男にとって〝海賊〟とは自由の象徴だった。
何を行うにしても咎められない〝ならず者〟たちに子供の頃からずっと憧れた。
遊ぶ暇があれば勉強しろと強要する両親。
自らの懐を肥やす為に政治を行う国のお偉方。
生きているだけで罪だと言わんばかりに天上金を毟り取る世界政府。
全てを縛られて生きてきた男にとって、それは何にも勝る甘美な誘い文句だった。
男は海へ飛び出した。
冒険心が有った訳でも、壮大な夢が有った訳でもない。雁字搦めにされた自分を解き放ちたい一心で海賊に身をやつした。
複数の海賊船を渡り歩き、最終的に落ち着いたのは百獣海賊団だった。
大した取り柄のない男が一万人集まったところで絶対に敵わない強者〝百獣のカイドウ〟が率いる新進気鋭の海賊団だ。
そのおこぼれに預かるように、立ち寄った港町で幾度も略奪を繰り返した。金を奪い、女を押し倒して、町に火を付けた。
男は馬鹿だった。そして残虐だった。
お気楽な仲間たちと一緒に大海原を旅する中で罪悪感に苛まれることなど一度たりともなかった。
『ムハハハハッ、何をしてもオロチが許してくれるんだ。オメェら、好きなだけワノ国で暴れてこい!』
『ウォォオッ! クイーン様、最高!』
一年と半年前、百獣海賊団はワノ国の八割を占領した。黒炭オロチとかいう男の後ろ盾になる形で。
男は政治などわからない。光月と黒炭の確執もうろ覚え。それでも喜んだ。どんな犯罪に手を染めても捕まらないなんて、それはどんな極楽浄土だと思ったからだ。
逆らう侍を痛め付けた。
ヤクザ者を遊び半分で火祭りにした。
眉目秀麗な人妻を犯して、それを止めようと暴れる男を殺して、夫の遺体を見て泣き叫ぶ女を壊して、百獣海賊団の面々は狂った様に嗤っていた。
それは悪鬼だ。まさしく悪魔だ。
でも嘘はつけない。
男は楽しかった。
〝神〟になったとさえ思った。
『カイドウ様が光月おでんにやられちまった!』
『嘘だろ、あのカイドウ様が負けちまうなんて有り得ねェ!』
『本当だって! キング様とクイーン様もその家臣たちに負けて捕まっちまったらしい。侍共が鬼ヶ島にも攻めてくる。今すぐ逃げねぇと!』
全能感を得られた時間はある日突然に終わりを告げた。
百獣のカイドウは光月おでんに敗れ、一騎当千の幹部たちは〝赤鞘〟と呼ばれる家臣たちに倒された。
百獣海賊団の残存戦力は、覇気は使えず能力者でもない弱者のみ。
全国に蔓延る屈強な侍とヤクザ者だけでも過剰戦力だと言うのに、ワノ国の沖合にはロジャー海賊団もいるという。
どうしようもない絶望に苛まれながらも、男は鬼ヶ島からそそくさと逃げ出した。特に仲の良かった連中と密かに船を出す。運良く見付からずに兎丼の海岸にまで辿り着いた。
そこまでは順調だった。
『カイドウの部下たちだ!』
『捕まえろ! 痛め付けろ!』
『殺すなんて勿体ねぇ! ゆっくりと苦しめるんだ! コイツらが俺たちにした事を心の底から後悔するまでな!』
日夜関係なく追われる生活。
ワノ国の民が瞳に宿す憤怒は筆舌にし難く。言葉に込められた報復心は全てを燃やし尽くしてしまいそうだった。
男は一睡も出来ずに震えていた。
因果応報。自業自得。身から出た錆。
一年と半年の間、男たちの楽しんだ悪行がこの身に返ってくるだけだ。不幸を嘆くなど許されないのに男は己の境遇を悲嘆した。
味方はおらず、現時点だとワノ国を出る手段も無い。この命が果てるまで生死を賭けた鬼ごっこに興じるしかなかった。
一人、また一人と仲間が捕まっていく。
次は自分か。それとも違う誰かか。
鬼ヶ島を抜け出した時は十人以上存在した仲間たちも、兎丼と希美を繋ぐ大橋を渡った時には三人にまで減っていた。
苦しかった。辛かった。
いつ捕まるのかと怯えながら逃亡する日々の中で、男は過去に行った悪鬼の如き所業をひどく後悔した。
もしも過去に戻れるなら真人間になる。遊び半分で人を殺さないから。女性を暴行して嗤わないから。
だから許してほしい。
そんな自分に甘過ぎる願望を抱きながら希美を歩き続けた。
一週間も経たずに仲間を失い、一人で洞窟に隠れ住んでいたある日、随分と久し振りな雰囲気を醸し出す百獣海賊団の残党と出会った。
『……オレはもう、駄目だ。どうかヤマト様を守ってくれ。お前に託す……ッ』
最初は拒否した。
一人で逃げるだけでも精一杯なのに、歩けない幼児を抱えて逃亡するなんて自殺行為だ。
移動速度が落ちる。泣かれるだけでバレる可能性が高まる。数少ない食料も分け与えないといけない。それらを考えるだけで絶望感が増した。
幼児を連れた仲間は満足そうに微笑んで絶命した。
已む無く世話することになった男は、己の不運を激しく呪った。
何度幼児を捨てようと思ったことだろう。
何度幼児へ渡す食べ物を渋ったことだろう。
そんな男の心情など気にも留めず、ヤマトは暢気に食べて、笑って、眠った。
そんな幼児の光景に絆されてしまうまで、多くの時間は必要なかった。
ヤマトの世話をする度に、荒んだ心に艶やかな彩りが戻り、黒く塗り潰された絶望の未来に一筋の希望が差し込んだ。
この子を守るだけで、己の犯した悪鬼のような所業が少しでも許されるような気がした。
『いたぞ、カイドウの部下だ!』
『子供を抱えてるじゃないか。馬鹿な奴だね!』
鈴後に逃げ込む直前、郷境を警備する侍に発見された。
男が逃げ出そうとする前に、彼らは機敏に動いて獲物を取り囲んだ。
『俺は抵抗しない。全部、俺が受けるから。だから、どうかこの子には暴行しないでくれ!』
『甘えたこと言ってんじゃないよッ! アンタたちは私の子供を殺したじゃないか! まだ二歳だったあの子を!!』
『俺の嫁を壊しておいて、今更そんな甘い言葉が通用するとでも思ってんのか?』
『お前ら言ってたよな? 強いことこそ正義だって。弱いことが悪いんだって。そう言って、俺たちの大事な人たちを笑いながら殺したよな?』
何も言い返せなかった。
その台詞を吐いた記憶が男には有るからだ。
過去の自分を呪い殺したいほどに恨みながらも男はヤマトに覆い被さった。
鉄の棒が背中を叩き付ける。肺を強打されて息が詰まる。
四肢に走る激痛。確認してみると両手足の腱を断ち切られていた。これで逃げ出せなくなった。
地面に吸われる血を眺めながら、男はまるで他人事のように笑った。自分の命を完全に諦めた。
やめてくれと言わない。
許してくれと懇願しない。
ただ譫言のように繰り返す。
『この子は関係ない。俺たちの罪と無関係だ。見逃してくれ。どうか傷付けないでくれ』
それがどんなに都合の良い台詞なのか理解している。
命乞いするワノ国の女子供を何百人、何千人と殺してきた男が口にしていい権利などない台詞だともわかっている。
暴力は止まない。
痛覚が麻痺してくる。
流れる血の量に比例して瞼が重くなった。
これが自由を求めた馬鹿の末路か。誰にも縛られたくないから海賊になり、自由を奪われる苦痛を知りながらも他者の意志を押さえ付けて捻じ曲げた。
そんな人間の願いなど叶うはず無いのに。
たとえヤマトを救えたところで男の罪が軽くなる訳でもないのに。
身体は幼児から離れようとしなかった。死んで楽になればいいのにと訴える〝馬鹿〟を脳内で殴り飛ばして、男は唇を噛み締めて生にしがみ付いた。
「貴様はもうすぐ死ぬ。何か言い遺すことはあるか?」
目だけを動かして確認する。
人間離れした美貌の男が立っていた。
遠くから犬神だとか、犬の妖怪とか聞こえる。
「……ない。でも、頼みたいことが、あります」
「聞こう。話せ」
「ヤマト様をどうか、どうかよろしく頼みます。この子は、この方は……俺たちの罪と無関係、だから。だから保護して、欲しい。どうか守って、くださいーー」
犬神は鷹揚に頷いた。
「その幼児は私が世話してやる。その〝強さ〟を誇りながら安心して逝くといい」
男が殺害した人間の数は三桁を遥かに超える。
真面目に働く人間から金銭と尊厳を奪い、平和に暮らす家族を粉々に破壊して、多くの人々を不幸のドン底に叩き込んできた。
そんな男が最期に誰かの命を救えたのだ。
海賊にならなければ、百獣海賊団に加わらなければもっと多くの人間を救えたかもしれない。
ーーいや、俺はそんな上等な人間じゃないか。
都合の良い妄想だと自分を嘲笑いながら、男は静かに息を引き取った。
「犬神は断ったか」
「もしも手を出せば我々を皆殺しにすると。お蝶は親分衆の新入り。あっしが代わりに説得してきやしょうか?」
「よせ。これ以上は不粋だ。カイドウの娘は犬神に任せるしかねェ」
復興の進む花の都で、五つの郷の親分衆を纏め上げるヤクザの大親分は肩を竦める。熱いお茶を啜り、一息吐いた。
「おれに任せて欲しかったんだがな」
「民にバレちまった時、面倒な事になりやすね」
「おめェはどうなると思う?」
民衆に優しく力と人望を兼ね備えた侠客『花のヒョウ五郎』は、対面に座る白舞の親分『綱ゴロー』へ鋭い視線を向ける。
綱ゴローは眉間に皺を寄せて答えた。
「また暴動が起きちまうかと思いやすが」
「それだけで済めばいいがな」
「親分は違うとお考えで?」
「前回は運が良かっただけだ。おでんが現場に間に合ったから死者こそ出なかったが、次もそう上手く行くなんて考えちゃならねェ」
「犬神が暴徒を殺しちまったら、それはーー」
「暴動の規模は連鎖的に膨れ上がるだろうよ。ワノ国全土に波及したら止められねェ。最終的に犬神とワノ国の全面戦争になって、まぁ確実にこの国は滅びちまうな」
各郷の侍衆とヤクザが共同戦線を張ったとしても、人智を超越した犬神に勝てる道理は微塵も存在しない。
ワノ国は壊滅するだろう。
だからこそ譲って欲しかった。
恥知らずな提案だとわかっている。
仁義に欠いた要求だと理解している。
それでもヒョウ五郎は生まれ育った国の存続を願い、今までの出来事に対する謝礼も含めて手紙を書き綴った。
「断られたなら仕方ねェ。敵の〝間諜〟を炙り出す他ねェよ」
煙管から口を離すヒョウ五郎。
犬神が拒否したなら次善策に移るだけだ。
「ウチの連中を調べやしたが、怪しい動きをしてる奴はいやせんでしたね」
「他の親分衆たちもか?」
「ええ」
「まぁ、そうだろうよ。おれたちみてェな、ならず者上がりにはできねェ芸当だ。それ専用の技術をもった凄腕だと考えるべきだな」
「つまりーー〝忍〟だと?」
「在野の忍か、それとも正式な雇われか。後者の可能性が高いな」
ヒョウ五郎は確信している。
オロチと通ずる『間諜』が花の都に潜んでいると。
ワノ国の民衆は流されやすい。
喉元過ぎれば熱さを忘れる。そういう気質な人間が多いことも確かだ。非常に癪だが、ヒョウ五郎も認める他なかった。
だが、ここ最近の民衆はそれが顕著になり過ぎている。
犬神を敵視する風潮に留まらず、鈴後の大地と民衆を逆恨みする世論は明らかに常軌を逸している。
同一の目的を持った暴動が希美と白舞で同時に発生したことも不可解だ。この二つの郷は〝隣接していない〟。
おでん曰く、外海には『電伝虫』という遠く離れた相手と通信できる手段が有るとのこと。ワノ国でも研究は進められているが、ようやく電伝虫に代わる『タニシ』が発見された段階だ。郷を越えて意思疎通を図る方法は今も手紙による伝達を採用しなければならない。
捕らえた暴徒によると、違う郷の首謀者が誰か知らないと証言した。面識など無いと。顔はおろか名前さえ知らないと。
尋問に付き添ったヒョウ五郎は彼らが嘘を吐いていないとわかった。傳ジローと雷ぞうも同意したから間違いない筈だ。
「規模からして単独犯じゃねェ。複数人だ。怪しいのは〝お庭番衆〟。もしくは他の大名が抱える忍衆だろう」
「他の大名がおでん様を裏切るなんて、非合理的過ぎやしませんか」
「今更って言いたいんだろ。おれもそう思う。裏切るならオロチの野郎が将軍の時に裏切ってる筈だからな。だがなーー」
ここ最近、根も葉もない噂が日夜飛び交っている。
犬神が攻めてくるとか。
光月おでんと黒炭オロチはグルだったとか。
一笑に伏すような風説だが、多くの人間が真に受けてしまえば話は変わってくる。
先月の暴動を経て、ヒョウ五郎は気付いた。
意図的に出鱈目な噂を流している者がいる。未来への不安を煽り、他者への敵愾心を募らせ、ワノ国を混乱させようと企む誰かが。
犯人はわからない。目星はついているが、証拠はなく動機も不明だ。それでも背後に通じている相手だけはわかる。
将軍職の奪還を目論む黒炭オロチ、莫迦を後ろ盾に暴れたいカイドウだろう。
嫌な予感がするヒョウ五郎。
こうなったら正式におでんと協力して、忍衆の背後関係を徹底的に洗い出すしかない。
「ヒョウ五郎親分、大変です!!」
ヒョウ五郎の部下が断りもなく応接間の襖を開けた。額には大量の汗を掻き、肩を激しく上下させながら将軍の城を指差している。
余程の事態だと推察したヒョウ五郎は部下の言葉を待たずに庭へ飛び出した。
空を見上げて、我が目を疑った。
「カイドウが、解き放たれてやがる……!」
『裏切ったのは光月おでんの重臣か』
「ええ。カン十郎と名乗る者です。悪魔の実の能力者でしょうが、詳しい事は何も。どうやら意図的に情報を隠していたようです」
『その男も金獅子の元に合流したのか?』
「おそらく」
『厄介な事になったな。その裏切り者と黒炭オロチは構わないとして、金獅子海賊団にカイドウが加入したのは到底無視できない事態だ。これにビッグ・マムが合流すれば〝ロックス〟の再来になる』
「申し訳ありません」
『いや、貴様の落ち度ではない。気にするな』
「はっ」
『大妖怪の屋敷に上がり込めたのだろう?』
「離れの屋敷ですが」
『構わん。日常的に大妖怪と接触できることに変わりあるまい。鉄砕牙については進展無しか?』
「少なくとも〝犬神〟が保有していないのは確かでしょう。おでんの家臣が来訪した時、そのような事を口にしていました』
『……そうか。鉄砕牙の在処については調査を続けろ』
「承知しました。後、おでんが何やら気になることを」
『なんだ?』
「おでんの目的はワノ国を〝開国〟することだそうです」
『ーー開国だと?』
「犬神を世界に解き放とうとしているのでしょうか?」
『貴様は気にしなくて良い。任務に集中しろ。それはこちらで〝対処〟する』
「はっ」
「お父さん、お父さん」
「私はお前の父親ではない。離れろ」
「やーだーッ。お父さん、抱っこ!」
「聞け。私はお父さんではない」
「お父さん!」
「だから違うってば……」
犬神の足元に抱き着くヤマト。
二歳児に振り回される美貌の大妖怪。
それを遠くから眺めて笑うステューシー。
幼い頃は諜報員となる為の鍛錬に励み、CPに所属してからは任務に勤しむだけだった日々を忘れさせてくれるような心休まる日常に、ステューシーは自分でも気付かない内に溶け込んでいた。
「お父さんに当てていいの? 怒られない?」
「大丈夫ですよ。その雪玉を犬神様に当ててごらんなさい。きっと遊んでくれますよ」
「うん!」
御得意の話術でヤマトを唆す。
顔に雪玉を当てられる犬神。犯人が幼児だからか怒ることも出来ず、身体が冷えるから屋敷の中に戻りなさいとヤマトの頭を撫でるだけ。
実の親子のような光景に微笑んでいると、それを馬鹿にされたと勘違いした犬神に投げ飛ばされてしまった。
雪の中に埋まりながら、ステューシーは再度決意する。
五老星の任務と関係なく、女の誇りに懸けて絶対に犬神を籠絡してやるのだと。
犬神への好意など欠片も持っていない。むしろ嫌いといえよう。女性の扱い方がまるでなっていない上に、全ての人間を愚かな生き物と見下す様は怒りさえ覚える。
だからこそ〝私に惚れさせてみせる〟。
誰にも理解されないのだと諦観する犬神の目論見は外れていると見返してやる為に。
それが果たしてどういう感情から湧いて出た想いなのか、ステューシーにもわからなかった。
「貴様、名前は?」
先日、犬神から唐突に名前を訊かれた。
遊び疲れて昼寝しているヤマトを優しく抱きかかえながら、ステューシーは可愛らしく小首を傾げる。
「驚きましたわ。貴方様が私に興味を持って下さるなんて」
「気紛れだ。答えなくても構わん」
「申し訳ありません。つい嬉しくて」
「それで?」
「私の名前は〝神楽〟と申します」
「ーー冗談か?」
「いえ。似合っておりませぬか?」
犬神は一瞬だけ視線を下に向けてから、首を横に振った。
「……いや、貴様には過ぎた名前だと思っただけだ」
ハゲの五老星「ステューシーの奴、犬神と呼んだな」
口髭の五老星「うむ。大妖怪と呼ばず、犬神と口にしたな」
五老星一同「もしやあの女、大妖怪に取り込まれてないか?」