじ切れるような惨めさに襲われたが、イルは常に毅然と顔を上げて「あなたたちなんか相手にしていられないわ」という態度を決して崩さなかった。
言葉の意味は暮らしているうちに分かった。穢れた血はマグル生まれ。スクイブは魔法族に生まれながら魔力の備わない人間。スリザリンでそれらは忌み嫌われるらしいことも分かったが、イルには何故そこまで嫌われるか実感として理解することは出来なかった。
母はイルを愛情持って育ててくれた優しい人だし、父は宝石商として忙しく働いて、その背中が大きくて、イルは両親を誇りに思っている。大好きだし、劣っているなんて思わない。
魔力のある自分が勝っているとも思わない。
でも、祖父母がイルを可愛がる反面、父や母に素っ気ない理由が見えて、血に縛られる愚かさに嫌悪感を抱くと同時に、祖父母にまで根付く深い差別や価値観に絶望的な気分にもなった。
トレイシーはしばらくしてブレーズ・ザビニたちのグループに入ったようだった。アクリントンやフォスターもそうだ。ザビニは面食いで偉そうな男だけど最初からイルに見向きもしなかった。
魔法薬学の授業で彼らの後ろになった時、これ見よがしに話す彼らの会話が聞こえた。
「彼女が言ってたんだけど──」
「どの?」
「ああ、グリフィンドールの」
「よくあの寮の女と付き合えるな」
フォスターが呆れたように言ったけれどザビニはそれを鼻で笑ってあしらう。
「馬鹿言うなよ。美人も血筋も寮には関係ない」
「お前は顔が良かったら誰でもいいよな、ブレーズ?」
「でも、その割に出来損ないは口説かなかったな。ほら……」
アクリントンがわざとらしくイルをチラッと振り返りにやにやした。イルは鋭く睨み返す。
「テローゼ?まあ、顔の作りは最高だよな。同学年じゃスチュアートとパチル姉妹に並ぶレベル」
胸に一瞬淡い喜びが浮かんだことに、自分で自分が悔しかった。男の子に褒められることなんか当たり前だったのに、正当な評価を受けることさえ久しぶりで、上から偉そうに点数をつける下賎な言葉に喜びそうになってしまった。こんなもの、褒め言葉でもなんでもない下等な言葉なのに。
「でも多少顔がいいくらいで自分を穢そうなんて思わないね。最初からあんな女に近づく気はなかった。見る目のないお前らと違って」
ヘラヘラしていたアクリントンとフォスターが顔を見合わせて罰の悪い顔をした。この2人は最初はイルに骨抜きで、笑いかけるだけで顔を赤くしていたくせに、今やイルのことを虐める筆頭だった。
たぶん、そうすることで自分のプライドを保とうとしているんだろう。
そしてイルを邪険にするパフォーマンスをして、スリザリンの他の生徒に、血を裏切るつもりはないとアピールしている。
「俺たちだってあの女があんなとんでもない出身だってわからなかったんだよ」
「そうさ。分かってたら近付かなかった」
「なんでブレーズは分かったんだ?話す機会なんてなかっただろ?」
「簡単なことさ」ザビニは髪をかきあげて、得意気さをなんとか隠そうとしているようにニヤッとした。「まず俺は、友情を深めた方がいい相手を慎重に見極めてる。だからマルフォイ達にも近付いてない」
ザビニはさらに続けた。
「それにテローゼなんて姓を聞いたことがあったか?詳しく知らない人間に飛びつこうだなんて、分別のある人間ならまず思いつかないね」
嘲笑のこもった声でザビニは笑った。アクリントンとフォスターは少し黙って苛立ちを逃がしているように見えた。
「それで?誰にどう評価を下したんだ?」
「マルフォイはただの甘やかされたお坊ちゃまだね。チヤホヤする価値はない。でもノットに比べたらまだマシだ。パーキンソンは恋愛対象としては最悪。蛇としてもマルフォイの同類で話にならない。スチュアートは手綱を握れれば近付く価値が大いにある」
「本当にお前は偉そうだな」
フォスターが失笑した。「根拠に基づいた自信と言ってほしいね」ザビニが言い返す。
「スチュアートの手綱を握れる自信はおありなんでしょうか?」
茶化すアクリントンを睨み、「勝算はこれから見つけていくつもりだけど、彼女は話がわかりそうだと睨んでる」と唇を舐めた。
それから彼らの話題は他の寮生……特にハリー・ポッターの悪口に移っていったが、イルは心底うんざりした。
どいつもこいつもマルフォイ、ノット、パーキンソン、スチュアートのことを持ち上げる対象として見ているし、小さなグループにも必ず上下関係がある。ザビニだって軽薄でナルシストな顔だけの男に見えるのに、派閥を築くくらい権力を持っている。
スチュアートなんてどこがいいの?
彼女はスリザリンの中で最も冷たい人間だと、イルはそう確信している。
悪口も、侮蔑も、いじめもしないが、人間のいちばん冷たい感情は無関心だ。スチュアートは情を削ぎ落として合理だけを詰め込んだような造りをしていると思う。
彼女はイルに対して徹底していた。
挨拶や会話をしないのは当然として、もう視界にすら入れない。視界に入っても背景の一部にしている。イルに対して虫ほどの興味がないのを感じて、イルは怒りというよりもゾッとした。そんな態度を人に取られたことがなかった。たとえ目の前で死にかけていても、スチュアートはチラリともせずに見殺しにするだろう。
そんな彼女が、パーキンソンやグリーングラスには優しくて親切なのを見ると、何を考えているのかと背中がゾワゾワする。彼女の優しさは上辺だけか、他人をコントロールする術に思えた。
穢れた血や生まれ損ないと呼ばれ、嘲笑に囲まれた生活をしていると、小さな上下関係に支配されたスリザリンの人間がいかにもくだらないということがイルには分かるようになった。
スリザリンが大嫌いだ。
でも同時に、イルが何故スリザリンに組み分けられたか痛いほど自覚した。
ホグワーツに入る前のイルは、ちやほやされることが当たり前だと思っていたし、そのことに優越感を感じていたからだ。
小さな世界の女王でいることは楽しかった。それを懐かしむことも毎日だ。
カーストのある人間関係の思考からきっとイルは抜け出せない。
虐められている今だって、屈辱と羞恥心が先に立って、自分がそんな底辺の扱いを受けていることに怒りを覚えている。他人から尊重されないことに傷付いているんじゃない。プライドが傷つけられているのだ。それがくだらないことだと分かっているのに、芯から考え方を変えることはまだ出来ていなかった。
ママはイルがスリザリンに入ったことで、喜んだし、嘆いた。祖父母は狂喜乱舞した。魔法界で育っていたママには、マグル生まれとスクイブのあいの子がスリザリンでどう思われるか知っていたから、頻繁に手紙を送ってくれたけれど、今の状況を言えるわけがなくていつも「心配ないわ」「わたしを誰だと思ってるの」と返事を返していた。
これも、親を心配させたいからという理由じゃなかった。
イルは自分の自尊心の高さを自嘲した。自分が恥ずかしかった。
スリザリンが、自分が……嫌いだ。
*
ただでさえ最悪なイルの境遇は、これ以上悪くなりようがないと思っていたのに、もっと悪くなった。これもスチュアートのせいだ。
変身術が得意なイルは授業でよく加点を貰う。小テストでも、レポートでも悪い成績を取ったことがない。マクゴナガルもイルを認めてくれていて、最初の授業で成功していたら、今の状況が何か変わっただろうかとたまに思う。
イルが手を挙げる度に舌打ちや嘲笑、陰口のさざなみが起こるけれど、発言を辞めるつもりは無い。唯一正当に評価される機会だったし、悪いことをしていないのに俯くような真似は自分で許せなかった。
授業が終わって逃げるように談話室に向かう。掲示板の合言葉の変更を急いで確認していると、ゾロゾロと生徒たちが追いついてきた。寝室に逃げようとすると、上級生がわざとぶつかってきて教科書がバラバラと手から崩れ落ちた。
しゃがみながら、イルは相手を睨む。
上級生はニヤニヤしながら見下ろしていて、パーキンソンがそれを見つけて甲高く笑った。
「あら?テローゼったら跪いてまで挨拶してるの?自分の身の程をそろそろ弁えてきたみたいね」
瞬間的に言い返しそうになったけれど、唇を噛み締めて耐える。パーキンソンと揉める方が面倒だ。勝ち誇った表情や、周囲の笑い声が鬱陶しい。
笑わないのはスチュアートやノットくらいだった。
退屈そうに素知らぬ顔をしているスチュアートにパーキンソンは不満そうに「シャルルもそう思うでしょ?ほんとにおかしいったら」と水を向けた。
「何が?」
「何がって……」パーキンソンは少し言い淀んだ。「テローゼのあの無様さよ。生意気なのが少しマシになって、いい光景でしょ?」
スチュアートは肩を竦めた。
「あのね、パンジー。わたしはスリザリンに相応しくない人のことは見えないの。前から思ってたけど、あなた達ってみんな非生産的よ。わざわざかまってあげるなんてよっぽど人がいいか、よっぽどヒマなんでしょうね」
フンと笑うと、スチュアートは寝室に戻って行った。
後に残された生徒の間に戸惑いの沈黙が流れる。マルフォイたちやグリーングラスがいつもの席に座り、「どういうことだ?」と話し始めると、彼らの周りに人が集まり始めた。
「ああ、あの子いつも部屋で穢れた血のこと完全に無視してるの」
「そうなのか?」
「見えないって?」ノットが尋ねた。
「なんか透明人間とかって言ってたわ」
「なるほどな」珍しくノットが唇を釣り上げた。「本当に、相手にする価値のない人間は徹底的に興味がないんだな」
「あのスチュアートが……。意外だけど好感が持てるな。優しくすべき人間を彼女はきちんと選別しているってことが分かってよかったよ」
「あら、そんなの最初からでしょ?シャルルって純血の友達しかいないじゃない。他寮生でも」
グリーングラスがくすくすと笑い飛ばした。
「前から馬鹿らしいと思ってた。寄ってたかってあいつを笑いものにしたって面白くも何ともない。ただの時間の無駄、くだらないってね」
ノットが言い、マルフォイも不満そうにしながらも頷いた。それを見てパーキンソンが追従する。
「そうね、話しても苛つくだけでつまらない子だったわ」
「わたし達、あんな子にかまってあげるほどヒマじゃないもの。もう放っておきましょう」
マルフォイ達がそう結論を出すと、やがて顔を見合せながら他の生徒たちも消えていった。チラッとイルに視線を投げかけて、睨んだり、蔑視しながらも誰も何も言わない。
イルは教科書を拾って寝室に戻った。顔を上げることは出来なかった。
そして次の日から、誰もイルに話しかけなくなった。
*
寒空のような日々を過ごした。いつも孤独で、イギリスの雪が骨身にキンと滲みこんで凍えるような毎日。
イルの会話相手は教授達だけだ。授業でだけはなんとか息が出来た。手を上げて、正答に点を貰って、そうしたら自分が誰かの視界に入っていることに安心出来た。自分を惨めに思ってベッドの中で押し殺して泣く夜が幾夜もあった。
でもある日、イルに友達が出来た。
「汚い顔だな、ミジョン。なんでそんな顔を堂々と晒して歩くことが出来るんだ?」
廊下の隅で、悪意のこもった声が響いた。茶髪の女の子が俯きながらイルの横を走り去っていった。
事情は分からなかったけれど、通りすがりに泣いているのが見えて、イルは男子生徒を睨んだ。
「女の子によくそんな酷いことが言えたものね。貴方って鏡見たことないの?」
「黙れよ、インビジブル」
「あら、貴方にはわたしが見えてるようだけど?」
鼻を鳴らしてイルは女の子を追いかけた。茶色の髪を見失わないように走っていると、やがて彼女は3階のトイレに駆け込んだ。
「ねえ、貴方大丈夫?あんな人の言うことなんか気にすることないわ」
ひとつだけ閉じたドアに優しく声をかけると、2人分の鼻を啜る音が返ってくる。
「……他にも誰かいるの?」
「貴方みたいな美人がなんの用?あたしのことを笑いに来たの?」
「違うわ、泣いていたから気になって……」
「そう言って後で陰口を言うんでしょ!帰ってよ!あんたみたいな綺麗な子に虐められる気持ちなんか分からないわ!」
つんざくような甲高い声が響いたかと思うと、水が跳ねる音がした。そしてまた啜り泣く声。
イルは唇を歪めて自嘲した。
「分かるわ。わたしも虐められてるから」
「え?そうなの?」
涙混じりの声が嬉しそうに聞こえた。
洗面台の排水溝から冷たいグレーの女の子がにゅるっと飛び出して来て、イルは「きゃあっ」と叫んだ。
「きゃははは。間抜けな顔見るのっていい気分だわ」
「あなたは?泣いてた女の子は?」
「そこ」ゴーストは閉まっているトイレを指さした。「いつもここに泣きに来るの」
ゴーストは腕を組んでイルを見下ろした。
「緑のローブね。あたし大嫌い。もっとも全員大嫌いだけど」
「あなたは?」
「先に名乗ることも知らないの?ほんと、美人って傲慢よね。あたし達が言うこと聞いて当たり前だと思ってる」
ゴーストは泣きながらトイレの中に飛び込んで行った。水飛沫がかかって、鳥肌を立てながらローブで顔を拭う。
「失礼。わたしはイル・テローゼよ。スリザリンの1年生」
「マートルよ」蛇口から顔を出しながら彼女が名乗る。
「ここに何十年も住んでるの」
「じゃあ大先輩なのね」
「先輩?そう、先輩よ」マートルは目を開いて、嬉しそうに歪んだ笑顔を浮かべた。ニキビのせいで顔の筋肉が少し引きつっている。
聞いたことがあった。嘆きのマートル。トイレに住むうるさい女のゴースト。3階のトイレに人が寄り付かない理由が彼女だ。
イルは閉じたドアの前にゆっくり手を当てた。
「初めまして、泣いている誰かさん。さっきの男には代わりにわたしが言い返してさしあげたわ、鏡見なさいよって。だからもう泣き止んで」
ひくっ、喉の引き攣る音。
「酷い男がいたものだわ。レディにあんな無礼な振る舞い、信じられない」
「……私のことは、放っておいて……」
か細い声だったが返事が返ってきて安堵する。同時に嬉しかった。教授とゴースト以外の人間と敵対的ではない会話をするのがあまりにも久しぶりだったから。
「さっきも言ったけど、わたしはイル・テローゼ。スリザリンよ」
「……知ってる」
躊躇いがちな返事にイルは思わずクスリとした。「ご存知だったなんて光栄ですわ。透明人間なのに有名になったものね」
「透明人間?」興味をそそられたように空中に浮かんでマートルが近づいてきた。
「そうよ、わたしはスリザリンで透明人間扱いされてるの。最初は悪口を言われたり、罵倒されたりしたけど今は一切なんにもない。存在ごと無視されてるから」
「なんでそんなに嫌われてるの?あんた、美人じゃない。それも相当」
吐きそうな顔でマートルが顔を歪めた。
「ありがとう。でもスリザリンじゃ見た目なんか関係ないの」
「マグル生まれ?あたしもそうよ。だから緑のローブの奴らにはよく虐められたわ」
「一緒ね。それに加えて、スクイブの娘なの」
「ああ……。虐められる理由がよく分かった。よくスリザリンに入れたわね」
「本当よね。今組み分けに戻れたなら、絶対スリザリンなんか入らなかった」
「でもあんたはスリザリンに入って、虐められてる」
マートルは喜びの滲む声で叫んだ。彼女を睨むと、甲高く笑いながら便器に飛び込んで、ぶくぶくとした水音を残してどこかに居なくなった。
笑い声も泣き声もうるさいゴーストだ。イルにも彼女が生前虐められていた理由が分かった。
「マートルの友達なの?」
悩むような沈黙の後、小さな声が返ってきた。
「……ううん、マートルは誰のことも嫌いだよ。でもここに来るのを許してくれる」か細い声が付け足した。「泣いてると嬉しそうだけど」
「共感意識を持っているか、性格が悪いかのどちらかね」
「性格が悪いんだよ。でも、気は合う」
「わたしも合いそうだわ」
控えめな笑い声がして、鍵が外れた。おずおずと女の子が顔を出す。長い前髪からチラチラ見える暗い瞳と、顔いっぱいの痛々しい真っ赤なニキビが印象的な女の子だ。
黄色いネクタイをしている。
「……エロイーズ・ミジョン」
「泣き止んだようで良かったわ、ミジョン」
ミジョンとの交流はたいてい3階のトイレだった。
手紙のやり取りをして、会う約束をして、人目を忍んでこっそりと会う。毎回ミジョンは泣いていたし、何かに嘆いて、自分を憐れんでいた。
「ザカリアス・スミスがまた意地悪を言ったの。ハンナやジャスティンは庇ってくれたけど、本当は内心でスミスと一緒に笑ってるんだよ」
「どうして?彼女達のことはよく知らないけど、正面から庇ってくれるなんて素敵じゃない。こっちにはそんな人誰もいないわ」
「だって自分で1番分かってる。醜くて、汚くて、触れるのも嫌なほどニキビでぐちゃぐちゃだって」
たしかにミジョンの頬は、ニキビが潰れて白い膿が滲んでいたし、火傷でもしたかのように真っ赤にボコボコしている。でもイルはそっと彼女の顔に手のひらを添えた。
「あんまり自分を卑下しないで、ミジョン。苦しくても顔を上げているの。自分まで自分を恥ずかしく思うようになったらダメよ」
ミジョンの涙が手のひらを伝っていった。
「どうしてテローゼはそんなに優しくて強いの?わたしもあなたみたいになりたかった。綺麗な顔も、スタイルのいい身体だってそうだし、誰かの意地悪に負けない強さだってそう。私にないものばっかりで自分が嫌になるの」
優しくて強い?イルは唇を悟られないように歪めた。ミジョンの穏やかな目から零れる雫がとても綺麗に思えた。
イルは優しくなんてない。強くもない。
負けたくないから顔を上げて、睨みつけて、でも本当はすごく寂しいし悔しいし悲しい。それを表に出す強さがないだけ。プライドが高いから。笑われたら惨めさや自分の立場を正面から受け止めなくちゃいけないから。
ミジョンに優しくするのも、会話してくれる友達を失いたくないからだった。
彼女のことは好きだ。繊細で傷つきやすくて、自尊心が低くて、寂しがりで、少し偏屈なところがあって……。
同時に、彼女を見て少し安心している自分がいるのも事実だった。「テローゼはどうしてニキビが出来ないの?どうやってケアしてるのか教えて」容姿のことでからかわれて、まっすぐな羨望と少し薄暗い妬みの混じった声で泣きつかれるたび、安堵している。
自分より下の人間を見ることでしか保てないプライドほど、醜いものはないと分かっているのに。
ミジョン、あのね、わたしは本当はとても浅ましいのよ。スリザリンの人間だから、本当はすごく滑稽なの。
ミジョンを失いたくないから、いつもそんなことは言えないけれど。
*
散々、散々無視したくせに2年生に上がって、何事も無かったかのようにイルを変身術の教師役に据えたことは心底腹が立った。
本当に腹が立ったのに、怒りとは別の感情が湧き上がったのも否定は出来ないことが悔しい。
マルフォイがイルのフルネームを口にした。クラス中の視線が突き刺さった。スチュアートがイルの成績を把握していた。ブルストロードがイルに話しかけた。
スリザリンの中で、イルという存在が浮き上がったのは久しぶりだった。
強引に話を進め、上級生を巻き込んだ自主勉学計画を立てた割に、その第1回は成功には程遠いあまりにもお粗末な結果に終わった。イルは内心で嘲笑い、すぐに自分が恥ずかしくなった。
スチュアートが嫌いだけれど、彼女に今まで特に何かをされたことはない。彼女がきっかけで透明人間にはなったが、その態度は正直、昔のイルに似ている。イルも興味のない子はまったく視界に入れないタイプだった。気まぐれに愛想を振り撒き、けれども他人の痛みはどこまでも他人事で微笑んでいるような、そういう人間だった。
要は彼女に一種のシンパシーと劣等感を抱いているのだ。自覚していた。彼女は前のイルだ。何不自由なく女王様でいられた頃のイル。
水曜日の授業終わり──2回目の勉強会がある日、スチュアートがイルのところに赴いた。
「テローゼ、少しいいかしら?」
談話室の隅で話しかけられたイルは不審を浮かべて振り向いた。スリザリン内で話しかけられることは無い。まず驚愕が来て、スチュアートの隙のない自信を纏った微笑みに緊張と不審を持って慎重に答える。
「ごきげんよう、わたしに何か用?」
「今日の勉強会のことで話したいの。ついてきて」
返答を待たずスチュアートは歩き出した。断られるとは露ほども思っていないスチュアートの背中を見ると、焦げ付くような小さな怒りと共感性羞恥が浮かぶ。
傲慢な自分を見ているみたいだ。
イルは黙ってついて行った。
暖炉の前、お決まりの席やその周辺はマルフォイたちがいない時は上級生が使っている。まずは監督生、スリザリンの中でも一定の尊敬を集めるクィディッチチームの選手たち、家柄の高い子息子女。でもそんな彼らもスチュアートを見ると、「ここ使う?」と席をあける。
「ありがとう。そこの横の席を使わせていただくわ」
「ああ。どけよ、デリック」
「分かってるよ!」
「ごめんなさいね、デリック」
「いいんだ。……今日は珍しい人と一緒なんだな」
「スリザリンの勝利のためなのよ」
デリックとペワリントンが肩を竦めてフリントたちの方に去った。杖をひと振りして小さなテーブルを目の前に運んだスチュアートは、いつも近くに侍っているレイジーに2人分の紅茶を淹れるように伝えた。
どうやらもてなされるらしい。
冷たく澄ましていたイルだが、何を言われるのか指先をすり合わせる。
暖炉前のソファは、上位者の専用席になっているだけあって寝室にあるものとは比べ物にならないほど座り心地が滑らかでふわふわとしていた。この場所に座れる日が来るとは思わなかった。
運ばれてきた紅茶をスチュアートが一口飲んで、視線で促されるままにイルも一口いただく。レイジーはこの1年でメイドの仕事が随分上達した。
鼻の中を抜ける香りがかぐわしい。
「時間を取ってもらってありがとう。今日の勉強会だけど、変身術と魔法史のレポートをする時間にしようと思っているの」
「レポートは個人の進み具合やタイミングがあるんじゃないかしら?」
「ええ、そうなんだけどね。テーマは共通だから必要な資料や知識を手助けしやすいかと思って」
「そう」
素っ気なく答えた。イルは課題は自分でやりたいけれど、復習を兼ねようとするのも別に有りなのではないかと思う。
「それで?わたしに何をして欲しいの?」
単刀直入に聞くとスチュアートが上品に吹き出した。
「あなたは回りくどいのが嫌いなタイプなのね。いいわ。テローゼ、あなたにはみんなのレポートを見回って、気にかけてあげて欲しいの」
「……気にかける?」
「ええ」
目を閉じて、彼女は紅茶を啜った。勉強会は気にかけ合うものだと思っていたけれど、それとは別の意図があるんだろうか。
スチュアートはイルに見て回って欲しいと言った。
前回はみんな机について課題と向き合うだけで終わったけれど、それじゃあ集まる意味が無い。声を掛け合える環境にならなければ萎縮して終わりだ。
思わず溜息が漏れる。
「そうね。嫌われ者のわたしに声をかけられて教えられたなら、反発心で声が上がりやすいかもね。談話室でお茶をしてるこの状況も、わたしを透明人間から脱させるための仕込みなのね?」
にっこりとスチュアートは美しい微笑みを浮かべた。
断ってやろうと思った。でも、怒りの中にも保身が過って、数瞬迷った。それを見抜いたようにスチュアートが畳み掛けた。
「もちろんあなたに負担をかける報酬は考えてるの。何を望んでも叶えるよう努力するつもりよ」
「あなたに望むことなんかないわよ」
「つれないわね。あなたをスリザリンとして認めるし、認めさせる。これは望みとは別に保証するわ」
「…………」
どこまでも上ならの物言いだったけれど、その言葉はイルの胸にストレートに突き刺さった。心が揺れて、隠すように目を細めた。
透明人間にしたのはスチュアートのくせに。
悔しい……悔しい。もう誰の視界にも入らない生活をしなくてすむのかと思ったら、全身が安堵に包まれそうになる自分が悔しい。
「考えておいて。受けてくれるなら、今日の勉強会ではわたしの隣に座ってちょうだいね」