Sapphire 〜ハリー・ポッターと宝石の少女〜 作:しらなぎ
2回目の勉強会は前回より格段に良くなった。テローゼはまず隣のシャルルに声をかけて、レポートのテーマと参考書籍について彼女と語り合い、クラスにそれを意図的に見せつけた。
その後、シャルルとテローゼはそれぞれ生徒の間を歩き回った。テローゼが話しかけて気分を害した生徒のフォローをしたり、間に割って入り、シャルルが空気を緩める。
ピリピリと少し緊張した雰囲気は無くならなかったけれど、たとえそれが口論やテローゼへの罵倒であっても前進したことはたしかだ。
マルフォイと「まあ、前よりはマシになったな」「大躍進よ!わたしの作戦勝ちよ!」と笑顔を交わし合う。
「テローゼは君が?」
「ええ。わたし達相手じゃ他の子が萎縮しすぎてしまうみたいだから」
「君が突然あいつとティータイムを始めた時は正気を疑ったけど、結果的には上手く転んだみたいだ。強引すぎる手だとは思うけど」
「手っ取り早く進めてしまいたかったの。わたし達は交流を怠りすぎたのよ」
教室を出て行こうとするテローゼを呼び止めると、マルフォイを見て嫌そうな顔をしながら近付いてきた。
「ありがとう、助かったわ」
「別に」
生意気な態度も機嫌の良いシャルルは気にならなかったけれど、マルフォイが眉をひそめた。それを「いいのよ」と制して花が咲くような笑顔を向ける。
「今日からあなたは蛇の身内よ」
そう言うと、マルフォイは目を剥いて、テローゼは一瞬泣きそうな顔をした。シャルルを睨んで去っていく背中を見送りながら、想定より彼女は使い道があるかもしれないと思った。籠絡の余地もありそうだ。
マルフォイがシャルルの肩をガシッと掴んだ。
「スチュアート!何を考えてるんだ!?あいつは……」
「分かってるわ。あくまでも彼女は緑のローブを纏う蛇というだけよ」
「充分線を超えてるだろう!?一体何だって言うんだ?博愛精神があいつにまで及んでるだなんて言い出すわけじゃないよな?」
「まさか」鼻で笑ったシャルルは、しかし迷うように視線を落とした。前よりもスリザリンの仲間に対して身内意識と興味が出てきたことは自覚している。
「でも、年度末のせいで、相手がテローゼであっても協力し合わなければと思うようにはなったわ。そうしないとダンブルドアからの搾取に対抗出来ない」
「まあ、それは確かにな……」
初めて受けた痛烈な屈辱はとてもじゃないけれど忘れられない。たぶん、一生忘れられないと思う。
シャルルにとってあれは、ただスリザリンの勝利がひっくり返された、だけの問題ではなかった。どうしてこんなに胸が痛むのか、苦しいのか、踏み躙られた気がするのか、憎悪が煽られるのか。休み中シャルルはずっと向き合って考えていた。
そして分かった。
ダンブルドアのあの仕打ちは、シャルルの願いそのものを嘲笑う行為だったからだ。
7年のスリザリンの努力を老人の意思一つで反故にする身勝手さ。それをいかにも正当な評価だとでも言わんばかりの白々しさ。欲望を薄っぺらい正義で包んでいるだけのくせに。
寮の垣根を超えた友情を築こうとし、事実築いてきたシャルルの願いをダンブルドア自身にぐちゃぐちゃに踏み荒らされた気がした。他の寮のあからさまな歓喜にも、認めたくないけれど、シャルルは酷く傷付いた。今までの友情が全部嘘だったような気がした。
自分のしてきたことが、スリザリンの7年が、ホグワーツ全体の努力が、すべて無に帰し、塵のように扱われたあの年度末のパフォーマンス。
それでもシャルルは諦めないし、あの邪悪な老人には決して屈しない。跳ね返すだけの結果を出すために、スリザリンの団結は必要で、だから今まで視界にすら入れないようにしてきた人間も認めようとシャルルは努力している。
シャルルはまだ気づいていなかった。
それが、自分の思想と矛盾し始めていることに。
*
肌寒い日が続いている。シャルルは温度調節呪文のかかっている、新調したローブを着ているからそれほど寒さは身に堪えないけれど、トレイシーはこのところコンコン水っぽい咳をしている。
「大丈夫?風邪引いたんじゃない?」
「わたしに移さないでよ?ドラコの応援があるし、明日の午後にはドレアノ達とのお茶会もあるんだから」
「うん、今日医務室に言ってみる」
パンジーの素っ気ない言い方にヘラッと笑い、また咳をした。シャルルが柔らかい声を出す。「それがいいわ。少し鼻声気味の気がするもの」
お昼を食べた後、トレイシーに付き添って医務室に向かった。去年、ネビルの魔法薬を被り肌が爛れて担ぎ込まれて以来、医務室にはお世話になっていないので久しぶりだった。
「また体調を崩す子が来たのね。さあこれを飲んで、すぐに良くなるわ。それから服を着込んでお腹を冷やさないようにして、スコージファイ……いえ、まだ1年生だものね。手洗いとうがいをしっかりね」
「はい、マダム」
「ありがとうございます」
ふたりはニッコリ笑っていい子のお返事をした。それがたとえ校医だろうが、自分を評価する権限を持つ目上の人間に対して反射的に礼儀正しく振る舞うことは至極当然の仕草として身に付いている。
他にも数人の生徒がいてマダム・ポンフリーは忙しそうだった。
ポンフリーが他の生徒の面倒を見に行くと、渡されたゴブレットをウンザリした顔で眺め、トレイシーが不平を零した。元気爆発薬だ。体調が劇的に良くなる代わりに、ティーンの女の子には喜ばしくはない副作用が出る。「出来ればこれは飲みたくなかったわ……」
ため息をつき、諦めて一気に飲み下す。
途端に彼女の髪の毛の間からからシューシューと煙が立ち込めて、羞恥で顔を赤らめた。
「ああシャルル、あんまり見ないで……。こんな姿で人前に出られないよ」
「落ち着くまでここで休んでましょう。マダムは有能だもの、時間はかからないはずよ」
「うん。そうするわ……煙が治まらなかったら午後の授業は休もうかなぁ。教授たちに上手く伝えてもらってもいい?」
「ちゃんと、トレイシーは体調が悪くてとても出られそうもない、って言っておくね」
悪戯っぽく笑う。間違っても、みっともない姿で出歩くのが恥ずかしいからサボるそうです、だなんてバカ正直に伝える真似はしない。それに女の子として気持ちは分かる。
「ねえ、シャルル……」
雑談をしていると、トレイシーがフッと押し黙り、言いづらそうに名前を呼んだ。なにかに思案し、迷っている口調だ。シャルルは首を傾げて続きを促した。
「……あの生まれ損ないのこと、どうするつもりなの?」
「どう、って?」
「彼女と突然親しくしてるでしょ?……友達になるの?」
「友達?わたしが?」シャルルは冷笑した。
そんなこと考えもしなかった。まさか穢れた血の混じる彼女と友達にだなんて。
「まさかそう見える?」
「てっきり、ある程度対等に扱うつもりになったのかと……」
罰が悪そうにトレイシーが顔色を伺った。時流を読み、勝ち馬に乗りたいトレイシーとしては、シャルルがイル・テローゼをどういう存在に据えるのかは把握しておきたいところだったが、あまりにも急な態度の変化だったし、シャルルの思惑が読めなかった。
愚直に尋ねることに躊躇いはあったが、今はまっすぐ聞いても悪感情を抱かれない程度にはシャルルの懐に入れていると思っているトレイシーは、ふたりきりのこの機会にシャルルの真意を知ろうとしたのだ。
シャルルは困ったように苦笑いした。
「あの子と友達になるつもりは一切ないし、個人的な興味もないわ。でもスリザリンが寮杯を獲得するためには結束しなくちゃ。あの子は実力はあるわ。今までみたいに無視しているのは勿体無い。使えるものは使わなくちゃね」
「じゃあ、ただの道具?」
「やだ、そんな人を冷血人間みたいに……。スリザリンのために、スリザリンとして認める。それだけのことよ」
「ふうん。じゃあ成績のために最低限協力するのであれば、彼女に辛辣にしたり、認めなくてもかまわないってこと……だよね?」
「ええ。足を引っ張る行為は控えて欲しいけれど。対抗心は外に向けられるべきものだから」
「そっか。じゃあわたしもシャルルに合わせた対応を取るわね」
トレイシーはしばし黙考し、納得したのか頷いた。これでスリザリンとして認めさせるという意図はまずクリアしただろう。シャルルは内心で考えた。トレイシーは顔が広い。今はシャルル達と行動し、マルフォイ派と見られているが、以前はザビニとつるんでいたし、半純血のスリザリン生達ともいくらか交流しているようだ。
テローゼを他の人がどう扱うかは、それぞれの問題であってシャルルは特に関与するつもりはない。
同学年の自助努力の過程でテローゼを透明人間から、スリザリンの一員として扱わせることが出来れば、シャルルにとってもテローゼにとっても利益がある。
そこから自分の立場を上げていくのはテローゼの努力次第だ。
「そろそろ行くわ。教授には伝えておくから、安心してゆっくり休んでね」
「ありがとう、シャルル」
医務室を出ようとすると、廊下の方から騒がしい声が聞こえた。
「離してよパーシー!私は大丈夫だったら!」
「いいや、駄目だ。このところ毎日具合が悪いだろう。食事もあんなに少ししか食べられないなんて」
「少し疲れてるだけ。薬を飲むほどじゃないわ」
「疲れを甘く見たらいけないよ。環境が変わって、気付かないうちに精神に負荷がかかってるんだ。普段風邪も引かないほど活発なのにこんなにぐったりして、ママが知ったら心配するよ」
「まさか、ママに言うつもりなの?」
「いや、きっと大騒ぎするだろうからね。でもジニーが言うことを聞かないなら、手紙を送ることになる」
「分かったわよ、飲めばいいんでしょ!本当お節介なんだから!耳の穴からボワボワ煙出したい女の子なんかいると思ってるの?」
「僕はただ……心配なんだよ、ジニー。ウイルスも逃げ出すようなチャーリーや、図太さが人の形を取ってるような下の弟達とお前は違うんだから」
グリフィンドールの監督生、パーシー・ウィーズリーに手を掴まれて、半ば引きずられるように歩いている赤毛の女の子が大きな声で不満を訴えている。
口論の末、パーシー・ウィーズリーが勝利したようだ。女の子は拗ねた顔でぶすくれている。
ジネブラ・ウィーズリー。ウィーズリー家の末っ子の女の子。彼女とは話してみたいと思っていた。
「こんにちは、パーシー」
声を掛けると彼は初めてシャルルに気付いたようで、慌ててジニーの腕を離した。
「あー、こんにちは。少し恥ずかしいところを見られてしまったかな」
威厳を醸そうとしているのか、コホン、と咳をする。
彼とはウィーズリー家の兄弟たちの中で最も友好的な関係を築けている。友人と呼べるほどの仲ではないが、会えば挨拶や世間話を交わす間柄だ。
ロナルド・ウィーズリーのように顔を見合せる度に噛み付いてきたりしないし、常に爆発しているように喧しくて寄り付く隙のない双子とは違い、落ち着いていて会話が通じる。
勉学に意欲的で図書室でよく顔を見合わせていたのだ。たまに彼に勉学についての質問をすると、それはそれは嬉しそうに相手をしてくれるので、分かりやすいところが可愛くて御しやすそうな相手だった。
「仲がいいのね。妹さん?」
「ああ。新1年生のジニーだ。グリフィンドールに組み分けされて、僕も鼻が高いよ」
「そう。ウィーズリーは勇敢でまっすぐだもの、当然よね」
スリザリンのシャルルと談笑する兄に戸惑いと驚きを浮かべ、警戒しながらジニーが見つめてきた。微笑んで弟のメロウに向けるような笑顔を作る。
「初めまして、シャルル・スチュアートよ。スリザリンの2年生なの。パーシーとは寮が違うけれど、図書室で勉強の話をしてから色々気にかけてもらってるのよ」
「……ジニー・ウィーズリーよ。その、よろしく……スチュアート」
「よろしくね。具合が悪いんですってね。ホグワーツは大きいし、毎日色々変化や発見があって疲れちゃったのね。引き止めてごめんなさい。またお話出来たら嬉しいわ、ジニー」
「ありがとう、長く話す時間を取れなくて申し訳ないね。また図書室で会おう」
「またね、パーシー」
手を振って別れると、背中をジニーの視線が追いかけてくるのが分かった。
グリフィンドールだし、あのウィーズリーの子供だから警戒はされて当然だけど、初対面はまずまず悪くない印象を持ってもらえただろう。
パーシーと一緒の時でよかった。これが同級生のウィーズリーだったら、嫌味の応酬で最悪の出会いになってしまっていた。
変身術の教室に行く途中、いつもの3人組の姿が見えた。
「こんにちは、ポッター、ウィーズリー」
2人はシャルルを見て、うげっと顔を歪めた。
「さっき医務室であなたの妹を見たわ。後でお大事にって伝えておいてもらえるかしら?」
「はぁ!?僕の妹に手を出したら許さないぞ、スチュアート!」
「そんなまさか。妹想いなのね。でもあれだけ可愛い妹さんなら、甲斐甲斐しく守りたく思うのは当然かしら」
「うるさい!まったく、パーシーの奴に詳しく聞いてやらなくちゃ……」
ぷりぷり怒って速足で教室に滑り込んだウィーズリーと、チラッと振り返ってその後ろをついて行くポッターとグレンジャー。
火種をわたしから振ってみたとは言え、分かりやすすぎる反応ね。
やっぱり初対面がパーシーで良かったと、シャルルはくすくす笑った。
*
昼食を食べていると、至るところで悲鳴が上がり、小さな騒ぎが起こっていた。カラフルな煙が上がって、シャルルとパンジーは「何かしら?」と顔を見合せたが、その理由はすぐに分かった。
「ごきげんよう、スリザリンの諸君。ハッピーハロウィン!」
「そして──トリックオアトリート!」
緑色の肌をした燃える赤毛の双子が口を合わせて突然そんなことを言った。ここはスリザリンのテーブルのはずだ。
パンジーは反射的に噛み付く前に、呆気に取られてまばたきを繰り返し、ダフネはパンプキンジュースにむせ返った。
シャルルはなんと返すべきか脳内で様々な言葉が浮かんで、いちばん最初に浮かんだ疑問が口から漏れ出した。
「あー、なんで……緑色なの?」
「これ?ハロウィンだからさ」
「ハロウィンに仮装はつきものだろ?なんでこんな面白いイベントをホグワーツじゃやんないのか不思議で仕方ないよ」
「そう……なの……」
「で、間抜けに固まってるとこ悪いけど、もう一度言おうか?」
「トリックオアトリート!」
「お菓子か悪戯か、どっちを選ぶ?」
「いきなり来てなんだって言うの、誰があんた達なんか……!」我に返って喚こうとしたパンジーを双子はサッと遮った。
「おっと選ばないなんて選択肢はないぜ。言っとくけど」
「こっちは悪戯の準備をたんまりしてるからな」
「脅迫するつもり?」ゴブレットを机に置いて、ダフネが腕を組んだ。双子は腕を組んで「まさか」と呆れたように笑った。
「なんでわざわざスリザリンに?」警戒を隠して慎重に問いかけたが、双子は竹を割ったようにカラッと明快だった。
「全部の寮の奴らに言ってるよ」
「ハロウィンは楽しまなくちゃ!だろ?」
双子の片割れがウインクし、片割れがパッと笑った。悪意が本当にないのか、完璧に隠しているのか分かりかねたが、ここまで辛辣な視線に晒されても帰らないふたりはかなりしつこそうだ。3人はポケットの中を探った。
「お菓子は部屋に置いてきちゃったわ」ダフネが言うと、双子が視線を交わしてニヤニヤした。「それじゃあ仕方ない」「ああ、仕方ない」「僕達からトリートのプレゼントさ!」
双子は素早くポケットから丸くて小さいものを取り出すと、杖をひと振りしてダフネの頭の上でパキッと割った。ピンク色の煙がボフンと彼女を包み込み、小さく悲鳴が聞こえる。
「ダフネ!」
数秒して煙が晴れ、シャルルとパンジーは思わず歓声を上げた。「素敵!」「かわいいじゃない!」
「一体なんなの?」
ふたりの反応に目をまたたかせてローブから手鏡を取り出して眺めると、ダフネの表情が困惑から驚きと小さな喜びに変化した。
彼女の薄い金髪の編み込まれた三つ編みに、ピンク色の小さな花たちが点々と咲いて散らばっていた。ダフネのあどけない顔立ちと清楚な雰囲気も相まって、まるでフランスののどかな少女のようだった。
「あんた達、たまにはマトモな悪戯もするのね。わたし達までトロールみたいな格好させられるかと思ったじゃない」
「そっちの方がお望みかい?」
「冗談じゃないわ!」
「スリザリンは緑を常に着てるくせに、肌くらいで小さいな。で、君は?」
「お菓子はないわ」
「わたしも」
双子が満足そうにパンジーとシャルルにボールを投げた。パンジーは紫、シャルルは水色の煙に包まれ、お互いを見て「きゃあっ」と手を取り合う。
パンジーの頭にはカチューシャのように紫の大きな花が咲いていて、シャルルには水色に咲いたヘッドティカになっていた。
喜ぶシャルル達を置いて、双子は「じゃ、良いハロウィンを!」とスリザリンテーブルの男子生徒の方に向かっていった。
「少し恥ずかしいけど、こんな悪戯なら素敵だわ」
「あんな奴らに振り回されるのは御免だけどね」
ダフネがはにかみながら嬉しそうに言った。パンジーもグリフィンドールを認めるのは癪に思いつつも、3人でお揃いのオシャレをする悪戯は認める口ぶりだ。
しばらくして男子生徒の悲鳴が上がった。緑色の煙が上がる。
グラハム・モンタギューとマーカス・フリントの肌が、双子と同じ緑色になっていた。
去年のハロウィーンは、トロール騒ぎがあって水が差されてしまったが、今年は素晴らしいものだった。
盛大な飾り付け、美味しいハロウィンの晩餐、骸骨舞踏団の豪華な演奏に合わせてダンスを踊るのも最高に楽しかった。
満足感に充ちて寮に向かって歩いていると、群衆が突然立ち止まって重苦しい沈黙が落ちた。
「どうしたのかしら」
ダフネがシャルルに囁くと、三つ編みから咲いた花がふわふわと耳を擽る。双子に掛けられた可愛い悪戯はまだ頭の上に残っていた。
「おい、どけ!」
マルフォイが生徒たちを押しのけて、「すごいぞ!」と上ずった声で叫んだ。シャルルも彼の後について、肩からひょっこり前を覗いた。
いちばん始めに、吊り下げられた小さな何かが目に飛び込んできた。よく見るとそれは、フィルチの猫のミセス・ノリスだった。脚が伸び切り、目は見開いて、一切微動だにしない。完璧に硬直している。
シャルルはヒュッと息を飲んで、口元を両手で覆った。生き物がこんな風に硬直する現象をひとつだけ知っている──。
猫の前にハリー・ポッター、ロン・ウィーズリー、ハーマイオニー・グレンジャーが立ち尽くしていて、その周りは水浸しだ。
そして、廊下の隅の壁に、ぬらぬらと鈍く照るような赤い字でこう書かれていた。
『秘密の部屋は開かれたり
継承者の敵よ、用心せよ』
*
シャルルは食い入るように壁の文字に釘付けになった。何度も読み返し、雷が落ちたような興奮が頭から爪先まで駆け巡った。
マルフォイが前に出て、静寂を破った。
「継承者の敵よ、用心せよ!次はお前たちの番だぞ、『穢れた血』め!」
青白い頬を紅潮させ、唇を釣り上げて嘲笑う。
やがてポッター達は駆けつけた校長やフィルチ達に連れて行かれ、残された生徒は監督生と他の教授に追い立てられるように寮に帰らされた。
シャルルはずっと無言だった。
全身が心臓になったみたいで、口を開いたら叫び出しそうだった。運動もしていないのに息が上がって、顔が熱い。
談話室に入ると、シャルル達はいつものメンバーでいつもの暖炉前の席を占領した。スネイプの私室がある地下の廊下では必死に声を抑えていた生徒たちは、寮に入るなり口々に意見を交わし始めた。
「あの猫って、フィルチの猫よね?鬱陶しく生徒を監視してる……」
「そうね。ミセス・ノリスのあの様子……あれって……」
「どう見ても……死んでいた。そして次はあいつらがああなるんだ」
酷く楽しそうにマルフォイが唇を歪めた。
「ドラコはあれが何か知ってるの?秘密の部屋だとか、継承者だとか」
「ああ」仲間の会話を聞くたび、うずうずしてたまらなかった。足を揺らして落ち着かない様子で、顔を赤らめているシャルルにマルフォイが「スチュアート?」と声をかけると、シャルルは飛び跳ねるように立ち上がった。
「秘密の部屋が開かれたの!開かれたのよ!」
「シャルル?」
「今、このホグワーツに、継承者がいて、秘密の部屋が開いた!わたし達は今伝説に立ち合ってるの!こんなことがあるなんて!」
シャルルは興奮してフウフウ口呼吸をした。
ダフネとパンジーとトレイシーが呆気に取られてシャルルを見つめている。
「こんなスチュアート、初めて見た」とマルフォイが呟き、セオドールが「無理もない。シャルルはずっと創設者好きを公言していたからな。特にサラザール・スリザリンを」と繋いだ。
「創設者?サラザールに関係があるの?」
「トレイシー!知らないの?ダフネもパンジーも?」
シャルルは愕然として、唇を舐め、口を開いた。
「創設者4人はホグワーツを建てたけれど、意見の相違でついにサラザールはゴドリックと絶縁し、ホグワーツを去った。1000年以上も前のことよ。でもサラザールはホグワーツに遺産を遺した。それが『秘密の部屋』。部屋の中にはサラザールに忠実な怪物がいて、真の継承者が部屋を解き放ち、サラザールの遺志を継ぐ──。
言い伝えられている伝説は知ってたけど、ああ、まさか本当にサラザール様の遺産があったなんて!歴史の分岐点を観測出来るなんて!本当に夢みたい!夢なのかしら?」
早口で捲し立てながら、シャルルは涙ぐんでソファの周りを落ち着かなくウロウロした。おもむろにセオドールの肩を掴んでぐいと顔を近付けた。
「ねえ、わたしの顔を叩いてちょうだい」
「はぁ?」狼狽えて仰け反ると、シャルルがますます顔を近付けた。「落ち着けよ、シャルル」
「落ち着いていられないわ!叩くか、つねるかして夢じゃないって確かめさせて」
「自分でやればいいだろ」
「自分では違うの!マルフォイでもいいわ!」
シャルルのきらきら潤んだ瞳が目の前に近づいて、マルフォイは咄嗟に赤くなった。
「つ、つねればいいのか?」
「ええ!ぐいーって、やって!」
ため息をついて、恐る恐るシャルルのまろい頬に指先を添わせる。躊躇いながらゆっくりつまむけれど、「ぜんぜん痛くないわ」と抗議の声が入り、マルフォイは視線を必死に逸らしながら手に力を込めた。
「いたっ」
「す、すまない」
緊張から力加減を間違ってしまい、思いのほか強くつねってしまった。慌てて手を離し謝罪したが、シャルルは嬉しそうに「夢じゃないんだわ!伝説は本当だったのよ!」と浮かれた様子ではしゃいでいる。つねられた頬がほんのりと赤くなっていた。
フウフウ言っているシャルルの腕を引っ張って、ダフネが無理やりソファの隣に捩じ込んだ。
「あなた興奮しすぎよ。可愛いけど、少し驚いたわ」
「だって……」
背中をさすられながらからかわれ、ようやく落ち着いてきたのか、恥ずかしそうに肩を竦めてはにかんだ。「サラザール様の生きていた残滓が見えて、少しはしゃぎすぎちゃった」照れた顔はダフネの目から見ても殺人的に可愛く、なおかつ、シャルルがここまで興奮したり照れたりするのは非常に稀なので、マルフォイが彼女を熱の篭った視線で見るのも当然だとダフネは思った。
「それにしても……」パンジーがマルフォイを見つめた。「ドラコもノットも落ち着いてるわね。お父様から聞いていたの?」
「いいや」マルフォイは杖を弄びながら首を傾けた。「何も?」
つまらなそうな言い方はむしろ、わざとらしい含みが感じられて、シャルルは前のめりになった。
「何か知ってるのね!?セオドールも!?」
「僕は知らない」
自分まで巻き込まれてはたまらないというように、彼は素早く否定した。加えて、「父上に梟を送ってみる」と付け足して、シャルルの興味を先んじて削いでおく。付き合いが2年目になり、だんだんと彼女の扱い方がセオドールにも分かってきた。
「誰が継承者なのかしら。当然純血で、おそらくスリザリン生だと思うのだけど」
悩ましげな吐息を零し、暖炉のパチパチと爆ぜる炎を眺める。
「もしかして、ドラコが継承者なの?」
パンジーは期待に満ちた視線でうっとりマルフォイに熱視線を浴びせるが、彼は今度は本当に残念そうに首を振って、「いいや、僕ではないし、心当たりもない。もし知っていたら粛清の手助けをするのに」と焦れったそうに言った。
「継承者って何をもって継承者なのかな。スリザリンの直系の家系って、もう途絶えてると思ってた」
トレイシーはシャルルの顔を見た。創設者フリークで、ロウェナ・レイブンクローの直系の血を引いている彼女なら何か知っているかもしれない。
「聖28一族のゴーント家ね。かの家はずっと歴史の勝者だったけれど、数百年前から徐々に没落して今はもう何の足取りも残っていないの。途中から表舞台から姿を消してしまって、だからきっともう断絶してしまったのね」
ゴーント家は(おそらく)途絶え、ブラック家は犯罪一家に成り下がり、プルウェット家は例のあの人に虐殺され、ポッター家もスチュアート家もマグルの血が混ざった。ブルストロード家もミリセントが家系図に戻され、彼女が家を継ぐなら直系は純血でなくなってしまう。
魔法界を牽引してきた先人たちが遺してくれた、貴重な文化と血統という遺産がどんどん喪われていくのが、シャルルにはどうしようもなく虚しくて口惜しい。
「スリザリンの血が1000年前から傍系に広がっている以上、継承者を特定するには情報が足りなさすぎる」
セオドールが静かに言った。
「そうよね。今はこれからの動向を見守るしかないわね」
本当はすぐにでも会って、手伝えることがあるなら手伝い、色々と議論を交わしたいけれど、シャルルは諦めて肩を落とした。
そしてマルフォイの横顔を盗み見た。
彼のツンと上向いた鼻とシャープな輪郭の、美しい横顔を眺め、心の中で、いずれ彼が知っている何らかの情報を聞き出さなくちゃと思った。