真夏の夜の優しい夢
結ぶ火、繋ぐ炎
煉獄桃寿郎がその人に出会ったのは、どこか寂しさを感じる暑い夏の夜のことだった。
どん、どん、という太鼓の音が聞こえる。明るい提灯がならび、周囲には浴衣を着た人々。
いつもは闇に飲み込まれているはずの街が、今は明るく輝いている。
夏祭り会場のどこかで、誰かの笑い声が、聞こえた。
「あれ?」
桃寿郎は不意に声をあげて、辺りを見渡す。
先程までそばにいたはずの家族が、いない。
「どこにいったんだろう……」
キョロキョロと辺りを見渡すが、家族の姿は見えなかった。迷子になったらその場から動かず待っていなさい、と父から言われている。桃寿郎は父の言いつけ通り、足を踏み出すことはせずにその場で留まることにした。
昼間の暑さが嘘のような、心地のいい夏の夜だった。清々しい空気が闇の中を漂っている。
花火はまだだろうか。ここから見えるだろうか。そう思いながら、空を見上げる。深い藍色の夜空が広がっていた。雲はほとんど見えない。もう少ししたら、きっと綺麗な花火が見えるはずだ。
「坊や……」
その時、すぐ近くの露店から声が聞こえた。自分のこととは思わなかったので反応しなかったが、
「坊や……そこの坊や……」
何度もその声が聞こえて、ようやく桃寿郎はそちらに視線を向けた。
露店から、浴衣姿のお面を着けた男性が手招きしていた。桃寿郎の知らないアニメキャラクターのお面だ。その姿を見た瞬間、なぜか背筋に氷を当てられたようにゾクリとした。
「ほら、こちらにおいで」
その不気味な声に怯えて、桃寿郎は後退りする。そんな桃寿郎を見て、男は自分からこちらに近づいてきた。桃寿郎が慌てて足を動かす前に、男は手を前の方に出す。
「怖くないよ。これをあげよう……」
それは、鮮やかな色のりんご飴だった。表面がツヤツヤと輝いていて、見るからに甘そうだ。桃寿郎の唇が思わず緩む。それを見た男はグッとりんご飴を桃寿郎に近づけた。
「ほら、美味しいよ。遠慮なくお食べ……」
不気味な声に誘われるように、桃寿郎はりんご飴を手に取る。そして、それを舐めようとしたその瞬間だった。
「やめなさい」
凛とした声が響いた。
桃寿郎がビクリと震えてそちらを視線を向ける前に、りんご飴が手から離れる。
そこに立っていたのは、今まで見たことがないほど美しい女性だった。雪のような白い肌に、艶のある黒髪を夕日のような紐で結っている。何よりも印象的なのは、淡い着物の上に纏っている羽織だった。まるで燃えている炎のような羽織だ。マントのようにフワリと揺れる。
どうやら、桃寿郎の手からりんご飴を奪ったのは彼女らしい。
その女性は、桃寿郎を庇うように前に立つと、お面の男に向かって掠れたような声をあげた。
「この子に構うな。去れ」
お面の男がムッとした様子で拳を握る。しかし、女性が鋭い瞳で睨むと、怯んだように足を動かしそのまま諦めたように立ち去った。
それを見届けてから、女性は桃寿郎の正面にしゃがみこむ。近くでその顔を見た桃寿郎は思わず息を呑んだ。
知らない女性なのに、なぜかどこかで会ったことがあるような気がする。儚げで灯火のような雰囲気の人だが、その瞳は激しく燃える炎のようだ。
そのまま女性は桃寿郎のことをまっすぐに見つめてきた。その視線に桃寿郎は戸惑う。まるで、久しぶりに家族に会えたような、そんな温かい視線だと思った。
「……あの?」
桃寿郎が困惑しながら声をかけると、女性は我に返ったように、立ち上がった。
「ここは君のような人間が来るべき所ではない。迷ったのか?」
「は、はい!」
桃寿郎が大きな声でそう答えると、女性は顔をしかめた。
「……とにかく、ここから離れよう」
女性は桃寿郎の手を握ると、足を踏み出した。
知らない人間に着いていくべきではない。そう両親から言われていたが、なぜかこの女性は信頼できる人間のような気がした。自分でもよく分からないが、不思議な感覚だ。この人と一緒にいるだけで安心できる。
女性は手に持ったりんご飴をチラリと見る。そして、近くにあったゴミ箱らしき箱に放り込んだ。
「あっ……」
桃寿郎は思わず声をあげて、ゴミ箱を名残惜しそうに見る。そんな桃寿郎に向かって女性は言い聞かせるように声を出した。
「あんなものを食べてはいけない」
キッパリとそう言う女性を、桃寿郎は見上げる。なぜ食べてはいけないのか、それ以上は説明してくれなかった。
しばらく2人とも無言で歩いた。周囲は相変わらず太鼓や笛の音で賑わっている。桃寿郎はチラチラと隣の女性を見てから、躊躇ったようにしながらも声をかけた。
「あの……」
「なんだ?」
「お、俺は煉獄桃寿郎といいます。あなたのお名前はなんですか?」
桃寿郎が名乗ると、女性は囁くように答えた。
「……ゆか」
どのような漢字で書くのだろう、と桃寿郎は尋ねようとしたが、その前に女性が問いかけてきた。
「今夜は家族と来たのか?」
「は、はい!父と母と来ました!」
そう答えると、女性は少し表情を柔らかくさせて、桃寿郎の方をチラリと見た。
「そうか……ご両親はどんな方だ?」
そう尋ねられたため、桃寿郎は足を進めながらたくさん家族や自分のことを話した。立派な父がいること、優しい母がいること、剣道を習い始めたこと、一緒に遊ぶ多くの友達がいること……。
女性は時折相槌を打ちながら、桃寿郎の話を聞いてくれた。その顔は無表情なのに、なぜかとても嬉しそうだった。
桃寿郎はしばらく夢中になって話した後、今度は自分の方から女性に問いかけた。
「あなたもご家族とここに来られたのですか?」
女性はゆっくりと首を横に振った。
「いいや。私は、恋人と……」
桃寿郎は目を見開き、言葉を重ねた。
「その方はどちらに?」
もしや、桃寿郎のためにその恋人を放置して来たのではないかと思ったが、女性は肩をすくめながら答えた。
「待ち合わせをしてたんだが、私の方が早く来てしまったんだ。君を送った後に合流するから大丈夫」
「本当に大丈夫ですか?」
「ああ」
女性は大きく頷いた。
「彼女は心が広いから……少しくらい遅れても大丈夫」
「彼女?恋人というのは女性なのですか?」
桃寿郎は思わず問いかける。
「ああ。私にはもったいないくらいの、とても美しく優しい女性なんだ」
女性が僅かに目を細め、それを隠すように下を向く。その声と瞳に、深い愛情があふれているような気がした。
「その方を……すごく大切にしていらっしゃるんですね」
桃寿郎がそう言うと、女性は気まずそうに目を逸らす。その顔は紅潮していた。
「あ、そうだ!今、何時ですか?」
桃寿郎がそう尋ねると、女性は首をかしげた。
「どうかしたのか?」
「俺、花火を見たいんです!もう少しで花火が上がると思うのですが……」
女性はその言葉に遠い目をする。そして、残念そうに首を横に振った。
「ここで、花火は見ることができない」
「えっ?」
桃寿郎はキョトンとして声をあげた。
「な、なぜですか?あっ、もしかして花火は中止ですか?」
女性は足を止める。そのまま桃寿郎の方を見据え、言葉を続けた。
「ここで、見ることはできないんだ。ここは、君が知っている場所ではないから……」
「え?」
その時、突然強い風が吹いた。なぜか周囲をピンクの花びらが舞う。桜の花びらのようだ。夏なのにおかしいな、と思いながら桃寿郎は目を閉じる。
ようやく風が静まる。桃寿郎が目を開くと、いつの間にか正面に女性がしゃがみこんでいた。まっすぐに桃寿郎の瞳を見つめる。
「よく聞きなさい。ここから先は君1人で帰らなければならない……この道の向こうだ」
そのまま横を向くと、手を動かし指で方向を示す。そちらは、露店や屋台どころか、人影も見られず真っ暗だった。桃寿郎はそんな道に怯えて思わず肩を揺らす。
「……一緒に行っていただけませんか?」
思わずそう言ってしまった。情けない、と思いながら女性の方を見る。女性はゆっくりと首を横に振った。
「私はあちらには行けない。あの道の向こうには君しか行くことはできない」
そのまま桃寿郎の頭を撫でる。
「案ずるな。悪いものは何もいない。君を傷つける者はいないんだ……鬼は、もういない。私達が倒したのだから」
「え?」
その時、女性は初めて微笑んだ。その笑顔に、桃寿郎の心臓が大きく跳ねる。女性は微笑んだまま、桃寿郎の胸の辺りに手で触れた。
「ここで……」
「え?」
「ここで、燃えている。私達が繋いできた思いが……炎が……」
それを聞いた桃寿郎は奇妙な感覚となった。熱い何かが胸に込み上げる。不思議な何かが全身を駆け巡っていく。
「悪しき者が滅びても、命を懸けた戦いが失くなっても……それは変わらない。私達は繋いでいくんだ。呼吸を止めないでくれ。ずっとここで燃やしてほしい」
そして、女性は立ち上がり、優しく桃寿郎の背中を手で押した。
「さあ、行きなさい。そろそろ君の世界に帰る時間だ」
その声に、桃寿郎は指で示された暗闇を見据える。
「絶対に振り向くな。まっすぐに前を見て、進んでいきなさい」
その言葉に小さく頷く。ゴクリと息を呑むと、足を踏み出した。
夜の闇を切り裂くように進んで行く。立ち止まらないように、一歩一歩を踏みしめて。
そんな桃寿郎の姿を見届けた女性は小さく囁いた。
「さようなら、愛しい子よ」
◇◇◇
そして、桃寿郎は突然目を覚ました。
「あら、起きたの?」
真上に、笑顔の母が見える。
「……え?」
桃寿郎は困惑しながら、身体を起こした。周囲にはたくさんの人や露店が見える。ここは、夏祭りの会場にある休憩できるベンチだ。どうやら自分は夏祭りではしゃぎすぎて疲れてしまい、眠っていたらしい。膝枕をしてくれていたらしい母はクスクスと笑いながら団扇を揺らした。
「よかった。目が覚めて。お父さんが何か飲み物を買ってきてくれるって」
その言葉を聞きながら、桃寿郎は首をかしげた。何か夢を見ていた気がする。なんだか、とても心地よくて、優しい夢だった。
なぜか、思い出したくてもどうしても思い出せない。どんな夢だったのだろう?
「ほら、桃寿郎、もうすぐ花火が始まるみたいよ」
「よもや!」
桃寿郎は慌ててベンチから立ち上がる。そのまま夏の夜空を見上げた。いつも通りの、深い藍色の清々しい夜空だ。きっと花火が美しく見えるだろう。
「楽しみねぇ」
母の言葉に頷く。
いつの間にか、夢のことは忘れてしまった。
◇◇◇
不思議な夏祭りの夜から、数年後のこと。
「これは何ですか?」
休日に、父に頼まれて倉庫の整理をしていた時、桃寿郎はそれを発見した。
倉庫の奥底に仕舞われていたそれは、大きな木製の箱だった。大きな箱だが、持ってみるとそれほど重くはない。
「ああ……桃寿郎は初めて見るのか」
父は目を細めてその箱を手に持ち、表面を撫でる。
「我が家に代々伝わる物だよ」
そう言いながら、箱の蓋を持ち上げる。その中身を目にした桃寿郎は目を見開いた。
中に入っていたのは、白地に炎が描かれた立派な羽織だった。
「これは……」
「煉獄家は剣士を生業にしてきたのは知っているだろう?これは、煉獄家の中でも、最も強い剣士だけが身にまとうことを許された羽織だ」
しげしげと炎のような羽織を見つめながら、桃寿郎は口を開いた。
「これは我が家の男に受け継がれてきた大切な物なのですね」
そう言うと、父は首を横に振った。
「それが、意外なことに……この羽織の最後の持ち主は女性らしい」
「ええっ?」
桃寿郎が目を見開くと、父はおかしそうに笑いながら頭をポンポンと優しく叩いた。
「とても強い方だったそうだよ。確か名前は……ん?なんという名前だったかな……?」
父は思い出せないのか口元に手を当てて首を捻っている。一方、桃寿郎は羽織を見つめながら、ゆっくりとそれに触れた。
その瞬間、何かの記憶が脳内を駆け巡るような感覚がした。
スラリとした体格、黒くて長い髪、真っ白な肌、灯火のような人なのに瞳だけが激しく燃えている。彼女は──
「……ゆか」
桃寿郎がそっと呟くと、父はポンと手を打った。
「ああ、そうだ!結火!結ぶ火と書いて、煉獄結火という方だ!」
その後不思議そうに桃寿郎の方を見てきた。
「桃寿郎、なぜ知ってるんだ?前に教えたことがあったか?」
「さあ……?」
桃寿郎自身もなぜ知っているか分からない。一度も聞いたことはないのに。
「……なんで知ってるんだろう?」
そっと呟くが、もちろん何も分からなかった。だが──
「お父さん……」
「うん?」
「俺、次の剣道の試合、頑張ります」
桃寿郎の言葉に父は眉を寄せた。
「突然どうしたんだ?」
「……なんだか、よく分からないけどこの羽織を見て思ったんです。勝っても負けても……それでも、呼吸が続く限り心を燃やそうって……最後まで諦めずに、戦いたい」
桃寿郎の言葉に父は驚いたような顔をした後、朗らかに笑う。そして大きな手で桃寿郎の頭を撫でてくれた。
◇◇◇
「あれ……?」
気がついたら、知らない場所にいた。
「ここは……」
ガタンガタンと緩く振動している。たくさんの座席が並んでいる。だが、人影は見えない。桃寿郎はいつの間にか固い座席に座っていた。ここは列車の中だろうか?
窓から外を見る。奇妙なことに景色は見えず、どこまでも真っ白な空間だった。白い景色を掻き消すような勢いで、列車は進んで行く。
「また会ったな」
気がつくと正面に誰かが座っていた。慌ててそちらに視線を向ける。そこにいたのは1人の女性だった。
その女性の瞳を見た瞬間、不思議な感情が込み上げてくる。知らないけど、知っている女性だった。
「あなたは……」
桃寿郎が口を開いたが、それに構わず女性は穏やかに言葉を重ねた。
「ありがとう。それだけを言いたかったんだ」
「え?」
「私達の力を、想いを、そして炎を受け継いでくれてありがとう。君のことを心から誇りに思う」
その言葉を聞いて、なぜか桃寿郎の瞳から涙が流れる。わけが分からないのに、切なくてたまらない。胸の中に熱いものがあふれてくる。
「きっと、これからたくさんの困難が君を待っている。泣きたくなる時もあるだろうし、苦しくつらい時もあるだろう。それでも……どうか、前を向いてくれ。心の炎を絶やさないでくれ」
燃えるような瞳をまっすぐに見つめる。そして、桃寿郎はコクリと大きく頷いた。
「あら、こんなところにいたのね」
その時、近くで声が聞こえた。優しく甘い声だ。桃寿郎は驚いてそちらを見上げる。
突然姿を現したのは、頭の両サイドに蝶の髪飾りをつけた美しい女性だった。
「こんばんは」
女性は桃寿郎を見てニッコリと笑う。その微笑みに思わず見惚れてしまった。
「ああ、すまない。そろそろ行こう」
桃寿郎の正面に座っていた女性は、蝶飾りの女性に向かって柔らかく微笑み、その手を取る。そしてゆっくりと立ち上がった。
「それじゃあ、さようなら、少年」
どこかへ立ち去ろうとする2人の女性に桃寿郎は慌てて声をかけた。
「あ、あの!また会えますか?」
2人の女性はお互いに顔を見合わせると、額をくっつけるようにして笑った。
「そうだな。いつか……ずっと、ずっと未来のその先で、また会おう」
そして、2人の女性は手を繋ぐと、寄り添うようにしてどこかへと去ってしまった。
◇◇◇
ハッと目を覚まし、起き上がる。
肌が汗でしっとりと濡れていた。ずいぶんと長く眠ったような感覚だ。
「あれ?」
不思議な夢を見た気がする。
どんな夢だったのか思い出せない。だが──
「よもや……」
自分の目から炎のように熱い涙が流れていた。
とても大切な夢だった気がする。凄い人に出会った気がする。それなのに、思い出せない。
だけど。
「強く、なりたい」
なぜか分からない。だけど、心から、そう思った。涙を流しながら祈るように瞳を閉じる。
桃寿郎の声に答えるように、窓辺に吊り下げられた風鈴がフワリと揺れた。
──チリン