小学五年生の時、バスケットボールクラブにいた高倉は、同じクラブの学年が一つ下の女の子に初恋をする。
高倉は引っ越しでお別れした彼女と高校で再会したが、彼はバスケをやめていた。

そんな彼に忘れられた彼女がぐいぐい迫る話。


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先輩が初恋の女の子を思い出したら、後輩がデレました

 吹きぬける風が大地に活力を与え、草と木々の葉が擦れる音が響き、蝉時雨が伴奏をし、鳥たちが主旋律を奏でる。

 その日は、夏の暑い日だった。肌が焼けるような熱い陽射しが反射する体育館で、僕は今にも泣きそうな女の子と出会った。

 

 僕は地域のバスケクラブに所属していて、夏休みの間もクラブの練習のために通っていた。小学五年生の中では一番上手かったので、キャプテンを任されており、コーチから頼み事をされることがあった。

 その日、午後から始まる小学四年生の練習に人数が少ないので混じってもらえないかとコーチから頼まれた僕は、同じ学年のチームメイトが午前で帰る中、その頼みを受け入れた。

 二時間の練習の合間にある休憩時間。頭から水を被ってぐしゃぐしゃに濡れた僕は、小さな女の子と体育館の日陰に座っていた。

「あのさ、なんか、つまんないの?」

 想定外のカウンターパンチだった。動揺した様子を見せないよう、僕は努めて冷静に振る舞う。

「どうしてそう思ったの?」

「いやなんとなく。……顔は笑ってるんだけど、ホントは笑ってないなぁ、って思ったから」

 当時の僕はひねくれた小学生で、それを悟られないように周りが求める姿で振舞っていた。けれど、他人にそんな事を言われたのは初めてで、全部その通りだったから、それを言い当てたその子のことを知りたくなった。

「何でこのバスケクラブに入ったの?」

「……お兄ちゃんが入るって言ったから」

 練習が始まってからしばらく内容を見ていると、チームメイトの和に馴染めていない子がいることに気が付いた。

 バスケの練習に二人組になるものがあって、そこでもやっぱり一人だけあぶれてしまったその子は泣きそうになっていて、何か事情があるのか、この休憩の時に聞こうとしていた。

「お兄ちゃんがいるんだ。何年生?」

「双子」

 その女の子は他の場所で集まって休憩している少年たちの方に指を指した。

「えっと、赤い服を着た子?」

「うん」

 双子のお兄ちゃんらしい少年は、他の子供と楽しそうに話している。

「お兄ちゃんがバスケクラブに入ったから一緒に入ったんだね」

「うん」

「じゃあ、バスケは好き?」

「……漫画は好きだけど、実際やるのはあんまり」

 このクラブには女の子はほとんど居ない。小学四年生の中でも女の子はこの子しか居ないので、周りに溶け込めにくいんだろうと僕は思った。

「バスケは楽しいよ! 見てて」

 僕は転がっているボールを一つ取って、ボール捌きを見せる。

 ディフェンスの手前で、ドリブルチェンジしてかわすフロントチェンジ。相手ディフェンスが立ちはだかってきそうな時に反転して相手をかわすロールターン。股の間を通すドリブルをするレッグスルー。

 落ちてくるボールをそのまま続けてドリブルし、最後は下から跳躍し、ボールをバスケットの近くに置き、片手でバックボードからゴールめがけてレイアップシュートを決めて、見ていた女の子に聞いた。

「……どうだった?」

「……なんだ、楽しそうに笑えるじゃん。……でも、すごかった!」

 どこかませていて、でも泣きそうで、そんな顔が笑顔になっていて、そしてその顔がとても可愛かったから僕は照れてしまい、その女の子から顔を背けた。

 

 それから僕は毎回のようにひとつ下の学年の練習にも参加するようなった。人数は少ないままだったし、その女の子と話したかったからだ。

 その子は最初はあまり上手くなかったけど、楽しそうにプレーするようになって次第にチームの和に馴染めるようになると、メキメキ実力をつけてきた。

「たかくら君は将来バスケ選手になりたい?」

「うーん、バスケは好きだけど、バスケ選手になれるのはもっと上手くないとダメだと思う」

「たかくら君はバスケすごく上手いよ」

「ありがとう」

 その女の子とはいろんな話をした。喋っても話題は尽きなくて、時間を忘れるほど楽しかった。

「たかくら君と同じ学校だったら良かった。中学校も違うし……」

「高校は一緒になるかもしれないよ」

「ほんと? 一緒のとこがいい!」

 女の子は目を輝かせながら身を乗り出す。

「どこの高校行く?」

「たかくら君は?」

「美南高校かな。行けたらだけど」

「じゃあそこ。約束!」

 その女の子が小指を出してきたので、僕も小指を出して約束した。

「たかくら君はまんが読む?」

「読むよ」

「どんなの?」

「スラムダンクとかブラックジャック」

「ほんと!?  わたしもスラムダンク好きだよ」

 お眼鏡に適ったのか、彼女は顔を突き出して目を細めてそばに寄って来る。

「そうなんだ。一番好きな場面は?」

「『こぐれせんぱい』がスリーポイントを決めるシーン」

「へぇ~。ぼくもだよ」

 そうして彼女は目を輝かせて感慨深い名シーンの好きな部分を語りだした。僕はその子との会話しながら見守った。

 気付けば、休憩時間が終わりを告げていた。その子と一緒にいる時間が楽しくて、いいと思えたからかあっという間だった。そんなことを考えながら、僕は手を振ってその子と別れた。彼女も振り返してくれた。

 

 そして時が経ち、春になった。

 女の子は両親の仕事の都合で引っ越すことになった。もう会えないことを女の子に伝えると、嫌だと泣かれてしまったが、僕も会えなくなるのは嫌だった。

 

 女の子と会う最後の日。彼女はお母さんと一緒に僕の所まで来た。泣きながら。

「ほら、さおり、たかくら君にこれまで良くしてもらったんだから、最後に挨拶しなさい」

「……たかくら君、これまでありがとう」

「どういたしまして。バスケもすごい上達したね」

「それはたかくら君が教えてくれたから」

「本当にたかくら君、娘の面倒を見てもらってありがとうね。夏までは行きたくないって言ってて辞めようかって話をしてたんだけど、たかくら君のおかげで楽しくなったみたい」

「いえ、僕の方こそ、ことはちゃんといるのは楽しかったです。ありがとうね」

 そうして、手を振って彼女はお母さんと帰って行った。僕も悲しかったけど、恥ずかしいので泣くのは我慢した。 

 

 あの時は気付いてなかったが、あれが僕の初恋だったと思う。彼女と一緒に居るのは楽しくて、笑顔を見るのが好きだった。

 連絡先を聞いておけば良かったと後悔したことを覚えている。

 

 

 誰一人生徒の声が聴こえない、静寂の保たれた中庭にぽつんと建てられた趣のある別棟の一室に二人は居た。その中庭の真ん中に存在する別棟の一室に、周りの雰囲気とは合わない優雅な音楽が流れている。

 

「……ねえ先輩、何聴いているんですか?」

 大きな木製の机を挟んで向かい合う少女が、我慢しきれなくなったと言わんばかりに口を開く。

 まるでこの場所の『ヌシ』のような態度で振る舞っている少女、若宮沙織は古びているが丈夫な重い木製の椅子に、ちょこんと腰掛けていた。

「ショパンのエチュード イ短調 作品25-11」

 もう一人の外部から持ち込んできたと思われる、座り心地の良さそうな椅子に脱力して腰掛けている男、高倉秀平が返答した。

 淹れたての紅茶に息を掛けながら一口飲み、同じ調子で続ける。

「やはり、ピアノの音色が素晴らしいな。心の奥底まで響き渡ってくれる。紅茶との相性も抜群だ」

 いつもとは違う気取った台詞を口にする高倉に、若宮は呆れたような目線を向けつつ言った。

「……先輩。どうせにわかの癖に、クラシック通のような雰囲気を出してドヤ顔になるのは止めてください」

「なっ!?」

 高倉が狼狽えたように姿勢を崩す。若宮の罵倒は止まらない。

「クラシック音楽聴いてる俺かっこいい! とか思ってるじゃないんですか」

 高倉が早口になってきたところで若宮が手を叩いた。

「先輩」

 若宮が微笑んで高倉を見る。

「せっかくの紅茶が冷めちゃいますよ?」

「……おう」

 若宮の笑みに毒気を抜かれた高倉は、ゆっくりと飲む。喋って喉が乾いたのか、そのままの勢いですべてを飲み干した。

 

「それでそのCDプレーヤーはどうしたんですか?」

 若宮が昨日までは置かれていなかった、高そうなCDプレーヤーを指で指しながら聞いた。

「祖父が新しい物に買い換えるということで貰ったんだ」

「ふーん、そうなんですか」

 若宮は足をぶらぶらさせながら聞き流す。

「興味ない!? この部屋を快適に過ごせるようにしたくてね」

「ふふっ、まあそれも有ると思いますが。……本当のところは私に見せたかったんですよね」

「はっ!? 何訳のわからんことを……」

 高倉がまたしても動揺する。訝しんで横目で睨む若宮にお構いなく高倉は目を逸らせ気味になる。

「可愛い女の子に見せびらかして自慢したいんでしょ」

「んなわけあるか! クラシック音楽をここで聴きたかっただけだ!」

「せっかく可愛い後輩が遠路遥々訪ねて来たのにあんまりです!」

 彼女はいつしか高倉の隣に座っていた。『遠路遥々』の用法違うだろと彼は苦笑した。

「あっ……」

「なに?」

「先輩がクラシック音楽を聴いている理由がやっと分かりました」

 いたずらっぽく笑みを浮かべながら若宮は顔を近づける。

「いや、それは元からの趣味で聴いていたからで」

「そういえばその曲、君嘘で使われていましたよね」

「ぐっ……!」

「君嘘を録画して見たらハマって、クラシック音楽を聴いているんでしょ。先輩♪」

「い、いや! それもあるけど……」

「君嘘でもかかりますよね、その曲」

「……ど、どうして、それを?」

「ふふっ、先輩のことなら全てお見通しです!」

 若宮が悪魔的な魅力を放つ笑みを浮かべる。高倉は思わず、彼女から目を逸らした。

 

 6月中旬の晴れの日。この部室のエアコンが除湿モードということもあって、そこまで不愉快ではない。

 至る所で埃の舞う部室で、唯一綺麗なこの部屋のドアに腐りかけの木の看板が打ち付けられている。赤と黒の文字でお洒落に装飾された看板にはクラシック部と書かれていた。

「で、先輩。クラシック部のことなんですが」

「あ、はい……」 

 高倉が姿勢を正して、椅子に座り直す。

「私が入部してからもう二ヶ月が経つんですけど、私と先輩しかこの部室に来ませんよね。先輩の話では、アットホームな雰囲気で楽しいよ、という話でしたが」

「そ、そうだっけ……」

「それに、女の子もいるから安心だよって言っていましたよね」

「言ったような気も……。てか、若宮だって幽霊部員みたいなものじゃないか」

「私は他に部活入っていますし。それでもいいって条件で入部したわけですし」

 若宮は自分のことは棚に上げるように無い胸を反らしてドヤ顔をするが、急に若宮は鋭い目付きで高倉を見る。

「……先輩」

 疑わしいという様子を見せる若宮に高倉の身体が少し震えた。

「もしかして、他に部員は存在してないんじゃないですか?」 

 固まる高倉に対面しながら、若宮は唇を湿らせる。

「まあ、いないってことは無いですよね。最低でも5人は必要だし」

「そうそう!」

「でも存在してないのと殆ど同じじゃないですか。名義を貸してもらってたなんて」

「な、何のことだか……」

「ふふふ、私、顧問の先生にちゃんと確認したんです。部員の名前を教えてもらって、その人のところに聞きに行きました。何故部活に来ないのかと」

「……ごめん! 入部前に言ってたことは嘘でした。 本当にごめん!」

「それは先輩の事情であって、私とは関係無いですよね」

「うん……、ごめん。……知らなかったら入って無かったよね」

「いいえ、先輩。別に怒ってもいないし、辞める気もありません。ただ」

 若宮はそこで一旦言葉を切って、椅子から立ち上がる。制服のスカートが一瞬ひらひらと舞って落ちた。

「……最初からそういうことは言ってくれたら良かったのに」

「え?」

「先輩、他に誰もここに人が来ないのなら」

 若宮が恥ずかしげに言う。

「この部室で、えっちなことができますね」

 高倉は自分の聞き間違えかと疑った。

「え、えっちなことって……!?」

 若宮は笑って答えない。高倉は彼女の仕草に到底普通の高校生では醸し出すことの出来ないはずの大人の女の妖艶さを感じた。

「怒っていないと言っても、嘘を付くのは悪いことです」

「……反省します」

「ですので、そんな悪い先輩には罰を与えます。私の肩を揉んでください」

「肩? 別にいい、けど……」

 立っていた若宮が高倉の方に向かって歩くが、ドアが開く音がそれを阻む。ドアから現れたのは茶髪の軽薄そうな男だった。

 

「おお、ここが部室っすか。廊下とかボロボロだったんで心配したけど、この部屋は綺麗っすね」

「おい、部外者は出ていけ」

 高倉はその男に命令口調で言った。

「そりゃ無いっすよ部長さん。俺もクラシック部の部員なんですから」

「唐橋、お前今まで来なかっただろうが」

「急にやる気が出たんすよ」

 軽い口調で唐橋が言う。彼は部活の存続のために名義をクラシック部に登録していただけで、一度もクラシック部の活動はしたことがない幽霊部員だ。

「何が目的だ?」

 高倉は唐橋に警戒しながら問う。彼は所謂イケメンで、常に女子生徒を侍らして行動しているが、性格が最悪だという噂がある。

「それは、可愛い女子がこの部活に入ると聞いたからっすよ」

「若宮のことか」

「イエス!! 今日の昼休みぶりすね、沙織ちゃん」

「そうですね唐橋先輩」

「オウ! 俺のことは昭汰と呼んでくれ!」

「それはもっと仲良くなってからお願いします」

 若宮は微笑みながら底冷えするような冷たい目つきで答えた。

「そのガードの固さも素晴らしい! 流石!」

 若宮は昼休みに何時まで経っても姿を見せないクラシック部の部員を訪ねた。その時に唐橋と会ったのだろうと高倉は推測する。

「部長さんもさ、バスケ辞めてこんなこと……」

「いまさらか。てか、どんな理由でも別に俺の勝手だろ」

 無理して息を吸い込んだ喉の奥がなる。言い返そうとしたがぐっとこらえた。若宮も心配そうな顔でこちらを見ている。

「……どうせ本気でなんかしたことねぇだろ」

 唐橋が吐き捨てる。彼に食って掛かろうとする若宮を制止しながら、高倉は携帯電話を取り出し、何処かへ電話を繋げた。

 

『……もしもし』

『あ、平野先輩。不審者が現れたのですぐに来てください』

『不審者?』

『唐橋です。唐橋昭汰』

『すぐ行く』

 

「あの~先輩、誰に電話したんですか?」

「唐橋の天敵さ」

 若宮の疑問に、唐橋は急に汗をかいて、そわそわと動き始める。

「じゃ、じゃあ俺、今日はもう帰るので、また明日」

 そそくさと立ち去った唐橋と入れ替わりに、駆け足の音が聞こえてくる。

「ああっ!一足遅かったわ! まんまと逃げやがって」

 バスケの練習着を着た女子が部室のドアを乱暴に開ける。その女子を視界に捉えた若宮はバツの悪い表情をする。

「……平野部長」

「若宮、やっぱりここにいた。もうすぐ部活、始まるよ」

「すみません! すぐ行きます。先輩、先程はすみませんでした」

 若宮がしおらしくお辞儀をすると、彼女もそそくさと廊下に出て行った。

「迷惑かけたわね、高倉君」

「いえいえ。平野先輩もほどほどにしてくださいね」

「じゃあね」

 平野はドアを閉めて去っていった。高倉は疑問に思っていたことがある。どうして若宮が廃部寸前の部活の部員になったのかということだ。

 若宮沙織。入学してからまだ二ヶ月の新入生で、大きな目に整った顔立ち、艶のあるショートの黒髪と庇護欲を掻き立てるような若干のあどけなさを残す容姿で、学年の中でもトップクラスの人気を誇る美少女だ。加えて、透明感のある肌に頬の桜色と唇の赤色が映える笑みで、男子からも女子からも魅力的に見える。女子バスケ部に入っていて、次期エース候補と目されている。

 それに対して高倉はクラシック部の部長であるが、クラスメイトとは距離を取っているので、一人でいることが多い。それを若宮はぼっちとからかう時がある。

 そんな若宮が高倉の勧誘によりクラシック部に入ったのはなぜなのか、実の所、彼自身よく分からなかった。

 いつしか音楽も止まっていた。CDを入れ替えて別の曲を流し始める。ピアノの演奏が響き始める。やがて、美しいメロディが部屋の雰囲気を変えた。

 

 

 昼休みを告げるチャイムが鳴るのと同時に高倉は体育館へと向かった。この時間の日差しは焼け付くほどきつい。いい感じに広がる日陰スペースの片隅に陣取って、昼食を取る。

 彼は普段体育館へは来ないが、今日来たのは訳がある。若宮から「1on1しましょう」と強引に誘われて、押し切られたからだ。

 ちなみにバスケでの『1on1』とは、ディフェンスとオフェンスが一対一でボールを奪い合うことを指す。

「遅いですよ先輩」

「若宮が早過ぎるんだ」

 若宮はバスケットボールを持ちながら待っていた。

「手加減はなしですよ。私も本気で行きますから」

「分かってるよ」

 高倉は腕を下ろし、渡されたボールを地面に弾ませてみる。バスケ用にコートラインが引かれてるくらいだから、弾み方は悪くない。吸い付くようにボールが掌に戻る感覚に、暑過ぎる体育館に篭ったあの熱気も蘇っていた。

 若宮が高倉にボールを渡すことで試合開始。同時に右手でボールをつき始める高倉。二人の距離は十分にある。

 高倉は一定のリズムを刻むようにドリブルを続ける。バウンドして彼の手まで戻ってくるまでのインターバル。若宮は最高のタイミングを見計らって鋭いスティール。加速する若宮の右手は風を切り、眼前のボールを奪おうと伸びていた。

 しかし、若宮の手は虚空を切り裂く。ボールを奪おうとした瞬間、高倉の手がそれよりも早くボールを奪い、予測していた通過点からずらされた軌道。

 いつしか、高倉はレイアップでリングネットを揺らしていた。ヤブキリの音がコートに響き渡る。野次馬も驚いた表情で見つめている。

「やっぱり強いですね。はいもう1回」

「まだやるの?」

「当然です!」

 悔しがったものの彼女の表情は生き生きとしていた。

 今度は若宮がゴールネットを目指しゆっくりとドリブルで進み始めた。若宮はボールを突きながら、高倉と適度な距離を保ち、タイミングを伺っていたが、やがて目を光らせる。

 次の瞬間、若宮は素早く距離を詰め、高倉の左脇を抜けようとしたが、ガードする高倉の前で若宮は、右脇を抜こうとした足を止め、高倉の左サイドに視線を流しつつ、上半身を捻りかけた。

 その時高倉は、若宮の睫毛が影を落とした美しい流し目に、一瞬見惚れてしまう。彼女はその一瞬の隙を見逃さなかった。腰を落として、右脇をすり抜けるべく、加速する。

(……抜かれる!)

 高倉は、無意識に若宮の肩を掴んでしまい、若宮と一緒に床に倒れていた。咄嗟に、彼女の頭の両側に手を突いて突っ張り、潰してしまうのを防ぐ。

「ごめん……大丈夫!?」

 上から、若宮の顔を覗き込んだ。若宮が手を振ってみせたので、安堵した。

「それより先輩、今手加減しましたよね?」

「……いや」

 まさか見惚れていたとも言えないでいると、若宮が続ける。

「今度手加減したら絶交です。試合ではもっと強いチャージも受けているから、気にしなくていいですよ」

 若宮のその一言に、高倉は腰を落とし、彼女と向き合う。

 高倉はすぐさまボールを奪い返そうとカットに入る。若宮はそれを軽い身のこなしでフェイントを掛けてあっさりとすり抜ける。後ろから追ってくる彼をものともせずにコート内いっぱい使ってあしらいながら、手足のように自在にボールを操り、鮮やかにシュートを決めた。

 気が付くと周りが歓声とどよめきに包まれていた。そして彼はかつて感じた高揚感と熱気を、少しだけ懐かしく思った。

 結局、高倉は2回勝ったもののトータルでは若宮に圧倒された。ゲーム終了後にはモップ掛けも忘れない。その時横目で見た彼女の笑みに、高倉は惹きつけられた。

 

 

「……先輩」

「ん?」

 帰り道、若宮は唐突に言った。静かな雨音だけが聞こえる。

「バスケ辞めたんですね」

 あまりにも前触れがなかったからか、高倉は一瞬固まった。

「……誰かから聞いた?」

「いえ、聞いてません」

「じゃあ、どうして……?」

「私と先輩が再会してもう二ヶ月も経つのに、まだ気付かないんですか」

「え」

 若宮は泣きそうな顔をする。

「それとも、もう覚えてはいませんか?」

 高倉はその泣きそうな顔に、ある女の子を思い浮かべた。夏の日に出会った、今にも泣き出しそうな小さな女の子を。

「……若宮、……もしかして、さおりちゃん?」

「そうですよ高倉君」

 若宮は立ち上がって慈愛の表情を浮かべながら、高倉に駆け寄り抱きついた。

「お、おい若宮」

 若宮は言葉を返さない。高倉は首を捻って若宮を見ると、涙が頬を流れるのが見えた。

「……若宮、少し苦しいかな」

「若宮じゃありません」

 若宮はむくれ顔で高倉を見つめる。改めて彼女を見ると、瞳に瞬いていた光は深さを帯びて、引力に吸い寄せられるようだ。

「えっと、沙織、ちゃん?」

「沙織でいいですよ」

「沙織、少し腕の力を緩めてくれる?」

「分かりました」

 高倉も立ち上がって、若宮の背中に手を回した。くらくらしそうなほど甘い匂いに、心臓が痛いくらい鼓動する音。

「もう忘れられたのかと思いました」

「全然、忘れてないよ」

「じゃあどうして、気付かなかったんですか」

「……もう会えないと思ってたから」

 何かを思い出したように目を丸めていた。

「約束、したじゃないですか。同じ高校に入るって」

「……そんなこと言っていたっけ」

 思わず小さな声で呟いた。その声は風に飛ばされ、若宮には聞こえずに済んだ……わけはなかった。

「忘れてたんですか?」

「……ごめん」

「私は忘れずに入りましたよ!」

「ご、ごめん。だから、首の皮を捻るのはやめて」

「ふん。高倉君が悪いんです」

 抱きしめ合った手は解けない。お互いの熱が制服を通して伝わる。ちょっとだけあったかくて、くすぐったい。

「……その言い方」

「……先輩の方がいいですか」

「いや、昔の呼び方の方がなんかいい」

「私のことも沙織って、これからは呼んでください」

「ああ、分かったよ。沙織」

「……高倉君。私でよければ、甘えてもいいんですよ」

「あ、あのなぁ。……でも、こうしてるのってなんか、いいな」

 膝に頭を預けたまま高倉が上を向く。視線を落としていた若宮と真っ直ぐ目が合うと、ふっと腕が伸ばされた。

 肩からさらりと零れた髪をくぐらせ、高倉の手のひらが若宮の頬を優しく包む。その指が耳に触れ、首筋をなぞって後ろに沿わされた。

「それにさ、沙織がこんなにも可愛くなっているとは思わなかったんだ」

「えっ!」

 若宮は震えて手を解こうとするが、高倉は逃さなかった。

「ちょ、ちょっと熱くなってきたんで、離してください」

「ほんとだ。顔が紅くなってる」

「先輩のせいです!」

 若宮はむくれた顔を背ける。高倉は微笑んで、そっとその顔を覗き込んだ。

「どうせ、先輩は私の身体の感触を味わってるんでしょ! 先輩のえっち! スケベ!」

「いや、そりゃ少しはそうだけど! って、最初に抱きついてきたのは沙織だろ!」

「私じゃありません! 先輩です!」

「ええ! というか先輩って……」

「えっちな先輩は先輩で良いんです。もう! 熱いから離してください!」

「分かったから」

 ようやく解放した高倉は改めて若宮を見た。さおりちゃんは小さな女の子と思っていた高倉だったが、若宮は女子の平均身長くらいはあった。小さいと思っていたのは一つ歳が離れていたからだろう。

 大きな目に整った顔立ちの美少女だ。昔はショートだった髪の毛も少しは長くなっている。こんなにも可愛かったんだ、と高倉は思った。

 お互い紅くなった顔を見て沈黙は続く。いつしか雨も上がっていた。

 

「このまま帰る?」

「はい」

 若宮は高倉の側に近づく。そして、笑みを浮かべて言った。

「あ、一緒に帰ると言っても、私の家はまだ入っちゃダメですからね! 今日はそんな準備はしてないので。あ、高倉君の家に行くのは別に良いですけど、えっちはまだ早いですよ!」

「いや、何の話?」

 若宮が高倉に向き合って、背を伸ばす。彼女の顔が高倉に急接近して、お互いの唇が一瞬触れた。

「! 今のってキス」

「先輩。早く来ないと置いてっちゃいますよー!」

 若宮は満面の笑みで言った。そして、外へ駆けていく。

「……初恋の女の子がえっちな後輩になった」

 高倉が呟く。暑さを呼ぶ蝉の声が聞こえ始めたら、夏はすぐそこだ。アツアツの二人ももっと熱くなる予感を感じさせた。

 

――――――――

 

 私は転校して高倉君と別れた。

 そして、バスケを続けた。いつしかメキメキと実力をつけて、中学三年の時には県でも注目される存在になっていた。バスケの特待生スカウトが来た高校もあった。

 そんな時に親の転勤で戻ることになった。その結果、スカウトは断ることになってしまったが、美南高校に行けるチャンスが再び生まれる。

 親は単身赴任になったが、私は中学卒業まではその学校に在籍することとなった。勉強が苦手な私は一生懸命勉強して、念願の美南高校に入った。

 

 ……居るかな、高倉君。

 私は行き交う生徒を目で追って探す。

 

 約束はしたけれど、もう何年も前のことだし口約束だから、覚えていないかもしれない。見つかるまで時間もかかるかもしれない。

 でも高倉君が美南高校に在学しているのは、再会した彼のご両親から確認済みだ。

 

 会いたい。ずっと会いたかった。

 この日のために化粧も頑張って覚えた。

 可愛いって言って貰えるかな。可愛くなったねって言って貰えるかな。

 

 勉強も頑張った。

 そんなに賢くない私にとって、美南高校はなかなか難しいところだった。

 

 やっと、会える。私の好きな人。初恋の人。

 

 居た! 高倉君だ!

 

 見た目で私はすぐに判った。

 伸びた背丈に凛々しい顔つき。華のある容姿ではないけれど、全体的に整っている。

 格好いい。

 高倉君は格好良くなっていた。髪の毛を整えたらもっと格好良くなるだろう。

 良かった、高倉君は約束を守ってくれたんだ。

 

 高倉君はどうやら人を探しているみたいだった。

 え! もしかして私のことを探してる!?

 

 私は意を決して話しかけようとしたが、先に高倉君に声を掛けられた。

 

「あの、新入生? 良かったらクラシック部に入らない?」

「いや、私は……」

「アットホームな雰囲気で楽しいし、女の子もいるよ」

 

 私は困惑した。でも、きっと高倉君が忘れているだけで、もう少しあの頃の話をすれば思い出すかもしれない。

 そう思って私は記憶を辿るように話し出したけど、そんな私を見て高倉君は戸惑ったようにこう言った。

 

「……覚えてないや」

 

 これまで積み重ねてきたものが崩れ去るような錯覚に襲われた。

 何より彼の言葉は的を射ていた。そして理解した。

 

 私は忘れられていた。

 

 ……そりゃそうだ。もう何年も前のことだもん。

 私にとっては高倉君と一緒にバスケしたことはとても大事な思い出だけど、彼からしたら妹と居るような感覚だったのかもしれない。

 

 その日話したことはほとんど記憶にない。

 女子バスケ部と兼部でクラシック部に入ったのは覚えているけど、高倉君に覚えられてなかったというショックですすり泣きした。

 これが失恋か、と思った。

 

 ただ一つ疑問に思ったのは、なぜ高倉君がクラシック部にいるのかということだった。

 てっきりバスケ部に入っていると思ったからだ。

 バスケを辞めた? それとも学校では無くて、違うクラブチームでバスケをしている?

 

 次の日からバスケ部が始まるまでのわずかな時間だけど、クラシック部の部室で高倉君と過ごすことになった。

 高倉君、と呼びたいけれど恥ずかしいし、覚えられてないのに言うのはおかしい。

 でも、昔のように高倉君と呼んだら、私のことを思い出してくれるかもしれない。

 呼びたいけど……、その勇気は出なかった。そもそも私の名前を聞いたはずなのに高倉君は思い出してくれなかったし……。

 ……若宮としか言わなかったけど、若宮沙織ってフルネームで言った方が良いかな!?

 あなたに沙織ちゃんって呼ばれてたんだよって。

 

 クラシック部の部室はもう今は使われていない中庭の校舎にあった。

 部員は他に居るけれど来ていないようだった。

 なので部室には私と高倉君の二人きりだ。そう、二人きり!

 

「やはり、ピアノの音色が素晴らしいな。心の奥底まで響き渡ってくれる。紅茶との相性も抜群だ」

 久しぶりに話すのはとても楽しかった。高倉君ドヤ顔気味だったけどっ!

「……先輩。どうせにわかの癖に、クラシック通のような雰囲気を出してドヤ顔になるのは止めてください」

 高倉君が優しいのでつい調子に乗ってしまった。紅茶を勧めることでなんとか誤魔化せた、かな。

 でも忘れた方が悪いんだもん。高倉君のばか!

 

 高倉君は二人で話す分にはあまり変わってないように見えるけど、どうやら普段の生活では一人で過ごしているようだ。

 他の先輩に聞いたが、もうバスケは辞めていて、あんまり人と関わらないようにしているらしい。

 どうしたんだろうと思うけど、なかなか聞けなかった。

 

 二ヶ月が経って、私は高倉君に小学生のときのことを言うことに決めた。

 いつまでもうじうじしてたってしょうがない。

 本当に忘れられていたなら、思い出させてやる。

 深呼吸。よし、落ち着いた。まずはバスケのことを聞こう。

 

「……どうせ本気でなんかしたことねぇだろ」

 ある日、名前も知らない自称幽霊部員が何か言っていたけど、その一言しか覚えてない。

 高倉君、とても、辛そうだった。

 一瞬眉をしかめた顔をした彼を見た私はつい熱くなって、高倉君に迷惑をかけてしまったのは反省。

 

 そして、高倉君を1on1に誘ってみた。断られるかと思ったけど、了承してくれた。

 バスケへの情熱は失っていなかったって感じられて、思わず安堵した。

 ……やっぱりうまいよ、高倉君。何年か離れていても感嘆とさせてくれる。

 これで私の闘志に火が付いた。でも、よろけてしまう。私の肩を掴んだ高倉君も、一緒に倒れてしまう。

「……痛っ」

「ごめん……大丈夫!?」

 高倉君は私を潰さないよう、咄嗟に頭の両脇に手を突いて突っ張り、私の顔を覗き込んでいた。珍しく慌てた表情だ。

 本当は少し痛かったけど、私は高倉君を安心させるべく、両手を振ってみせた。

そして私は、照れ隠しにこう言ってしまう。

「それより先輩、今手加減しましたよね?」

 高倉君は一瞬戸惑ったけれど、安堵したように、ため息をついた。

 

 帰り道、バスケをやめた話を振るが、少し、いやだいぶかな、苦々しい表情になる。そして、私はさらに一歩、踏み込む。

「私と先輩が再会してもう二ヶ月も経つのに、まだ気付かないんですか」

「え」

 先輩は戸惑っているようだ。私の心は沈む。

「それとも、もう覚えてはいませんか?」

「……もしかして、さおりちゃん?」

「そうですよ高倉君」

 私のことをちゃんと覚えてくれてたんだ。嬉しい!

 思わず涙が出てきちゃって、抱きついて誤魔化した。

「お、おい若宮」

 高倉君は戸惑っている感じだけど、その事よりも、私のことを覚えていたことが分かって嬉しかった。

 本当に、本当にすごく嬉しかった!

 

 これが、好きな人の香り。

 もう離さない! と私は思った。頭が真っ白になるくらい何も考えられなくなった。

 

 我慢出来なくてキスをした。

 えっと、これって大丈夫?

「先輩。早く来ないと置いてっちゃいますよー!!」

 恥ずかしくて高倉君から逃げる。……あ、また、『先輩』って言っちゃった。

 私から追いかけてこの高校まで来たんだから、今度は高倉君から追いかける番だ。

 ……バスケの事とか、まだ気になることはあるけど、とりあえず、私はやっと初恋の人と再会した。

 

 もう離さないからね、高倉先輩、いや、高倉君!




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