Sapphire 〜ハリー・ポッターと宝石の少女〜   作:しらなぎ

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36 命を手折る感触

 時間が過ぎるのが酷く緩慢だった。

 禁書の棚を昼休みだけで網羅出来るわけもなく、最初から課業後に向かうつもりだったけれど、それでもじれったかった。

 

「学校もだいぶ落ち着いてきたわね」

 マンドレイクが成長していることと、襲撃がしばらく行われていないことで、ホグワーツは気付けば随分と明るい雰囲気を取り戻しつつある。そのことに、シャルルはダフネに言われて初めて気付いた。

「たしかにそうね……」

 少し前までは、継承者に怯える多数の生徒が固まって歩いたり、不安そうな顔色をしていたり、意味のなさそうな護身グッズを大量に抱えていたものだが、シャルルはそういう生徒の様子を休暇以来一切気にかけていなかった。

 継承者に一直線だった。

 油断して、空気が緩んでいることはたぶん、リドルには歓迎すべきことなのかもしれない。むしろ、そういう風に動いていたのだろうか。

 リドルの次のターゲットが誰か分からないが、この中の誰かをターゲットにすることに、シャルルは少し冷静になった。

 別に、シャルルはマグル生まれを殺したいわけでも、石にしたいわけでもない。興味が持てないだけだ。

 ただ、サラザールの遺志を継ぐ継承者の力になりたい。伝説に立ち合いたい。あわよくば……あわよくば、その力を中でなく外に向けてほしい。

 魔法使いが潰し合うことに、メリットは少ないだろうから。

 

 スープを静かに口に運びながら瞳を伏せた。

 自分が明確に加害者になることを自覚しながらも、やはりシャルルは止まれる気がしない。

 

「ダフネはどう思う?この一連の流れを」

「なにが?」

「継承者にまつわる今年度の騒動すべてよ。あなたはあまり意見を言わないでしょう」

「ああ……うーん」

 パンを千切り、ダフネは首をかしげる。

「できるだけ関わりたくないわ。恐ろしさはあるけど、わたし達は安全なわけだし……でも、落ち着かないから早く収まるところには収まってほしいわね」

 思わずシャルルは笑みを零した。ダフネらしい。

「わたしは継承者の手がかりを得たら、全力で追いかけるつもりだし、もし特定したら彼に協力すると思う」

 静かに言う。幼なじみがどんな反応をするか、いや、他者がどんな反応をするか、シャルルは初めて気になった。ダフネは冷めてはいるが、善良だった。

「突然どうしたの?そんなのいまさらでしょ?」

「そうね。でも、いずれ被害は石だけじゃすまないかもしれないわ」

「……」

 

 シャルルにとってそんなに重い意味を込めた問いかけではなかったが、ダフネはなにかの分岐点のように彼女をまじまじと見つめ、思案していた。

 少しして彼女は口を開いた。

 

「あなたがあなたのまま、思うことをしたなら、わたしはそれでいいと思うわ」

 

 ダフネの若草色の瞳が訴えかけるようにシャルルを見つめていて、その眼差しの真摯さにシャルルは瞠目した。

 何か言おうと思った言葉は喉のあたりで解けて、吐息となって溶けていく。視線が交差していた一瞬はすぐに消え、ダフネがまばたきしたことで、ふたりの間にあった言葉にしがたい何かは緩んだ。

「最近のあなたは思い詰めているようで心配よ。どこか遠くに行きそうで」

「そうかしら…そんなふうに見える?」

「口出しはしないけど、ただ分かっていて。あなたが思うより、わたし達はあなたを見てる」

 さり気ない口調だったが、そこにはたぶんダフネの情が滲んでいて、シャルルははにかんだ。生き急いでいる。それは事実だし、そして、それでも受け入れてくれると幼なじみは寄り添う言葉を伝えてくれたのかもしれない。

 

 ダフネにはかなわないな…。

 なんだか指先がくすぐったい。

 

 

「ビンズ教授がサインを?」

 尖った、金切り声寸前の声を出したマダム・ピンスに優雅に微笑みながら許可証を差し出すと、彼女は鼻先をくっつけんばかりにジロジロ検分し、いかにも渋々と不機嫌にうなずいた。

 

 心が逸る。

 落ち着かない時こそ、ゆっくりと──最近はそう思うことすら忘れていた淑女の仕草を意識して、シャルルは図書室の奥の奥へ向かう。

 急ぐことなどないのだと、ダフネと話して少し思えた。

 そりゃあもちろん、ずっと憧れていた伝説に合間見えているのだから、浮き足立ってしまうを抑えるのは難しいけれど。

 継承者への手がかりも、伝説の瞬間も、今はシャルルの手の中に黒い日記帳としてある。

 寝食を忘れるほど身を削る必要はもうないのだ。

 伝説に置いていかれることはない。

 

 禁書の棚はロープで他の棚と仕切られていた。立ち入り禁止と言う割に些かぞんざいで簡単な儚い壁。スカートをつまんでそっとロープをまたぐ。

 古ぼけた革や外国の文字──恐らくルーン文字──の本、金文字が剥がれた背表紙、表記のないもの。

 一歩踏み入れるとベールを潜ったかのように本の匂いも変わり、どこか掴めない影のような雰囲気がたゆたっている。首筋の産毛が逆立つような…スチュアート家の地下の書庫にも共通する、どこか不気味な静謐さの漂う空間。

 

 シャルルは本の森に目を凝らしながらそっと本棚を辿った。

 すごい……。

 当たり前のように闇の魔術の本がある。

 立ち上るような魔力を滲ませる書籍ばかりで、シャルルは脳髄の好奇心が引きずり出されるような感覚になった。棚から取り出してみたくなる気持ちを抑える。

 禁書エリアの本に迂闊にあれこれと無警戒に触れるのは浅慮だ。

 

 戦争系の棚、魔道具系、魔法薬系、歴史系、伝承・神話系、生物・動物系……ここだ。

 空を指でなぞりながらタイトルを読んでいく。

 乾いた埃の匂い、ランタンの揺れる薄暗い光。

「動物実験学…異形再生の書…プロジェクトキメラ…。本当に闇深い研究ばかりね…」

 ふと、とあるタイトルに手が止まる。『魔によって生み出された怪物たち』。

 何らかの獣の毛皮で作られた表紙の本を惹かれるままに手に取り、ページを開く。パラパラと見ただけで、闇の生物と、その生み出し方を凄惨な図と共に記されている。

 

 数種類の蛇の怪物を眺め、ある岩肌のような皮に鋭い牙の蛇が飛び込んできて、シャルルは悲鳴のような吐息を洩らした。

 

 ──バジリスク。

 

*

 

 世界を徘徊する怪物たちの中でも、最も珍しく、最も破壊的であるという点で、バジリスクの右に出るものはない。『毒蛇の王』とも呼ばれる。

 この蛇は巨大に成長することがあり、何百年も生き長らえることがある。鶏の卵から生まれ、ヒキガエルの腹の下で孵化される。

 殺しの方法は非常に珍しく、毒牙による殺傷とは別に、バジリスクのひと睨みは致命的である。その眼からの光線に捕らわれた者は即死する。直視を何らかの媒介──鏡や水面越しなど──で回避した場合も、対象の全身が石化する被害が発生するが、マンドラゴラから作成される蘇生薬で回復することが出来る。

 蜘蛛が逃げ出すのはバジリスクが来る前触れである。なぜならバジリスクは蜘蛛の天敵だからである。バジリスクにとって致命的なものは雄鶏が時をつくる声で、唯一それからは逃げ出す。

 バジリスクの創成者は知られている中でも最古の闇の魔法使い、腐ったハーポだと言われる。彼は古代ギリシャの呪文発明家、闇の魔術師であり、数多の闇の魔術や分霊箱を発明した。また、パーセルマウスであり、バジリスクを使用した凶悪な事件を相当数引き起こしている。

 彼の起こした事件から考察されるバジリスクの性質については───。

 

 

「……ふう…」

 息をすることも忘れ夢中で読み込んでいたシャルルは、震える吐息を整えるために深く深く息を吐いた。

 答えは、たぶん、これだろう。

 他のページにあった「コカトリス」も性質上はかなり似通っているが、コカトリスは草食性だと書かれている。さらにキメラなので、形態上はドラゴンに近い。

 

 間接的な視線で石になる…被害者の状況を確かめるべきだろう。だが、被害者を元に戻すためにマンドラゴラ回復薬を作るという点において、一致するのはバジリスクだ。

 興奮の中で思考が巡る。

 既にダンブルドアはバジリスクということを断定しているように思える……。

 だからリドルは最近沈黙しているのだろうか。

 シャルルは記述を羊皮紙に乱雑に書き写して丸めると、ローブに突っ込んだ。

 踵を返そうとし、思い直して戦争の棚を見る。適当に凄惨な歴史が描かれていそうな本と呪文が載っていそうなものを引っ掴み、マダムのところへ戻った。魔法史の名目で許可を貰った以上、足がついてしまわないようにするべきだ。

 

 睨めつけられながら貸し出し手続きを終え、足早に寮を一直線に目指した。コメカミのあたりがジクジク針でつつかれるような感覚が走り、眼球に力が入りすぎて鈍く痛む。

 興奮は苛立ちに似ている。

 わななく唇を引き結び、走り出したい衝動と戦いながらシャルルは無言で足を進めた。普段の優乙女の表情は完全に消え、今やまるで鬼気迫るようであり、背中から熱が滲んでいる。サファイアの深い瞳がぬらっと光を放っていた。

 

 寝室のドアを焦れったそうに勢いよく開けた音に振り向いたパンジーが、笑顔からどこか気圧されたように目を丸めた。

「ど、どうしたのよ? 何かあった?」

「しばらく引きこもるわ」

 

 笑みを浮かべる余裕もなく突き飛ばすように答え、シャッとベッドカーテンを閉じ、マフリアートをかける。それから外から開かれないようにする呪文も。

 優雅に、そう考えたことなんてすっかり脳みそから飛んでいってしまっている。

 シャルルは深呼吸し、鬼子母神的な表情から一転し、夢見るような瞳で日記を見つめた。

 

「分かったわ」

『禁書の棚に入れたようだね』

「バジリスクね?サラザールがバジリスクを飼っていたなんてどの文献にも載っていなかったわ…歴史を紐解いた気分よ!スリザリンは腐ったハーポの系譜なのかしら?だとするとスリザリンも古代魔法に基づいた闇の魔術を……」

『よく辿りついたね』

 

 思わず思考のまま送り付けた長文に、割り込むように返事が浮き上がってきて、シャルルははたと指を止める。決まり悪く身じろいだ。

「ごめんなさい、興奮して…」

「かまわないよ。ただ一番最初のページを捲っただけでこうとは、随分可愛らしいじゃないか」

 あやすように嘲笑され、シャルルは羞恥にムッと唇を尖らせた。そして胸に手を当てて目を閉じ、心臓が耳のそばで鳴るのを落ち着かせようとした。

 リドルの言う通り、まだシャルルは扉の前に辿り着いただけ。扉の存在を見つけただけだ。

 

「それで、わたしはあなたに協力させてもらえるの?」

『君はどうしたい?』

「焦らさないで!これ以上の栄光はないわ。それに、わたしはたぶん役に立てると思う…役に立つように努力するわ。ジニーよりもね」

『──許そう。君に僕の計画を担わせてやろう』

 

 黒い染みにシャルルは瞬間的に心臓が喜びでギリギリと引き絞れるように痛んだ。

「は……っ」

 熱い溜め息が肺からドハッと零れ、目が潤みそうになる。

 すごい、こんなことが──。

 わけもなく出てきた鼻をグス、と啜った。

 

「ありがとう。きっと後悔はさせないわ。それで、何をすれば?」

『ただのドールならいらない。君はまず何が必要だと考える?』

 

 何が……?

 必要なこと、問題点が無数に浮かんできて泡のように頭の中で弾けた。ダンブルドア、リドルの計画を知ること、バジリスクがどうやって襲撃しているのか、マンドラゴラの成長…。ハグリッド。

 

「……雄鶏を殺すこと…?」

『そうだ。ジニーのお嬢さんは純真な間抜けでね…まだ数羽も残っているのに、毎回1羽ずつしか殺せなかった。それも随分励まして誘導してやって、だ。効率が悪いにも程がある』

「分かったわ。魔法で殺したら魔力を探知されるかしら…ダンブルドアなら」

『魔法は原則的には場所しか特定出来ない。だが、小屋の周りに初歩的な守護呪文を掛けたらしい』

「簡単な突破呪文なら知ってるけれど…」

『いくつか効果的な呪文を教えよう。そうだな、望むなら攻撃呪文も』

「お願いするわ」

 

 羊皮紙を取り出して羽根ペンを持った。

 しかし浮き上がった文字にシャルルは瞠目し、視線を吸い寄せられた。

 

『君が有能なら、僕が直接魔法の訓練をしてあげるよ。せいぜい才能を見せるといい』

 

「直接……?」

 疑問を尋ねる前に呪文がスラスラと浮かび、慌ててそれを書き写した。

 直接訓練するとはどういう意味なのだろう。

 尋ねても、答えてくれないことは、今のシャルルにも推察できたが、頭の中では疑問が渦巻いていた。

 

*

 

 息を潜めてジッと闇に同化する。フィルチや教師はいない。

「フェレブライ」

 囁くと、インクを垂らしたような重たい闇の中でも、くっきりと浮き上がるように周囲が見え始めた。絵画や肖像画も眠り、自分の吐息だけが耳元で反響している。

 クリスマス休暇の時は教師の気が緩んでいたから深夜徘徊していたが、学期中に夜間外出禁止を破るのはほぼ初めてだった。去年の学期末パーティー以来かもしれない。

 ローブを細い指でキュ、とつまむ。

 新雪の肌はぼんやりとした頼りない蝋燭に照らされ、闇の中で真珠のように薄く光を帯びていた。

 

 音を立てないようにそっと忍び足で進む。本当はリドルに教えてもらった目くらまし呪文をかけたかったのだけれど、高学年の内容で、まだ完璧に扱えなかったのだ。

 シャルルは秀才だが、天才ではない。

 理論を理解し、反復練習を何度も繰り返して今の実力を保っている。一日で成功させられるほどの難易度ではなかった。それが少し情けない。

 

 玄関ホールの巨大な扉を僅かに開くとギィギィと軋む音が静かな空間に、思った以上に響いた。心臓に汗をかきながら素早く潜り、急いで木の影に隠れる。

 幸い、誰かが気付いた様子はない。

 シャルルは小走りでハグリッドの小屋に向かった。

 絶対成功させたくて、プレッシャーと興奮が鳩尾のあたりに鈍痛をかけてくる。

 後から気付いたのだが、シャルルは当たり前のように「ジニー」の名を出していて、リドルも当たり前のように「ジニーにさせたこと」を話した。その会話の中に少しの齟齬もなく、リドルはシャルルがジニーについて知っていたことに気付いていたことを表している。

 その上でジニーを操っていたことを教えてくれたのは、前進のような気がした。信頼はされていないだろうけれど……少しでもそれに答え、役に立つと思わせたい。

 

 ハグリッドの小屋へは初めて来た。

 みすぼらしい小さな木の部屋で、スチュアート邸の庭の隅にある箒置き場よりも粗末だった。

 奥の方に禁じられた森が見える。月が照らす中でも、その森はサワサワと揺れ、深い闇が黒々と渦巻くようで不気味だった。何かに見られているかのような気分に、足を踏み出すのが躊躇いそうになる。去年この森に連れてこられたドラコはさぞ恐ろしかっただろう。

 髪をひとつに纏め、お団子にしている首筋が冷気でゾーッと撫でていくようだ。シャルルは目深にフードを被った。

 

 裏の方の畑のそばに鶏小屋があった。

 柵で囲まれ、その柵に魔法がかかっている。焦げ臭く、酸っぱいような香りは木酢液かもしれない。獣避けだろう。それから鼻にツンとくる匂いは吸血性の魔法生物避け。

 調べた限り、森番は鶏が死んでいることを人為的だとは考えていないらしい。都合がいい。

 鶏は昼行性なので、小屋の中で自分の羽に顔をうずめるようにして寝ている。起きないようにそろっと近づき、十数匹いる鶏たちに「シレンシオ」をかける。

 こんなにたくさんいるのに、ジニーのやり方は悠長すぎる。到底全て殺しきらないだろう。

 シャルルは魔法生物の知識には詳しいが、家には生き物はハウスエルフしかいなかったので、頭を隠している雌鳥と雄鶏の区別がつかなかった。それに、雄鶏だけ殺したらあからさますぎる気がする。

 

 唇を舐め、周囲を用心深く見回し、シャルルは囁いた。

「ディフィンド・マキシマ」

 血飛沫が月夜の中に飛び散った。突然死んだ仲間に、鶏達が起きてバサバサと走り回り始める。シャルルは焦る気持ちを必死に押し殺し、何回か同じ呪文を繰り返した。

 バタバタと倒れていくのを、何とも言えない気持ちで眺める。やがて小屋の中で動いているものはいなくなった。

 張り詰めた静寂。

 自分の肩が上下に激しく動き、杖を握った手のひらが震えて、背中に汗がつたった。

 最後に鶏小屋の網を壊した。

 獣が噛み破ったように見えるだろう。

 

 自分の起こした惨状を検分するように眺め、やがてシャルルはローブを翻してその場を後にした。

 

*

 

「はーっ……」

 地下への階段前に辿り着いたシャルルはようやく息を深く吐いた。熱くなった血がせわしなく巡っている。絵画たちの寝息がさざなみのように石壁に跳ね返る。

 虫や蛙や鼠以外の、あれほど大きな形の命を奪うのは初めてだった。

 暗闇の中で舞うように吹き上げる鮮血も、声を縛られて生まれる前に消えた断絶魔も、引き絞られるように苦悶に蠢いていた体も。

 凄惨な光景は甘美というには恐ろしく、怖気付くには悦楽的すぎる。

 高揚感と慄きが波のように満ちては引き返し、シャルルの細い身体を翻弄していた。

 

 壁にもたれて息を落ち着かせ、ルーモスもつけずに階段をそっと降りると、中腹でニタニタとした甲高い声が背後から忍び寄った。

「いーけないんだ、いけないんだ……夜中にフラフラしてる悪い子だ~れだ?」

「ッ」

 シャルルはあやうく叫びそうになったが、驚きのあまり鳩尾を打たれたように声も立てられなかった。ポルターガイストのピーブズだ。嫌なやつに見つかってしまった。

 もう充分視界を阻害しているローブのフードを、さらにぐいと引っ張った。

「せ~んせに言ってやろ……だってチビちゃんがいけないんだものね?悪い子、悪い子、捕まえるぞ」

 歌うように暗い目を細めて、ぷかぷか、空中を泳いだり回っている小男を前に、シャルルはパニックになりそうな気持ちを抑えて、脳が高速で回転していた。

 

 スリザリン生なら、血みどろ男爵の脅しが使える──ピーブズが唯一恐れるのがスリザリンのゴーストだ。

 でも今、シャルルはフードで顔を隠し、緑のローブではなく私服用の無地の黒いローブを着ている。目立たないようにするため、そして万が一見つかった時寮から点を引かれないようにするため。黒髪もフードで見えていないはず。

 暗闇の中で俯いていた彼女は、チラッと宝石の目をまたたかせ、素早く杖を抜いた。

「シレンシオ!」

 シャルルを怯えさせようとすべらかに動いていた声がピタッと止まる。ピーブズは何度かまばたきをし、苛立ったように顔を歪め、手近な絵画を空中に浮かべさせた。

「ペトリフィカス・トタルス」

 杖を振るった瞬間、シャルルは猛然と走り出した。ガシャアン、と額縁が床に落ちたけたたましい音と、「ギャッ!一体なんだ!?私の安眠を害する奴は!?」と叫ぶ声が聞こえたが、それすら置いていくように足を目まぐるしく動かした。

 

 合言葉を唱え、石壁に現れた扉に滑り込んだシャルルは、ソファにへなへなと倒れ込んだ。

 あ、危なかった……。

 心臓が口から出そうなくらいバクバクしている。安心したら冷や汗がどっと背中に浮かんだ気がする。

 シャルルは、こういう冒険じみたことは初めてだった。

 去年といい、今年といい、秘密に近づいていく薄気味悪いような、高揚感の伴うドキドキなら経験したことがあるけれど、基本的にシャルルは知識欲が旺盛なだけの優等生だから……しかも、今日はやったことが、やったことだ。

 鶏を殺したこととシャルルを結び付けられたら、罰則どころじゃすまないかも……。

 

 自分がやったことの実感が湧いてきて、手が震える。

 去年のハリーたちの冒険を思い出し、彼らに一種の恐れのような感情が浮かんだ。彼らはいつもこんな冒険をしているのかしら。こんなの、心臓がいくつあっても足りない。

 でも、リドルに協力すると決めたから、こういうことが増えていくんだろう。

「フー……ふふっ」

 けれど、後悔はなくって零れたのは微笑みだった。

 高揚感が血を巡っていて、ドキドキしてなんだかたまらなかった。

 リドルに褒めてもらえるかしら。…

 

 寝室は静まり返っていて、誰も目覚めた様子はない。

 シャルルは天蓋のカーテンをしめ、ローブを脱ぐと「インセンディオ」で燃やした。証拠に繋がるものはないほうがいい。そして自分に「スコージファイ」をかける。

 泡のようなひんやり冷たい水の感覚が全身を撫でていった。

 自分の身も綺麗になるし、杖が最後に使った呪文も清め呪文なら疑わしいことは何もない。

 

 机に座ると手帳を開いて、羽根ペンを持った。

「全部殺してきたわ」

 みるみるうちに黒い文字が浮かんだ。

『早かったね。大丈夫だったかい?』

「途中ピーブズに見つかったけど、呪文をかけてきたし、教授たちには見つからなかったわ。顔も見られてないと思う」

 鶏を殺すにあたって、シャルルはリドルから呪文は色々と教えてもらったけれど、決行に関しては彼に相談することなく自分で計画を立てていた。

 初めて任された仕事だから、すべて指示されるのではなく、自分で動けると彼に示したかったのだ。

 2年生ながらに頭を回し、足がつかないようにと拙くも振る舞ったシャルルに、リドルは満足気だった。

 

『そう、やっぱり君は優秀だね。君を選んでよかった』

 

 このたった一文だけで、こんなにも胸が軋むのはなぜだろう?

 頭のてっぺんから爪先まで、じわっと滲むような感覚が全身を包んで、最後にそれが心臓の内側からキューッと締めつけてくるようだった。指先に火が灯る。

 得意げに胸を張るのを隠し、文字だけは冷静になるように努めた。まぁ、少し震えているからうまくいったかわからないけど。

 

「わたしは役に立つでしょう?」

『そうだね──君の認識を上方修正したよ。それに、精神の乱れもそこまで懸念するほどじゃないみたいだ。安心したよ。ジニーの怯え様には、それはもう酷くうんざりさせられてね』

 

 初めて彼女と話した時のことを思い出した。

 青ざめて震え、何かに怯えていた様子……。

 玄関ホールでぶつかった時に、リドルの日記帳を意図せず手に入れたあの時、まさしくジニーが鶏を殺したあとだったのかもしれない。

 外にいたのか尋ねると酷く動揺し、靴には雪に混じった赤いものが……あれは血だったのだろう。

 

 リドルに褒められ胸を膨らませながらも、シャルルは庇った。それは、自尊心が満たされるのを隠し切れていなかった。

「あの子はまだ1年生の女の子なのよ。普通の子にあんまり求めるのは酷だわ」

『年齢は言い訳にならないさ。現に君は2年生で仕事を完璧に遂行してみせた。そうだろう?』

「まぁ、そうかもしれないけど、でもジニーも……」

『だが、言った通り君はまだ2年生だ。小さな蛇だとしても、今は興奮で自覚していないだけで精神に負荷がかかっているのは間違いない。もう休んだほうがいい』

「このくらいで動揺したりしないわ」

『初めての経験というのはストレスがかかるものなんだ。それに、この後の方が重要だろう?』

「この後?」

『秘密を暴くことも、何かを引き起こすこともそれほど困難じゃない。一番重要で、かつ困難なのは握った秘密を握っていないように振る舞い、扱うこと』

「……そうね…」

『わかったならお休み。普段と変わらない態度で過ごすことでようやく秘密は秘密になるんだ』

「わかったわ。おやすみなさい、リドル」

『よい夢を、シャルル』

 

 文字が優しい気がしてなんだかくすぐったい。

 横になると、たしかに彼の言った通り、ドシッと身体に重力がのしかかってくるような感覚があった。疲れていたんだろう。彼には動揺しないなんて言ったけど、シャルルはずっと心が動きっぱなしだった。

 目を閉じると睡魔が手招きしている。

 今日は彼に警戒しないで、朗らかにずっと話せていた気がする。それに、彼もとても優しかったような。

 たくさん褒めてくれて……彼に褒められると満ち足りたような、自分がとても凄い存在になったような気持ちになった。

 少しは認めてもらえたのかしら……。

 やがてシャルルは微睡みに落ちていった。

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