南朝の先鋒を受け持ったギノクース伯爵は、ここまで慎重に軍を進めてきた。自身の先鋒だけで兵力は三万。北朝方の三倍の兵力がある。戦場は広大であり、兵力の差を存分に生かすことができる。となると、怖いのは奇襲だけ。
数は少ないとはいえ、この軍にも竜兵はいるので入念に偵察を行ったが、周辺に伏兵の気配はなかった。もっとも、南側だけはそれなりに大きな森があり、その中だけは伏兵の存在を否定できないということだった。
けれど、それならば南の森の様子を警戒させる部隊を置いておけばいいだけだ。予測ができている伏兵は、脅威度は高くはないのだから。
先のサガミールの丘での生き残りから話を聞いて、事前に北朝方が取ると思われる戦法の分析を行った。今回の戦場で気を付けねばならないのは、川と敵陣の中の平原だ。川にはスリーピングポーションを流される可能性があり、平原には硫黄が埋められている可能性があるというのがギノクースの見立てだった。
予想に反して川には何の仕掛けもなかった。けれど、予想外のことは起きた。それは北朝方の兵の持つ銃の威力が予想以上に高かったことだ。おかげで川を渡りきるまでに余計な出血を強いられてしまった。
そして続いての誤算も、やはり銃兵に関することだった。北朝方の銃兵は銃の先に刃物を取り付けて槍のようにして使ってきた。北朝方は槍兵の数が非常に少なかったので、接近さえしてしまえば圧倒できると考えていたが、その目論見が崩れた。
けれど、それは大勢に影響を与えるものではない。事前の予想より兵の損害が僅かに多く、時間も要することになったが、数を生かして川岸の陣を突破した。
その後の第二陣の攻略前には懸念していた硫黄を使った罠による損害を受けたが、それでも第二陣の攻略までの死傷者は一千五百人弱。すでに北朝側に防衛陣地は塹壕だけしか残っておらず、後は平原で押しつぶせばギノクースたちの勝利だ。
そう信じて先鋒が平原で待ち構える敵の銃撃を潜り抜け、接敵しようとした頃、唐突に先ほど渡り終えた川の方から轟音が聞こえてきた。振り返ると、後方に見える川が茶色の濁流に変わっていた。
兵たちが次々と流れに飲み込まれて姿を消していく。メイジたちはフライの呪文で逃れることができたようだが、平民の兵たちはひとたまりもないようだった。
ギノクースの率いる兵たちは三万と大軍だ。先頭は敵の第三陣に襲い掛かろうという頃であったが、全体としてはようやく中央が川を渡り切った頃だった。これは敵が地中に罠を仕掛けていることを想定し、一度に大きな被害を受けないように散兵的な運用をしていたことも影響していた。いずれにせよ、中央やや後方に現れた濁流は先軍の一万近い兵と後詰のニッダー伯爵の率いる三万を対岸に残し、ギノクースたちを北朝方に孤立させた。
「ギノクース様、北に突如として敵兵が出現いたしました」
急降下してきた竜兵に告げられ、ギノクースは急いで竜に飛び乗って上昇させた。見ると、確かに北から青の旗を掲げた一団が迫ってきていた。
けれど、それ以上に驚いたのは上流に巨大な堰が現れていたことだ。濁流は上流でその堰を切ったものによることは明らかだ。
「どういうことだ! 私はあのような物の存在の報告は受けていないぞ!」
「わかりません。私も直前まで堰の存在を確認できていませんでした。本当に急に現れたようにしか思えないのです」
思わず怒鳴ったギノクースに、竜兵は困惑しきった様子で言ってくる。確かに、この竜兵だけでなく複数名による偵察は行われている。そして、そのいずれからも堰の存在は報告されていない。
「水の魔法で霧などを作って隠蔽していたのか?」
「視認しにくい場所があれば、そのように報告しています」
「確かにそうか……いや、今は堰の存在を隠蔽していた方法を論じている場合ではないな。すぐに左翼側に私を降ろせ!」
背後の味方が濁流に押し流された。そして、北からは数は多くないものの新手が迫ってきている。そして、南朝方の将兵の動揺を逃さず、これまで迎撃の姿勢を取っていた北朝方の兵たちが逆襲に転じている。
このままでは南朝方が負ける。それを食い止めるためにはギノクースが直接、指揮を執るしかない。
「我らの策は成れり! この戦は我らの勝ちぞ! 皆の者、進め! 勝ちを逃すな!」
左翼側に降り立ったギノクースの耳にシャルロットの大音声が聞こえてくる。通常ではありえない声の響き方だ。何か特別な魔法かマジックアイテムを使ったのだろうか。
「いずれにしても厄介な!」
劣勢となったことは、南朝方の誰もが自覚している。そこに敵の総大将の勝ち名乗りが聞こえてくれば、動揺するなという方が無理というものだ。
「踏み留まれ! 水の流れなど、長くは続かぬ! 数は我らの方が多いのだ! しかと心を保って戦えば、ニッダー伯爵の軍が渡河して救援にきてくれよう! どの道、我らに逃げ道はないのだ!」
正確には今のところ南から敵は迫っていない。けれど、おそらく南は最も向かっては駄目な方角だ。
南の森は伏兵の可能性が考えられてきた場所だ。そして、その伏兵は当初のように存在が予測されたときと同じ危険度ではない。北と東から敵に押し込まれ、西の退路を断たれた状態での南からの敵の新手は、敗北を決定的にするのに十分すぎる。声を枯らし、ギノクースは北から迫る青の旗と東から押し込んでくる赤の旗の部隊との戦いを督戦する。
「川の水が引いてきているぞ!」
その甲斐があってか、なんとか敵の攻撃を防いでいる間に背後の川の水量が渡河前の状況に戻ってきていた。対岸から南朝方の兵たちが救援に向かってくる。傷を負っているこちら側の岸にいる兵たちが味方の中に逃げ込もうと川に飛び込んだ。
けれど、そこでギノクースは気付いた。北から攻撃してくる青の旗の部隊がけして水辺に近づこうとしないことに。
「まだだ! 第二派があるぞ! 川には近づくな!」
ギノクースが言い終わる前に再び轟音が川上から迫ってくる。濁流は慌てて川から離れようとする兵たちを飲み込み、姿を見えなくしていく。ようやく来ると思っていた援軍が目の前で消えていく姿を見て、南朝方の兵たちの顔に絶望が広がった。
もはやギノクースをもってしても、敵のいない唯一の方角である南側への敗走を止めることはできなかった。そして、予想していた通り、逃げようとした先の森から白い旗を掲げた兵たちが姿を現した。
「ここで踏みとどまれ! まだ我らは負けていないぞ!」
ギノクースがいくら声を枯らそうとも、三方向からの激しい銃撃から何とか逃れようと、まだ水量の多い川へと身を投じていく兵たちを止めることはできなかった。そして、多くの兵たちが、流れに身を飲まれて姿を消した。どんどんと数が減っていく味方を見た南朝方の兵たちの戦意は風前の灯火だ。
それに、もう一度、水が引いたところで、おそらく対岸の味方が川に入ってくることはないだろう。すでに逆転の目がないのは明らかだった。
「これより我らは敵総大将のシャルロットの陣に突撃を仕掛ける! ガリア王軍の意地を示さんとする者は我に続け!」
「応! ガリアの花壇騎士の意地! 叛徒どもに思い知らせてやりましょうぞ!」
ギノクースの呼びかけに応じたのは七十三名の貴族たち。一丸となって黄の旗を掲げる敵の本陣部隊に向けて突撃を開始する。
最初に受けたのは北朝方の銃兵による猛烈な銃撃だった。それは風と土のメイジによる防御魔法で受け止めた。大半はそれで受け止めることができたが、端にいたメイジ三人が足に銃弾を受けて脱落した。
負傷したメイジには悪いが、どうせ全員が死ぬことになるのだ。足を止めることなく前進を続け、敵中に踊り入った。雲霞のごとく攻め寄せてくる敵兵を、ギノクースはブレイドの魔法を纏わせた杖で切り伏せていく。
こちらは全員がメイジだ。雑兵どもに遅れはとらない。
けれど、無傷とはいかない。これまでの戦いで精神力を消費してしまった者も多い。そうした者から一人、また一人と倒れていき、気付くと五十六名まで減っていた。
「そこまでだ、ギノクース殿」
そして、そこに最悪な相手が精鋭部隊を率いて現れる。もっともギノクースたちは、ここまでに派手に暴れたのだ。これも無理ないことだ。
「いずれ手合わせしたいと思っていたのだ。カステルモール殿、いざ、尋常に勝負!」
自分が知る中でも最高に近いメイジに向けてギノクースは残る力を振り絞り、最後の突撃を開始した。