Sapphire 〜ハリー・ポッターと宝石の少女〜 作:しらなぎ
土曜日は午後の授業が休講となる。午前の魔法薬学を2コマこなせば、ホグワーツで初めての休日だ。
「何をしましょう?ねえ、シャルル」
「そうね、校内をゆっくり散策するのも悪くないと思うの」
「いいんじゃない?ドレアノ先輩が湖のほとりはとても美しいっておっしゃってたわ」
「ティータイムにちょうどよさそうね」
「でも、大きな大きなイカのモンスターが潜んでいるそうよ?わたし達、わっと飲み込まれちゃうかも!」
「やだ、こわあい」
少女たちは顔を見合わせて、クスクスと吹き出した。
おしゃべりを弾ませながら暗く冷たい石の廊下を進めば、段々に人の賑わいが増えてくる。普段は落ち着いたスリザリンの領域に赤のローブがちらちら混じり、パンジーはせっかくの笑顔から不快げに眉根を寄せた。
石壁に埋められた扉を開けば、そこが魔法薬学の教室だ。この城で最も寒く、陰気で、薄暗い場所。アルコールに漬けられた動物がガラス瓶越しにこちらを見詰めている。
「ドラコ!」
人がまだまばらな教室を見渡し、お目当てを見つけるとパンジーは黄色い声を上げ、さっさと彼の隣を陣取ってしまった。
「隣いいかしら?ありがとう、ねえ、この教室少しだけ怖いわよね」
返答する間もなく席に座っていたパンジーはひっきりなしにマルフォイに話しかけている。
一緒に受けたかったのに。
不満に思いつつも、パンジーの態度は今に始まったことじゃない。シャルルが仕方なしにクラスを見渡すと、1人の少女と目が合った。
見知った顔に喜色を浮かべ、シャルルは彼女の元へ向かう。
「ごきげんよう。久しぶりね、シャルル」
ふんわり笑う彼女はダフネ・グリーングラス。シャルルの唯一親交のあった子女だ。幼なじみ…とも言えるかもしれない。
「ダフネ、わたしあなたととっても話したかったのよ」
「あら、それはわたしも同じよ。1年ぶりくらいかしら?」
「もうそんなに経つのね。あまり会えなかったし、入学してからもタイミングが合わなかったし…」
「あなたはとっても有名だしね」
「そう?」
ダフネを見つめると、伏し目がちで彼女は微笑んだ。
「そうよ、今や1年生のリーダーじゃない。わたしは聖28族といえど、あまり目立つのは好きじゃないし、目立つところだってないし」
ダフネは肩を竦めて苦笑いする。シャルルは寂しくなって言葉をつのらせた。
「なあに、それってわたしたちの間に距離があるみたい。ダフネはわたしの…たいせつなお友達…なのに」
恥ずかしくなって、シャルルは唇を尖らせる。頬があついのが自分でわかった。
「シャルル…」
ダフネがクスッとからかうように笑った。
「もう、笑わないで、ダフネ」
「ごめんね、あまりにシャルルが可愛いものだから」
とうとう彼女はころころ鈴の音を転がすように笑い声をあげた。肩が揺れるたびに、ひとつに垂れた三つ編みがゆらゆら動いて、淡い金髪がきらめいた。
「これからはあなたとたくさんお話したいわ」
「もちろんよ、ダフネ。パンジーも紹介するわ」
「知ってるわ。パーキンソンのことは。あまり、親しくはないけど」
「そうなの?」
「パーティーで幾度かはね。仲良くなれたら良いのだけど……」
「きっとなれるわ。パンジーもオシャレや恋の話がとっても大好きなの」
ふたりが和やかに会話を楽しんでいると、──バタン!扉が荒々しく開き、黒のローブをはためかせ、しかめ面の男性が重々しい顔つきで入ってきた。大きな音に驚いて、通路を挟んで隣に座っていたネビル・ロングボトムが小さく跳ねる。
「スネイプだわ」
ダフネが体を寄せて囁いた。「知ってる?彼ってスリザリン生にはとても優しいけれど、他の寮生は大嫌いなのよ。特に…グリフィンドールは」
意味ありげに微笑みダフネは前を向いた。
目付きが鋭く、蝙蝠のように陰気で、常に重々しいと噂の我が寮監は、さっそくグリフィンドールの中に標的を定めたようだった。
「ハリー・ポッター」背筋が震えるほど甘く、絡みつくような声でスネイプは囁いた。「我らが新しい──スターだ」
途端にスリザリンからわざとらしい忍び笑いが上がった。マルフォイやパンジーが声を上げて楽しげにしている。ダフネがシャルルを肘でつついた。
シャルルはかけらも面白いとは思わなかった。混血だが、ハリー・ポッターは英雄だ。アナスタシアは……"例のあの人"に尋常でないほど怯え、恐怖し、そして憎悪していた。
シャルルはアナスタシアに育てられたのだ。ハリー・ポッターの方をちらりと見遣ると、彼は不安げにしながらも、セブルス・スネイプの目をじっと見返していた。
「この授業では、魔法薬調剤の微妙な科学と、厳密な芸術を学ぶ」
スネイプがぼそぼそと呟く声は、生徒一人一人の耳元にまっすぐと響いた。彼が喋ると誰も彼もが聞き逃すまいと口を噤み、教室に静謐が訪れる。
「このクラスでは杖を振り回すような馬鹿げたことはしない。そこで、これでも魔法かと思う諸君が多いかもしれん」
ゆっくりと教壇を行き来し、端から端までスネイプは見回した。
「フツフツと沸く大釜、ユラユラと立ち昇る湯気、人の血管を這い廻る液体の繊細な力、心を惑わせ、感覚を狂わせる魔力……」
彼の声と話し方は、人を酔わせる力を持っている。
「諸君がこの見事さを真に理解するとは微塵も期待していない。吾輩が教えるのは、名声を瓶詰めにし、栄光を醸造し、死にさえ蓋をする方法である──最も、諸君らがトロールよりマシな脳みそを持っていれば、の話だが」
クラス中がしんと静まり返り、シャルルは彼がすこし好きになった。セブルス・スネイプの言葉選びは繊細で芸術的だ。詩的ですらあると思った。
スネイプはクラス中を一瞥すると、1人の生徒を鋭く睨んだ。「ポッター!」
「アスフォデルの球根の粉末にニガヨモギを煎じたものを加えると何になる?」
突然の質問に、ポッターは目を白黒させた。シャルルは教科書の記憶を手繰り寄せようと、目を瞑って考えた。少なくとも前半にはなかったはずだ。
質問と同時に手を挙げた栗毛の少女が印象に残った。実践を踏まないと理論を覚えにくいのが、シャルルの悪いところだ。
「生ける屍の水薬……」
ポッターが「わかりません」と言い放つのと同時に、シャルルがダフネにしか聞こえない声で呟いた。
「有名なだけではどうにもならんらしい」
スネイプは嫌味に唇を釣り上げ、「べゾアール石を見つけて来いと言われたら、どこを探すかね?ポッター」と続けた。
この質問は覚えている。ヤギの胃の中だ。たいていの薬に対する解毒剤となる。
この記述が載った箇所を開けば、ダフネが目を見開いて、興奮したように呟いた。
「シャルル、あなたもしかして全て暗記を?」
「まさか。でも5回ほどは読んだわ」
「すごいじゃない!手を挙げたら?」
シャルルはグリフィンドールの栗毛の少女を見た。乗り出すようにして腕をピンと挙げている。あまりに必死で、みっともなさにシャルルは顔を背けた。マルフォイ達が身をよじって笑っている。視線を追ったダフネも、たまらないと言うように小さく吹き出した。
でも、みっともないが、彼女はシャルルより賢かった。多分あの少女は教科書を全て暗記していてもおかしくない。
「モンクスフードとウルフスベーンの違いは何かね?」
栗毛の少女がとうとう椅子から立ち上がって挙手したが、セブルス・スネイプは依然として彼女をいないものとして扱った。
彼に恐ろしいほどの強い瞳で射抜かれているハリー・ポッターと言えば、段々と落ち着き払って、彼の目をいまだまっすぐと見つめ返していた。
「わかりません」
その上、余裕綽々と「ハーマイオニーが分かっていると思いますから、彼女に質問してみたらどうでしょう?」などとのたまった。シャルルは思わずクスリと笑って、グリフィンドールが数人笑い声を上げた。
「座りなさい」
スネイプがさも不快げに言い放ち、彼女が渋々と席に着いた。
シャルルは彼女の必死さと空回り具合があまりに惨めで、みっともなくて、同情が沸いて出た。だが、彼女の言動にはあまりに品がない。彼女の生まれや育ちが察せられるというものだ。
シャルルは興味を失い、教科書に目を落とした。
スネイプの解説を生徒たちが一斉に書き留めてゆく。
「ポッター、君の無礼な態度で、グリフィンドールは1点減点」
シャルルは呆れ返ってスネイプの顔を見つめた。どんな顔をしているかと思ったが、彼はただ真顔で淡々としている。加点はよく耳にするが、誰かが減点されるのを見るのは初めてだった。教師から点を引かれるなんてどれほど悪いことなのだろうと漠然と思っていたけれど、何のことは無い、教師の気分で決まるのか。
バカバカしいと思ったが、同時にやりやすくも感じた。他人のご機嫌取りなどしなくても、勝手に好かれるのがシャルル・スチュアートという人間だったからだ。
シャルルは他人にあまり興味が無い性質だが、それは自覚的だった。
授業はペアはダフネと組み、おできを治す簡単な薬の調合に取り掛かった。干しイラクサを測り、蛇の牙を淡々と砕いていく。しかし角ナメクジを茹でる時には、気持ちが悪くて視線を逸らしていた。目ざとく「湯を沸かしすぎだ、材料から目を離すな」と一言叱責を受け、ダフネもなにやらお小言をいただいていた。
スネイプは教室をぐるぐると周り、全員に何かしらの叱責……グリフィンドールには嫌味と罵倒……を与えているようだったが、ただ1人マルフォイだけは彼のお眼鏡に叶ったようだった。
叱責どころか、マルフォイの茹で加減が完璧で素晴らしい、と賛辞を送り、彼を参考にするようにとまで付け加えた。
その時のパンジーの顔といったら!うっとりと今にもとろけそうにマルフォイの横顔を見つめ、自分のことのように胸を張った。彼女は本当に愛らしくころころと表情を変える。
「マルフォイのところに行ってみる?」
「ええ…そうね」
ダフネは気乗りしない声を上げてマルフォイをちらりと見た。ため息を零す。
「彼を見てよ、スネイプに褒められて天狗になっているのが丸わかりだわ。でも、行かないってわけにもいかないのが面倒なところなのよね」
ダフネはあまりマルフォイが好きではないのかもしれないと思った。彼女があからさまな態度を出すのは珍しい気がする。ダフネがパンジーと仲良くなれるかシャルルは少し不安になった。
シャルルが席を立つと、教室中に緑色の煙が爆発した。咄嗟に顔を覆うと、腕と顔に痛烈な痛みが走った。刺すような衝撃が走り、シューシューと耳元で何かが大きく響いている。
「う、うう…」
シャルルはわけも分からず混乱し、あまりの痛みに立っていられなくなった。床に膝をつき手のひらをつくと、手が濡れた感触がある。一拍遅れて、手のひらから不快なシューシューという音が響き、とてつもない痛みが走った。
「ああっ!」
シャルルは手のひらと腕と顔が、熱く焼け爛れているような感覚に襲われた。痛みが全身に広がり、体を動かせない。ローブが焼ける音が耳に響き、自分が何を言っているかわからなかったが、嗚咽が止まらなかった。
「シャルル!!!!!!いやあ!!!シャルルが!!!」
煙が晴れた時ダフネが見たのは、床に座り込み、椅子にしがみつくように凭れてはらはらと号泣するシャルルだった。引き攣るような悲鳴を上げてダフネは縋り寄った。
腕は焼け、シャルルの真っ白な頬は赤黒く爛れ、涙と涎を垂らして呻きながら泣いている。酷い有様だった。それでも醜いというよりは、悲愴で、惨めで痛々しくありながらもシャルルは美しさを損なわないのが悲愴さをさらに掻き立てた。
「馬鹿者!」スネイプが怒鳴り込んで、失敗作の薬をエバネスコで取り除いた。
「おおかた、大鍋を火から降ろさないうちに、山嵐の針を入れたんだな? 」
「ふざけないで、この、ウスノロ!」
パンジーがシャルルに駆け寄って、ネビル・ロングボトムに思いつく限りの罵倒を浴びせかけた。たいせつなシャルルがグリフィンドールにこうも傷つけられたのを見て、怒り狂って叫んでいる。
彼女はパグのような顔を真っ赤にして、「スクイブは家へ帰りなさい!何も出来ない役立たず!失敗するなら1人でしなさいよ!バカでノロマで人に迷惑しかかけないカエル野郎!!」と令嬢らしからぬ口調で喚き、シャルルの肩にそっと手を置いた。
「ねえ、大丈夫なの?こんな…酷い…」
シャルルの惨状に言葉を失い、涙ぐむ。
「医務室に行かなきゃ!ああ、先生…シャルルが、シャルルが…」
ローブに縋り付くダフネを鬱陶しそうに払い、スネイプがシャルルを抱きかかえた。
「諸君らは調合を続けたまえ。提出が終わったものから、各々解散とする」
スネイプは大股で歩き出した。シャルルは痛みで呻いていたが、意識はあった。頭の片隅には常に冷静な自分がいる。
スネイプの肩越しにマルフォイがグリフィンドールと口論をしているのが見えた。珍しく、ノットも応戦している。パンジーは泣きながら喚いていたし、ダフネも泣いていた。
ロングボトムが、グリフィンドールの生徒に支えられながら、号泣しつつ後ろを着いてきていた。彼の顔も腕もおできで真っ赤だ。爛れて血が滲んでいる。
「ごめんね…ごめんね…」
ロングボトムの怪我の具合は、正直シャルルより酷く見える。恐らく、歩くのもままならないくらい痛いに違いない。
「ごめんよ、僕のせいで…ごめんなさい…痛いよね…女の子なのに、顔に怪我をさせるなんて……ほんとにごめんよ……」
涙がおできに触れるとぴりぴりしてさらに痛い。それはシャルルも体感して分かっていた。
だけどネビル・ロングボトムは、足を引き摺りながら、ずっとずっと謝り続けていた。涙をボロボロ零しながら、自分も痛いだろうに、シャルルに謝り続けていた。
医務室のマダム・ポンフリーは2人の患者の有様を見ると悲鳴を上げた。
「何をしたらこんなに酷いことになるのですか!セブルス!あなたがついていながら!」
マダムが愚痴愚痴とお説教するのを憮然として聞き流し、「治ったら報告に来るように」とだけ言い残してスネイプは去っていった。
「全く!……さあ、もう大丈夫ですよ。少し薬は苦いですが、これを飲んで夜寝ていれば綺麗さっぱり怪我は治りますからね。女の子の顔に傷が残ってはいけませんもの、安心してちょうだいね」
飲むのを躊躇う色をした液体を無理やり流し込む。少しどころでなく苦かったが、幾分か痛みがマシになったきがした。患部にも塗り薬を塗ってもらうと、明確に痛みが緩和され、シャルルは先程の醜態を思い出した。
混乱し、痛みに泣き喚いていた自分が恥ずかしくて、寮に戻りたくない。
羞恥と自己嫌悪に項垂れるシャルルの病室を、カーテンの隙間から誰かがそっと覗いた。
「…なにか?」
「…僕だよ。……あの…本当にごめん、僕がノロマで何にもできないせいで……痛かったよね、すごく……本当にごめんね……」
外にいたのはネビル・ロングボトムだった。
確かに死ぬほど痛かったし、取り返しのつかない醜態を晒した。それはネビル・ロングボトムのせいで間違いない。だが、シャルルは彼のことはちっとも怒ってはいなかった。
だからシャルルはカーテンをさっと開けると、驚きに目を丸くするロングボトムににっこりと笑顔を向けた。
「誰にだって失敗はあるわ。あまり気に病まないで、ロングボトム」
彼はまさかシャルルがそんなことを言い出すのは予想外と言わんばかりに目を剥いた。そして、すぐにしゅんと肩を落とした。
「でも、僕、本当にごめんよ…僕何も出来ないだけじゃなく、君に、あんな怪我までさせちゃうなんて…」
「確かにすごく痛かったわ。泣いちゃうくらいには」
そう言うと、ロングボトムが焦って泣きそうな顔をした。本当に申し訳なさそうな顔だった。
シャルルはクスリとして言葉を続けた。
「でも、あなたの怪我の方がひどかったわ。本当に痛かっただろうに、あなたはずっとわたしに謝ってた。わたし怒ってないの。むしろ、優しいひとだなって思ったの」
シャルルはつとめて目元をやわらかくして、彼に微笑む。
「ありがとう…僕…。きみの方こそとっても優しいんだね」
ロングボトムがしゃくりあげた。シャルルは優しくなんかない。彼はそれを知らない。
「わたしはシャルル・スチュアートよ」
まだ少し焼けた跡が残る手のひらをシャルルは差し出した。
「僕はネビル…ネビル・ロングボトム…」
ロングボトムはおそるおそる手を差し出し、シャルルは怯える彼の手をきゅっと掴んだ。
「呼び捨てでいいわ、ネビル。今日のことはなんにも悪くおもわないで、ね」
「む、むりだよ…きみがとっても優しいから、尚更…申し訳なくて…僕…」
「うーん…それじゃあ貸し1つ!というのはどう?」
「貸し?」
「そう、あなたはわたしを傷付けた。だからその分の貸しをいつか返してもらうの。そうしたら対等でしょう?」
「でも、僕なんか何も出来ないよ…役立たずでノロマだから…」
「役に立たないかどうかはわたしがきめるわ。だから、ね?今日からお友達よ、ネビル」
「う、うん…わかったよ、シャルル…」
ネビルは耳を赤くしてちいさく笑った。シャルルは優しくて、いい子だ。そう思った。彼女と友達になれたのが嬉しい。
シャルルもネビルと友達になれて嬉しかった。ロングボトム家は歴史正しい純血名家だ。ネビルが落ちこぼれだろうと、家柄に相応しい言動でなかろうと、グリフィンドールだろうと関係ない。
ロングボトム家のネビル。それだけで、シャルルにとってネビルは愛しい友人なのだ。