Sapphire 〜ハリー・ポッターと宝石の少女〜 作:しらなぎ
記憶が生きた人間の身体を乗っ取る。
シャルルが下したその直感はやや飛躍していたが、そう考えると絡みあった糸がするすると解けるように物事の辻褄が合うのだ。
実体化していないリドルがジニーを言葉巧みに操ったとしても、蛇語を話せないバジリスクが継承者であるリドル以外の指示を聞くと思えない。
彼女の意思ではない行動をさせ、その間の記憶がないのも、意思、肉体、あるいは自我を奪ったとしたら理屈が通る。
ただ、「どうやって」ということだけが分からない。
だから飛躍しているように感じるのだ。同時に方法さえ目をつぶれば、結果は納得できる形で横たわっているように思えた。
感情のままに寝室に戻ったシャルルは、引き出しにしまった日記帳を取り出した。ベッドに乗せて「リドル」と叫んだ。その声は思うより囁くように小さくて、掠れていた。
彼と会話をすることが短慮であることはわかっている。けれどシャルルが既に彼の術中であり、杖を以てしても、彼に何もかもが敵わないということも分かりきっている。
「リドル、出てきてちょうだい。話したいことがあるのよ」
もう一度彼の名を呼ぶ。リドルは答えない。
「…?」
いつまで経ってもリドルは出てこない。血が足りないのだろうか?彼と文字でのやり取りもしなくてなってから、随分経つ。
シャルルはほっそりとした白魚の指先を顎に当て、思考に沈んだ。
仮説を前提で考えると。ジニーとは文字のやり取りだけで操ることが出来たのに、なぜシャルルは血を捧げる必要があり、なぜシャルルは操られていないのだろう?
少なくとも記憶に欠損がないことは、セオドールとの対話で明らかだ。
彼女と何が違かったのだろう?
同じ純血で、リドルの手のひらで簡単に踊る、幼くて頭の悪い少女に過ぎないのに。
シャルルを尊重しているとは思わない。彼からそう感じたことは一度もないし、彼は他者を尊重できるような人間ではないから。
洗脳の手段を変えたのは何故?シャルルに時間をかけたのは何故?
彼の復活のために、あるだけ血を捧げようとしたシャルルに「躊躇いがないというのも困る」と言ったのは何故?血を捧げさせたのは何故?躊躇いが必要?躊躇い…意思?拒絶感?あるいは強い自我?
彼は他にシャルルに何を言っただろう。リドルはシャルルに何を望み、何を捧げさせ、どうしたかったのだろう。
彼女には一生知る由もないことだが──シャルルという少女はリドルに夢中になりながらも、彼に秘密を打ち明けたことがなかった。心を明け渡したことがなかった。自分を誰かに預け、心を預け、記憶を預けるということを根源的に恐れ、拒み、許さなかった。
リドルに惹かれ、崇拝しながらも、信頼したことがなかった。
彼だけでなく、シャルルは誰にもそうしたことがない。自分を手放して預けることも、信頼して心を打ち明けることも。
それをある人は気高さと呼ぶだろう。ある人は傲慢や孤独と名付けるかもしれない。
結果として、シャルルはリドルが求めるものを一度も捧げなかった。
シャルルの柳眉が切なく歪んだ。
「…リドル、これが最後よ。出てきて…。これが最後の対話になるわ」
ほとんど縋るような声音だったが、リドルは沈黙していた。拒絶されているのか、魔力が足りないのかは分からない。けれどシャルルにとって都合が良いことは確かだった。
古ぼけた日記の背表紙を指先でそっとなぞる。
鼻の奥がツンと痛み、涙腺が緩んだ。
ずっと見ないように、あるいは彼への崇拝で考えないようにしていたことがある。
彼はサラザールの血を引く自分以外の他者全てを、駒としか思っていない。純血も、混血も彼にとって重要ではなかった。
それは分かっていたことだった。
それでも彼の血筋とマグル嫌悪、そして継承者として完璧であることから、思想が共鳴していると思い込みたかった。
ジニー、そしてシャルル。二人の純血を使い捨てにしようとした。シャルルがそう思い込んだ時点で、シャルルの中には決定的に無視できない亀裂が生まれてしまった。
T・M・リドルの思想とシャルル・スチュアートの思想は相容れない。
彼は記憶に過ぎず、肉体のあるシャルルやジニーは純血だった。彼が肉体を…あるいは意思や魂を奪い、それを復活と呼ぶのだとしたら、それはシャルルの看過できるラインを越えている。
彼との繋がりが喪われる…。
それを考えると、身悶えするほどの悲しみと切なさがシャルルを襲う。心のどこかが捻じ切れるようで、末端から凍っていくようで、崖から突き落とされるようで、立っているはずの地面が急に無くなったようだった。
その痛みと不安は、かつて掛けられたクルーシオよりもずっと激しく、生々しいものに感じられる。
しかし、既にシャルルは彼との別れを決断していた。
彼を許さない。
これは迷いではなく、決定した事項だ。
シャルルという大したことのない女の子が彼に隷属することは当然でも、シャルルという純血が犠牲になることは決して許されない。
これはプライドではなく、揺るがない思想だった。
創設者や伝説への憧憬よりも、彼と過ごした手触りのある時間の方がシャルルを毒のように蝕んだ。彼の冷たく美しい横顔、褒めるように細められた美しい瞳、氷のような指先、赤が走る眼差し、意外と雑談に応えてくれて、シャルルを褒め、からかい、笑ってくれたことを。
彼の育ちや、恨みや、負の感情を見せてくれたことを。
彼の酷薄な笑みも、背筋の凍る怒りも。僅かに歯を見せて面白がるような表情も。
黒い髪を梳く優雅で流れるような仕草。何度も眼差しを交わしたこと。手遊びに杖を弄ぶ手つき。ゆっくり足を組むスラリとした彼の姿。
一つ一つがまざまざと刻まれすぎている。
ベッドの縁に腰掛け、シャルルははらはらと涙を流し続けていた。彼との時間は密度が濃すぎて、けれど思い浮かぶのは彼に怯えたことや彼の冷たい仕打ちではなく、本当にたわいのない時間ばかりだ。
彼に抱いた感情の全てが、彼に受けた仕打ちや学びの全てが、シャルルにとって眩く煌めく宝石だった。
リドルと過ごした時間が、人生で最も美しく、満ち足りていた。
これから先の人生で、彼以外の誰もシャルルをここまで夢中にさせ、感情を揺さぶり、縋りたくなる人はいないだろう。ここまで身を切るような切なさと痛みを感じさせる人はいないだろう。
シャルルの人生にT・M・リドル以上の人は永遠に現れない。彼は完璧だから。
*
しばらく泣き荒んでいたシャルルは、深呼吸して涙を拭った。日記と会話をする気はない。一方的で自分勝手な感傷をしていただけ。
日記から魔力を僅かに奪ったという言を警戒していた理由ももちろんある。けれど、少しでも彼と会話をしたら、自分の意思が簡単に揺らぐであろうことを自覚していた。
ジクジクと痛み続ける心臓を無視して、日記を手放す方法を考える。
燃やしても意味がなかった。ただ捨てただけでは、いつか戻ってくるかもしれない。必要の部屋に置いていく?箱に封印して湖に捨てる?バラバラに破くことは意味があるだろうか?
── 誰が、とか何で、というのは重要じゃない。問題はどうやって、ということだけど、あの耄碌した偽善者の老ぼれが"僕"に辿り着けるはずがない
以前リドルが言っていたことを思い出した。
どうやって。ダンブルドアならそれが分かるだろうか。
リドルを──ダンブルドアに差し出して、継承者を公にした二度目のスリザリン生になる?
唇が震え、冷たい吐息が零れた。
そんなあまりにも残酷な仕打ちをリドルにするなんて、シャルルにはとてもではないが、出来そうになかった。
シャルルにはリドルの願いを叶えてあげることが出来ない。彼の生贄になることが出来ない。けれど、彼に屈辱や苦しみを与えたいわけではなかった。
今ではないいつか、純血でない誰かが…彼の望みを叶えるかもしれない。その僅かな可能性を断ち切りたいわけではなかった。
彼の野望が費えなければ、未来の誰かが──それも多分、リドルの傾向からすると純血が──次のシャルルになる可能性はある。けれど、方法が分からないという上手な言い訳を探して、シャルルは立ち上がる。
人がいちばん来ないところ。そう考えた時、いくつかの選択肢の中で一番可能性が高そうだと感じたのは、深く冷たい湖の底だった。
畔から投げ捨てても、ボートで少し進んで捨てても、大して奥にはいかないだろう。
シャルルは俯きがちに早足で廊下を進み、人がいない場所を目指した。
湖の底に辿り着く場所。
滅多に人が寄り付かない三階の女子トイレは、思った通り静かでシャルルしか見当たらなかった。故障中の看板が立てかけてある。噂と違い、呻き声や喚き声も聞こえない。幸いにも噂のゴーストは不在のようだ。
割れた鏡や染みだらけの薄汚い女子トイレ。その一つの小部屋に鍵を掛け、美しい小さな缶を取りだした。魔法で鍵を掛けてある。
それを便器に翳すと、またシャルルの両目に並々と涙が溢れてきた。
「ご…ごめんなさい、リドル…」
彼にふさわしくない下水を通り、彼は湖の底に沈む。何十年も、あるいは永遠に彼は冷たい水の中で孤独を味わう。彼の時計はまた針を止める。
その全てがシャルルの裏切りによって齎される。
全身をガタガタと震わせているのに、手のひらは、缶が吸い付いて来るように力強く握り締められていた。固まってしまったように動かない指を一つずつ剥がした。
震えが大きくなる。
皮膚の内側を奔流する様々な感情の渦が、最後には巨大な罪悪感と切なさに収束されてゆく。
思想のために彼をまた孤独にしようとしている。
言い訳の余地すらなく、自分自身がなによりわかっていた。
「ごめんなさい…ごめんなさい」
何度も呟きながら、やがて指先が開かれた。重力のまま、缶がポチャンと水音を立てる。レバーを回すと水流が起こり、缶は飲み込まれていった。このまま湖まで運ばれて、リドルの今の野望は潰える。
リドルと話すことは多分もう、永遠にないだろう。
「さようなら…リドル」
*
談話室に戻ったシャルルをパンジーが「シャルル…一体どうしたの!?」と抱きかかえた。彼女の身体は痙攣したように激しく震え、唇まで青白く、そして呆然と滂沱に涙を流していた。瞳は虚ろでどこでもない場所に向いている。
憔悴した彼女は、何かに絶望しているようにしか見えなかった。
シャルルはパンジーのローブを握り締め、小さく首を振った。唇がキュッと真一文字に引き結ばれている。
冷え切った彼女の背中を撫でて暖炉に連れて行こうとしたが、シャルルはか細く「な…なんでもないの」と静かな抗議をした。
「何でもないはずないじゃない!」
「ほん、本当よ…うっ、何も…」
「……どうして何も教えてくれないのよ!?」
上手く言葉も紡げないほど喉を引き攣らせているくせに、彼女は頑なに傷を見せようとしない。ここ数ヶ月の様子がおかしいシャルルをハラハラと見守っていたパンジーは、耐え難く鋭い非難の声を上げた。
いや、それよりももっと温かで、真に迫るものだ。
「親友が傷付いているなら、せめて慰めるくらいさせてよ…!」
「パンジー…」
「わたしだって親友の助けになりたいのよ!一人で突っ走って、一人で泣くのはやめて!少なくとも、泣きたい時に隣にいるくらいなら、わたしにだってできるわ」
おずおずと顔を上げたシャルルの、美しい碧色の瞳からとめどなく透明な雫が滑り落ちていく。シャンデリアの光を乗せて煌めく彼女は、より一層儚く、見る者の胸を締め付ける切ない美しさがあった。シャルルは頼りなく僅かに頷いた。伏せた睫毛にすら光が宿っている。
黒いローブを微かに握る真っ白な指先が、まるで縋られた気分にさせた。
パンジーはローブを脱ぐとシャルルの頭に被せ、泣いている彼女が誰にも見られないよう影に守った。ゆっくり手を引きながら暖炉の前のソファに座らせる。
シャルルは抵抗もなく腰を落とすと、胸の前でかよわく手をさすって、スンスンと鼻を鳴らす。
その一連を唖然と竦んで眺めていたドラコとセオドールは、途方にくれたように顔を見合わせた。女の子が泣いている場面において、全くもって役に立たない二人である。
パンジーは今すぐにでも問い質したかった。何があったの?誰に傷付けられたの?何があなたを泣かせているの?けれど、嗚咽を漏らすシャルルにそれらをグッと堪え、黙って寄り添いながら背を撫で続ける。優しく抱き寄せると、シャルルはぺたんとパンジーの肩に頬をくっつけた。
言葉のない寄り添い合いを、しかし男たちは動揺して眺めたり、本を開いては閉じたり、眉根を寄せて固まったりして、非常に落ち着かなかった。
沈黙の中でシャルルのか細い声音だけが聞こえることに耐えかねたのか、あるいは暖炉周辺の生徒たちからの好奇心と野次と心配が入り混ざる視線に押されたのか、ドラコは少し焦った声を出した。彼は良くも悪くも先陣を斬るという期待を背負わされがちだ。
「シャルル…何があったんだ?君がここまで人目を憚らずに泣くなんて、普通じゃない」
「……」
「グリフィンドールの奴らか?君をそんな目に合わせたやつを教えてくれないか。僕らだけでなくスリザリン全体で報いを受けさせよう」
シャルルはパンジーの肩に顔を埋めながら、首を横に振った。
「泣き寝入りするなんて君らしくないな。君が泣いているのを見たくないんだよ…」
普段は小生意気に上がっているドラコの眉は、今は困ったように垂れ下がっている。セオドールの魚のような目に温かみが乗っている。しかしシャルルが今それを必要としていないことも、慰めが空回っていることも明白だった。
パンジーはドラコの子犬のような表情に複雑な感情を抱いたが、ますます押し付けられる肩の重みを感じると、それはすぐに霧散していった。
「ドラコ…、あの、シャルルの傍にはわたしがいるわ。今はただ落ち着かせてあげるのがいいと思うの」
「ああ…うん、そうかもしれない」
「ごめんなさいね、少しだけ二人にしてもらってもいい?」
「わかった、君に任せるよ」
「ありがとう。…ノット、貴方もさっさとどこかに行って」
彼らは明らかに安堵した様子だった。
シャルルの頭の中はリドルでいっぱいだったが、パンジーがシャルルのためにドラコを追い払うという前代未聞の出来事に、こんなことあるんだ、と平坦な感動を覚えた。
「パンジー、いいわ…。わたしが戻るから」
「でも、まだ身体が冷えたままじゃない」
「いいの。どうせここにいたところで視線を集めるだけだし…。二人ともありがとう。心配かけたわね」
ローブを頭に被ったままシャルルはポソポソとそう言って、後ろから掛けられる声を振り払い、早足で部屋に向かった。パンジーがそれを慌てて追いかけていく。
ドラコとセオドールはまた、どうしたら良いか分からない様子で眼差しを交わした。
彼女が怒りや羞恥に泣いているのなら、まだ対処の仕方がわかる。けれどあのシャルル・スチュアートが、ただの女の子みたいに傷付いてさめざめと泣くことがあるなんて、想像もしていなかったことだった。
パンジーはシャルルを根気強く慰め、寄り添ってくれた。腫れぼったく目を赤くしたシャルルが泣き止んだ時、一度だけ気遣うように尋ねたが、シャルルが何も言わないでいると、いつか話してちょうだい、と言ったきりシャルルを無言で慰めることに腐心した。
泣き疲れてうとうとし始めたシャルルを横に寝かせ、眠るまで少女たちは手を繋いだ。天蓋の中でふたつの影がぴっとりとくっつき合う。
そして夜が過ぎ、太陽が顔を出し、朝が来る。
数日間ずっとシャルルはまさしく悲嘆にくれるといった様子だったが、彼女の心に後悔はなかった。何度考えても、彼とシャルルの道が交差する余地はないと分かっていたからだ。
シャルルはただ、全身が震えるほどに、自分の中の何かが欠けたように、身悶えするほどに、ひたすらリドルが恋しかった。
何度か日記を取り出しそうになり、すでに日課になってしまったメモや日々の注釈を返事の帰ってこない日記帳に虚しく書き込んだ。
シャルルの頭の中だけに存在するリドルが、皮肉っぽく返事をするのが想像しなくとも流れた。けれど冷静な頭はせん妄にも囚われない。
時間というのは残酷なもので、 リドルがいなくなっても、シャルルの時計の針は否が応でも前に進み続ける。虚ろな目をしていたシャルルはやがて瞳に正常な光が浮かび、蝋のように白かった顔は桃色になり、常にうっすらと浮かんでいた隈はすぐに消えた。
鏡の中の自分は病的さが鳴りを潜め、以前のような瑞々しい蕾のような愛らしさを取り戻して始めている。
この変化が生活習慣だけで起こったとは思わない。
リドルに聞きたいことは山ほどある。その答えを彼から得ることは永遠にない。自分の選択に後悔がなくとも、張り裂けるように痛む心の穴や傷は後遺症のように残っていた。
これもやがて過去になることがどうしようもなく切ない。
彼がいなければ生きていけないと思い込めるほど自分が純情で弱かったらよかった。
イースター休暇は三年生の選択科目を決めて申請する課題が与えられた。シャルルの意見を聞いたリドルは「学ぶ価値のない学問に時間を費やすことは愚かだ」と切り捨てた。
彼は魔法の神秘に一定の信頼を置いてはいたが、占い学の不透明さを嘲笑っていたし、マグル学は間違いなく嫌悪していた。憤りさえ抱いていたように思う。
その時は彼に同調したシャルルだったが、実はマグル学にも一定の興味があったのだ。それは前向きなものではなく、例えば魔法族がいつかマグルと交差するとして…その際に無知であるよりは…潜在的な敵や家畜に対する一定の知識を持っているべきだという理由からだ。
リドルは本人がマグルの孤児院出身だから知識があるのだろうけど、入学前から完璧に魔法を扱えたという彼でも、マグルに憎しみを抱かざるを得ない状況に置かれていた。
リドル、ターニャ、ポッター。
シャルルが知る限りでも三人もマグルに被害を受けた"子供"がいる。それは機密保持法の欠陥なのかもしれないと、シャルルは考え始めている。ただでさえリドルを捨てたのに、リドルの有用な意見すら従えない自分がとてつもなく傲慢だとシャルルは内心で皮肉げに自嘲した。
「やぁ、シャルル。君から相談があるなんて珍しいね。僕を頼ってくれてありがとう。僕でよければ話を聞くよ」
「ええ、ありがとうパーシー」
空き教室の一室で彼らは向かい合っていた。空き教室といっても、図書室にほど近く生徒たちの自習室のように使われている場所で、埃はなく、誰かが持ち込んだ書籍などが並べられている。図書室ではマダム・ピンスが飢えた禿鷲のように険しく素行を監視しているため、他寮生同士の勉学的な交流についてはいくつかの場所で行われる。原則として図書室での私的な会話は校則で禁止されているため、真面目なパーシーに合わせてここを指定したのだ。
パーシーは頼られた喜びと僅かな不安を滲ませて、しかし安心させるように柔らかい声でシャルルを促した。
「それで、相談って?」
「実は選択科目について悩んでいて…」
内容が自分の得意分野であると分かるとパーシーは安堵したように、線の細い身体が一気に伸びる。
「ああ、グリフィンドールでもその話が出ていたよ。僕は全科目受けているから、力になれると思う。何に悩んでいるんだい?授業の概要?課題について?教授方の性格かな」
「そう、その話。パーシーは12も科目を取っているでしょう?わたしも全科目受けたいと思っているのだけど、両立出来るか不安なの。どんなカリキュラムを組んでいるかとか、睡眠時間はどの程度取れるかだとか、色々話を聞いてみたくて」
「!君も?それは素晴らしいことだよ」
身体を膨らませたパーシーは嬉しそうに眼鏡を押し上げた。
「でもまぁ、確かに不安は最もだと思う。正直この僕でも尋常じゃないくらい大変だから」
「やっぱり?」
「課題がドッサリ出されて睡眠時間を削ることも多いし、勉強以外の時間を捻出するのも工夫が必要だ。僕はこの生活が三年目だから慣れて余裕があるけれど、最初の一年は倒れることもあったよ。勉学に対する熱意だけではとてもこなせないと思う。僕は首席で魔法省に入省するという目標のために12科目取っているけれど、君は何か目標があってそうしたいのかい?」
「目標…」
「具体的なものでなくともいいんだ。例えば魔法省に入りたいだとか、資格のある仕事を希望しているだとか」
そう問われると困ってしまい、シャルルは視線を逸らした。パーシーは既に自分の将来についての明確なビジョンがあり、それに邁進している。しかしシャルルは自分の将来についてはまだ全く曖昧と言ってよかった。
黙り込んでしまったシャルルに、パーシーが焦ったようにフォローに回った。彼は頼られる機会が少ないので必要以上に気負っていた。
「もちろんなくても構わないんだよ。ただ、過酷な努力を続けられる理由が必要だと経験して感じたんだ。それにもしどうしても難しいようなら、途中で科目を辞めることも出来る。その選択も僕はありだと思うよ」
「そうなの?」
「ああ、僕の同級生でもいた。実際受けてみないとどんな授業や概要なのか分からないし、途中で目標が変わることもあるだろう?」
「そうね…うん、それならまずは全て受けた方が将来のためになるわよね」
どこか不安そうだった彼女の眼差しが好奇心を含んだ思慮深いものに変化して、パーシーは頼ってくれた後輩を上手く励ませたことに達成感を覚えた。先輩として、そして監督生として相応しい振る舞いができているはずだ。
「学術的な好奇心が理由かい?それとも将来というワードが出たし、選択肢を広げるためかな」
「ふふっ、さすがパーシー、話が早いわね。もちろんどちらもよ。まだ知識も経験も足りなくて自分がやりたいと思える職業は分からないのだけど、いつかそれに出会った時、授業を受けていないなんて理由で可能性が狭まるのはバカバカしいじゃない?」
「そうかもしれない。勉強を受け直す時間を無駄とは言わないけど、遠回りになるのはたしかだ」
「そうよね?」
「ああ。君はおっとりしてると思っていたけど、けっこう効率を重視するんだね。少し意外だった」
「あ、そうなの、ふふ。恥ずかしいわ。よくせっかちと言われちゃうの」
「せっかち?それとは少し異なるんじゃないかな。時間を有効活用出来るってことだよ。君の長所だ」
「まぁ…初めて言われたわ。ありがとう、パーシー」
今まで揶揄や批判、呆れを含んだ言われ方しかしたことがなく、シャルルも淑女の落ち着きや貴族らしい迂遠なやり方とは真逆の性質だと思っていたため、パーシーに褒められて、僅かに頬を赤らめた。頬に手を当てて俯きがちにシャルルははにかむ。
性急さは忍耐力の低さと言い換えることもできる。それを「時間を有効活用する」と素敵な表現に変えてもらったのは、少し、いやかなり嬉しいかもしれない。
パーシーとは交流もあるし、純血だから元々好きではあったけれど、シャルルは彼に対してそれ以上の好感を覚えた。
授業内容や課題の量などについて質問と雑談を重ねていた二人だったが、具体的なカリキュラムの組み方について尋ねると、彼は露骨に話を逸らしたがった。
「教授方が上手く調整してくださるから何も心配いらないよ、ウン。それよりもスネイプ教授を納得させる事を考えた方がいいだろうね。僕の時はマクゴナガル教授に難色を示されたから」
目が合わない。「ふぅん…?」何故急に何かを隠したがる態度になるのか疑問に思いつつも、それを深掘りせず尊重しようと感じられた。そしてやっぱり自分は秘密好きでも詮索好きでもないらしいことが、わかった。
日記が与えた自分への影響がどんな時でも頭によぎる。
授業で育てているマンドレイクは青年期に差し掛かり、パーティーを楽しみ始めている。そろそろ成熟して繁殖期に差し掛かるだろう。そうすれば、石になった生徒たちは元に戻る。
彼が与えた被害はなかったことになる。
学年が始まった頃マグル生まれが襲われたことに対してなんの感慨もなかったのに、今はどこか…他人事のように安堵する感傷もあった。バジリスクによる恐怖の後遺症や一年を無駄にした被害に献身的に寄り添うまでの気持ちはないけれど、死なかかったことに、彼らが魔法族として生き続けることに、肯定的な気持ちが芽生えていた。
これはリドルから逃れたことを自己肯定したくて生まれる感情なのだろうか。
リドルが残したものが全て消え去ればいいと思う反面、彼が残した何かや言われた何かを、ひとつでもいいから残してあげたいとも願っていた。
シャルルの様子はかなり快復していたが、時折寂しげに伏せられる睫毛や、痛みのよぎる横顔に友人たちは気付いていた。ぼうっと何かに想いを馳せる様子も。何かを追いかけるように視線を彷徨わせる時、必ず彼女は赤いローブを見ていた。ジニー・ウィーズリーを。
「彼女が原因なの?」
「え?何が?」
「あなたに暗い顔をさせるのは、あの赤毛の貧乏娘かって聞いてるのよ」
大広間を去っていく背中を威嚇するように睨みつけているパンジーの声が刺々しいのは、ジニーへの苛立ちのためだろう。ダフネは穏やかに気遣いつつ、パンジーを咎めない。
「ジニーは…関係がないわ」
「嘘よ。あなたが言いたくないならいいけどね。こっちで勝手に動くから」
「ちょっと、辞めてよ…」
「まぁ、今回ばかりはパンジーの気持ちも分かるわ。スリザリンに喧嘩を売ったなら高値で買わないと。それもシャルル相手になら尚更。そうでしょ?」
「ジニーじゃないわ」
シャルルは苦笑した。友人たちの心配から来る怒りは素直にありがたかったが、とばっちりを受けるジニーは憐れだ。
説明を求める眼差しを優雅にスルーして、紅茶を一口飲む。ゆっくりと嚥下して、答えにならないようなことを曖昧につぶやいた。
「わたしは本当は傷付く資格がないの。彼を裏切ったのはわたしなのだし…全部自業自得なのよ。それにもう、終わったことで、もうどうにもならないの」
彼?裏切り?
ダフネとパンジーは困惑にチラリと見合った。
たっぷりと考えたあと、ダフネは唇を舐め、躊躇いながら口を開いた。
「えーっと…もしかして、失恋…したの?」
「失恋?」
シャルルはキョトンと瞬きすると吹き出した。
「や、やだ、あはは!わたしと彼はそんなんじゃ…あははっ!いや、まあ、全然違うのだけど…そういうことでもいいわ。ふふ、わたしとリ…彼が…うふふふ」
しつこく喉の辺りで笑い続けるシャルルにパンジーの好奇心が爆発したように膨らんでいく。彼女の顔に失恋の痛みはないようだったが、「そういうことでもいい」は適当に誤魔化しているのとも違う。
パンジーは肩を掴んで激しく揺らした。
「ねえっ!ちょっと、そういう話だったの!?言いなさいよ!」
「違うって、ふふ」
「じゃあどういうことなのよ!?」
「彼って誰?」
「内緒よ」
「今だけはその秘密主義が憎らしいわ…!いつの間に恋なんかしてたのよ!?」
「彼に向けた感情は恋じゃないと思う…たぶん。そんなに純粋なものじゃないわ」
「もっとドロドロしてるってこと!?」
「それにウィーズリーが関わってるの?」
「彼女は関係ないって。わたしと彼の間には誰も入り込めないから」
そう、リドルとの交流はシャルルの頭の中にしかない。けれどもし誰かと偲ぶことができるとすれば、それはジニーしかいない。けれどジニーに打ち明けるつもりは一生なかった。
シャルルが何を言っても、パンジーを宥めることは出来そうになかった。ダフネまで気遣わしい表情を取り繕えずに、好奇心を若木のようなグリーンの瞳に乗せている。
この感傷は恋とはまったく異なるものだと思うけれど、失恋の痛みとして語られるのはなんだか面白かったし、笑うと少しスッキリする。
リドルはきっと嫌がるか、見下して笑うだろう。不愉快そうに顰められる眉や、嫌悪と軽蔑が混じった嘲笑に釣り上げられる唇が思い浮かぶ。
くすくすと吐息を零しながら、シャルルはパンジーとダフネの猛攻をはぐらかした。
彼に向ける感情は恋だったのだろうか?
シャルルの中には答えがない。恋をしたことがなかったから。
ただ、彼に抱いた感情のすべてが、初めて抱く強いものだったというだけだ。