Mercenary Imperial Japan   作:丸亀導師

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東欧戦役

1939年4月

この日一大事件が起こる、当時ソ連が領有していたベルゴロドに置いて、突如として軍の弾薬庫が爆発し少なくない死傷者が出た。という情報が入った、その日の昼頃には少なくない数の赤軍がウクライナとの国境線に集結し、今にも戦端を開かんと待機を始めた。

 

そして、この爆発をウクライナ軍によるソ連軍への宣戦布告無き攻撃という文句を行い、賠償とそれに伴いウクライナの一部割譲を要求するよう勧告を行った。

勿論のことウクライナ側にそんな事を受け入れるものなどいる訳もなく、断固とした態度でそれを突っぱねようとした。

その結果として軍事的な衝突が発生するのは必然であった。

始まりの紛争。)

 

それと連鎖するかのように2,3日後にはソ連と国境を接する、《防共条約機構》各国はソ連に対して宣戦を布告するとともに、ここに東欧戦役(東部戦線)が始まった。

 

恐らくは初めから侵攻の準備を整えていたであろうソ連は、手始めにコーカサスへと侵攻を強めていた。

殆どの戦線で突破するやる気の無い戦闘をしているかと思えば、こういう要所に集中してくる。

  

 

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彼らが何を狙っているのかは一目瞭然、コーカサスにあるバクー油田であろうことは明らかだ。この油田は東欧、ひいてはドイツにとっての生命線と言われる程に重要なものである。

これがなければ、産業は起こせないと言われる程にこれに依存していた。(ドイツ使用量の8割)

 

さて、そんな場所の守備についているのはコーカサスの民族混成部隊。お世辞に言っても連携が取れる者たちではない、何故か。何より、言葉が通じない間柄というものはどうしても連携が取れなくなってしまうのだ。

 

それでもここ20年の間にエスペラント語が浸透していたのか、建国当初よりも動きは良い。そこに配備されたのが、我らが征西大将軍率いる一個軍。(1997年現在、確認されている資料上では2個軍となっているが、どちらが正しいのか。)

 

 

軍内訳

          

一個歩兵師団

 

二個歩兵連隊 5200人・車輌600両

 

 

一個軽戦車大隊 960人・640両

 

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一個主戦車大隊 920人・主力戦車230両

 

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二個砲兵大隊 660人・車輌260両

 

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二個工兵大隊 1600人・車輌160両

 

二個輜重大隊 1600人・車輌240両

 

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一個師団総員 10940人

 

 

更に飛行師団が付随し

 

一個飛行師団×2

 

戦闘機隊・50個中隊

 

軽爆撃機隊・37個中隊

 

重爆撃機隊・22個中隊

 

偵察機隊・24個中隊

 

 

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推進輸送補充隊・15個中隊

 

合計…148個中隊

 

 

中隊は平均で戦闘機隊が12機

爆撃機隊が9機~12機

偵察機隊が10機前後

 

(高祖父の時代にこれらの機体に名称は付けられていなかったようである。そのため、年代による混同が見受けられたため年号を意図的にずらした者達が横行していたようだ。)

 

これが12個師団、2個航空師団でおおよそ14万の軍勢を将た彼が、工兵隊により作り出された黒海とカスピ海まで延々と続く万里の長城も格や、という程の要塞線に待機する。エリブルス山脈河川防衛線だ。

 

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(高祖父の記述において、だいたいの記述で抜けているのが補給線はどうしていたのか。という部分であるためここに記述する。

当時の日本軍の補給路は主に3つ。1つは黒海からの直接海上ルート、もう2つはトルコ・イランからの陸路であったようである。

 

 

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この補給線のうち陸路は、現代では幽霊高速路と言われるいわゆる高速道路になっていて、その土地の重要なインフラを担っているようである。

 

たった数ヶ月の間にどうやってその道を作ったのか、地道なものではあるだろう。しかし、驚愕するべきはそれを両国に依頼する事ができた、外務省の手腕だろう。)

 

 

それに対する赤軍の動きは流動的な動きで翻弄しようとしていたのだろう、我々とのあの戦いから遥かに学びより強くなっているのは明白だ。

記録によれば機甲師団を多数確認している事から、機械化が本格的に行われていたと言う。(当時のソ連軍の機械化比率は凡そ1割程であり、その戦力の大半をコーカサス方面へと向けていたようである。)

 

ただ、腑に落ちないのはフランス製の戦車。例えばソミュアS35のような車両なども多くあり、彼らの機械化方針は専らフランスの影響を受けていた。そして、そこから導き出される事は即ち、ソ連式戦車は避弾経始を重点的に取り入れられ、砲塔の大きさはそれ程大きくない。最大でも二人用だったという事だ。

それでも、その戦車は征西軍に対して猛威をふるった。

(ここで記述されている通り、仏ソ秘密技術協定が存在していた。この文書が発見されるのは1980年代後半になってからだ。)

 

 

その足は速く、同時代の軽戦車もかくやと言う段階である。その名はt34と呼称された戦車である。我々の新主力戦車である97式と時を同じくして開発されていたものだ。

 

t34/85との比較

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(t34/75の資料は現在存在していないが、実戦では75が数多く使用されたようである。しかし、高祖父の記憶ではt34と言ったらこの形状であったようだ。)

 

正面での対戦車戦闘を意識して作られた戦車同士がこの時初めて戦闘を行った。

その結果は後述しよう。

 

さて、戦闘開始から既にソ連軍の動きは決まっていた。ウクライナとの接続を切るために、彼等は動いていたようである。

その速度は尋常ならざるもので、とてもではないが歩兵がその戦闘速度についていく事など出来ない。

(ここでの接続はどうやら港湾を使用した接続のようである。前線に最も近い港湾を使用していたようだ。)

 

従って、初動に対してコーカサスの守備隊は後手にまわった。それでも被害を最小限に、あらゆるケースを想定し可能な限りを尽くした征西軍には感心されられる。要するに、戦車等よりも速く動けるものを中心に行動すれば良いと言う事だ。

即ち、航空機の活用による装甲車両の撃破を狙った。

 

幸いなことか?ソ連軍の航空機は皆複葉機ばかりで、あまりにも遅い。この時代においても、もはや高射機関砲の的でしかないのだ。12.7粍ですら、少数の焼夷弾が命中した段階で火を拭き始めヒラヒラと落ちていったと言う。

 

だが、我々の航空機とは速度の差があり過ぎたのか戦闘機による撃墜は以外な程多くは無く、速度の向上に対して低速域の戦闘にはあまり適していないと言う評価が付き纏う。

これもまた仕方のない事だが、それでもこちらへはそれが優勢の鍵となる。(これによって、日本軍は回転翼機の開発を加速させた。)

 

だが、それでも数の力というものは凄まじい雲蚊の如きその様相は屍を築いてもなお、とどまるところを知らない知らない。故にどれ程防御を固めていようと、押されることに変わりなし。

ジリジリと後退するもそれも作戦の内とでも言うかのように、直様逆撃を喰らわせ戦局を膠着させる。

まさか山脈から出て来るとは思っても見なかったのだろう。 

 

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そんな動きは凡そ半年程の間で行われていた。ソ連の当初の作戦は頓挫したかのように見えていたが、それは一つの正面においてでしかない。

フィンランド・コラ方面では一部戦線が崩壊し、ソ連軍が雪崩れ込む事態に陥っていた。その為、ドイツがソ連に対して宣戦を布告すると同時にフィンランド・コラ方面へと展開し、それを抑え込んだ。

 

 

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戦車隊を保持していたようだが、こちらの方面は本命ではない為か、旧式の車両が多かったようだ。

そのおかげか、進軍は直ぐに止まり第二次要塞線で膠着し逆襲まで時間を稼ぐのが目的となった。

(当時、ソ連軍の師団数は凡そ200師団。それの中でも20師団がフィンランド、30師団がコーカサスへと向けられ100師団が広く東欧に付けられていた。)

 

 

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(1939年11月まで)

 

たった一度の攻勢をソ連が行った、ただそれだけの一連の出来事であるのだが、それでも止めるだけで精一杯な東欧と、それを支援する独英日。

一進一退の戦いは次第に東欧有利へと進むと、誰もが考えていた。ときその出来事は起こった。バルカン戦争である。(通称第四次バルカン戦争)

 

 

 

 

 

 

 




今回少し時間がかかりました。次回からも少し時間がかかるかもしれません。ご了承の程よろしくお願いします。

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