Sapphire 〜ハリー・ポッターと宝石の少女〜 作:しらなぎ
スパァン!小気味よい音が鳴って、ザビニたちは肩をピクリとさせた。シャルルはリドルの日記帳をしまって立ち上がった。
困惑しきったザビニ派の面々に「調べたいことが出来たの!」と言って、シャルルは颯爽と駆け出した。「オイオイ……せっかちどころじゃないだろ……」呆然とザビニが呟いた。
シャルルは興奮するような、ゾクゾクするような名状しがたい感覚に襲われていた。ローブの内ポケットが異様に重く感じるのは精神的な理由だと分かってはいるが、背中に冷や汗が浮かんで頭皮にジワーッと鳥肌が浮かぶ。しかし心音は激しく体温が上がっている感覚があった。
寝室に戻ったシャルルは机にリドルの日記を置き、羊皮紙と羽根ペンを取り出した。見た限り外装には変化はない。文字以外の主張はないようだ。
思考を整理しよう。胸をふくらませて深呼吸すると、少し落ち着く気がした。
まず事実。
ルシウスの言では50年前に秘密の部屋が開かれた。
その際マグル生まれの生徒が死んでいる。
新聞で該当記事は特定出来ていない。
黒い日記帳はジニーの落し物。
元の持ち主は1938年~1945年にホグワーツに在校していたT・M・リドル。
リドルはスリザリン生であり、監督生であり、首席。
在校中に二度のホグワーツ功労賞を受けた。
日記帳の購入元を考えるとマグル生まれかマグル育ち。
黒い日記帳はおそらく闇の魔術が掛けられている。
現在秘密の部屋が再び開かれている。
被害者は石になっている。
猫、魔法族、ゴーストも被害を受ける。
秘密の部屋はスリザリンの残した遺物で怪物がいる伝承がある。
ここまで書き出し、フーッと息をつく。
次は推測。
リドルの日記帳に闇の魔術をかけたのはリドル本人である。
あるいはリドルの日記が人の手に渡り媒体にされた。
日記は自立思考し、会話が成立する。
あるいは特定の会話や条件に反応するような魔法が掛けられている。
リドルは在校中に継承者に通ずる何かを見つけ、表彰された。
あるいはなんの関係もない事柄で表彰された。
あるいは、闇の魔術を使えるほど思想の強い生徒だった。
『君はブラック?』
この問いかけにも疑問が残る。その姓を見た途端何故かドキリとした。両親の亡くなった親友が思い浮かぶ。それにどこかで誰かにも、ブラックについて何か引っかかった覚えがあるような……。
何にしろ、警戒しすぎて困るということはないだろう。
シャルルは最大限のパターンを想定することにした。
リドルが闇の魔術を使用し、日記帳に呪いをかけ、自立思考する闇の品になっているという想定である。50年前の出来事については判断条件が少ないから、日記から手がかりを得るしかない。
こんな物を前にしても、シャルルに日記を捨てるという選択肢はなかった。むしろ好奇心と一抹の恐れが湧き出していた。シャルルだって純血子女だ。日記ごときに怯えるようではスチュアートの名が廃る。
羽根ペンを握り直し、日記を開いた。
さっき見た文字は消えてなくなり、日記はまた沈黙を保っていた。
シャルルは指先の震えを抑えながら問いかけるような文字を書いた。
「あなたは何?」
文字は一瞬紙の上で輝いたかと思うと、吸い込まれるように消えていった。固唾を飲んで日記を見つめていると、数秒後、滲むようにインクが浮かんできた。
『返事をしてくれてありがとう。僕はトム・リドル。君は?』
また文字が消えていった。シャルルの全身が総毛立った。
返事を躊躇い、なんて書けば良いか迷う。けれど時間をかけると他人にいらない考察の余地を与えてしまうことをシャルルは知っていた。それにある程度情報を開示した方が他人へのパフォーマンスとして有効かもしれない。心を開いているだとか、頭が弱そうだとか、警戒はしているけれど好奇心に抗えないだとか。
「わたしはシャルル・スチュアート。スリザリンの2年生です」
『スチュアート?純血の古い名家ですね。祖父母にブラックの血筋を持っていたりするのかな。君からは酷く懐かしい気配を感じます』
「懐かしい気配?」
『オリオンやシグナスは友人でした。君からは特にオリオンに近い血を感じた気がしたから、てっきり娘……いや、年代的に孫かと思ったんだ』
オリオン……。オリオン・ブラックだろうか。没落した魔法族の王家、ブラックの最後の当主だ。
シャルルのどこにその面影を感じたのだろう。もちろん光栄だけれど疑問が浮かぶ。スチュアート家は古いから、先祖にはもちろんブラックの血は繋がっているが、言われるほどに濃くはないはずだ。
思考に耽っていると、リドルの文字が浮かんだ。
『この日記をどこで手に入れたんですか?』
筆跡は美しくて柔らかかった。敬語混じりのフランクな口調は親しみやすい。スチュアートの家名を褒めるあたり、純血について正しい知識を持っている。
シャルルはジニーの名を出すか迷った。
嘘をついたら、日記の彼が見抜けるかどうか……日記の外で起きたことを把握できるかどうか鎌をかけてみる意図もあった。
「この前落ちているのを拾ったの。中身は真っ白で、在校生にもトム・リドルなんて生徒はいなかったから、数日間だけ預かっていました。でも、この日記が誰かのものなら返却したいと思います」
数秒間があった。
『君に拾われて幸運でした。この日記は僕のものでしかありません。人から人の手に渡りましたが、僕以外の誰のものにもなり得ない。でも、お互い話し相手が必要なら、僕たちは友情を築けると思います』
リドルはジニーの名を出さなかった。隠したいのか、ジニーが焦燥してまで日記を求めていたほどにはリドルにとってジニーが「必要な話し相手」ではなかったのか。
警戒心と好奇心が破裂しそうで、一周まわって不思議なほど冷静な気分だ。
「あなたの言う通り、きっとわたし達は友情を築けると思うわ。わたしはあなたにとても興味があります」
シャルルは羽根ペンを置いて、天井を眺めた。シャンデリアが砕けた宝石のように光を散りばめているのを見て、窓の外がすっかり暗くなっていることに気づいた。
『嬉しいよ、シャルル。たわいない話も、ちょっとした愚痴も、誰かに聞いて欲しい悩みも、どんなことも僕に零してくれてかまわないよ。僕は君だけの秘密の日記帳だから』
やはり彼はスリザリン生だ。
おそらくこの日記に闇の魔術をかけたのもリドル自身だろうとシャルルは思った。
何かが這い寄るような不安と、奇妙な高揚感がシャルルを満たしていて、自分が楽しんでいることに気付いた。
*
「一体なんのこと?」
本当に不思議そうに、むしろ困ったようにトレイシーは控えめに尋ねた。
「そういえば手紙でも言ってたね。でもわたし、本当に休暇中は家にいたわ」
「そうなの……」
明らかに納得していないシャルルに、トレイシーは付け足した。
「本当よ。なんなら両親に尋ねてみましょうか?クリスマスは父親の知り合い家族と食事会があったから、他の人の証言もあるわ」
「いえ、そこまでしなくていいのよ……。ただ少し疑問に思っただけ」
彼女はたしかにクリスマス、スリザリン寮にいた。絶対見間違いではなかったはずだ。
トレイシーなら隠したい秘密があるならまず秘密さえ匂わせないし、もっと上手く誤魔化せる。家の用事だと言ったのが方便で、他の人に何か知られたくない事情があったとしても、あの日顔を合わせたシャルルやドラコに謙虚に口止めしつつ顔色を伺って、お礼の菓子折りを送るくらいの社交はするはずだ。
突然帰ってきて突然いなくなるのはトレイシーらしくなかった。
その日の彼女が動転していたと仮定しても、トレイシーがいたことを知るシャルルに対して、ここまで頑なに下手な態度は取らないだろう。
むしろ普段の彼女なら謝るのが当たり前だった。
デイヴィス家はそこまで有力な家系ではない。だからこそ、力のある子女とどう関係を築くかに注力していたし、トレイシーはそれに見合う社交力を持っている。
だから多分本当にトレイシーはクリスマスにホグワーツへ帰って来ていなかったのだろう。
「おかしなことばかり起きるわね……」
掠れるような呟きが宙に溶ける。ホグワーツに入ってから、考えられないような「秘密」に触れることばかりだ。でもシャルルは、自分が秘密好きであることを自覚せざるを得なかった。
秘密はすなわち情報である。知識や情報というのは、一見なんの繋がりがなくとも、ふとした瞬間にカチリと綺麗に頭の中で嵌って美しく答えが象られる。その感覚が面白くてたまらない。
シャルルはふとした時、例えば起きた時や、授業中暇な時、休み時間、寝る前……思い出した時にリドルに話しかけた。
リドルがどんな人物が分析してやろうと思っての事だけれど、どうしてなかなか彼は話すのが面白いひとだった。
「魔法史ってどうしても眠くなるわね。今はDADAの予習をしてるから何とか起きてるけど」
『もしかしてまだビンズ先生?』
「まさか50年前も?」
『その通り。でも彼が役に立つところもある』
「例えば?」
『自習ができる。居眠りをしても怒られない。生徒の名前を誰も覚えてない』
「最後のはいいところなの?」
シャルルはクスリとした。
『もちろん。ちょっとした知的好奇心を満たすとき、彼は素晴らしい相手になってくれたよ』
「もったいぶる性格なのね。あなたのことをひとつ知れたわ。リドルは猫が獲物を見せびらかすように、成果を大きく見せるのが好き……」
『分かった、言うよ。だからからかうのはやめだ。禁じられた棚の許可証だよ。彼は生徒の名前も顔も学年も覚えていないけれど、それに相応しい成績やレポートを見せれば許可を出してくれる』
「それ、本当?すごく役に立つじゃない!」
『その通り。でもシャルル、僕が禁書を読んだのはもちろんちょっとした好奇心を満たす学術的行動ゆえにだよ。分かってくれるよね?』
「もちろんよ」
「リドルは日記の中にいるの?それとも日記そのもの?ずっと1人でいて、退屈なのではない?」
『あまり時間の感覚はないんだ。でも退屈ではあるよ。今は君が話してくれるから楽しいよ。僕は、そうだな……過去の記憶といったらいいのかな』
「記憶?記憶を閉じ込めたの?」
『まあ、似たようなものかな』
「今のあなたはいくつの記憶?」
『5年生だ』
彼が功労賞を貰った時の年齢だ。しかしシャルルは踏み込まなかった。秘密にいきなり手を突っ込むのは性急すぎる。シャルルは猪突猛進だが、待てのできない犬ではない。
「5年生の時に作ったのね。優秀ね……そんな魔法想像も出来ないわ」
『努力を怠らなければ誰でも高みにいくことはできる。君にそんな野心があるなら、だけど』
「スリザリン生だもの。でも今興味があるのはあなたよ。16歳のあなたを閉じ込めるってゴーストみたいなものかしら。過去の記憶も思考も備わってる」
『似ているけれど少し違うと思う。僕は君との対話を経て経験を蓄積できる』
「ゴーストは停滞する存在……あなたとは違うわね。少し話しただけであなたの頭の良さが分かるわ」
『ありがとう。君の聡明さも分かるよ。君は賢い魔女だ』
「どうも。たぶん、あなたは当時から突き抜けていたでしょうね?監督生だったの?」
『ディペット先生はマグル育ちの僕でも評価してくれて、有難いことに僕に栄光を与えてくれた』
リドルは自分のことを「マグル生まれ」ではなく「マグル育ち」だと表したがった。孤児院という、捨て子の集まる場所で育ったらしいが、自分の親のどちらかが魔法族であると考えていることを感じ取った。
「それじゃあきっと、スリザリンのプリーフェストルームにあなたの名前があるでしょうね。今度見てみることにするわ」
『少し恥ずかしいな……。大したことが出来たわけじゃないから』
「こんな日記を作れるのは十分大したことよ。わたしの知る限り、羊皮紙や本に返事をさせることは出来ても、自分で考えるように魔法をかけることは出来ないでしょ?なのに記憶を宿すなんて。ああ、肖像画の応用なのかしら。自分で自分の肖像画を残したら、限りなく本物に近い記憶になるでしょ?」
『……やっぱり君は賢いね?でも違うかな。肖像画はその人の特徴や口癖をなぞっているだけだからね。意思はあるけれど』
「意地悪しないでちょうだい、リドル。ヒントはくれないの?」
『少しミステリアスな方が女の子を惹き付けられると思うんだけど、どうかな』
「真っ白な紙のままで十分ミステリアスよ。それに憶測だけど、たぶんあなたは肉体を持っていた頃から人気だったと思うわ。スリザリンの女子生徒からはどうだったか知らないけどね」
『ハハ!たしかにスリザリン生の女子生徒は最初僕にあまり近付こうとはしなかった。血筋は重要なファクターだから。君もそうだろう?』
「友人にはなれるわ」
『シャルルは今12歳なんだよね。ボーイフレンドはいないの?君も男の子に好かれるだろ』
「恋には興味ないわ。将来の相手は親が決めるだろうし」
そこまで書いて、プライベートなことを話しすぎたとシャルルは苦い顔をした。返事を見る前に日記を閉じる。
リドルと話しているとなんだか時間を忘れてしまう。
たわいないことは、パンジーやダフネと話せばいいのに、ついリドルに話しかけてみたくなった。
本人が言う通り、彼はミステリアスすぎて暴きたくなるのだ。闇の魔術がかけられているとは思えないほど、彼は柔和な話し方をし、美しい文字を書き、たまにクスリと笑わせてくれてまるで昔からの友達みたいな気分にさせる。
時折挟まれるちょっとしたブラックな物言いや、不遜そうな側面はむしろ共感を抱かせる。
シャルルはそれが、リドルが自分をそう見せているだけだとは分かっていた。シャルルがリドルを見定めようとするように、リドルも話し相手を分析し、それに合わせた対応をしているだろうことは、彼がスリザリンの監督生で首席であったことからも想像にかたくない。
普通スリザリンは家柄で役柄も決まる。当時にも有力な家系の子女はいたはずだし、50年前なら今よりもっと純血の価値が高かった。それなのに監督生になれたのは、彼が政治にも優れていたからに他ならない。
分かってはいるけれど、警戒していてもリドルと話すのはおもしろかった。
*
「シャルル」
声を掛けられて顔を上げた。
「何してるんだ?食事に行こう」
「そうね」
日記帳をしまうところを、ドラコが見つめていた。隣に並んで歩き出す。ドラコの反対側にパンジーもいる。
「またそれを見てるのか?」しかめっ面でドラコが尋ねた。この前のシャルルの様子がおかしいことをドラコは気にしていた。
「日記を書き始めたのよ」
「日記?」
彼が鼻で笑う。「そんな俗っぽい趣味があったとは知らなかったよ」
「思考整理するには便利よ」
「でも暇さえあれば開いてるだろ。前より話す回数も減った。だろう?」
ドラコに同意を求められ、複雑そうな顔をしていたパンジーがパッと嬉しそうに頷いた。
「そうよシャルル。朝も昼も夜も、授業中だって開いてるじゃない」
「……そう?」
「見ればいつでも何か書き込んでるわ。日記を書くのってそんなに楽しい?わたし達と話すより?」
言われるほど開いている自覚はなかったが、パンジーの非難の声に拗ねるような響きが篭っていて、シャルルはパンジーの隣に並んだ。腕を絡める。
「もちろんパンジーと話す方が楽しいわ」
「そうでしょう?」
食堂ではセオドールが1人で座っていた。シャルルに気付くと彼は片手で無造作に椅子を引いた。彼と話すのは久しぶりな気がする。1ヶ月も会っていなかったし、セオドールは筆まめな方じゃない。
「プレゼントをありがとう。あの本すごく興味深かったわ。古代魔法についてレポートを纏めたくなるくらい」
「どのくらい書き上げたんだ?」
当たり前のように彼が尋ねた。「まだほんの少しよ。羊皮紙ふた巻き程度しか……資料が足りないの」
「テーマは?」
「攻撃魔法の背景。レダクトとかボンバーダとか……起源は一緒でしょ?もう少し色々学んだら、新しく呪文も作ってみたいのよね」
大皿からジャケットポテトを少し取りながらシャルルはべらべら捲し立てた。久しぶりに会うと話したいことが湯水のように溢れた。それにセオドールは少ししか返事を返してくれないが、きちんと相槌を打って話を聞いてくれる。懐かしい感じがした。
「僕も呪文の発明には興味がある。大抵の呪文は既に作られてるだろうから、改良や研究から手を付けようと思ってる」
「ほんと?もうしてる?」
「いや……少なくともO.W.Lレベルの予習を済まさないことには話にならない」
「テーマは?」
「マフリアート」
端的に彼は答えた。耳塞ぎ呪文は周囲から自分への注意を逸らす魔法で便利な保護呪文だ。昔父親に教わったものでシャルルもたまに使うし、喧騒が嫌いなセオドールはいつも使っている。
休み明けで、授業が再開して間もないのにさっそく勉強の話を始める二人に、ドラコとパンジーは目を回してウンザリしたような顔をしてみせた。パンジーはドラコに話しかけてもらえて生き生きとしている。
「ふぅん?でもマフリアートってかなり完成された呪文じゃない?改良の余地を感じてるの?」
「研究対象として。あれが呪文学の本に載ってるのを見たことあるか?」
そう言われ、頬に手を当てて小首を傾げた。たしかに見たことがないかもしれない。予習は三年生、四年生、五年生あたりのものまでしか読み込んでいないし、高学年のものは何回か目を通したくらいで、さらに高度な呪文や古い呪文は使えそうなものしかきちんと学んでいないが、そういえば家にある書物にも見かけた覚えはなかった。
ヨシュアから学んだ呪文なのに変だ。
「だろう。僕はあの呪文をロジエールに聞いた。彼は先輩から教わったらしい」
「代々受け継がれてるってこと?」
「恐らく。調べたが、実験的呪文登録委員会の認証呪文一覧に認定された記録はなかった。少なくとも君の父親の代にもあったはずだけど、本にも記録にもない。生徒か当時の教師が開発して口伝で伝わってるんだ」
「へぇ……面白いわ。よくそこまで調べたわね」
感嘆の声に、セオドールはちょっと肩を竦めてみるだけだった。シャルルが色んなことに気を取られている間にも、セオドールは自分の研究のために学びを怠っていないことを考えると、シャルルもうかうかしていられない。
しかしさっそく彼女はソワソワしていた。
リドルに聞いてみたい。でもいきなり日記を開いてメモするのは不自然極まりない。
「おい、食事のペースが落ちてるぞ。話に夢中になるのはいいが」
ドラコがそう言いながらシェパーズパイが少しと、スコッジエッグが少し載った小皿を差し出した。
「ありがとうドラコ」
会話を中断させてシャルルは食べることに集中した。食べ終えると、ちょうど満腹に近い量だった。今日はデザートは取らないことにし、最後にホットアップルジュースを飲み終えたタイミングで、ドラコもプティングを食べ終えた。差し出された手を取りシャルルは食堂を後にする。
談話室に戻ると、いつもならパンジーはベッタリドラコにくっついてティータイムを過ごしているが、今日はまっすぐ寝室に向かった。
「パンジー?」
彼女の顔が強ばっていた。声を掛けても気づかないのか小走りでスカートを翻した。
「ドラコ、何か言ったの?」目を吊り上げたシャルルに睨まれ、驚いたように「いや、知らない」と首を振った。
「でも様子がおかしいわ。傷付いているように見えた。何か無神経なこと口にしたんじゃなくて?」
ドラコは憮然としたが、数秒思案した。そしてやっぱり知らないという結論に至った。
「さっきまで普通だったじゃないか。食事の時も普段とそう変わらなかったと思うぞ」
「うーん……」
セオドールは興味がないのかサッサといなくなってしまった。薄情な人だ。たしかに彼とパンジーは大して仲が良くないけれど。
ドラコに断ってシャルルも寝室に行った。
ベッドにカーテンがきっちり引かれていた。
「パンジー?開けてもいい?」
「1人にさせて」
固い声が返ってくる。シャルルは構わずカーテンを開けた。パンジーは傷付いた時や落ち込んでいる時、むしろ誰かに話を聞いて欲しいタイプだから。
けれどパンジーはシャルルの顔を見るなり、鋭い目で睨んだ。
「1人にしてって言ったじゃない」
「でも……放っておけないわ」
カーテンを閉じ、シャルルは杖を振る。さっき話していたマフリアートをかける。こうすればパンジーの私的な悩みを聞いても、周囲の人にはただの雑音にしか聞こえなくなる。
ベッドに腰掛け、シャルルは左手でパンジーの背中を宥めるように撫で、右手はそっと膝の上で固く握り込まれている拳の上に乗せた。
「どうしたの?……ドラコに何か言われたの?」
彼の名を出すとパンジーは唇を噛み、腕がプルプルと震えた。視線は床の方を睨んでいる。
「噛まないで……痕になるわ。何を言われたの?」
「何か言われたわけじゃないわ」
素っ気なく言うと、パンジーは自分の手に乗っているシャルルの手を軽く払い除けた。深呼吸して自分を落ち着かせようとしている。
「別にドラコとか誰かが悪いわけじゃないのよ……分かってるけど……」
小さく呟くパンジーは泣き出しそうに見えたが、彼女の目は乾いたままだ。眉根がギュッと寄っているが、泣くのを抑えているのでも、怒りを耐えているのでもなかった。
「でも何かあったのでしょう?わたしに手伝えることはある?誰かに話を聞いてもらったら楽になるかもしれないわ」
シャルルはどうしたら良いか分からなかった。普段の癇癪と違う。
パンジーは感情表現が豊かだから、嫌なことにはプリプリ怒って散々愚痴や悪口を吐いてスッキリするし、相手にもぶつけるし、ドラコ関連の悲しいことがあるときだってたまに少し泣くことはあるけれど、たいていは愚痴を言いながら惚気になってケロッとしている。
こんな風に1人になろうとして、何かを耐えようとしているのは初めてだった。
「……」
パンジーはしばらく床を睨み、パッとシャルルを見た。
「シャルルって恋をしたことないって言ってたわよね?今も?」
「こ、恋?」
あまりに唐突な恋バナだった。しかも、甘くてきゃあきゃあしている、パンジーの好きな雰囲気ではない。でも彼女の顔があまりに真剣なので、シャルルはうなずいた。
「ええ。好きな人はいないわ。まず、恋っていう感覚が分からないけど……」
「ときめいて、その人のことばかり考えて、自分の感情がめちゃくちゃになる感じよ。その人の行動の意味をいちいち考えて、嬉しくなったり悲しくなったりするの」
「んー……。相手の反応を過剰に気にしてしまう感覚よね」
まるで授業を受けているみたいだ。それか尋問を受けている気分。
「それと、相手に嫌われたくなくて機嫌を取りたくなったり、その人が笑ってくれると嬉しくなったり、その人のために何かしてあげたくなったり……」
「考えてみたけれど、やっぱり誰にも恋はしていないと思うわ……」
「そう……」
パンジーは瞳を伏せた。安心したようにも、悲しんでいるようにも見える。何がどう関係しているかは分からないけれど、求めていた答えを返せなかったのかもしれない。パンジーが悲しんだり、シャルルに辛く当たったりすると、他の人には感じない感情が湧く。胸がツキンと痛んでどうにかしたくなるのだ。
他の人からは、嫌われても好かれても自分の感情が動く感覚はあまりないのに。嬉しくなったりイラつく時はあるけれど、傷つくことはあまりない。
シャルルは特に考えずにそのまま言った。
「今言ったみたいな感情は、パンジーには感じるわ。あなたが悲しそうだとわたしも悲しいし、あなたに嫌われるとすごくどうしようって思うの」
「はっ?」
思わず顔を跳ね上げたパンジーはシャルルの表情を見た。眉を下げて、なんならパンジーよりも悲しそうな顔をしている。シャルルがパンジーの手のひらに指を絡めた。
「これは恋じゃないと思うけど……あなたに元気になって欲しいのはほんとよ。どうしたらいい?」
シャルルは捨てられた子犬のような表情で途方にくれる表情を浮かべていた。パンジーは頬を赤らめた。
パンジーは小さく呟いた。
「これだから嫌なのよ……」その声は聞こえなかったが、パンジーは惨めさに打ちひしがれているように見えた。
「休みの間、ドラコは今日みたいだったの?」
「今日みたいって?」
もどかしそうにパンジーは重ねた。
「だから、当たり前のようにあなたと過ごしていたの?」
シャルルはようやくパンジーが何を心配しているのか分かり始めた。
「たしかに食事を一緒に取ったり、課題をしたりしたけど、クラッブとゴイルも一緒だったわ。それにずっと過ごしてたわけじゃないのよ。わたしはほぼ図書室にいたけど、ドラコは自主研究は好きじゃないから」
パンジーの心配は的外れだ。シャルルは安心させようとしたが、彼女の顔はまだ晴れない。
「じゃあ、ドラコのあなたへの態度で何か休み中と違うところはあった?」
「特にないわ。彼はいつも通りよ……何も心配するところなんかないわ」
パンジーは眉根をグッと寄せて、耐えるような表情をした。
「じゃあそれが当たり前だってことよ!授業に行くのも食事に行くのもあなたを誘って、歩く速さは合わせて、立ち上がる時はエスコートして、扉をあけて、あなたの食事の好みや量を把握してお皿に載せてあげて、食事を取るペースを合わせて……それが……」
わなわなと震える彼女が吐き出した言葉にシャルルは呆気に取られた。そう言われると、ドラコがまるで……すごく紳士的な男の子みたいだ。
「考えすぎよ。別にドラコはそんなこと別に考えてないと思うわ……。それかたぶん世話焼きだからよ。休み中、本に夢中になりすぎて食事を取らないときもあったし……」
「もういいわ。1人にして。別にシャルルがドラコに恋してないのは分かってるのよ」
泣いてはいなかったが、彼女を1人にすれば涙に暮れるだろうと分かった。
でも本当に、ドラコはシャルルにそんな……パンジーが思うような感情は抱いていないはずだ。
「わたしは恋は分からないけど、わたしに恋をしている男の子の視線は分かるわ。ドラコはわたしのことをただの友人としか思っていないはずよ」
「そういうところが!」とうとうパンジーは鋭く怒鳴った。そしてすぐにへたり込むようにベッドに座り込んだ。
「1人にして。これ以上わたしに酷いことを言わせないで」
「パンジー……」
「出て行って!別にあなたにもドラコにも怒ってない。でも考える時間が必要なの。シャルルには分からないかもしれないけど、恋をすると全部が不安になるのよ。説明させないでよ、こんなこと……」
「……その、ごめんなさい……。わたし、ダフネの部屋に行ってるわ。消灯時間になったら戻ってくるから」
力なくパンジーはうなずいた。
ベッドから去る時、小さい声で最後にパンジーが尋ねた。
「そのブレスレット素敵ね。ドラコから?」
「え、ええ……クリスマスに……」
何故か後ろめたいような気がした。そう思う理由などないのに。パンジーだってドラコからクリスマスプレゼントを贈られたはずだ。
「そう……」
シャルルは何回か振り返りながら部屋を後にした。なんだかどっと疲れてしまった。
恋というのは、やっぱりめんどうくさい。不確かな思い込みや情報で、パンジーに嫌われそうになるのはいやだ。シャルルは指先を擦り合わせた。
パンジーを不安にさせるドラコが悪いのか、パンジーが恋をしているドラコと仲良くするシャルルが悪いのか分からない。それとも両方悪いのだろうか。あるいは両方とも悪くない?
思想や意見の食い違いなら対応を取りやすいけれど、恋というものが関わってくると、人は変わる。
ザビニなら、こういうことへの対応も上手くやるのかもしれない。シャルルにはまだ難しかった。