エーリカ・ハルトマンのD-DAY~個人の戦闘力で戦争を終わらせる方法~ 作:両生金魚
連合王国代表団にとって、講和会議第十二日目の朝は、久しぶりに希望という言葉を思い出せる朝だった。
無理もない。十日以上にわたって続いた海外領土、保護領、自治領、軍港、旧勅許商会、土地収用、未払い恩給、文化財、独立時資産、さらには将来の歴史教育に至るまでの議論が、ようやく一つのまとまりを見せたのである。
もちろん、連合王国にとって到底満足のいく結論ではなかった。各海外領土については住民自身による地位選択が原則とされ、王国が投じたと主張する鉄道、港湾、学校、病院その他の資産についても、現地税による負担額、土地収用、利益保証、未払い賃金、資源収益、軍務恩給その他の債務を差し引いた上で精算される。秦華、インディア諸邦をはじめ、王国が過去に統治、保護、駐留、徴税、徴兵、あるいは条約関係を持った地域には既に照会が飛び、今後は各地から公文書、帳簿、土地台帳、私文書、住民調査が集められることになっていた。
それでも、終わったのだ。
少なくとも、連合王国代表団の大半はそう思っていた。
「では、海外統治地域に関する基本的な整理については、これで双方合意ということでよろしいですね」
帝国側全権の言葉に、連合王国の外務代表は疲れ切った顔で頷いた。隣では財務代表が何度目か分からない眼鏡の位置を直し、そのさらに隣では植民地省代表が、生まれて初めて机というものに恨みを抱いたような表情で書類の山を見つめている。
「細部にはなお異議がある。しかし基本原則については……認めよう」
「結構です」
帝国側全権も頷く。
そして会議室のあちらこちらから、ほとんど同時に息が漏れた。
長かった。
本当に長かった。
連合王国側からすれば、植民地を失うだけでも国家の歴史を根底から覆される出来事だというのに、そのうえ過去に遡って資産と負債を一件ずつ調べるなど、敗戦直後には誰一人想像していなかった。もっと単純に、領土割譲、艦隊引き渡し、賠償金幾ら、程度の条件を突きつけられるものだと考えていたのである。
実際、帝国強硬派の当初要求はその程度だった。
連合王国を海賊国家と呼び、大々的な謝罪を要求し、植民地を没収し、莫大な賠償金を課す。
今となっては、妙に懐かしく、そして優しい要求にすら思える。
だが、それも終わった。
連合王国外務代表は、心中でそう繰り返した。
終わったのだ。
この講和会議で最も困難な問題は。
「では」
その声が聞こえた。
後方のオブザーバー席に座っていたターニャ・フォン・デグレチャフ准将が、これまで読んでいた資料を閉じる。
「次の議題へ移りましょう」
連合王国代表は、嫌な予感を覚えた。
もはやこの会議に参加して十日を越える。人間は学習する生き物であり、特に生命あるいは国家の存亡に関わる危険については驚くほど素早く学習できるものだ。
この少女が資料を閉じる時は、大抵ろくなことにならない。
「……次?」
「はい」
ターニャは至って平然と答えた。
横ではエーリカ・ハルトマン准将が、新しい書類の束を帝国全権へ渡している。
その表紙に書かれた題名を見た瞬間、連合王国外務代表は自分の予感が正しかったことを悟った。
『連合王国の対帝国宣戦及び戦争継続に伴う帝国側損害算定に関する第一次報告書』
何度読んでも意味が変わらない。
「……待ちたまえ」
「何でしょう」
「それは何だ」
エーリカは少し不思議そうな顔をした。
「賠償額の算定資料ですが」
「賠償?」
「はい」
連合王国代表団に、妙な沈黙が広がった。
外務代表がゆっくり周囲を見渡す。財務代表も、植民地省代表も、海軍代表も、皆ほぼ同じ顔をしていた。
「今までのは……何だったのだ?」
ようやく絞り出した質問に、今度はターニャの方が怪訝そうな表情を浮かべた。
「何と申されましても、海外統治地域における資産及び債務の精算ですが」
「それが賠償ではなかったのか!?」
財務代表が思わず立ち上がった。
「我が国は海外領土を失う! 軍港も失う! 資産を精算し、場合によっては現地へ金銭まで支払う! 文化財の返還も、旧植民地兵への恩給もある! それだけの負担を要求しておいて、まだ別に賠償を取るというのか!」
ターニャは少し考えた。
「失礼ですが、インディア諸邦への未払い恩給を支払うと、なぜ帝国への債務が減少するのでしょう」
「なに?」
「秦華から取得した文化財を秦華へ返還しても、帝国は何も受け取りません。海外領土を現地住民へ返還しても、その土地は元々帝国領ではありません。土地収用の補償を旧植民地住民へ支払ったとしても、それも帝国の財産にはなりません」
説明するほどのことでもないという調子で、ターニャは続けた。
「債権者が違います」
財務代表が口を開きかけ、閉じる。
「同じ敗戦の結果として支払うからといって、同じ債務ではありません。貴国が第三者へ負っていた債務を履行したことを理由に、帝国が貴国へ持つ債権を消滅させるというのは、会計上も法理上も理解しかねます」
エーリカも頷いた。
「他人から借りたお金を返したからといって、私への借金まで返したことにはならないでしょう?」
あまりにも簡単な例えだった。
だからこそ、反論しにくかった。
「しかし、我々は国家として耐え難い損失を受ける!」
「それは理解しております」
「ならば!」
「ですが、その損失の多くは帝国が貴国から奪ったものではありません」
エーリカの声音は穏やかだった。
「本来の相手へ返しているだけです」
再び沈黙が落ちた。
帝国側の強硬派さえ、何とも言えない顔をしていた。彼ら自身、当初は連合王国から植民地を奪い取れば、それだけで巨大な賠償になると思っていたのである。
だがハルトマン准将の説明に従えば、そもそも帝国が受け取っていない物を帝国への賠償として計上する方がおかしい。
「ということは……」
帝国強硬派の一人が、恐る恐る口を開く。
「今までの取り決めで、帝国国庫へ入る金は?」
ターニャは資料を確認した。
「現時点では、ほぼありません」
「ほぼ?」
「共同調査費用等の事務経費負担を除けば、ありません」
「……一マルクも?」
「少なくとも賠償金としては一マルクも」
強硬派が椅子へ深く腰掛けた。
しばらく天井を見上げた後、隣の同僚へ小声で呟く。
「我々は本当に甘かったのだな」
「またそれを言うのか」
「いや、だってそうだろう。我々は植民地を取り上げて、賠償をふんだくれば十分だと思っていたのだぞ」
同僚は答えなかった。
最近、帝国強硬派の間では、自分たちの案が実は一番優しかったのではないかという疑念が急速に広がっていた。
「しかし!」
連合王国海軍代表が声を上げる。
「戦争とは双方が損害を被るものだ! 我が国も艦隊を失った。遠征軍を失った。商船を失った。何十万という国民が死傷している!」
それまで静かだったエーリカの表情が、わずかに変わった。
「それで?」
「何?」
「ですから、それが何だと申し上げています」
室内の温度が下がったように感じられた。
海軍代表も気づいたのだろう。先ほどまでの勢いが少し鈍る。
「帝国が貴国へ宣戦を布告したのでしたか?」
「……いや」
「帝国艦隊が最初にロンディニウムを砲撃しましたか?」
「していない」
「では、帝国が貴国へ戦争を強制したのでしょうか」
「我々には大陸の勢力均衡を――」
「それは貴国の戦争目的です」
エーリカは遮った。
「貴方がたには貴方がたの理屈があったのでしょう。それを記録することにも私は反対いたしません。連合王国が大陸に単独の覇権国家が成立することを恐れたことも、海上交通路と海外権益の維持を国益と考えたことも、教科書へ載せればよろしい」
そこまで言ってから、一枚の書類へ手を置く。
「ですが、目的を説明できることと、その目的のために他国へ与えた損害を支払わなくてよいことは、同じではありません」
「帝国にも責任がある! 講和機会を逃し、過大な戦争目的を掲げ、戦争を長期化させた!」
「ええ」
意外にもエーリカは即答した。
「載せますよ」
「……何?」
「帝国の教科書に」
今度こそ、連合王国代表は言葉を失った。
「外交目標の不統一、現実離れした講和要求、前線報告が上へ届く過程で歪められたこと、政治と軍事の連絡不全。帝国自身の失敗は、帝国自身が記録すべきです」
そして、その眼差しだけが冷たくなる。
「それを理由に、貴国の宣戦と、貴国の参戦によって増えた死者まで無かったことにはさせません」
誰も口を挟まなかった。
「帝国が愚かだった日があることと、連合王国が帝国へ宣戦したことは両立します。片方の事実を提示して、もう片方の事実を消すことは認めません」
会議室の空気が完全に変わっていた。
先ほどまでの植民地精算は、膨大で複雑ではあっても、基本的には帳簿と法理の世界だった。
今度は違う。
これは戦争そのものの請求書だった。
「我々は戦争全体の費用を請求すべきだ!」
午後の帝国内部協議では、予想通り強硬派が勢いづいていた。
「共和国、連邦、連合王国、合衆国、その他全てを合わせれば、帝国は国家予算の何年分を戦争で失ったと思っている! 敵国全てに連帯して支払わせればよい!」
しかしターニャは首を横へ振った。
「反対です」
「なぜだ!」
「雑だからです」
「雑!?」
「連合王国が参戦する以前に発生した損害まで連合王国へ請求すれば、当然争われます。他国軍との戦闘損害を混ぜれば二重請求になります。帝国自身の判断ミスによる損害まで敵国へ転嫁すれば、請求全体の信頼性が落ちます」
「ならば減額するというのか!」
「正確にすると申し上げています」
ターニャは用意していた算定表を広げた。
連合王国参戦日を基準として、帝国側の損害を戦域、時期、原因ごとに分解する。連合王国軍との直接戦闘で失われた人員と装備、同国軍の空襲・砲撃・海上封鎖による民間及び公共施設の損害、連合王国への対処のため新規に投入された部隊の維持費、失われた商船、戦後にも継続する負傷者の医療費や障害年金、戦没者遺族への給付、残置機雷や不発弾の処理まで、それぞれ因果関係を確認して積み上げる。他方で、連合王国が参戦しなくとも発生していた費用、他国へ既に請求した損害、帝国側の明白な過失による損失は除外する。
強硬派は最初、不満げだった。
ところが数頁めくるうちに、その顔が変わった。
「……待て」
「何でしょう」
「これは暫定値だな?」
「はい。現在確認できている資料のみです」
「我々が最初に要求していた賠償額より多くないか?」
「そうですね」
「減額したのではなかったのか!」
「ですから、計算しただけです」
ターニャは何でもないように答えた。
「貴官らが最初に提示した額には、根拠がありませんでしたから」
強硬派は算定表を見下ろした。
「一件ずつ根拠があるのか」
「当然です」
「連合王国側にも見せる?」
「当然です」
「異議申立ても認める?」
「当然です」
「……その結果、この額か」
「現時点では」
「まだ増えるのか?」
「減る可能性もあります」
ターニャのその一言に、強硬派は奇妙な顔をした。
「なぜ敵国に有利なことを言う」
「帝国が受け取るべきでない金を請求すれば、帝国自身の請求権を弱くするからです」
その答えには、さすがの強硬派も反論しなかった。
しばらくして一人が呟く。
「……前にも似たようなことを言われた気がするな」
「植民地資料の件ですか?」
「そうだ。形容詞を付けるな、資料を載せろと言われた」
「原理は同じです」
「今度は、金額を盛るな、帳簿を載せろか」
「はい」
強硬派はしばらく考え、それから深く頷いた。
「よし。一マルクたりとも余計に取るな」
周囲が驚いて彼を見る。
彼は続けた。
「その代わり、一マルクたりとも負けるな。全部根拠を付けろ」
ターニャは初めて、ほんの少し満足そうに頷いた。
翌日。
「この数字は認められない!」
連合王国財務代表は、帝国側が提出した第一次賠償算定表を机へ叩きつけた。
「戦没者遺族への将来給付まで我が国へ請求するというのか!」
「貴国軍との戦闘によって死亡した兵士に係る給付です」
「しかし支払いは何十年にも及ぶ!」
「ですから現在価値へ換算しております」
「この割引率は不当に低い!」
「では、貴国が妥当と考える率を提示してください」
「当然だ! 少なくとも――」
そこで財務代表の横にいた若い会計官が、慌てて上司の袖を引いた。
「閣下」
「何だ!」
「その率を採用すると、現在価値が上がります」
沈黙。
「……何?」
「閣下が今仰った数字では、帝国への支払額が増えます」
財務代表はしばらく机を見つめた。
「では、今の発言は撤回する」
帝国側の何人かが笑いを堪えた。
ターニャだけは真顔だった。
「構いません。専門家同士で最も妥当な基準を決めてください」
「貴官は自国に有利な数字を主張しないのか」
「根拠のない数字を通しても、次の交渉で崩れます」
「……」
「それよりも、双方の会計官が同じ算定方法を承認する方が重要です」
財務代表は嫌そうな顔をした。
それでも、自国の専門家を参加させないという選択肢はない。
やがて双方の会計官が一つの机を囲み始め、割引率、耐用年数、物価指数、失われた設備の減価償却、海上輸送費、治療費、年金給付期間について議論を始めた。
数時間後。
連合王国側会計官の一人が、青ざめた顔で上司のところへ戻ってきた。
「どうだった」
「帝国側の計算に、数件の誤りを発見しました」
「よし!」
「こちらに有利な誤りが二件、不利な誤りが五件です」
「……それで?」
「訂正後、総額が増えます」
「なぜだ!」
「我々が指摘した資料から、帝国側が計上していなかった商船損失が確認されまして」
「なぜそんな資料を出した!」
「帝国側の過大請求を否定するためです!」
「否定できたのか!」
「一件は!」
「他は!」
「増えました!」
会議室の端で帝国強硬派が額を押さえていた。
「……また敵国が自分で請求額を増やしている」
隣の者が答える。
「資料とは恐ろしいな」
「我々も気をつけよう」
すっかり教育されていた。
問題は、総額だけではなかった。
連合王国に、短期間で全額を支払う能力など存在しない。
「これを一括で支払えば、王国経済は崩壊する!」
財務代表の訴えに対し、エーリカは頷いた。
「でしょうね」
「ならば減額を!」
「支払い方法を変更しましょう」
「……またそれか」
「お金だけが支払いではありませんから」
現金による長期分割払いに加え、帝国が必要とする商船、工作機械、医療設備、鉄道機材、精密機器を引き渡す。帝国企業が連合王国内で保有していた債権を相殺し、特許、製造技術、工業上のノウハウには適正な評価額を付けて移転する。戦争で損傷した帝国港湾の復旧に連合王国企業を参加させ、その工事費を賠償へ算入することも可能とされた。
「我々の産業まで奪うつもりか!」
「奪いません」
ターニャが答えた。
「稼働中の工場を片端から解体して帝国へ運べば、貴国の税収も返済能力も落ちます。結果として帝国が回収できる金額まで減るでしょう」
「ならば王国経済の復興を認めるのか」
「賠償を支払える程度には」
財務代表は、その言い方に顔をしかめた。
「慈悲ではないのだな」
「債権管理です」
あまりにもターニャらしい答えだった。
エーリカもまた、別の意味で連合王国を無闇に窮乏化させることには反対した。
「国民全員を飢えさせれば、二十年後には『帝国に全て奪われた』という話だけが残ります」
「既に十分奪うではないか!」
「ですから、何を誰へ支払ったのか記録します」
エーリカは平然と返す。
「インディアへの債務はインディアへ。秦華への返還は秦華へ。帝国への戦争賠償は帝国へ。連合王国国民が将来、全てを帝国に奪われたと言い出した時、帳簿を見れば分かるようにしておきましょう」
「そこまで未来の我々を信用しないのか」
エーリカは少しだけ眉を動かした。
「貴国は今、この会議で既に、インディアへ返すものまで帝国への賠償だと主張なさいましたよね?」
返事はなかった。
講和会議十七日目。
帝国への戦争賠償に関する基本原則が、ようやく合意された。
連合王国の宣戦及び同国軍の戦争行為と因果関係を確認できる損害について、同国は帝国へ賠償義務を負う。他国の責任に属する損害、帝国自身の失策に起因する損害、既に他国へ請求された損害は除外し、二重計上を禁ずる。算定根拠は双方へ公開され、異議申立てを認める。支払いは現金、物資、設備、役務その他双方が合意した方法により長期的に履行する。
条文だけを読めば、ごく簡潔だった。
その後ろには、既に十四冊の付属資料が積み上がっていた。
連合王国全権は署名前に、それを長い間眺めていた。
「ハルトマン准将」
「はい」
「一つだけ聞いてよいか」
「どうぞ」
「貴官は、連合王国がこの戦争で支払うものを、どこまで増やすつもりなのだ」
エーリカは少し考え、それから首を横へ振った。
「増やすつもりはありません」
「では何だ」
「全部、別々にしたいだけです」
「別々に?」
「誰に対して、何をした結果の支払いなのかを」
彼女は机の上の書類を指した。
「貴国がインディアで負った債務を、帝国への戦争賠償に混ぜない。秦華との条約違反を、今回の戦争へ混ぜない。帝国への宣戦による損害を、植民地独立の代償へ混ぜない」
「……なぜそこまで分ける」
「混ぜれば、後で全部を一つの物語にできますから」
「一つの物語?」
「『敗戦した連合王国は帝国に全てを奪われた』と」
連合王国全権は黙った。
「そうではないことを、誰でも確認できるようにしておきたいのです」
エーリカはそこで、初めて少しだけ笑った。
「貴国が支払った相手と、その理由にまで索引を付けておけば、便利でしょう?」
帝国側強硬派の一人が、思わず顔を手で覆った。
「また索引か」
「何か?」
「いや……もう何でもない」
彼らは最近ようやく理解し始めていた。
ハルトマン准将が索引を作ろうと言い出した時は、大抵、誰かの逃げ道が一つ消えるのである。
その夜、ロンディニウムへ新しい電報が届いた。
ウィンストン・チャーブルは、自ら封を切った。
海外統治精算について基本合意。
植民地及び保護領の将来地位について自己決定原則を確認。
公文書公開及び歴史教育条項について継続協議。
そこまでは既に知っている。
次の行を読んだ。
『本日、帝国に対する戦争賠償に関する基本原則についても合意』
チャーブルの手が止まった。
「……帝国に対する?」
秘書が、非常に言いづらそうに答えた。
「はい」
「今までの賠償は?」
「帝国側の説明では、賠償ではないとのことです」
「では何だ!」
「旧植民地等との債務整理です」
「領土を失うのだぞ!」
「現地住民へ返還するものなので、帝国への賠償には算入できないと」
「文化財も!」
「元の所有者へ返すので」
「金も払う!」
「債権者が帝国ではありません」
チャーブルは何か言おうとした。
言葉が出なかった。
秘書が恐る恐る電報の続きを読み上げる。
「なお帝国側は、連合王国参戦以前の損害、他国責任分、二重計上、帝国自身の過失による損害を請求対象外とすることに同意しています」
チャーブルは顔を上げた。
「……それならば、多少はまともな額になるのではないか」
「算定額はこちらです」
紙を渡された。
長い沈黙が続いた。
「桁を間違えていないか」
「三度確認しました」
「対象を絞ったのだろう?」
「はい」
「帝国自身の過失も除外した?」
「はい」
「我々の会計官も確認した?」
「はい」
「それで、これか」
「はい」
チャーブルは紙を机へ置いた。
そして両手で頭を抱えた。
既に抜ける毛は残っていなかった。
そのため、この時について後世の伝記作家は、第一次講和案を受け取った際ほど分かりやすい身体的変化を記録することができなかったという。
ただし秘書の日記には、次の一文が残されている。
『宰相は長い間沈黙した後、帝国強硬派が最初に要求していた一括賠償額を尋ねた。それを伝えると、さらに長く沈黙した』
帝国強硬派が、根拠もなく怒りに任せて要求していた数字。
それよりも。
ハルトマンとデグレチャフが、他国分まで丁寧に除外して積み上げた数字の方が、高かったのである。
チャーブルは、その夜もう一度だけ呟いた。
「……どうして、あの強硬派どもに任せておかなかったのだ」
答える者はいなかった。
講和会議は、まだ終わっていなかった。
帝国強硬派は、連合王国へ罰金を科そうとした。
連合王国政府は、それを減額させようとした。
二准将は、誰に、何を、いくら支払うべきかを調べていた。
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